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もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください)
大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか?

いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

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A 回答 (19件中1~10件)

悟りを開くと云う事が、如何いうものかを書いてそれから、説明してみます。

悟りを開く事を他の言葉で言うなら『見性』です。自分の性を見るという意味ですが、その意味を科学的な文献から解き明かしたいと思います。

人間には二つの人格が備わっていますので、科学的な文献を載せてから説明します。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”


この研究はその後余り進んでいないように見えますので、残念と思います。

右脳の人格は左脳に存在する『自我意識』にはかなり分かり難くなっています。全く判らない場合に『健常者』と言う風に呼んでいます。

右脳の人格は『命そのものを働かせている者』です。人間の命の働きは、ある程度細分化出来ますので、もし細分化をするなら、概略三つに区分けする事が出来ます。

それは人間の、『身体に対する命の働きと、行動に対する命の働きと、心に対する命の働き』と言う風にですが、本当の意味ではそれらの三つには境目が在りませんから、全ての大元では共通点が在ります。

その共通点とは『心の矛盾』です、心が騒がしく争っていると言う意味です。具体的な言い方をするなら『生き難い想い』或は『一切皆苦』或は『漠然とした不安や、何処から押し寄せているのか分らない正体不明の心的な圧迫感』です。

人間の命は命として芽生えた瞬間から『働き始めています。』初めての働き始めが細胞分裂ですが、この働きを働き始める事を知っている働きが『命そのものの働き』です。

生まれてからは、誰も教えなくとも、安心する事も、不安になる事も、更に云うならば恐怖する事さえ知っている働きです。心臓の打つ数も、呼吸する数もホルモンや消化系等や排便する事も全て承知している働きです。

暑い時には汗が出る仕組みそのものや、心的には涼しい所や、水の在りかを探すように『自我意識に』指示さえ出している働きです。ですが健常者の場合では、今書いたシステムに何の疑いも持つ事が在りません、この疑いがない姿を聖書では『天国に住んでいる』と形容しています。

人間の脳の機能が大人になる頃から『人間は全てを疑う場合があります。』この現象を『失楽園』と形容しています。

二つの脳の機能が上手く同調出来ている場合の事です。天国に一番近い存在は『幼子』と言われる由縁は、脳の機能分化が進んでいないために、未だ一つのものとして働いているからです。

脳の機能分化の完成を待って始めて『人間は天国から追放される事』を意味します。この意味は『心が二つの機能になることで、争いがはじまるという意味です。』

つまり知恵が付いたために天国から追放されると言う意味は、『心が分裂をしたり矛盾を起したり、対立する事』を意味します。おもに思春期頃の事です。

人生がなんであるのか?や、自分は何者か?と言う疑問が湧き始めるころの事です。この疑問を抱き始める事によって『失楽園』と言う表現方法を取っています。

この疑問の解消方法が『悟り』を意味します。それは自分自身に疑問を抱かせていた者の正体を知る、と言う意味になります。つまり自分自身の感情を湧きあがらせていた者の正体が『自分自身であった事を知る』と言う意味です。

もっと具体的な表現方法を取るなら『死に対する恐怖感』と言う書き方をすると分かり易いと思いますので、この線で書いてみます。

普通の状態で『死』を意識した場合に、恐怖感が湧き上がります。この恐怖感の正体が何であったかを知る事が『見性』と言う意味です。

人間の心に不安や恐怖感が湧き上がる場合では『二つの意識が戦っていたり、矛盾を起しています』この意味は、『意識の根底で二つの意識は、脳梁を介して情報交換をしています』この情報交換に、ある場面で『自我意識が、感情が湧き上がる情報の受取りを拒否する場合です。』

もっと平たく言うなら『死に対する不安や恐怖心が芽生える場合では』人間の心は『永遠の命を希求しています』この事実が、心の矛盾です。

自我意識は有限の身ですが、右脳の人格は永遠の存在だからです。有限の身である自我意識は『永遠の存在である右脳の意識=仏性や神としての存在によって、』永遠を希求させられています。

右脳の働きは分り難いので、実際に右脳の人格を体感している動画が在りますので、載せてみます、その後でもう一度説明します。


URL:


この動画から汲取っていただきたい事は、『自我意識が全てではない事』です。もう一つの意識によって、自我意識は支えられている事です。

貴方が質問している事にお答えしたいと思います。


『いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。』


禅宗の記録を読んでください、禅宗では、悟りを開く事がその修行の全てに近い事を示しているからです。死の恐怖に怯える事からの開放を示しているからです。

禅宗では、見性した場合では『生死の問題が解決した』と言う表現方法を取っています。その意味は『死に怯えていた自我意識は、永遠の存在である右脳の働き、命そのものの働きに出会う事によって、有限のこの身の存在が、朽ち果てたとしても、自分は元々永遠の存在であった事を身を持って知る事を意味します。』

