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私の母は 80歳で、認知症です。

子の務めとして、「親の人生を全うさせてやりたい」 のですが、
そんな状態の母、果たして それは彼女の望むところなのか
私の一人よがりなのか・・・


私は、独り身の甲斐性無しで、今50歳です。
両親は、父83歳・母80歳。 母がダメです。

父はシッカリしてますが、母の認知症を受け入れきれず 始終怒ってばかりいます。

この先、私は両親の面倒をみなければなりません。
今まで育てあげてくれた恩を感じており、両親を最期まで看取る覚悟でいます。

でも、ボケてしまった母、私が尽くしてるコトは全く認知できてません。
(私がダレだか判らない・・・というまでには至ってませんが。)

私は、ボケていようが、「親の人生を全うさせたい」 のです。
親に、「ありがたがれ!」・・・などとは全く思ってません。

そこで質問です。

「人生を全うする」 とは、具体的にどういったコトを成し遂げた場合に言えるコトでしょうか?

「ボケた親の人生」 、この先 私はどうすれば 「全うさせた」 ことになるのでしょうか?

A 回答 (12件中11~12件)

難しい問題ですが、人間の尊厳をそこなわないということに尽きると思います。

これは他人が感じるのか本人が感じるのかという境界を超え、客観主観の線引きはできないでしょう。
人間は社会性を備えることによって人間なのであって、ヒト科なりにヒト科らしい生態というものがあります。世話をされ世話をしの関係性のなかに育って生きて死んでいくのが人間ですから、その関係性を維持できる生活環境の保全が、全史全地域をとおして人間の重要な主題であるにちがいありません。倫理学と日本語に訳されますがethicsが扱う領域とはそうした主題のうちにあります。

姥捨て山の物語ように老人の世話を放棄しなければ子育てが出来ない生活環境というのは、実際、文明の袋小路の1つの現実でもあり、山の寒村でなくとも産業革命の大都会ロンドンに起こった社会の暗部でした。楢山節考の老婆は矍鑠と自己の意思をもっている点で民話に深遠な奥行きを与えていますが、食い扶持が足りないという事態は近代文明においてはむしろ労働生産性がないことによる無価値化のほうへシフトします。
つまり家族や地域で抱え込めないという視点によっていたものが、生産消費社会の歯車たりえないという視点にずれこんでいくのですね。はたして人生の意味合いも変わったのでしょうか。そこでは老齢のみならず精神障害者の家族という問題も浮かび上がってきました。

今日、少しでも役に立つ軽作業を、あるいはわずかであっても生活習慣の自立を、と高齢者や障害者のアイデンティティをサポートする思潮になっています。わらじが編めても孫が抱けても煮炊きが出来ても山に捨てられるような状況とは社会事情が違います。人生をまっとうするなんて立派な事を言ったなら、職能と関わりない手芸や技巧を弄んだり福祉の手に引かれてお便所まで歩いて行ったりする昨今の老人のレゾンデートルがよくわからなくなりそうですが、、、
いえいえ、幸福な時代の証ですね。人間の価値が、生存の労働と生産のくびきから放たれて認められるということは。赤ちゃんが、清潔に身支度をととのえてもらい、食べ物を与えてもらい、全身全霊で遊ぶように、人間はただ心地よく眠りと排泄と栄養をととのえて遊ぶ存在になって終わることができるようになったのでしょうか。そうかもしれません。しかしながら、集団保育よろしくハンで押したような遊びを押し着せる社会はむなしいと言わねばなりません。

やりがい、という高度な精神の遊びを奪わないようにと細心の注意をはらいながら、たとえ認知症でも、短期記憶のわずかな隙間において、目の前のことにやりがいがあり、また、長期記憶の深淵において、消えない火のようなやりがいがあるものです。社会的生な生を営む能力のもっとも肝心な、本来的性質であるとわたしは思います。
結局、世話をし世話をされという人間の基本に立ち戻って、世話をする方の社会性もされるほうの社会性も殺さないということは、やや奇妙な姿に帰結するようなのです。する方は物質的に目も手足も捕らわれていますが、される方は何某かのやりがいを満たすべき精神的存在なのです。
注意すべきこととして、これを転倒した発想はいけません。すなわち、世話をする方にやりがいを満たす精神性があって世話をされる方に物質的用途を満たす存在価値があるなどという誤解をしないことが重要だと思うのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。


たとえボケてしまってても、「消えない火のようなやりがいがある」
・・・たしかに そう思います。

それを感じ取り 引き出してやれれば、彼女の心も満たされるハズです。

などと意識して彼女に尽くすのは、やはり転倒した発想なのか?
世話してることに満足を得るという・・・。

そこには、ボケた本人の「意思」が無いわけですから、
こちらからの「押し付けた世話」は、「お節介」でしかありません。

本人の希望がわからないまま、良かれと やってやるコトを、本人はどう受け止めているか?
本当にわからなくなっています・・・。

お礼日時:2012/02/02 21:07

基本的に人生は、他人が全うさせてあげるものではなく、自分で全うするものではないでしょうか。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに おっしゃるとおりです。

でも、「全うさせる」意識が無くなったボケ老人は どうすればいいのでしょう?

もはや、そんなコトを考えさえもしないでしょうけどね・・・。

お礼日時:2012/02/02 20:42

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