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昔、中学生の時の事です。

私はクラブに所属していたのですが、そこでいじめのような行為をされていてとても酷い扱いを受けていました。

先輩や同級生に加えて、後輩の中にも手を出してきたり私の物を投げたりする輩がおりとても屈辱的な毎日を過ごしていました。

ある日その部活の休憩中、ご飯を食べていた時の事です。

後輩がご飯を食べている私に近づいてきて、私が食べているものがちょっと欲しいと言って来ました。

私はちょっとぐらいならと思いあげたのですが、そいつはその後とんでもない行動に出ました。

そいつは同級生の仲間がいる元いた場所に戻るとそれをそいつらの前でそこらへんに投げつけたのです。

私はとてつもなく怒りが込み上げたのですが、当時私の先輩にそいつの暴力的な兄がいてもしそいつにキレたりすると絶対何かしらの仕返しがあると思って何も出来ませんでした。

そもそも当時の私の扱われ方からも、キレたりするような事をしたら部内のメンバーの誰かしらから何か仕打ちを受けていたと思います。

私は結局、親切心を踏みにじられて終わりました。

「困っている」「助けを必要としている」人を少しでも救おうとしたのですが、結局馬鹿されて終わりました。

そこで皆様に質問です。

私はこの経験をトラウマとし、困っている人がいたら助けるという親切心は持たない方がいいでしょうか?

それとも、「当時された様に結局踏みにじられるかもしれない」等とは一切考えず、これからも今まで通り人が困っているなら助けるという親切心を持ち続けるべきでしょうか?

一度嫌な経験をしているので、自分で答えを決めるのが出来ません。

よろしければ回答お待ちしております。

A 回答 (6件)

人は親切心を持ち続けるから親切するんじゃないと思うよ。


困ってる人を見て、いたたまれなくなって、その苦痛から逃れていたら、結果として善行になってるんだよ。
要するに、親切する人も、救われてるんだ。

深く考える必要はないとよ。
いくらトラウマになっても、道端で人が倒れてて助けを求めてたら、助けるでしょう。
スルーしたら後味の悪さで、ぜったい苦痛するぜ。

そもそも、弁当の一件は、困った人とは言えないと思うよ。
人の弁当を貰おうとするのは我侭だし、放置しても、死ぬわけでもない。
むしろ、貰おうという行為自体が相手を敬う精神が欠けてるので罰を与えるべき。
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この回答へのお礼

>そもそも、弁当の一件は、困った人とは言えないと思うよ。
人の弁当を貰おうとするのは我侭だし、放置しても、死ぬわけでもない。
むしろ、貰おうという行為自体が相手を敬う精神が欠けてるので罰を与えるべき。

本当に仰る通りだと思います。

これからも親切心を持って生きて行きたいとおもいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/01/07 01:11

おれは、自分の弱さを認めた人間です。

たぶん彼らは俺より弱い人間です。かかって来いよ、弱い奴ら、って今では思っています。弱いやつは、人のことを馬鹿にすることでしか自分の強さを誇示できないので、ずうーと弱いままです。おれは、やさしさこそが本当の強さだと思っています。自分の弱さを認めたものは、もう強くなる必要がないのでもう強がりません。しかし、弱さも知っているので、人にやさしくすることだけは、ぜったいに忘れたくありません。おれには強い意志があります。そんなに簡単に見つけたことではありません。自分に絶望し、仕方ないやって認めました。おれは、弱い人間です。弱い人間こそが、本当の強さをもち、弱さも守ることができると思っています。やさしさを忘れないでください。お願いです。それが本当の強さだから。難しいことを言ってすいません。でも忘れないで。

ごめんね。人間って弱いんだよ。そのうちわかる日がくるかも知れない。知らない人はずうーと知らない。わからないほうが幸せなもかも知れない。心のどこかに秘めておいてくれると、うれしいです。
そんなのもんだって。
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/07 01:09

 ♯2です。

質問の趣旨と少しずれていたことに気付いたので、付け足させていただきます。

 「人を信じることは美しく、疑うことはみにくい」という類型的な観念が蔓延しています。また日本中が、人を嫌ったり、人から嫌われたりすることが、まるで人間失格の烙印を押されることであるかのように思い込んでいる節もあります。しかし、ものごとは何でも一対をなしています。「信じる」心があるのなら、「信じない」心もあって当然です。「好き」という感情がある以上、反対の「嫌い」という感情が存在するのは、当たり前で、ごく自然なことなのです。