この永遠の存在との出会いを見性=悟りを開くと表現しています。そうして自我意識が二度と、右脳の人格の前にでしゃばらなくなると言う意味です。

キリスト教であっても同じ事を違う表現で言っています。『神と和解して、神の僕となる』と言う表現です。

釈迦の悟りは禅宗では、連綿と伝えられています。そのテキストの価値を書いて終わりにします。

右脳の意識は『言葉を持っていない事が特徴です。』右脳の意識を引き出す事が出来れば『見性』出来ることを意味します。

そのためのテキストとは『禅問答』です。禅問答は左脳の自我意識では、歯が立ちません、これは脳の機能的な問題です。

その理由は禅問答は右脳の人格としての機能が出て来ないと解けないように仕組まれているからです。

鬱と言う場合でも、神経症としての強迫行為も恐怖症も、自律神経失調症としての症状も、『心の矛盾』を症状として感じています。正に意識地獄の状態です。一切皆苦になっていますので、その症状を起こしている意識との出会いで『完治する事』を意味します。


それは『意識が発生する丁度、正にその時の事です。』その体験以後では『心の矛盾が解消しますので』もう二度と心同士が争う事がなくなりますので、寛解ではなくて、完治した事を意味します。

言葉にするなら、右脳と左脳の間にホットラインが開通する事によって、いつも心が静まり返っている事を意味します。仏教的な表現方法では『涅槃』です。
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ちょっと乱暴な言い方になりますが、


悟るとは自身の内面について「気が付く」ということです。
社会的に何を成し遂げたかという条件が必要になるものではありません。

そうした観点からすると、ブッダと同じ悟りを啓いた人は
たくさん居る「とされています」。ただ、その心的メカニズムを
片っ端から解き明かし、後世のために説明し尽くしていた
最初の人という「敬意」をこめて、ゴータマ・ブッダを固有名詞としている
場合が多いだけです。

とある経典にはブッダの直後に十大弟子という方々もいらっしゃいました
「と書かれています」ね。経典の内容を信用するなら、
彼らはすべからく悟りを啓いているはずです。

自らの精神の解明がどれくらい進んだかと言う意味では、
彼らもブッダです。

イエスキリストもブッダと同じような境地に立った「という人も居ますし」、
クリシュナムルティなどもそう「だとされています」。

あくまでも内面的なお話なんです。

ですから名前を知られていなくとも、真にブッダと同じ境地に立って
人々のために頑張り続けた人も居る「でしょう」し、もういいや人の中で生きるのとか
めんどくさいし…と思って隠居してしまった人も居た「可能性も多々あります」。
もともとブッダも悟った直後は人知れず消えてしまいたかったのだとか。

そして真に「悟りを啓いた」人たちが相対したときには、
おそらくは真理についての話が彼らの間で通じ合うのでしょう
…ということしか僕には言えません。

では、たくさん居たはずなのになぜ表に出てこなかったのか?
それは彼らなりの理由があったのだろうということでしょうね。

何故かと言うと、彼らは基本的に建設主義者だからです。

「悟り」と言う言葉を出すことにデメリットを感じればおそらくは
自分の境涯を伏せるという選択を取る事もあるはずです。

たとえばサラリーマンがいきなり悟っちゃったとしても、上下関係や
限りない発展とかいう欲望や怒りや迷いが渦巻く社内では、
いきなり「皆平等だ」などと言ってもいいことありませんし。

まぁそんなこんなで、「悟りを啓いて、説く」というのは、
何時でも何処でも大変だったと言うことなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私用によりしばらく離れておりました。数多くのご回答をいただきましたので一度閉めたいと思います。
皆さんの回答は全て拝見しました。また機会があれば再度質問させて頂こうと思います。

お礼日時:2012/03/14 20:50

さとりを啓くということの意味が、本来、他者から認定してもらうような質のものでないということから類推すれば釈尊以降仏陀がどれくらいいたかというのは誰も分からないというのが本当のところなのではないのかな?


仏陀というのは目覚めた者、さとりを啓いたものという意味からすれば言葉の定義上、仏陀以外にさとりを啓いた者はいないということで言葉遊び的にはいいのではないでしょうかねw

それでも、世間にはいたる所に道標があるということは確かにそこを人が通った形跡を示してはいる



ところで
さとりって何?
さとりを啓くってどういう意味?

かな..


全ての人は悟りを開ける
言いかえると
全ての人はさとりを啓く可能性は持っている

はて..
この言の葉の
何が間違っているのかな?

