
この間、ここで出家について質問して
質問がとんでもない方向に飛躍してしまいました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6996217.html
質問の返信では神を拝むのは本来の目的から外れるとのこと。
そこで色々と検索してみて、どうもその通りらしかったのです。
しかし、調べている間に仏像を拝むのはどうかと疑問がわきました。
自分でもかなり抽象的な質問かなと思いますが、
ご意見を持っている方がいれば書き込んでください。
No.13
- 回答日時:
追加します。
仏像を拝むことの実際についてです。
仏像は信仰の対象であることは勿論ですが、その内面に少し入ってみたいと思います。
あるご住職が言われた言葉ですが
見事な仏像であっても、きれいすぎて拝む気になれない、ものもあるという話でした。
美術工芸品として価値は高くても、信仰の対象としては失格である、という事のようです。
拝むのは、見た目がきれいだから拝むのではなく、仏様だから拝む、ということなのでしょう。
仏の智慧や慈悲心を感じさせるものが仏像なのでしょう。
深い智慧の美しさや、慈悲心の優しさを理屈抜きで与えてくれるものです。
そこには仏師が伝えたかったものが込められていると思います。
仏は衆生と共にいる、という象徴が仏像なのだと思います。
私は仏像を拝むことに何のためらいもありません。
それは仏様に近ずくことだからです。
仏像が羯摩曼荼羅という仏の確かな表現であるという裏付けがあることを知れば尚更といった気もします・・・
既にご存じかもしれませんが私の好きな仏像を書いてみます。
どれも素晴らしい仏像だと思います。
向源寺 十一面観音像
中宮寺 菩薩半迦思惟像
広隆寺 菩薩像
二月堂 不空羂索観音像
No10様ですね。再度のご投稿有り難うございます。
豪華な仏像を大切に思う心は物欲のなせる業だと思います。
ただ、No11様のご回答を見て、何となく分かった気がします。
作ったものの心、それこそが大事なのだと。
No.11
- 回答日時:
釈迦の教えそのものとは無関係ですね。
偉いから、ありがたいから、輝いているから、などと如来の色身を拝むことさえ意味がなく、
人は自分自身が苦しみから解き放たれるようになれと教えを説いたのが釈迦でした。
教会のキリスト像やマリア像は美術品ではなく模像です。木偶(でく)に写し身を見出すものです。
写真が存在したなら写真を祀ったり持ち歩いたりしただろうといえるでしょう。
また、仏閣を装飾する神々は装飾です。建築様式に要請されているものです。
仏像は仏教美術の作品であり、これらと見どころが違うと思います。
家の仏壇に置くようにと売られているものは美術品の典型を縮小コピーした大量生産品といったところなんじゃないでしょうか。
あれらが仏の写し身だとか御真影の立体版だと思って拝むことなどあるんでしょうか。
純金製とか純銀製とか作家物とかであったりと、別の付加価値が、ありがたかったりします。
仏像に手を合わせるなら、彫り出した人の心を無視することはできないと思います。
近現代の彫刻家でも仏像を彫る方々がいますが、
何を彫ろうとしているのかということを深く考えさせられます。
美術館に置いてあると手を合わせる気分にならず、寺に置いてあると手を合わせる気分になるなんてこともありそうですが、
それは美術館というのが罪深い機能を果たしているからですし、美術館に慣れた近代人の目は、観光寺の仏像だって対象化・モノ化して鑑賞してしまいますね。
でも、そんな物象化文明に濁らされず、心から仏像の前に手を合わせる人は幸せな気がします。
仏像とゆっくり向き合って、仏師の心と同席していたり、大勢の人の祈りの心と調和していたりするのだと思うからです。
そういう、心の総和、波紋のように広がる繋がりが、自我に照射している様態が仏教には自然に備わっていると思いますから、
そんな心があるなら、仏像を拝もうと拝むまいと、偶像をとおしてイエスと共にとかマリアと共にといったような按配にならなければ、釈迦は何も言わないんじゃないでしょうか。
