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私は中学2年生の男子です。あまり実感はありませんが、思春期と呼ばれる年頃です。

最近、毎日毎日、すべての人に必ずやってくる「死」について深く考えてしまい、ため息ばかりです。
以前、小学校4,5年生の時も「死」について深く考える時期がありました。その時は時間が立つにつれてその悩みは消えて無くなりました。そして、また今、「死」についての深く考えるようになりました。でも、小学校の時とはちょっと違った感じです。

小学校の時は漠然と死にたくないな。という気持ちでしたが、今は「死」とは何なんだろう?死んだらどなるんだろう?「無」になるのかな?「死後の世界」はあるのかな?「生まれ変わり」はあるのかな?先に死ぬ家族とは再開できるのかな?今、勉強していることは死んだ瞬間に「無」になるのかな?そして、死にたくないな。小学生の時より科学的な事が少し、理解してきてその悩みが深いものになりました。

1週間くらい前からずっと悩んでいます。この「教えてgoo」にも「死後」に関わる様々な質問をしました。

この悩みは「思春期」という時期的な悩みなのでしょうか?

何をしている時も心の片隅に必ずこの悩みがあります。

そして、必ず来る家族との別れのことも考えてしまいます。

このような事を深く考えてしまうのは思春期の時期的な悩みなのでしょうか?

同年代の皆さん、貴方はどうですか?

大人の皆さん、そんな時期はありましたか?

詳しい方、この悩みは思春期には誰にでもある悩みなのですか?

そして、いつかこの悩みはなくなるのでしょうか?

A 回答 (4件)

こんにちは



その問題は思春期の時は誰でも考えると思います。大人になったら忘れる人もいるし、大人になっても考えてる人もいます。この先この問題に解決というか自分なりの納得する答えが出てきたならばもう悩まなくなるかもしれませんが、納得できないのならなかなかこの考えを自分から消すのは難しいとおもいます。
ちなみに私も思春期の時に考え始め、今なお考えてます。ちなみに20歳すぎてますが。

この問題に興味があるなら質問者さんがしてるように、色んなとこで質問したり、それに関する本や小説、映画などを見るといいと思います。今まで予想もしなかった何かを見つけられるかもしれませんよ。

この問題と向き合ってると否定的になりがちですが、考える事も楽しみながら探索していけばいいとおもいます。
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思春期は、子供から大人になる時期と重なっています。

身体も心も大人になるという意味ですが、主に「心の問題として」答えてみたいと思います。

その前に人間の心と他の動物達や生き物や植物との違いを書いて見ます。

動物にも植物にも「命」が在りますが、その命はその命を「働かせている者の存在から」成り立っています。言葉を換えて云うなら「命を働かせている意思」が生きとし生きるものには備わっている」という意味です。

その者の存在するお陰で「命が芽生えた瞬間から細胞分裂」が始まって生命が芽生える事を意味します。

その者を「遺伝子」という言い方も可能かもしれませんが、兎に角そういう者の存在を抜きにしては命を語る事は出来ません。

桜の種類によって咲く時期や色や形までも再現する働きです。動物や昆虫でもその種によって行動も形も全て備わっています。その者の働きを仮に「命の働き」と云う事にしておきます。

人間にも当然備わっている者です、その者は生命として「芽生えた瞬間から」働き始めています、初めの働きが細胞分裂と云う事になります。

誕生した時には、泣く事も笑う事も、不安と云う事も恐怖と云う事も安心する事も全て備わっている働きです。身体に関しては腹が減った事や喉が渇いた事も全て知っていて、心臓の働きも呼吸する事も、ホルモンの調節も、腸の働きも全て行っている者です。この者を「命の働き」と先に書きました。

植物や他の生物達はこの働きのままで生き続けています。これ以上の成長はないという意味です。

処が人間にだけ在る脳の働きが在ります、それは「意識する事」です。人間にだけ備わっている「意識」が文明を発展させ源動力となって、人間を万物の長にまで押し上げてきたという歴史があります。

