アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。
 
 ( a ) コミュニケーションの問題――または コミュニケーションが問題――だと見るという場合。

 ( a-1 ) 父親または母親との話が 実質的に途絶えたゆえ。埋められない溝が出来てしまった。

 ( a-2 ) 兄弟姉妹または身近にいる人たちとの話が 成り立たなくなっている。

 ( a-3 ) 学校の先生とのあいだが うまく行かない。

 ( a-4 ) 職場の上司との関係が もはや人間的ではなくなってしまった。

 ( a-5 ) 政治家や官僚などのアマテラス公務員との関係がこじれた。

 ( a-6 ) マスコミとの関係がおかしくなり 相手とのチカラ関係で こちらが不利になってしまっている。

 ( a-7 ) アマテラシテ天皇との関係が――想像上だとしても―― しっくり行く感じがしない。

 ( a-8 ) 外国との関係。アメリカ? 北朝鮮? 中国? ・・・

 ( a-9 ) あるいは 自分自身との関係?


 ( b ) そのほかの理由や事情によって われらが魂は去勢されているという場合。

 ( c ) いやいや われわれは魂が去勢などされていない。バカも休み休み言えというご見解の場合。

 ・・・・


 展望としては 人間の存在論ならびにコミュニケーション論そして日本人論といった主題だと考えます。




 質問者のたたき台は これまでにおこなった設問の趣旨説明やそこでのやり取りが その内容となるとは思います。ここでは特にはありません。

 ひとつだけ取り上げるとすれば それは――最近にも設問したのですが―― 《わたし》の問題です。すなわち ( a-9 )の項目にあたります。
 日本語では《わたし》なる存在について その《わたし》のほかにわざわざ《自我》という用語をこしらえて これによって自己の言わば確認をおこなうクセがついてしまったこと。
 すなわちそれは 《自我》という用語を持ったことによって 《わたし》が 内部分裂してしまうとは言わないとしても わが自己還帰にとってきわめて不可解な道筋をたどらざるを得なくしてしまっているのではないか? 

 自己到来すなわち《われがわれに還る》というときのわれは ほかの誰れでもなく《わたしはわたしである》というその我れであることに決まっています。
 それを わざわざ《自我に目覚める》だとか 《自我の確立が弱い》だとかといった遣い方において表現するクセがついたことによって 果たして《わたし》は どこにいるのか? どこに行ったのか? といぶからなくてはならない情況を生んでしまった。

 こんな《自我》などという自己確認は おそらく日本人には なじみづらい。自我はせいぜいが 自己主張がつよいとか わがままを押し通すとかの意味合いにしか映らない。したがって世の中は 《自我を確立して――アマアガリして・またはアマアガリしたと同じ気分になって――街を颯爽と歩くアマテラス族》とそのほかのスサノヲ市民一般とに分かれてしまった。

 これら二分された人びとのあいだで 話が合うかと言えば なかなか合わない。けれどもこのように世界が二分されるというのは ただひとつの原因すなわち《自我》などという用語を 日本語では持ってしまったからではないか? 不必要で余分な分裂であるのではないか?
  
 アマテラス公民圏とスサノヲ市民圏との二階建てなる構造は その歴史も久しい。けれども 元はと言えば 両者はじつは じつの姉と弟どうしである。と神話はおしえる。それが 階層に分かれているとすれば その問題だけでよいはずだ。
 《自我》なる問題を余分につけ足してしまっているのではないか? おまけに今ではその検証がなされ得ないと考えられている《無意識》なる仮説も いまなお・どうしてなのか からまっている。

 ひとことで言えば アマアガリ・シンドロームと 自我ないし無意識症候群とが からまってしまっている。ほどくにほどけなくなってしまって われわれのあいだのコミュニケーションは 絡みに絡まってしまった。



 いざ われこそはゴルディオスの結び目を解くアレクサンドロスなりという方 またはそうでない方 ご見解をお示しください。
 

A 回答 (16件中1~10件)

客観的に自我を内省することは、自我を一旦脱ぎ去って一段上から見つめるものだし、


教育はそのことを奨励すべきこととして教え込み、
内省により克己できたものが、さまざまな競争に勝ち残ることで社会内で優位な立場を得る
すなわち高い評価を受けると"アマテラス公民圏”(?)を得、
居心地のよさから段上にとどまり、内省は自身の自我ではなく、他社の自我に対して向くようになる
低い評価しか受けれないものは”スサノオ市民圏”(?)、に残され
アマテラス公民から、自我の内省と自我について厳しい精査を受けることになり、逆に段上を忌み嫌うようになる
階層の分離により階層内でその性向は深化し、
段上では徐々に自分自身の自我の内省を忘れ、段下はさらに自我の内省を怠るようになる

自我の問題はいつでも存在し、それゆえ内省もいつでも必要だが、
その実現する場である社会が、両者の分離と対立を生み、他方の立場に立ち返る機会と意味を喪失して
元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった

ということではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 えいちあーるえすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。また 初めまして。

 そうですね。
 もし《自我》という概念があるとして考えをすすめるなら およそ分析しまとめられたかたちに あるいは なるのではないか? そういう情況に到っているのだと。
 しかも この情況は いちど問題が解かれてしっくり行く状態になったとしてもそのあと おそらくつねに現われて来るように思われる。アマテラス公民およびスサノヲ市民のそれぞれあたらしい役者に代わって行っても 次から次へと同じような情況に到る。
 なぜなら《自我》は つねにそれ自身の《内省》を必要としているが 人間はそれほど小まめにそのことにかかずらわっていられないというようなズボラなところがあるから。と。
 その情況というのは
 ★ ~~~
 自我の問題はいつでも存在し、それゆえ内省もいつでも必要だが、
 その実現する場である社会が、両者の分離と対立を生み、他方の
 立場に立ち返る機会と意味を喪失して
 元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった
 ~~~~~
 ☆ という状態である。賽の河原での石積みとまでは言わないとしても 元の木阿弥に落ち入るおそれがつねにあるのだと。

 なぜでしょう? どうしてなんでしょう?


 質問者としてわたしは その理由と原因が
 ○ 自我
 ☆ という用語にある。と考えてみています。なぜなら次のように考えます。

 ○(自我という用語は 要らないという問題) ~~~
 1. わたしの《内省》は わたしの思惟や行動について わたしが内に省みることである。

 2. わたしの思惟や行動は あくまでわたしがおこなったものである。

 3. たとえ仮りに言ってみるとしても エスなる衝動やらそれを抑える超自我やらこれらをまとめる自我が――もし仮りにはたらいたと言うなら そうだとしても―― 考えるのは《わたし》であり それを発言や行動に自己表現するのも《わたし》です。

 4. じんかくは ただひとりほかの誰れでもない存在である《わたし》のことである。

 5. 表現の自由にともなう答責性(説明責任)を負うのは――自我でもなければ超自我でもなく――この《わたし》でしかありえません。

 6. エスが無意識の内にはたらき――魔がさして―― この悪さをいたしました。・・・このように文学が仮りに表現したとしても それは 内省をつかさどる哲学にとっては何の意味も持ちません。仮りにそうだとしても この無意識の動きもエスも 思惟と行動なる自己表現としては《わたし》がおこなうコトであるからです。

 7. エスだの無意識だのと言っていては 何を寝ぼけたことを言っているのか? と返されるのが落ちです。

 8. ★ 元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった――☆ 《内省》というコトが入っていると まともな命題であるように感じますが じつはこの命題の意味は どこにもない。いま こう言おうとしています。それは あるはずのない《自我》をどういうわけか・どういうかたちにおいてか 扱っているからです。

 9. 《自我》などは どこにもありません。あったら 出して欲しい。対立しあうものごとの板挟みになっているとき そこから最終の判断をするのは 仮りに小説家が《自我》という言葉を使ったとしても それは実質は 《わたし》であり せいぜいその細目は《わたしの意志》です。

 10. 《自我》と言うと わたしは何だか自分の存在やまた具体的な自分の志向性に気づかされたような感覚を覚えたりするかも知れないとしても それは ただただ《わたしが わたしである》自己到来をまだ果たしていなかったと言うに過ぎません。

 11. 人は《われに還る》ことはあっても 《自我に還る》ことは じつは 金輪際ありません。それなのに どう錯乱したか この言葉を使っているし 使いたがっている。
 ~~~~~~~~~