ご回答有り難うございます。
仏像は偶像であるが、それを作った人の想いと
同調するという意見ですね。
大勢の人の心の調和というのは本質的にそうだと思います。
No.10
- 回答日時:
滋賀の向源寺にある十一面観音像は有名な仏像ですが
そこに興味深い話が伝わっています。
戦乱の最中に、地元の村人が、尊像の破壊や焼失を怖れて
この観音様を土の中に埋めて守った、という話です。
伝説なので真実かどうかは分かりませんが、厚い信仰を思わせる話です。
村人がどのような思いで、観音様を土の中に埋めて守ったのでしょう。
先祖の位牌を大切にするのと同じような、或いはそれ以上の気持ちだったかもしれない
大切な観音様を土に埋めなければならない、という悲しみがそこにはあったと思うのです。
それでも、どのようなことがあっても守りたい、という強い信心がそうさせたのだと思います。
仏像を拝むことは仏教の本来の教えには無い、とかの話は前からあります。
理智的な仏教が本来の仏教であって、感性的な仏教は堕落であるという話です。
また、他力信仰や現世利益の信仰は、救いはあっても成仏はない本末転倒であるというような話も前からあります。
しかし、少し難しい言葉になってしまいますが
信心とは法仏の働きを直接享受する立場を得る、という解釈ができると思われます。
論も行もなくとも、信によって仏の大慈悲心に触れることが可能であるという事です。
それが一つの法門であると言えなくもないと思います。
仏像を拝むことは低レベルである、と決めつけるような見方は狭いようにも思われます。
仏像には、直接的な感性的説法の意味が込められているのだとしたら
やはり大切なものではないでしょうか。
信仰を持つ者にとっては、ただのマークやオブジェではないことは明らかです。
それがどれほど有効であったのかは、既に歴史が証明していると思います。
上述の話も、そうした歴史に因んだ話です。
信心によって守られてきた観音様が今もあるという事実が、何よりもその確かさを物語っていると思います。
参考になさってください。
ご回答有り難うございます。
少し皆さんの回答と違和感があったので考えてみました。
つまり、観音様を守るのが信仰の篤いことの証明になるかです。
諸行無常の観点から言うと誤りのように思われます。
観音様を守るのではなく、無くなればまた作れば良い。
観音様を守るという行為は物欲ではないのでしょうか。
偉そうに書きましたが、実は書いている私もよく分かっていません。
この話は次回くらいの質問のテーマにしてみたいと思っています。
No.9
- 回答日時:
釈迦が死んでからずいぶん経って後の、
勝手に林立した教団がキリスト教の布教方法を参考にして用いた手法が仏像です。
そもそも、実戦哲学者たる仏陀は、教団とは無関係。
でも仏陀の言葉は伝わっていないから、教団の末裔を辿って探し出すほかありません。
仏像を拝む教団か、仏陀研究者の学派か、心注ぐ方向は迷いますよね。
あなたは真摯に世界を見れる人のようだし、ここに書き込まれる勝手な意見になど惑わされず、
ご自分での仏陀への道を探るべきです。
そういうことこそ、仏陀が望む世界観です。
いえいえ、皆さん真剣になって書いてくれてますよ。
勝手な意見などとは思いません。
ただ、質問する度に迷うことが増えるのは事実ですね。。。
それだけ多くの見方があるということでしょうね。
自分で探る、人生の旅人みたいで格好良いですね。
なるべくはそうする積もりですが、やはり限度があります。
ただ、その姿勢と方向性は正しいようなので、
これからも続けて行きたいとは思います。
No.8
- 回答日時:
拝む、つまり祈りとは、波動のことです。
何かを求める場合、普通よく神頼みしたりしますが、これは祈ることによって自分の波動で
望みの対象をひきつけることになります。
この宇宙は引き寄せの法則が働いています。