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No3です


1-私自身は釈迦は悟っていないと思います。
悟っていない人間がどおしてここまで大きい影響力を持ったかについては、弟子たちの力が大きのではないかと思います。

幸○の科学という新興宗教の教祖は、自分は釈迦の生まれ変わりだと言っています。
100%ウソですが、日本だけでも、60万人くらいの信者がいるそうです。
また選挙でも、幸○実現党というのを掲げて、選挙を行いましたね。
また彼は自分の子供も洗脳しています。
一人の詐欺師でもこれくらいのことができます。

昔であれば、魔術、悪魔などが信じられていたでしょうし、今でも、未開の人たちは、病気は悪霊の仕業であるといって、シャーマンなどが活躍しています

その時代にマジシャンのセロなんかいたら、神様扱いされていたのではないでしょうか。
それ故、釈迦も人を信じこませるものに長けていたのかもしれません。



2-釈迦自身は自分ではなんにも書き残さなかったわけですが、弟子たちが私はある時、尊師がこういうのを聞いたと言って、それをまとめたのが仏典なわけですが、インドの中でとどまっていえば、ここまで広がらなかったのでは?と思っています。

その後、中国に渡ったのが大きかったと思います。

中国人によってかなりの解釈が付け加えられたことが大きかったのだと思います。

また、政治的に仏教はかなり利用されましたし、それによって人々に広まったのではないでしょうか。

今ではインドで仏教徒の数はあまり多くないそうです。
釈迦はヒンドゥー教のうちの一人でしかないという扱いだそうです



3-またこれはあくまで私個人の考えでしか無いのですが、ある種の薬物などを、釈迦も弟子たちも使っていたのではないかと思っています。

昔なぜ薬物を使った人は、ある種の宗教的体験と似たものを経験するのか?
(空海も明星が口の中に入ってきたとか言ってますし)
とおもい、薬物の本を調べたところ、昔から聖なるキノコと呼ばれるキノコが、その地方にあったそうです。

幻覚ー幻聴などを引き起こすもので、釈迦たちも森ー林で生活していましたし、一度くらいは分かってか、分からずかは分かりませんが、食べたことがあるのではないかと思います。



食べたあとに瞑想などをしていれば、幻覚などによって、神秘的な体験をしたと思い、悟ったと思ったのかもしれません

あと仏像などを見ますと、半目の状態が多いですが、あの目は薬物中毒患者と同じものだそうです。
薬物をやっているかどうかは、目を見るとわかると書いてありました。

まあ、3については、あくまで私個人の考えです。
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ANo.5です。



悟りを開くと言う事は、かつて釈迦世尊が見たものと同じものを見て、同じものを味わい、同じ事に同意するという事です。そして、それが「ブッダ(目覚めた人)になる」という事なんです。

前回の回答で名前を挙げたブッダ達が、一体何を見て、何を味わい、何に同意したのかは、敢えてここでは書きません。何故なら、それは私があなたに教えて差し上げる様な事ではなく、あなたがブッダ達の教えを学んで、自ら気づくべき事だからです。

良い勉強をしていれば、悟りを開いた仏弟子達は、何も真新しい事を説きたがっている訳ではなく、むしろ一番最初に真理を説いた釈迦世尊が言及していない事の補足をしたり、異なる視野からの説明をしている事に気づく筈です。既に法は説かれている訳ですから、今更全然違う事を説く必要なんか、どこにも無いんですよ。

仮に釈迦世尊の様な存在が再び現れる日が来るとしたら、それは仏教や過去のブッダ達の教えが完全に滅びて跡形も無くなるか、原型をとどめないくらい破壊された時です。でも、その時に現れるブッダも、結局は釈迦世尊と同じ様な事を説く訳です。

何故そう言い切れるのかと言うと、仏教のブの字も無い国で悟りを開いた人も、結局は釈迦世尊と同じ様な事を言っているからです。尤も、大変にオリジナリティ溢れる表現を用いている事が多いので、本物か否かを判断するのは難しいですけどね。
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まずは悟るの定義ですが、例えば単に「自分のバカさ加減を悟った」などというような類のものであれば、ほとんどの人たちは悟っているかと思われますが、もし、その悟るという言葉の字体が表している立心偏に吾(われ、おのれ)、つまり、『心』=『吾』であるということを覚知すること、それは『心』こそが本当の自分自身、つまり本質であって、鏡に映る肉体はその所有物ではあっても、決して自分そのものではなく、その肉体を見て自分と認識している心こそが自分自身そのものであるということに気付いた人を悟った人と定義するならば、そのような人はさほど多くはないでしょう。



例えば、このことに気付いた著名人としては、かのデカルトがいますが、それは『我思う、故に我有り』という有名な言葉を残していますが、それで肉体というものは、運動する機械と捉えて、その本質である心がそれを操作するということで、早い話がアニメのガンダムのモビルスーツとパイロットの関係を思い浮かべてもらえば解るかと思われますが。