 ★ 内省により克己できたものが、さまざまな競争に勝ち残ることで社会内で優位な立場を得る すなわち高い評価を受けると"アマテラス公民圏”(?)を得、
 ☆ おそらくここには・つまり《内省により克己できた》という事柄には ふたつの類型があると考えます。

 ひとつは 自我とは関係なく《わたしがわたしである》自己還帰を成し遂げたふつうにまともな場合です。ふつうに相手の言うところをどこまでも聞く。そうして 自分の考えをも話す。という対話ができるその《わたし》が出来ているという状態です。

 そしてもう一種類の類型があると考えます。それこそ《自我》を・ということはおそらく欧米人に見られるような所謂る自己主張を自由に妥当性のある内容を発言するかたちでおこなうその社会性に目覚めたというようなまづ《わたし》をかたちづくったときに 
 ★ さまざまな競争に勝ち残ることで社会内で優位な立場を得る すなわち高い評価を受ける
 ☆ ということであるかと思われます。
 何のことはない。この《わたし》は・つまり《自我》にかかわって形成されると見られるわたしは せいぜいが《声の高い・声の大きいわたし》であるしかないのではないか? つまり押しの強い性格を作り上げたというだけのことではないか? 勉強を人一倍為して おそらく社会に認められるまでは 品行方正なのだと見られます。でも 押しの強い性格を作っただけなのではないか?
 そうでなければ もっともっと国の全体のことを考えて アマテラス公務員の仕事をするはずではないか? 一部だけが そうしていないのだとしても その一部が 全体を支配しているのではないか?

 ★ 内省・・・の実現する場である社会が、〔* アマテラス圏とスサノヲ圏との〕両者の分離と対立を生み、他方の立場に立ち返る機会と意味を喪失して
 ☆ しまうのは おかしい。すでにさとりを開いた人間が また 畜生や餓鬼に堕してしまったのか?
 ですから
 ★ 元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった
 ☆ と言うのとは 微妙に違ってそれは 《自我》を人間形成にかかわる概念として間違って採り入れてしまったことに原因はあるのではないか?
 ○ 元の課題であるべき《われが われに還る》の内省の本質を見失ってしまった。あるいは
 ○ 元の課題であるべき《〈わたしがわたしである〉わたしが わたしする》という自己表現の方程式を見失ってしまった。
 ☆ のではないか?

 と言うよりも 《自我》なる用語をただ棄てればよい。だけではないか?
 わたしがわたしに立ち帰りそのわたしの内にわたしを返り見ればよいだけではないか?