 誰かまわず信頼すればよいというものではなく、誤解を怖れずに言えば、相手によって「この人は、どれくらい信頼できるか」という値踏みをしてもよいのです。 街を歩いていて、いきなり見ず知らずの他人から「必ず返しますので、100万円貸してください」と言われて、「はいどうぞ」と貸す人はいないでしょう。それを「人を疑うとは、何と心のみにくい人間だ」と非難する人はいません。
 「人を信じる」という言葉には、不思議な魔力があります。 結婚詐欺やデート商法に引っかかってしまう「純真」な人は、この言葉の表面的な意味だけにとらわれてしまっているのではないでしょうか。 真に相手を信頼するというより、「自分は、人を疑うような心の汚れた人間ではない」と思い込みたいために、また、他人にそう見せつけたいために、自分の頭で正しい判断を下すことなく、むやみに人を盲信してしまうのです。
 信じるか信じないか、ということよりもっと大切なことは、「自分の責任において、自分の頭で判断する」ということです。

 いかに上手に他人と付き合うか、いかに他人を愛するべきか、について書かれた本はたくさんありますが、他人の「正しい嫌い方」という本はあまり見かけませんし、学校でも教えてくれません。
 人を嫌うということは、あくまで「自分が気に食わない」という主観の問題であり、相手が絶対的に悪いというわけではない、ということさえ判っていればよいのです。 「私はあの人が嫌いだ」とはっきり自分で認めることができれば、その人のことはどうでもよくなり、嫌いという感情は薄れるものです。
 いつまでも他人への恨みを引きずり、実際に仕返しなどの行動に出てしまう人は、「人を嫌うのは悪いことだ」というあまりにも清らかな理想にしばられているのです。 自分を嫌う他人が許せないのと同時に、他人を嫌っている自分自身にも嫌悪感を抱いているのです。だから、自分の清らかな心が毒されたことが許せなくなるのです。
 人から嫌われることを極度に怖れる人は、「一方的に嫌われるのは悔しいから、こちらから先に嫌ってやる」と身構えているのです。そういう利己的な態度が、かえって他人から嫌われる確率を高めてしまいます。
「嫌われることもある」とおおらかに受け入れられる人ほど、結果的には多くの人から愛されるのです。

 少し視点を変えて、もうひとつ指摘。
  http://park6.wakwak.com/~psychol/communicate/cba …

 以上です。
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございました。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/01/07 01:08

おれは、自分の弱さを認めた人間です。

たぶん彼らは俺より弱い人間です。かかって来いよ、弱い奴ら、って今では思っています。弱いやつは、人のことを馬鹿にすることでしか自分の強さを誇示できないので、ずうーと弱いままです。おれは、やさしさこそが本当の強さだと思っています。自分の弱さを認めたものは、もう強くなる必要がないのでもう強がりません。しかし、弱さも知っているので、人にやさしくすることだけは、ぜったいに忘れたくありません。おれには強い意志があります。そんなに簡単に見つけたことではありません。自分に絶望し、仕方ないやって認めました。おれは、弱い人間です。弱い人間こそが、本当の強さをもち、弱さも守ることができると思っています。やさしさを忘れないでください。お願いです。それが本当の強さだから。難しいことを言ってすいません。でも忘れないで。
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この回答へのお礼

仰るとおりです。

参考になりました。

貴重なアドバイスありがとうございました。

お礼日時:2012/01/07 01:07

 こんばんは。



 よく考えてみると、その人は不幸な人です。満たされた人格の持ち主が、そのような行為をするはずがありません。また、反撃しない方がマシだと判断したのはあなたで、限られた状況の中での選択だったのではないでしょうか。状況は自分では変えられないし、私たちに出来ることは、与えられた選択肢の中で、自らの責任において選ぶことだけです。我慢「させられた」と考えると確かに悔しいですが、自分の判断と責任において我慢「した」と考える人は悔しくないはずです。

 自分のことしか考えず、わがまま勝手に振舞う人のことを、「自己チュー」などと言いますが、正確に言えば、それは自己中心的なのではなく、むしろ、「他者中心的」なのではないでしょうか。
他人の気持ちをかえりみず、傷つけるような言動をとる人も、自分の価値に自信がないから、「自分は、他人を傷付けても許される、特別な権利があるのだ」という姑息な優越感で自尊心を保っており、また同時に、「他人がどこまで許してくれるか」ということを試しています。「他人に許してもらうこと、受け入れてもらうこと」の中でしか、自分の価値を見出せないのです。