処がこの「意識する事」によって人間は苦しみが始まっています。この苦しみが「人間苦=罪悪感=業」と云う事になります。意識が人間に重い十字架を背負わせているという意味です。

聖書に書いてある言葉「失楽園」には、人間の脳の成長の完成という意味が含まれています。知恵のりんごを食べたという意味は、何事にも疑いを持ち始めたと言う意味があります。今までは何の疑いを持たなかった事に「意識する事で」疑いを持つという意味です。

この意味は脳の機能完成によって「意識が芽生えた事」を云っています。今までは「命の働きの意志」の命ずるままに生きていました。何の疑いも持たない状態を「天国」と形容しています。幼子こそ天国に一番近い存在という意味です。

思春期頃から人間は何にでも疑いを持ち始めます、人生とは何なのか?自分は何者か?死とは何なのか?という疑いを持ち始めるという意味です。この疑いが強くなった場合「苦悩する」事を意味します。

それが人間苦の始まりと云う事になります。悩みや苦しむと云う事は「二つの考え方の違いに苦しむ」という意味があります。宗教家が無情を感じて出家する年頃が思春期頃です。貴方が悩み始めた年頃です。


それは人間の左脳の機能が完成した事を物語っています。「命の働き」と全く別行動を取り始める事を意味します、つまり心が二つになって相争う現象を「悩みが始まる、或は苦しみが始まる」=天国から追放されたと言っています。

人間苦とは「心の矛盾」を感じている事を意味します。「命の働きは」思春期頃「意識」が芽生えた頃には「無意識の底に沈んでしまい」意識には分からない存在となっています。この事から「心を病む事」の原因が分かり難くなっています。

失楽園と言う意味は「二つの意識の間に矛盾が生じた」と言う意味です。この事を脳の機能完成と言う現象で説明すると分かり易いかも知れません。

主に右脳と左脳の機能と云う事になりますが、左脳には自我意識という人格が存在しています。この者は言葉で全てを行っている人格です。従って言葉になら無いものを理解出来ない者と言う言い方も可能です。

右脳の人格は「無意識の意識」として存在しています。人間は意識が無くなった事を意識出来ない事から、自我意識には「無意識の人格」は知る事は出来ないというシステムで構成されています。

右脳の意識は「命そのものを働かせている意識」です。身体全部と心と行動の全てを取り仕切っている機能から成り立っています。目にゴミが入ろうとした場合瞬間で目を閉じる事を目に命令しているシステムです。

心臓や肺や腸などやホルモンの調節もこの者の支配下に在ります。行動する場合にも、命の危険が伴う場合「自我意識を指し抜いて」この者が身体と心を一時的に支配しています。火事場のくそ力と言う場合です。急ブレーキを掛ける場合等にも云える事です。

人間の生活が上手く成り立っている場合「意識の根底で、どちらの意識の出番かが、上手く調節が取れています」その交替制が崩れた場合を「病む」と言っています。

その交替制が「行動する場合」に崩れた時、神経症と言っています。

その交替制が「身体機能」において崩れた場合を、自律神経失調症と言っています。

その交替制が「心に及ぶ時」心を病むと云っています。

三つの病状は全く違って見えますが、根本は同じです、心の矛盾を何処に感じているのかの違いだけです。自我意識にはその機能がないにも拘らず「自我意識が出来るもの」と勘違いしてしまう事を言っています。

これ等の解消がキリスト教においては「神と和解する」です。もう少し噛み砕いて書くなら「内在する自身の識られざる神と和解する」です。もっと分かりやすく書くなら、「生まれる前から働いている自分自身の働きと、自我意識が和解する」という意味です。

この事を仏教の文献から探すなら「自分自身を知る」=「見性」=「悟りを開く」と云う事を意味します。

そして、いつかこの悩みはなくなるのでしょうか?