 ★ ~~~~
 階層の分離により階層内でその性向は深化し、
 段上では徐々に自分自身の自我の内省を忘れ、
 段下はさらに自我の内省を怠るようになる
 ~~~~~~
 ☆ おそらく《段上》すなわちアマテラス公民圏では たとえ一部であったとしてもその一部が全体を支配するまでにのし上がった状態において 《わたし》の内省を忘れてしまうのでしょう。

 《段下》すなわちスサノヲ市民圏では おそらく――中には怠惰な人間もいるでしょうが それよりも問題は ふつうに勤勉でまじめな中間層が―― 上のアマテラス圏の腐敗によって おのれの心をも腐らせてしまっていることに問題はありはすまいか?

 あるいは 腐敗を取り上げるまでもなく とにもかくにもアマテラス圏は いわゆる無謬性の神話を持っている。持っていた。自分たちは すぐれて《自我》の確立した人間であるからあやまちを侵すことはないという思い込みを持っていた。
 この自家中毒のようなアマテラス者の思い込みが スサノヲ市民らにとっては どうすることも出来ないかたちで立ちはだかる垂直壁となっており あるいはまた開けられ得ない重石であり蓋となっていた。

 ですから 《自我》よさようなら! 自我なる用語は忘れたい。

 そうしてアマテラス者の不可謬性なる神話がくづれて行くなら フタが取りはづされて スサノヲ市民がよろこぶことは元より アマテラス者じしんも 何ものか憑き物のようなものから解放されるのではないでしょうか?




 前身の質問でもある次の設問でのやり取りをつうじて 上のような認識を持つに到っていましたので その地点から出発するといったかたちで お応えすることになりました。あしからずご了承ください。
 【Q:スーパーフラットってやっぱ天皇制と関係ありでは?】


 
 さらに自由な対話が展開されることを心待ちにします。

お礼日時:2012/02/01 10:53

こんばんは。



日本人の品位ですか。私は、平仮名が面白いと思いますね。
>いろは歌
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならん 有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に例えたものである。

中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい。」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。12世紀の高僧、新義真言宗の祖である覚鑁(かくばん)は『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は『涅槃経』中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。<wikipediaより

日本人の言葉の原点でもあり、とても興味深いですね。

私は、平仮名が日本人の心を表しているのではないかと思います。何よりも繊細で美しく、文字の形、空間全てにおいて優れていると思います。丸くかわいらしくも書け、気品があるようにも書けます。其の成立は、紀貫之の土佐日記でしょうか。文字を見れば人格が分かるとも言われますし。文字が綺麗な人は、美人度が増しますね。日本人なら誰でも、平仮名が好きなのではないでしょうか?昔、○文字等も流行りました、今は、絵文字でしょうか。昔のことですが、英語のスペルを練習した時、平仮名の感覚で書いていました。英語も丸くなっていましたね。最近の若者がパソコンの影響で文字を書かなくなるのではないかと心配しています。私は、平仮名は、追求すれば芸術としての価値があるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ひらかなですか。むろん 漢字の草書体から来ていますよね。つまり 漢字ですね これも。

 以 → い
 呂 → ろ
 波 → は
 仁 → に
 保 → ほ
 部 → へ
 止 → と

 いやみではなく これをも言語記号つまり文字にしたというところでしょうか。

 ★ 12世紀の高僧、新義真言宗の祖である覚鑁(かくばん)
 ☆ この名を聞いて なつかしかったです。かつておやぢが この真言宗に浄土宗を採り入れた教義をつくった人のことを しきりにわたしにおしえようとしていました。バンの文字も 特徴的なので 忘れがたいものです。あまりそれについて勉強はしませんでしたが。


 ○ スピリチュアルなことを好む人
 ☆ の質問では うるさがられてついにブロックされてしまいました。人生何が起こるか分かりませんね。
 しづんでいます。
 というのは どうもつよく出なかった。きついことは言わなかった。相手が こちらをぼろくそに貶めているところを あまり反撃しなかった。これがいけなかったのかと思ってのことです。
 人生どう転ぶかわかったものではありませんね。


 ご投稿 ありがとう。

 あたらしい質問が出て来ず 放ったらかしにしてありました。

 いまのところ このまま さえないかたちですすみます。

お礼日時:2012/02/08 23:22

こんにちは。



まだ閉められないようなので。
★ 西洋と東洋の違いは、人間の心が何処にあるかという考え方の違いでしょう。
 ☆ 考え方やまたその自己表現の仕方に違いはありましょうが でも 人間存在として互いに同じでしょうし そして心も――潜在性としては――やはり同じだと見てもよろしいでしょう。なら 次の一手は なにか?
 どうでしょう てふてふさん。

私は、苦しんでる全ての人に(西洋、東洋関係なく)楽しみを教えてあげればいいんだと思います。歌、仕事、勉学、娯楽等文化でしょうか?ブラジェロンさんは、会話だとおっしゃるんですね?では、人を楽しくする会話ではどうでしょうか。

それから、品位のない言葉を使う女性が日本にも多くなったようですね。私から数々のご無礼に対し謝っておきます。日本人として恥ずかしいです。これも西洋化のせいかもしれません。まあ、スピリチュアルが好きで、男性に何か偏見があるのでしょう。ブラジェロンさんに少し親しみを感じられたのでしょう。私は、怖かったですが。

それでは、失礼いたします。
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この回答へのお礼

 てふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 てふてふさんは やさしい方なのですね。人の気持ちをおもんぱかって 自己表現をしておられる。

 スピリチュアル好きの人は わたしは男性だと思っていました。いまもそう思っています。女性なんですかねぇ? いま質問が挙げられていますから そこで分かるようになるかも知れません。

 ★ まあ、スピリチュアルが好きで、男性に何か偏見があるのでしょう。ブラジェロンさんに少し親しみを感じられたのでしょう。私は、怖かったですが。
 ☆ ただし この《怖かった》は てふてふさんにして その相手に同じように恐れをあたえるかも知れませんよ。まっ 冗談で済むようなことだとは思います。


 ★ ~~~~~
 私は、苦しんでる全ての人に(西洋、東洋関係なく)楽しみを教えてあげればいいんだと思います。歌、仕事、勉学、娯楽等文化でしょうか?ブラジェロンさんは、会話だとおっしゃるんですね?では、人を楽しくする会話ではどうでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ なるほど。文句ありません。申し分ありません。たとえ意見が違っていて口論になったとしても そのやり取りがたのしいというような対談になるとよいとわたしも思います。
 気の置けないというのでしょうか くつろいでいつつ しかもそのたのしげな雰囲気の中で何かいたづらをされてしまわないかとさえ思わせるような時間の過ごし方を共有する。


 おっしゃるように
 ★ 品位
 ☆ の問題とそして たのしさを《メリット・デメリット》で測るというクセの問題 これらがありましょうか? 《西洋化》にかかわって。




 閉めるのはいつでもできると思っていると そのまま放っておいたままになっています。まだ閉めようか決めていません。
 

お礼日時:2012/02/06 16:47

>もしわたしの文章を見るのもいやであるという場合 次の手続きを踏まなければならないでしょう。



いえ、特に嫌とも何とも思っていませんが。話がかみ合わないので終わりというだけのことで、特にそれ以上の関心事もありません。
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この回答へのお礼

 あらためて 了解しました。

 反吐が出るということでしたので 念のため おたずねしました。

 ひとつの段階として 一件落着と受け取ります。

 ていねいに答えてくださって ありがとうございました。

お礼日時:2012/02/03 23:59

解説ありがとうございました。

補足欄を読むと、返事を求めてらっしゃるのかなという印象ですが……正直、何を言ってよいのかわかりません。

まず議題については、すれ違ったきりです。揶揄ではないと言うが、私に対する揶揄ではないにせよ、精神分析に対する揶揄ではあるのでしょう。どうぞご勝手にとしか、いいようがありません。これ以上、何をお話しするべきですか?

次に、あなたの自己解説についてですが、ご自分が枠組みを超越し、預言者であるとお考えになりたいわけです。しかし私の受けた印象は、精神分裂病なのではないか?というものでした。
仮にあなたが、普通を超える知識があるのに上に立たずに、下の目線と同等に下っていくのなら、あなたは人格者なのかもしれません。だが、様々なものをバカだアホだと罵倒している。しかし、多くの場合、失敬ながら、知ったかぶりのようにも思われる。具体的な話にはならない。したがって、私には誇大妄想の類に思われるのでした。

さらに、あなたにとってコミュニケーションがシンクロすることである一方、私の方は、コミュニケーションをシンクロとは考えていません。もっと合理的なものだと考えています。大体、ここは質問欄ですから、そういったスピリチュアルなことをする場ではないと思います。そういう意味で、場違いなところに顔を出したようだと感じています。
そして、あなたにとって、これはどういうメリットがあるのか、さっぱりわかりません。ネットでこうやって対話することは、一時、あなたにとって快楽かもしれません。しかし、長い目で見ると精神を蝕むことではないか?と思っています。前に書いたように、仮に病気の疑いがあるとすれば、それを悪化させるのではないかという恐れがあります。

上記の理由で、中断というより、応答しようがありません。

この回答への補足

 もしわたしの文章を見るのもいやであるという場合 次の手続きを踏まなければならないでしょう。

 1. わたしのもうける問いが ひとつに哲学上 質問になっていないか もうひとつにここの規約上やはり質問として成立しないか どちらかを証明すること。

 2. わたしの文章についてその例示をも挙げつつ これこれの理由においてそれは ひとに危害をあたえるおそれがあるといったふうに 証明すること。

 3. いづれにしても 完全には論証できないとしても わたしにこのような設問およびやり取りをしないほうがよいと説得しきること。



 そうでなければ 表現の自由・言論の自由をうったえます。

補足日時:2012/02/03 21:53
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この回答へのお礼

 分かりました。

 きちんと対話していただきありがとうございました。

 


 ★ さらに、あなたにとってコミュニケーションがシンクロすることである一方、私の方は、コミュニケーションをシンクロとは考えていません。もっと合理的なものだと考えています。
 ☆ 《合理的なもの》だとは考えても思ってもいませんが――つまり 人間と人間との話し合いであると思っているのみですが―― 《シンクロ》だとも考えていません。

 そもそも《シンクロ》とはどういうことか。わたしは 使ったことも同世代の人たちから聞いたこともありません。その意味で 未体験のことばです。
 そしてすでに説明もうしあげたごとく そのことを意図してもいません。
 さらにまた
 ★ そして、あなたにとって、これはどういうメリットがあるのか、さっぱりわかりません。
 ☆ この《メリット》という言葉も まづわたしのあたまの中にはありません。

 これで言わば《メリット人間》といった類型に 三人ないし四人会ったことになります。いづれも フランス関係というところも 共通です。これは ただ印象をのべたのみです。




 ★ 大体、ここは質問欄ですから、そういったスピリチュアルなことをする場ではないと思います。
 ★ ~~~~ 
 補足欄を読むと、返事を求めてらっしゃるのかなという印象ですが……正直、何を言ってよいのかわかりません。

 まず議題については、すれ違ったきりです。
 ~~~~~~