 他人の理解できない言動に腹が立ったとき、どう気持ちの整理をすればよいのでしょうか。 気にすればするほど、相手がそんな自分の気持ちなどたいして気にもかけていないことに腹が立ち、ますます執着を強めてしまいます。 気にすまいと必死で自分に言い聞かせても、そうして自分の心を抑えつけることがまたストレスとなります。
 他人のことがどうしても気になるのであれば、とことん他人の立場になって考えてみるのもひとつの方法です。 なぜ彼があなたを見くだし、嫌うような態度をとったのかというと、答えは簡単で、現に見くだし、嫌っていたからです。あなたは、「その事実を認めたくない」というところで立ち止まってしまっているのです。 しかし、まず事実を受け入れなくては、対策を立てることもできません。
 私たちが「他人の行動が理解できない」というときは、たいていの場合、「悔しさ」という感情が入り交じっています。
「理解できない」のではなく、「判ってはいるが、悔しいから認めたくない」のです。そういうときは、相手を自分と関係のないひとりの人間として、「なぜそうする必要があるのか」と考えてみれば、少しは理解しやすくなります。
 私たちは、自分の行動や考え方を変えるのは難しいことはよく判っているのに、他人が変わるのは簡単であると考えてしまいがちです。 どんなに嫌な性格の人も、本当は、できることなら皆に好かれて楽しく毎日を過ごしたいと思っているに決まっています。しかし、それができないのです。「私だったらこうするのに、なぜあの人はそうしないのか」と責めるのは、自分も実際にその人と同じ境遇に生まれ、同じ人生を歩んだ上でなければなりません。そんなことは不可能です。 自分はその人ではないし、その人は自分ではないのです。
  「自分はこうしたいのに、なかなかできない」と、自分のことで悩むのは、大いに結構です。悩みがなければ、成長もありません。 しかし、「他人にこんなことをされた」というのは、自分の問題ではなく、他人の問題です。他人の問題をいくら気にしても、自分のためにはなりません。
 他人をバカにするような人は、おそらく相当に劣等感の深い人です。それはその人の問題であって、あなたの問題ではありません。他人の劣等感まで抱え込んで苦しむ必要はないのです。

 世の中には、他人が傷つくようなことを平気で言う冷たい人は、たくさんいます。 あなたのまわりだけでなく、誰の近くにも平等にいるのです。 もしもあなたが、「冷たい人間がいるせいで、自分はいつもストレスを抱えている」と思っているのだとしたら、あなたが幸せになるためには、世の中のすべての冷たい人間を抹殺しなければならないということになります。そんなことは絶対に不可能です。
 愚痴をこぼさず、いつも笑顔で明るく生きている人もたくさんいます。 明るい人のまわりには、冷たい人間がまったく存在しないわけではありません。 ストレスをためるか、ためないかは、まわりの環境ではなく、自分の心のもち方で決まるのです。
 あなたの人間としての価値は、「ひとりの人にどう扱われるか」によって決まってしまうほど、ちっぽけなものなのでしょうか。そうでないなら、心豊かに生きたいなら、きょうかぎり、「他人にこんなことを言われた」と腹を立てるのはやめましょう。
 幸せを感じている人は、まわりのすべての人から受け入れられているわけではありません。 「他人は自分を受け入れてくれなくて当然、受け入れてくれた人には心から感謝しなければならない」と考えているだけです。 不幸な人とは、「他人は自分を受け入れてくれて当然、受け入れてくれない人には怒りを感じる」と考えている人です。「当然」か「不幸」かしかないのですから、いつまでたっても幸せになれるはずがありません。何を当然と考えるかで、感じ方は変わるのです。他人に対しては、親切や気遣いに感謝だけすればよいのです。
 
 自分中心でいきましょう。自己満足でいいのです。自己満足できない人ほど、他人に自分を認めることを暗に要求し、その押しつけがましさのために敬遠されてしまうのです。他人が理解してくれなくても、自分が自分の一番の理解者になればいいのです。

 長文失礼しました。
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この回答へのお礼

長文ありがとうございました。

参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/01/07 01:06

それは結局あなたも親切心を踏みにじった人たちと同じ人間になるということです。

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この回答へのお礼

何故ですか?

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/01/07 01:04

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