と言う答えは、貴方が悟りを開いた時に解消します、と云う事になります。

そのためのテキストが在ります。「禅」です。

禅が生まれた中国では今から60年も前にはもう廃れていると、鈴木大拙博士はその著書に書いています。キリスト教社会でも教会離れが進んでいると聞いています。

そうして精神科医の元に迷える子羊が集合しているように見えます。処が精神科医達は「心を病む原因はまだ分かっていませんが、治療をするなら直ります、早期治療が有効です。と言っています。

原因が分からないのに如何いう治療があるのかと疑問ですが、薬が処方されていて長く飲んでいながら、寛解にまで達する事が出来ない人達も大勢いると聞いています。

心の矛盾の解消が全ての完治となります。
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ありました。



私は中学時代「死」を考えて、夜中に何回も起きました。
そして同じ夢を、何回も何回も見ました。
ずーと遠くに光が見えるんだけど、長い長い階段を上って上って行っても、その光にたどり着けない恐怖感です。
たぶん、生きてるから、本能的に死を考えるんだと思います。

で、そのうち忘れます。
現実世界が忙しいから。

死は何?なんて、答えられる人は誰も居ません。
でもいろんなその手の本を読むことは、参考にはなります。
その中で、ピン!と閃くものに出会えれば、ラッキーです。

池田晶子の「14歳からの哲学」お勧めします。
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 思春期に死について考え込んでしまう事は別に珍しい事ではありません。

ごく普通の事です。

 思春期の少し前、あるいは思春期の始まる時期というのは、まず「自分」というものの存在に気付きます。所謂、自我の目覚めという奴です。
 他とは違う「自分」に気付くと、当然のように「自分以外」のことも気になります。それまで意識していなかった「自分」と「自分以外」の関わりについて意識するようになるのですが、それまで自然に考えもしなかった事を初めて意識するので、どうしてもぎこちなくなります。
 「自分」をどう扱うか?「自分以外」をどうとらえるか?それらとどう関わっていくか?
 それらを不器用に、様子を見ながら、色々試したり、少しずつ確認したりしていくわけです。そこで様々な事に気付き、いちいち一喜一憂する。そうした成長過程が思春期です。

 そこで「自分」というものを意識する時、どうしても「死」というものを意識してしまいます。「自分」というものは生きているわけですし、これからも生きていくわけです。
 「自分」と「自分以外」の関係をどう気付いていくか?とは即ち「どう生きていくか?」です。「生きること」を考える時に、その対極である「死」に考えが及ぶのはごく当然のことであり、「生きること」を考えれば考えるほど「死」の存在は大きく感じられてしまうのです。
 「死」について考える事は決して不健全なことではなく、「死」に対する興味も関心も無しに「生きること」を考える事は不可能なのですから、無意識に「死」について考え込んでしまうのも当たり前の事なのです。逆にあえて「死」について考えることで、同時に無意識に「生きること」を考えているのです。

 したがって、あなたが「どう生きるか?」という答えを導き出せた時、「死」についての悩みは消えるでしょう。「どう生きるか?」の答えは明確ではないかもしれません。むしろ明確に一つの言葉にすることのできるような人はごく少数です。ただ言える事は、あなたが自然に周囲と関わっていけるようになった時、その答えは既にあなたの中に備わっているであろうということだけです。
 逆に、「どう生きるか?」「人とどうかかわっていくか?」という答えを出せずに悩み続ける人は、大人になってからもずっと「死」について悩み続けることになります。残念ながらそういう人は増え続けています。
 答えは「自分以外」の人と実際に関わって行くことでしか得られません。友人然り、恋人しかり、両親兄弟といった家族しかり、先生しかり、近所の人、バイト先の大人、これらとどれだけ多く、どれだけ深く付き合う事が出来るかで、答えは信念と呼べるような強固なものにもなりますし、簡単に忘れてしまうような薄弱なものにもなるでしょう。
 それはあなた次第です。
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この回答へのお礼

分かりやすい説明、ありがとうございました。自分の生き方を探してみます!

お礼日時:2011/08/15 19:03

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