 ☆ このあたりに従って考えるに どうもまりえーめさんご自身が 《スピリチュアルなことをする場》を求めていらっしゃる。そして わたしは そのようなことを意図しても目指してもいないということ。このことが明らかになって
 ★ 議題については、すれ違ったきりです。
 ☆ という内容の中間のまとめが出て来ている。


 まづ問いは
 ○ われわれは 魂が去勢されていましょうか?
 ☆ です。
 そして 具体的な論点としては あなたの場合なら

 ○ 《自我》という用語を用いることに何の問題もない。哲学にとっても きちんとした概念である。

 ○ ムイシキも 活きた概念である。精神分析も 治療としての科学である。問題ない。

 ☆ ということになると思います。
 ということは けっして《すれ違って》はいないのです。それ以上は 議論をすすめないという方針である。すすめるのなら 《スピリチュアルなことをする》かたちでなければいけない。というようなご主張である。

 以上が わたしのほうからの中間のまとめになります。




 質問者は 相手の土俵にまですすむべきであるという考えにのっとるなら あなたがその《スピリチュアルなこと》について解説し その内容をもってこの問いに取り組まなければダメだということを示してくだされば それで話はすすむでしょう。
 でも 表面上は そのことも《場違い》だとおっしゃるわけですから たしかに質問者としても 《正直 何を言っていいのか分かりません》という言葉がついて出て来ます。


 こんなところでしょうか。



 再再考のすえ 
 ★ 前に書いたように、仮に病気の疑いがあるとすれば、それを悪化させるのではないかという恐れがあります。
 ☆ この評言について おまえの評言をつけなさいと言われているのかなぁ。
 では こうお応えしましょう。
 あまりにも度量が大きく広いので たいていの病気も わたしの心は つつんでしまいます。
 ただ 一時的に休息に専念する必要のある状態にあるときには わたしの心もおよびません。


 これで あらんかぎりの愛でお応えしえたかと。

お礼日時:2012/02/03 09:39

補足要求だと考え、投稿してきたのですが、何か違うことになっていますね。

フロイトと私を重ねて、揶揄していらっしゃる。しかし、私はあなたをカウンセリングしてあげる気はないのです。そういう場でもありません。

強いて言えば、あなたの書いた台詞「それは まったく同じことを裏返して フロイト先生にお返ししましょう。あなたは おそらく思っていないでしょうが」以下が、もっと説得的に書かれていれば、私も納得したかもしれません。しかし、あなたがお書きになっていることは、単なる一般論で、私に当てはまる理由はありません。つまり私の言葉などを分析した箇所がありません。

そして論理的に大きな欠陥があるのです。仮に私が「なるほど、私にも無意識はあると思いますよ」と認めてしまったら、どうなるのでしょう。実際のカウンセラーはそのような話し方をします。カウンセラーになる前に、精神分析をしてもらった上で、何が自分の無意識にあるかを知っていますから。すると、なしくずし的に、あなたも認めなくてはならないのではないですか。私はカウンセリングする気が無いので、私のことについては何も書きませんでしたが。

あなたが考えている程度の反論は、あなたの頭の中では効果的なようですが、現実では、ほとんど意味が無いような気がします。それよりも、他の方の投稿をみましたが、あなたのシンクロする形の議論は不評のようですね。それも依存症の気があるようです。というのも、私の方で嫌だと言ったことが、他の方とのやり取りでおきているわけですから。
ともあれ、あなたは、こうやって様々なものとシンクロし、ぐちゃぐちゃに絡み合わさって、自ら、ゴルディオスの結び目を作っているようです。男根主義の問題と書きましたが、それとは別で、シンクロをやめる、というのも、一つの提案しうる解決方法かもしれません。

あなたは、意識のあり方に一言あるようですね。しかし仮に「自我」という考え方に少々の問題があるのだとしても、あなたのように自我を持たず、あらゆるものと、ぐちゃぐちゃと絡まっていくような状態は避けたいと思うのが一般的だと思われます。結局、どういう道具にも、一長一短があるという一般論が、これにも当てはまりそうです。どちらが嫌かと言われたら、シンクロ状態が生み出す欠陥の方が嫌かもしれません。見知らぬわけのわからない人との区分がつかないのでしょう? やはりそれは嫌ですね。ネット特有の自我の持ち方なのかもしれないな、と思っていますが、少なくても、私には馴染みがありません。

そして一つ聞いてみたいのですが、あなたはシンクロしたくない相手などいないわけですか。誰にでもこうやって、まとわりつくのですか。その選別などはないのですか。これだけはどうしても嫌だ、っていう何かがあったら、教えていただきたいのですが。それとも、あらゆるものとシンクロしなければならないという信条でもあるのでしょうか。分析したいというより、特異な精神状態をお持ちの方に対する好奇心から生じた質問ですが。

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ☆☆ コミュニケーションの放棄 これが嫌です。文字通り 《話にならない》。

 ☆ 一たん中断するとことわれば だいじょうぶです。

補足日時:2012/02/02 23:32
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ フロイトと私を重ねて、揶揄していらっしゃる。
 ☆ これは そのように見えるかも知れませんが 初めから違います。揶揄するつもりはありません。あくまで精神分析論批判が つらぬかれています。
 ただし じっさい途中から分かったことは あなたもそのまま精神分析の手法を使っていた。その姿が見えた。ということではあります。