ですので、仏像を拝んでいても、その辺の石ころを拝んでいても、どんな祈りであれ、その祈りが真摯なものならば、あなたからその望みを引き寄せる波動が放出され、その波動が十分な強さになれば、あなたの願いが引き寄せられるのです。
釈迦が仏像を拝むなと言ったとすれば、それは、もしその仏像がなければ自分では何もできないようになるのを危惧して、いわれたのではないかと思います。
本来人間は、自分の祈りの力で、望むものを手に入れることができるのです。
ご回答有り難うございます。
祈りとは波動ですか。。。物理法則なのでしょうか。
全く別の観点からのご指摘で新鮮です。
今、こうして読み返してみると肯定派の方でも
偶像崇拝を本来の目的に据えてはいけないと
限定的であり、否定派と同じ方向性に気付きます。
この辺に回答がありそうです。
波動と引き寄せの法則、参考になりました。
No.6
- 回答日時:
釈迦は仏像を拝めとは言っていないですし、三宝(仏、法、僧)を拝めとも言っていないでしょう。
三宝、すなわち、仏と、お経と、僧伽(そうぎゃ)に帰依せよ、つまり、仏と、お経と、僧伽(そうぎゃ)を拠り所にせよと言っただけで、拝めとか崇めよとは言っていません。
人類の英知が凝縮された仏教には、哲学の側面があり、また美術の側面もあるので、これらを哲学の立場、芸術の立場で尊重するのは個人の自由だと思います。私は個人的に仏教建築が好きで、崇めたくなる気持ちがあります。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など”アブラハムの宗教”が絶対神に対する「信仰」がを求めるのと違い、仏教においては三宝に対する「帰依」(拠り所にするという意味)が強調されます。
帰依と信仰の違いが仏教の哲学性を強めてきたと思います。
とはいえ、日本の仏教では、悪人正機説を唱えた親鸞以来、戒律の戒を無視し、肉食妻帯はもとより、今生の快楽を追求するような輩が僧籍をもっているのですから、お釈迦様はもちろん、道元禅師が見たらさぞかしお嘆きになるでしょう。
ご回答有り難うございます。
こちらは否定派ですね。一挙に否定派が増えた感じです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を
アブラハムの宗教というのですか。
似たところがあるとは聞いてましたが、参考になりました。
今日も色々なサイトを暇を潰しながら見ていたのですが、
快楽は悪なのかというサイトを見てハッとしました。
釈迦が苦行を途中で止めたのも苦行に意味がないことを
悟ったためだとか。どんなものなんでしょう?
No.5
- 回答日時:
こんばんは、疑問はつきませんね。
さてご質問の件ですが、私は仏教には少し興味があるだけの初心者です。以前NHKの番組で、初期の仏教の特集をしていました。元々仏教は哲学で、「いかに生きるべきか」を考える学問でした。しかし、釈迦の死後、有る一定の間、それが守られていました。そのために、釈迦の偶像を作ることはされませんでした。しかし、しばらく経ってから、円を描いた物のような物を描いて、それを拝み始めました。その後、アレキサンダー大王の東征により、ギリシャ彫刻と仏教が出会ったことにより、ガンダーラ美術が出来たのだそうです。その頃の仏像は、ひげを生やしバンダナを巻き、ギリシャ彫刻のようでした。
その後、仏教の中で死後の世界をも扱うようになり、哲学が宗教になっていったというような内容だったと記憶しています。
個人的には、歴史的な見方から、拝むことが間違っている考え方だとしても、拝むことで自分の気持ちが敬虔になるのであれば、良いのではないでしょうか?
ご回答有り難うございます。
こちらも肯定派ですね。これで3:1です。
真理に多数決取っても意味ないかもしれませんが、
シロウトには判断の拠り所となります。
興味深い歴史の紹介も有り難うございました。
時々思うのですが、中央アジアって大帝国でき易いですよね。
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