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昔あった本のタイトルから。

人は、なぜ道徳を守る必要があるのでしょうか?

一応自分なりの回答をもっています。
「人は、それが社会の共通規則(言語ゲーム)であるが故に、その社会で生きるために、道徳を守る必要がある。」
この策定によれば、自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ないでしょう。
(それに正当性が必要かどうかという議論では、私は必要ないと答えますが。)
※何が道徳であるか、ということについては、基本的にはウィトゲンシュタインの立場を取りたいと思います(ミルであれカントであれロールズであれ好きにすればいい)

この言説の問題として、道徳の正しさをこの考え自体が否定している気がしています。色々な立場からある判断基準を道徳として策定したにも関わらず、その正当性自体を相対的なあり方に固定してしまっている。

皆さんのご意見を伺いたいです。

A 回答 (11件中1~10件)

ご質問を2度読んだのですが、


人はなぜ道徳を守る必要があるのかについて、自分なりに策定した回答が破綻をきたしているので、それを棄却して、新しい回答、すなわち、自暴自棄なテロリストがなぜ決意を翻して道徳を守らなければならないかを満たす回答を、いまいちど求め直したいということでよろしいですか。


ヴィトゲンシュタインの見地なら、信号が青なら渡ってよいというとき、赤信号を指してこれは青だと言いつのる者が赤信号を渡るのをとめるのはきわめて難しい、という認識が大切であり、共有概念や合意形成から道徳を学ぶのでは危うく、道徳から共有概念や合意形成を導かねばならない、という真理が露呈されるのを見届けなくてはなりません。ethicsとしての社会的な存在および存続の原理が、人定律を照射することによって、社会は変化し成熟することができるといえるでしょう。人間が社会的に存在し存続する原理から離れれば、人間は自滅してしまいます。

未熟な人間であってもルールさえ守っていれば道徳に届くようにと法は定められ、社会的存在の存続の原理がわずかに変化している様相であるなら、ルールはそれにつれて刷新されるでしょう。
しかし、〈自暴自棄なテロリスト〉はルールを守る必要より以前に、まず社会的に存在しようとし、生を存続しようとしなければならないという点に立ち帰る必要について考えなければならないと思います。つまり彼においてルールとは表層的な問題であり、すべての自滅志望者と同じく、あらゆる人定律を放擲した先で、「内的な要求であるところの人間として」「生きようとする」ことができるかどうかが本質的問題なのだと思います。

 
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先ず道徳の由来を考えます。

宗教を持ち出さないとすると、社会生活を”お互いにうまく送るため”のお互いの「うすうすの申し合わせ」であると小生は考えております。道徳を守るべしとの要請もうすうすにあるだけです。道徳に違反したとしても社会からは「それなりの反撃」があるだけです。道徳の成立範囲(定義域)もぼんやりしております。当然「これこれが道徳として定められた」こともなく、「これこれは今後道徳から除外しよう」との提案や吟味はなされたことがありません。社会をうまく運転するには、その社会の維持のためには「道徳」・「価値」をそれなりに提示されて来たわけです。
いっぽう厳格な規範としては法律が定められ、その定義域と強制力とはずいぶんはっきりしております。
ですから、道徳とは「それなりに守る必要がある」さもないと「それなりの反撃がある」という問題になります。その社会に「充分に納得して」あるいは「不満を感じて」暮らす人々とでは”be moral”の度合いが変わることになるでしょう。「充分に納得して」暮らす人々が”be moral”を多分大声でおっしゃるのでしょう。正邪善悪の問題とはやや異なるテーマでしょう。
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>自暴自棄なテロリストを糾弾する正当性は誰も持ち得ない



この命題が成立するためには、「自暴自棄は道徳的である」という文化が存在する場合だけじゃ。

実際のところ、自暴自棄を道徳的であるとする文化が見当たらないので、テロリストの活動は正当ではないんじゃ。

しかし、この問答では言葉が偉く難しいなぁ。言葉の下痢止めが必要だと思うな。
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社会規範としての道徳という限定的な意味でなら、別にウィトゲンシュタインを気取らなくてもいいことだと思いますけどねw




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;それ自体は別にいいんじゃないでしょうか



そうでしょうか

小乗仏教は人一人がそこに乗り、他への干渉を極力避けてその生を全うさせようとする

そこから大乗仏教に移行するのは、ただ道徳を守れば幸せになれるとかいうことを広めるというような次元のことにあるのではなく
前記のようなそうした抱える様々な社会問題を総合的に具体的に解決させられうるものを自らの内に描き切ることによって対案を持ち、例えば政治権力と対峙する大慾に至れと大乗仏教は言ってるのではないですか?