 そしてこの手法――根拠のないムイシキに逃避することができるような仕組みになっているその手法――を批判しているのであって あなたの個々の論点とその扱い方に対しては必ずしも揶揄も批判もしていません。ゆえに 次のようになります。
 ★ しかし、あなたがお書きになっていることは、単なる一般論で、私に当てはまる理由はありません。つまり私の言葉などを分析した箇所がありません。
 ☆ でも ムイシキを背にする背水の陣とその戦法は 途中で使っておられたようです。


 あとは二点 反応します。
 ★ カウンセラーになる前に、精神分析をしてもらった上で、何が自分の無意識にあるかを知っていますから。
 ☆ ちらっと聞いたことはありますが なるほどそのように誰もがカウンセリングを受けているということですね。と確認のみです。


 ★ そして一つ聞いてみたいのですが、あなたはシンクロしたくない相手などいないわけですか。
 ☆ 掛け値無しに申しますが 度量がおおきいということです。
 わたしは鐘であり 相手が撞木で撞いてくるその度合いに応じて 鳴り響く。あるいはわたしは鏡であり 相手の文章を・つまりその中身を わたしはそのままわたしの応答の文章において 映す。こういうふうに説明して来ました。

 ★ 誰にでもこうやって、まとわりつくのですか。その選別などはないのですか。
 ☆ 一般に・つまりはこのような質疑応答の場であるかどうかを問わず一般に 次のような姿勢でいます。という説明も成し得ます。

 ▼(パウロ:コリント前書 9:19-22) ~~~
 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。
 できるだけ多くの人を得るためです。

 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。
 ユダヤ人を得るためです。

 律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、
 律法に支配されている人のようになりました。
 律法に支配されている人を得るためです。

 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に
 従っているのですが、
 律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。
 律法を持たない人を得るためです。

 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
 弱い人を得るためです。
 すべての人に対してすべてのものになりました。
 何とかして何人かでも救うためです。
 ~~~~~~~~~~~~

 ★ これだけはどうしても嫌だ、っていう何かがあったら、教えていただきたいのですが。
 ☆ コミュニケーションの放棄 これが嫌です。文字通り 《話にならない》。

 ★ それとも、あらゆるものとシンクロしなければならないという信条でもあるのでしょうか。分析したいというより、特異な精神状態をお持ちの方に対する好奇心から生じた質問ですが。
 ☆ 《信条》は すでに書きましたが ただしこれは 特別に意図を持って・つまりはそのように《はからひ》として ふるまっているのではありません。意識している心つもりがあるとしたら それは 話し合いをするということ どこまでも自由で対等な話し合いをつづけるということ これです。
 
 ▼ わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。
 ☆ このくだりですね。この表現がわたしにとって意味するところは――文字どおりの意味内容とはちがって―― 相手と自由で対等なかたちで話し合いをおこなうということです。
 (なぜそうなるか。これは 論証し得ません。信仰という動態としてそのように過程されて来るといったところです。
 おそらく《奴隷になる》という意味といくぶんでも対応する場合というのは こうです。相手が ここの場に例を取って言うなら アラシ屋さんであった場合 それ相応に売られた《けんか》を買うというところでしょう。売り言葉に買い言葉を返しますから)。

 あとは 相手と向き合ったときの 言うなれば 磁場 これが決めて行くでしょうね。どのように鐘として鳴り響くのか どのような透明度で鏡として相手の姿を映すのか こういったことは そこで成り立った人間関係〔としての磁場〕が決めて行くものと考えています。つまり わたしは話し合いをするという心つもりのほかは 何にも考えていません。能天気です。エポケー人間です。

 ▼ すべての人に対してすべてのものになりました。
 ☆ というような結果に実際になるということ このことを わたし自身も心得ておりその情況をもわきまえているつもりですが それを意図してふるまっているわけではありません。結果として そうなると捉えています。

 こんなところでしょうか。
 

お礼日時:2012/02/02 22:29

回答(どちらが質問しているのか分からなくなります)読ませていただきました。


回答で割愛されたこと自体はそれぞれほぼ近しい理解であり、
回答で書かれた自我とわたしについては、まだ合意に至っていない
と理解してよろしいでしょうか?

自我とわたしについては、この解答で書かれている内容なら、真逆な感じがします。
最初のお礼に対する回答で実は、私の中であなたの書かれた自我とわたしの理解が逆だろう
と思って返答しましたので、ここで更に逆になると、これ以降の論議で
言葉の定義であのときああだった、このときこうだったという、
説明の仕方がとっても煩雑になりそうで、掲示板でやる談義にはなじまない気がします。

私としましては、質問様が思っていらっしゃることに多少ならずとも共感を覚える面があって
もう少し聞いてみたいかと思って、自分の考えを書いてみたのですが、
ここまでの議論で、おおよそ理解したいと思ったことは判った気がします。
たぶん、自我とわたしの厳密な区分けをするのは、上で書いたように煩雑ですし
区分けができたら、おそらく”同じ事を言っていた”と気が付くだけの気がします
(そうではないでしょうか?)

わたしの質問に対する回答は、まとめますと。
生まれつきであろうが、生まれた後に習得したものであろうが
どちらか一方に拘ることは、価値観が変動する時代においては危機的な状況を生みかねない
その安穏とした地位にとどまることなく、もう一度内省して、個人として、社会の一員として
考え直すべきであろうということです
自我を忘れ去るのも、自我にこだわり続けるのも一方だけでは片手落ちです
おそらくわたしに関しても同じで、質問者様がわたしに立ち戻れと言われたいのは(この書き方は
正確ではありませんが、ここではこう書かせてください)その一方だと思われます
自我があろうがなかろうが結果的には、全てを総合的に把握した後に考察/内省して、必要なら
行動すべきだ(すみません、すごく当たり前のことしか言ってなかったですね)

ということです。もう言葉の定義すらあやふやなため、これ以上に泥沼につかるような正確な議論をしたいとは思いません。(これも煮詰まったということでしょうか?)
もし上の考え方を質問者様なりに理解されて、表題の疑問になんらかの貢献ができるなら、それで
私としては十分です。私のほうも必要なお話はいただきましたし、他の方との議論も参考になるかと思います
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 自我ないし精神分析の問題になりますと あたかも親の仇というほどの闘志をわたしは燃やしますので その点 あぁ そういうものかとでも取り扱っていただければさいわいです。

 そうですね。意外と(?) 同じ方向を向いていたようですし 具体的に話し合っても それほどの違いはないように思われます。今回まとめていただいた中身としましても 特に違和感はありません。



 ただしそれにしましても わたしは《自我》という言葉があるだけでおかしいと思っています。

 ちなみにここの別の質疑応答をちょっと覗いてみます。
 たとえば次の見解を取り上げたいと思いました。

 ▲ (あ)(自我とはへの或る回答) ~~~~
  【Q:「自我」という言葉をどう解釈してますか。】その回答No.3
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5419157.html

  自我とは、この世に誕生してから自分自身を自分以外の環境や人と
 区別し、自分は存在する事を認識する事から始まる意識の事ではない
 でしょうか。
  当然その自我は家族の愛情や躾・家庭環境により様々に成長する事
 になります。
   これは自我を植物の生長する姿にたとえると分かりやすい気がし
 ます。人としての真っ当な自我を形成するのは、複雑な要素が絡んで
 おり、その人が持って生まれた個性・才能・障害も自我に大きな影響
 を与えると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふつうにまじめな回答内容ではないでしょうか? そしてそれは《わたし》のことだと言っていいように思います。

 次のような簡単な回答も見られます。
 ▼(い) (同上・回答No.5) これが自分だ、と、自分で思っている自分。かな?

 次のような見解はどうでしょう?
 ●(う) (同上・回答No.7) ~~~~
 「わたしが、わたしである」
 「わたしは、あなたではない」

 そういった感覚を持つということの理由付けのために、西洋哲学も、仏教も、アトヅケの説明しかできないでしょう。。。

 「わたしが、わたしである」という観点から離れないで、いや、そこにこそ、立脚点を保ちつつ、思索を広げたのが西洋哲学的な論考だと思います。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 引用は 途中で切り上げました。これなどは 《自他の区別を言う。そしてその区別について 何だかんだとさらに後づけをしたもの》が自我だと言います。つまりは 大きく言って《わたしとその飾り》説のようです。

 もう一件引きます。
 ■(え) (同上・回答No.8) ~~~~
 ちなみに、広辞苑で「自我」を調べると。

 [哲]
 認識、感情、意思、行為の主体性を外界や他人と区別していう語。
 自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体を含めて言う場合もある。
 [心]
 意識や行動の主体を指す概念。

 と書いています。大分分かりやすいのでは?
 質問者の考えている、「欲」みたいな意味は含んでいないようですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは (あ)からずっと見渡して けっきょく《わたし》のことだと わたくし(=ぶらじゅろんぬ)は思っています。

 
 考えてみますと こうしてやり取りを重ねて来たところ たとえばいま上に引いた質問でのやり取りをさらに確認することが出来た。全体として捉える視点をも持ち得るところまで来れた。こう言えるかと思います。けっして無駄ではなかったはずです。