ただ
カルトな新興宗教集団が大挙して政治家になって国家を動かし始める図なんてまっぴら御免だし
それは宗教集団としてその集票力を利用して実務として政治を動かすというようなことにあるのではなく
ただ対峙することで、抱える様々な問題を総合的に解決させうる具体的な可能性の図に内包される、より上位に来る自然法とか道理によって政治と国民意識を規定する
といったようなもの

いまの古くからある既存の大乗仏教系の僧の一人ひとりはそういうことをやってると言えるでしょうか
もし、国民の一人ひとりがその職を全うしていくことがその社会を住みよいものにしていくとすれば
大乗仏教に属する僧はその職の本来の意味を理解しそれを全うしようとしていると言えるでしょうか

今の政治家と同じように、意識がその職の本分を尽くそうとしていると言えるような状態ではないのではないでしょうか
というような意味で言っております

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;別の例で捨象するだけでは論点がずれます



そうでしょうか
道徳といった狭い規範で考えていくより、宗教の持つ特性の方が貴方の主張するところのものが鮮明になると思われるのですけれどもね。。

道徳もそうだけれども宗教の役割は社会的な規範を守るということに対して
宗教も社会的に強いものより弱いものの心により有効に作用すると考えられますし
支配の為の道具として機能する場合の方が大きな意味を持つようになったりするものだから


上に起こることは下に起こるというヘルメス・トルキメギストスの言葉を借りれば
本当は上に立つものこそ、道徳的的な規範を垂範するべきなのだとか
そういうことなのじゃないんでしょうかね

その裏を返せば社会的に力を持って強いもの
例えば政治はその国民の代表として国民全てを対象にその生活をして住みよいものにさせていくという義務を負っていると考えられるのであるが
もし、生存をかけた自由な経済競争の中で、このままでは飢えて死ななければならないという状況にまで追い詰められるのを放置させるのであれば、生命をかけた生存競争になるのであれば、同じ法、ルール、道徳といった枠を共有する中にあっても、その社会規範の枠を超えて、人を殺して多くを持つ者から奪って生き延びようとするものまででてきてしまうことも当然起こりうることだろう

こうした社会問題は道徳は守られるべきだで終わらせてしまえるものではないのではないか
といったほどの主張があるのかな

一方で
今の日本では最低生活は保障されていて、それによる財政破たんの方が問題で
こんなに一生懸命汗を流して働いている人間がいる一方で、働けるのに働こうともせず当たり前のように生活保護を受けている人間がるなんてやってられない
健全な社会とは言えず、道徳どころか社会そのものが崩壊する
民主党によって国の枠を取り払い、国家そのものを地方から壊すような政治をするなら
自分達の生活は自分たちで守らないと

みたいな
地球住環境も国も人心も荒廃する終末期だね

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葬式仏教化し仏法の法燈明をすっかり消してしまっているのに


生臭坊主が、それをひたすら頼って信じるのが自燈明ですなんてよく言えるよな

なんてことをいいたいのかな?


この回答への補足

それ自体は別にいいんじゃないでしょうか。
別の例で捨象するだけでは論点がずれます。

補足日時:2011/09/07 00:51
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仏法の法燈明も消え


人心も荒廃する末法期だしね。。




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「社会が成立するための必要」だとすれば、その『必要』を


自覚していれば、モラルになど縛られずとも、社会生命たる
自己の“生きる意志”の発露において、自律的に社会的
行動をとれる。
法律であれ神であれモラルであれ、外なる権威に従う事で
自己の自由意志を抑制する形で社会的行動をとるのは、
真の生きる目的である「精神的充足量の最大化(意志の
達成)」に反する、必要悪に留まる。
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共存共栄を図りたいから。


外人がエレベーターで見ず知らずの私に、笑顔で
"Hellow"
と話しかけるのは、
「私はあなたに危害を加える気は毛頭無い、だからあなたも止めてね!」
という意味だと私は解釈しております。

この回答への補足

その解釈に従えば、「私はあなたと共存共栄を図る必要がない。私は絶対的な強者であり、あなたから危害を加えられることはない」と思っている人間は、相手に対し、どのような危害を加えても構わない、ということですね。

私も事実そのように思います。
例えば、この道徳観の下では、女性は男性を痴漢冤罪にしてお金をもうけることや、企業重役の御曹司が派遣社員いびりをしてストレス解消をすることは、利にかなっているし、そのようなケースでは道徳を守る必要はないことになります。
(こういう場合、往々にして被害者が刺し違える形で応報し、社会構造は保たれます。逆に言えば、刺し違える形の応報さえ防ぐことが可能ならば、道徳を守る必要はない、ということになります。)
はて…。自分で言っておきながら、なんだか違和感を感じますね。

補足日時:2011/09/06 21:59
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