 もしおっしゃるように 自我とわたしとがまだ異なっているとしたなら おそらくそれは 《わたし》がより広く全体――つまり存在ないし人格の全体――を表わす概念であるのではないかと思います。あとは 部分的な機能や内容として重なるということではないか? 
 ちょっと大雑把すぎるかも知れませんが 方向としてそのように見ました。


 おぎないやら さらに新しい視点やら ありましたら 述べてください。
 あらかじめながら 感謝申し上げます。ありがとうございました。

 さらにほかの視点もありうるかと思いますので もうしばらく開いています。

お礼日時:2012/02/02 16:44

>《魂が去勢されている》と表現したとき 原義にまつわる生殖つまりはその器官やら行為やらを連想させますか? 《魂》について 生殖がかかわると思いますか?



答えは、absolumentです。しかし、あなたは、去勢という語と生殖が関わらないことは自明とした上で、私が勝手に深読みしていると言いたげです。テキトーなことを言わないでください。あなたが勝手に作った用例なんでしょう? そんなことを斟酌してくれるのは、厳密な議論をする気が無い人だけでしょう。
それから、ご存じないようですが、精液と魂の関連付けは、前々からあったものなのです。ライプニッツなど、そうですよ。精液=理性であり、女性は理性を有していないのだそうです。他では、原始的な民族では、部族の英雄の精液が生命力の象徴として珍重されているようです。
こういうわけで、あなたは全然自覚しないうちに、自分の元の意図とかけ離れた言葉を選んで書いてしまっていたようですね。これを無意識が入り込んだと説明することができます。つまり、無意識のうちに、精液だとかペニスに対する信仰のようなものがあって、去勢という言葉を選択してしまったのです。そうとしか、あなたの今のご説明では、解釈のしようがありません。

他に、「――でしょうか?」と聞いてらっしゃる。フロイトとラカンを罵倒していることだけは理解できましたが、その根拠も何も、書いていませんね。無意識が証明されないから?アホでバカであると。ところが、あなたはエスとリピドーはあると思っているらしい。奇妙なことです。それも同じように論証できないものじゃないでしょうか。こうなると、ご自分の好みで、あれはある、これはない、ということを仰っている程度の議論です。

>という反論をわたしがして あなたが聞けば どうなりましょうか? このひと言で済むと思うのですが どうでしょう?

私の引用をして、それをオウム返しに言うということのようですが、対話の仕方として、はっきり言って、かなり気味悪いです。自分と他人の区別がついてらっしゃらないという類の、何か病的なものを感じます。
あなたのお話しでは次の理屈が、何回か繰り返されています。――相手が言ったことは、自分も考えていた。自分が言っていることは、相手はすでに考えていたはず――話の共通点を探るというより、あたかも、相手を模倣して、鏡になろうとしているかのような印象です。対話というより、相手とシンクロして行こうという印象です。もっとバシッと、ご自分で自分の考えを説明することはできないのでしょうか。こういうところが、傷を舐め合っているみたいで、私には不毛なファルスを生やす儀式をしているように思えます。

しかし私が気味が悪いという以上に、あなたにしてみても、あまりやると、自分自身のアイデンティティが見失われ、病気になってしまいますよ。しかも私だけではないのでしょう。相手は、ネット上の顔の見えない相手で、不特定多数です。一々、シンクロしていたら、精神が離散してしまいます(まぁこれが精液を散布しているイメージで、自己破壊的な快楽になっているかもしれませんが、ともかく精神病の一歩手前にまで行ってしまいます)。私はその加害者の一人になるのが嫌なので、もう投稿しません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 こうです。
 Freud: あなたは思っていないようですが つまり意識はしていないようですが でもムイシキにおいては 精液は理性のことです。理性と言えば 魂にまでつながります。ですから 魂が去勢されているといった表現を使うなら あくまでムイシキにおいては あなたはそういったことを感じていて思ってもいるということなのです。

 bragelonne: それは まったく同じことを裏返して フロイト先生にお返ししましょう。あなたは おそらく思っていないでしょうが つまり意識はいていないと思われますが でもムイシキにおいては 無意識ということは あなたのそもそもの願望が仕舞ってあるところなのです。ですから たとえばこうやって 相手を患者と見立て 自分をそのカウンセラーとして 話をつづける。そのような話し合いをとても望んでいるということでしょうね。中には 転移や逆転移ということもあって そのような物語を体験することが 幸せに感じるということなんでしょう。というよりも けっきょく人はムイシキなどという問題はあり得ないのに あなたが自分の趣味を試すために・それによって満足を得たいがために わざわざ世間の人びとを患者として招いているのです。これは あくまでムイシキにおいてあなたがそう感じているし思ってもいるということなのです。

 Fr.: いや そんなことはありません。それは あなたの見当違いです。わたしにそんな趣味はありません。

 br.: いえいえ フロイト先生。これは ムイシキの問題なのです。ムイシキで起こっていることについては 自分にとって都合がわるいと思えば 誰でも否定してみせるのです。これが セオリーです。いま先生は セオリーどおりの反応を見せましたね。どうですか? 偉大な理論でしょう?





 こんなやり取りを繰り返すおつもりですか?
 と言っても もう尻尾を巻いてお隠れのようですが。

お礼日時:2012/02/02 13:48

丁寧にお礼をどうも。

「去勢」の語の説明ですが、都合のいいように段階を作っているようにしか私には見えませんでした。というのも、あなたの言う通り、語源の生殖にまつわる意味と、そこから派生した疲労の意味が分離しているのだとしたら、一般的に、「私は打ちひしがれた」という意味で、「私は去勢された」という表現があっていいはずだからです。そういうことは、私の知る限り、用例がありません。議論を説得的になさりたいのなら、用例をあげてみてください。

私の精神を反映しているということですが、これは見当外れ、ないしは、分析が大雑把過ぎます。こういうことを言い出せば、たとえば、あなたはサディストですね、と指摘した人は、皆、サディストということになる。サディズムを理解しているということと、当人がサディストであることは別であるはずです。それをいっしょくたに混同しているのは、実に奇妙な理屈に思えます。

精神分析的な話し方が、対話として不毛であるという指摘がありましたが、私はどうだか知りません。結局お書きになっているのは、無意識の存在を否定したというだけのことで、その理由も、統計も示されていません。したがって、何ら説得性をもつものではありません。
しかし、傍から見れば、あなたは自覚なさっていないが、(すでに私が述べたように)非常な男根主義者であるようです。ところが、あなたは違うと否定なさっている。この事例で、私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした。無意識である以上、当人は自覚することができず、「え?そんなことはない、おまえの深読みだ」と否定するものです。あなたの反応はセオリー通りです。

あなたからの反論が具体的に効力をもつものではないと思えた場合、――言い換えると、たんにあなたの好みの問題だと思えた場合、これで私は失礼したいと思います。自分のことを客観的に分析することをしない方とお話しをすることは難しいと考えるからです。
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この回答へのお礼

 まりえーめさん ご回答をありがとうございます。

 ふたつ応答があります。

 ★ ~~~
 あなたの言う通り、語源の生殖にまつわる意味と、そこから派生した疲労の意味が分離しているのだとしたら、一般的に、「私は打ちひしがれた」という意味で、「私は去勢された」という表現があっていいはずだからです。そういうことは、私の知る限り、用例がありません。議論を説得的になさりたいのなら、用例をあげてみてください。
 ~~~~~
 ☆ 考えてみれば あなたのおっしゃるとおり 比喩として派生した《去勢》の用法は――原義と比喩義とを切り離すためには―― その主語を人間としてだけ持ち出すだけでは 意味を成しがたい。ということのようですね。
 《あなたは ひどく落ちこんでいるようですね?》という意味で 《あなたは去勢されているようですね?》とは言えません。もっとも《あなたはまるで去勢されたみたいですね?》と言えば よいようなのではありますが それも慣用にはなっていません。

 ということは このいまの表現は わたくしが勝手に造ったものであるかも分かりません。そんな気はなかったのですし またそうだとしても どこかでそういう言い回しを読んでそれをそのまま使ったに過ぎないとは思います。

 ですが どうでしょう? 《魂が去勢されている》と表現したとき 原義にまつわる生殖つまりはその器官やら行為やらを連想させますか? 《魂》について 生殖がかかわると思いますか? 
 そうは思われないのに わざわざこれを使った(もしくは造った)ということは 故意にかかわらせて用いたということではないのか? こうおっしゃりたいのでしょうか?


 一つ目の反応は これでおしまいです。これで全部です。全部吐き出しています。


 二つ目の反応は しかしそれにしても あなたも物分かりがよいようでいて にぶいところもあるのですね?
 このひと言で 終わりと言えば終わりです。

 ★ ~~~~~
 私の精神を反映しているということですが、これは見当外れ、ないしは、分析が大雑把過ぎます。こういうことを言い出せば、たとえば、あなたはサディストですね、と指摘した人は、皆、サディストということになる。サディズムを理解しているということと、当人がサディストであることは別であるはずです。それをいっしょくたに混同しているのは、実に奇妙な理屈に思えます。
 ~~~~~~~
 ☆ という反論をわたしがして あなたが聞けば どうなりましょうか? このひと言で済むと思うのですが どうでしょう?

 そのあと
 ★ 無意識である以上、当人は自覚することができず、「え?そんなことはない、おまえの深読みだ」と否定するものです。あなたの反応はセオリー通りです。
 ☆ というやり取りも 続きましょう。つまり攻守ところを代えて 冥王星にまで行って帰って来ても まだ延々と続けられていることでしょう。それを 精神分析は おろかにも おこないつづけています。
 だから 目覚めてくださいと言いました。

 ★ 自分のことを客観的に分析することをしない方とお話しをすることは難しいと考えるからです。
 ☆ これが 精神分析が根拠無しに担保に取っているムイシキという徳俵です。ずばり言いましょうか。あなたでさえ このフロイト-ラカン流のあほばか状態の論理に完全にイカレてしまっていませんか?




 * 《情欲のない生殖》というひとつの命題をご存じでないですか? ましてたましいについてなら魂は エスもリビドーもすべて つつんでいます。だいじょうぶです。自由自在という意味です。

お礼日時:2012/02/02 11:36

●"了解(同意)"について


 そのようには書きましたが、推測を含んでいてあまり自信ありませんでしたし、今もまだ十分には
ありません。(言葉が少しづつ違っているのでどうしても仮定が含まれてしまいますので)

●"矯正された自我"について
 私の自我に対するここでの捉え方は、何はなにかは分からないが人間生きていくうえで何かしら持つ
指針を「自我」と意味づけ、それが客観的な見地から省みる「内省」によってもともとあった「自我」
曲げて(よく言えば軌道修正して)「矯正された自我」という指針を行動規範として生活していくという
主張の文脈上のものです。

●"生まれながらにしての自我"について
 そんなものがあるかどうか、確かめようもありませんが、生きている以上漫然と生きているだけなら
環境に淘汰される確率が高く、腹が減ってご飯を食べるから始まって、生きていくうえに必要な特定の
作業・動作をするなど習慣などから意識するとしないとに関わらず、何がしらどちらかの方向を向いて
生きているはずで、それを意識し始めた瞬間に自我になるのではないでしょうか?ですからあると思え
ばあるし、無いと思えばないいわしの頭です。”天命を受けて生まれた”という自我もありえましょう
が、普通の人はそんなことを意識しませんし、私なら無いと言うだろうと思います。(その意味で自我
がない点で同意できているというのはそうですが、私はその自我を喪失していることを嘆くことに意
味はないと考えます。)

●"自我を信じる"について
 多分、この部分は比喩がうまく言えてなかったと思います。あくまでも上で書いたように、自分の
行動する仕方や考え方にこれこれのような癖があるということの潜在性向を、意識してもちはじめれる
ように「仮定」したものが「自我」なのかと思うのです、仮定するって、結局信じるか信じないかと
近いと思うのですが、これは私だけの感覚なのかもしれません

●"自我が余分なもの"について
 役に立たないものではないですが、必ずしも最善な選択をもたらすものではないと思います。書いて
きたように「内省」をするには必要な座標軸のようなものですし、「内省」を行う前の「自我」も認め
ず「内省」による「矯正された自我」も役に立たないから捨ててしまったら、その後何に基づいて生き
るのか?あなたの主張は「矯正された自我」=《わたし》に基づけということなのでしょうが、「内省」
がうまくいったかどうかを評価するためには元の座標軸である「自我」に照らし合わせるしかないです
もし他人の《わたし》なるものを観察して自前に取り入れようとするなら、その行為はある意味、
スサノオ市民圏の人は全員、アマテラス公民圏に鞍替えしろと仰っているのと同じだと思います
それは、あなたの、私が推測するだけですが、言いたいことと相反しませんでしょうか?

●"人間的な資本主義"について
 これの言葉の意味が分かりかねます。資本主義は資本を人に群がらせることを動力として動くエンジン
ですから、人間をよりよく動かすためには、燃料であるお金をできるだけ小出しにするほうが得策です
たくさんいっぺんに出せば、短時間でとまってしまいますから。
人間のほうは資本主義に幻想を抱かず、しかし生きていく手段として適応的に対処するしかないだろう
と思います(これ以上の明確な論は私にはできませんが)
こっちのほうが、《自我》なんかよりもっとあやふやな幻想のような気がします
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この回答へのお礼

 えいちあーれすさん ご回答をありがとうございます。

 まづ おわびしなければなりません。
 ★ ● "人間的な資本主義"について  / これの言葉の意味が分かりかねます。・・・
 ☆ これについては 中身のうすっぺらい議論しかし得ていませんでした。わたしの間違いです。

 資本主義となれば――つまり《主義》となれば 全部の思惟と行動がそれに従うわけですから―― 
 ★ ~~~~
 資本主義は資本を人に群がらせることを動力として動くエンジンです

 人間のほうは資本主義に幻想を抱かず、しかし生きていく手段として適応的に対処するしかないだろう
と思います(これ以上の明確な論は私にはできませんが)
 ~~~~~~
 ☆ に同意します。

 少し添えますと: 

 ○ (資本志向について) ~~~~
 1. ふつうに勤勉な思惟と行為の形式を 資本志向と言うとすれば その《資本》とは 個人のものも社会のものも含めることができます。

 2. あるいは 人間と人間との関係とその構造的な成り立ち――つまりは 分業かつ協業の社会――のことをむしろ《資本》と呼ぶとよい。

 3. この社会的な資本の拡大をも視野に入れているとは思いますが 勤勉をその自己目的としてがむしゃらに励む場合は ガリ勉になると考えます。つまりは ガリ勉の資本志向が 資本主義になると。

 4. このガリ勉資本主義をさらに引っ張って行く金融資本が《活躍》するようになる。うんぬん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 資本主義の動向は それ自体にまかせるほかないといったふうに受け留めると思います。それと同時に 《ゲリラ作戦》のごとく ふつうの勤勉にとって自由で風通しのよいものにする工夫もあってもよい。こういう趣旨でした。すみませんでした。




 ○ 自我
 ☆ についてですが 全体として考えるに えいちあーれすさんは どうも人間の持つ《理念》のことであったり あるいは 《ちょっとした理想の人間像》というふうな内容として捉えておられるのではないですか?

 でしたら これは そのように言えば通じますし 全体として《わたし》のことだとさえ思われます。
 えらそうに言いましたが 一般には《衝動としてのエスをそれを抑える超自我があると見て これらのエス(無意識)と超自我とのあいだに入って仲を取り持つ役目が 自我である》というものだと思います。そして この役目の自我なら それは《わたし》であり わたしの《意志》であると言っていました。


 ○ 《わたし》
 ☆ では物足りないということだそうですが これはまづ 生まれつきの――記憶や知解や意志といった三つの行為能力を内容とする――自然本性のことです。ただし 生まれたままでは育ったとしても まだ社会性がないことは元より おそらく自分としての自覚がありません。
 つまりは 《わたし》は 《物心がつく》ときのわたしです。そして 人はやがてウソをついたりしてへそを曲げるに到りますが もしあやまちに気づいたなら その気づきにおいて《われが われに還る》。ですから この《われ》も 《わたし》です。
 さらには親から始まって 自分とは違う人間の存在に気づく。いわゆる他者です。この他者との関係において みづからの存在に自覚したわたしは 社会性としてのわたしにも自覚が芽生えます。
 といったことではないでしょうか?
 
 どこにも《自我》の――それとして特別なかたちで――入る余地はありません。
 自分の自覚や 他人とのかかわりにおける自分の自覚 こういった《わたし》に いま少し 《自信》をつけようと思うなら わたくし(=ぶらじゅろんぬ)の考えでは そこに何も飾りをつけることはなく 初めの《わたし》をうんうんと推して行けばよいのだと言っています。わたしの自乗を繰り返すのみだと。
 おそらくこのとき えいちあーれすさんは なにがしかの《信頼しうるものや 信じられるもの》があるとよい。こういう発想になるということのように思います。それを《自我》と呼ぶのだと。


 この課題については ふたつの反応をします。 
 ひとつは いや飾りはいっさい要らない。かえって飾りがあると 《わたし》は弱いのだ。なぜなら その飾り――肩書きやら名声やら――があると それに依存してしまうから。


 もうひとつは 信仰というちからです。《わたし》を超えたところの《非経験のナゾの場》あるいは これをわが心に受け容れたときの《非思考の庭》 これが 《信じる》といういとなみだと見ます。
 これは あくまで一人の人間の《主観》の問題だと思います。むろん 良心・信教の自由というように まったく自由だと思います。
 そして ここまでくれば それは《自我》ではないでしょう。

 というふうに分析しましたが 果たして いかがでしょう?
 煮詰まってまいりましたでしょうか?



 * お書きになっている事柄の一つひとつに個別にしっかりとは 応答しませんでしたが 総論として成り立つと思いました。どうでしょう?

お礼日時:2012/02/02 11:08

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