結局、人は目に見える物を以ってしてしか判断しない傾向性があるので、事実存在するのに色も形もない心が自分自身の主体であるとは考えられず、鏡に映る客体を(その心が認識しているのにも係わらず、その点に気付かず)主体として捉えてしまって、本末転倒しているのが実状で、つまり、本当の自分ではない無常の肉体に執着して、その挙句苦悩を生じてしまっている。その反対に色も形もない心こそが本当の自分自身と気付けば、元々、色も形もないが故に肉体のようにいずれ朽ち果てることもなく、常に存続する。つまり、我々自身は本来、永遠なる存在であるということに確信が持てるようになり、それで、いわゆる生老病死を克服することができるようになる。

つまり、真に悟って理解した人間というものは、必然的に四苦の苦悩から離脱できるようになり、いわゆる、これが解脱ということになるかと思われます。

ともかく、自分が永遠の存在で、時には肉体を所有したり離れたりしての生死、生死を繰り返しながらの面白おかしく生活(生命活動)していくことこそが、我々の真の実態であると気づいている者は、やはり多くはないでしょうが、ブッダ(目覚めた者)は確実には居ますから釈迦の教えは妥当でしょう。
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No1 お礼ありがとうございます。



>第二のブッダになる以外にも悟りを開いた状態というのはあるのでしょうか。


「自分には悟ることができない」という悟り。

自己言及のジレンマをかかえていますが,

悟りというものは,論理的に難があるものだと思っています。



悟っていないものが悟ろうとする。

そこには悟りの可能性が前提としてあった。

ところが,修業の末,前提が否定される。

悟りの実在性は,期待が生み出した幻影であった。

そういうことに気付いたのである。

心理に目覚めたのである。

心をくもらせていたものが晴れたのである。



箒で掃ききることができないことからの類推で,

心の塵もなくせないと気付いたときに,

逆説的に,心に塵がなくなったのである。
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人々は、善は善であると考え、善が悪である事をしらない。

美は美であると考え、美が醜であることを知らない。・・・と(ヘー:ゲルの弁証法?が書いてある)のは、昔読んだ「老子」の第2章でした。
先日時間潰しに、本屋に立ち寄った折り、「老子」という小誌が目に入り、ページをめくったら。

第一章 道は道にして、常の道にあらず、 とあり、困った事に?道、に(みち)とふりがな、がついていました。後の無は激 有は嬌、との考え方は省かれ。自己解説が述べられていました。
そして。第2章 に続いており。2章は省かれていました。
かつて理解出来た者がいない。難解な哲学、と言われる。老子の第1章、の具体的説明、が
第2章 なのです。マスコミ、インターネット、スマホ。など情報が氾濫し。多弁に智なし。情報も量が増えると質が低下するものなんでしょうね。一月ばかり前になるのか、テレビで、原発事故の検証報道をしていましたが。解った風のキャスターが、格納容器の圧力は8気圧に達そうとしていた。ベントを必要としていた。などと言っていました。8気圧、は高い水道管の圧力なのです、そんなもので格納容器が破裂する訳がない。800気圧の間違いでは、ぐらいは、しゃべりながら気づくべき事ではないのか、日本の文系? 解ってない者が、知識や原稿、で。解ったふりをして人に話す、という問題、を感じさせられました。 

ブッダ以外に悟りを開いた者はいないのか。
悟り、の意味が、釈迦の世界観、事象に対する、他に追随を許さぬ考え方、(それ故にブッダ、(目覚めた人)と呼ばれたのでしょうが)を会得している。という意味であるなら。
先ほどの「老子」が、全く同じ、と言えるような、考え方、です。
老子が解る者は、釈迦はわかるでしょうし。釈迦の考え方が解っている者は、「老子」は理解できます。

悟り、とは何か?は。善とは、愛とは、美とは、などと同様。妄想にしか結び付かない、空論になります。善とはを知るには、善と一体、となっている。ものを知らなければ。善を知る事は出来ません。

善は善である。善=善 では 善-善=0 を空想する事でしかない。何も起こらないのです。

善という認識が一つの存在となるには。

善×(1/善)=1 となって。一つの認識単位となる。

そしてその(1/善)は悪と名付けられる。
 
善と悪は、善悪、という。一つの認識の表裏である。裏がなければ表はない。表がなければ裏はない
。善と悪は等価であり一体のものである。善=悪であり。
善×悪=1(いっ) なる存在(=認識単位) となる。

世界の根元的在り方もまた同様である。
道(タオ 世界を世界として在らせているもの)は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。

道=道  である それでは、1つの存在単位にはならない。1としての存在単位になるためには

(1/道)という、常でない道、が一体となっており。

道×(1/道)=1(いっ) なる存在となる。

道=有 であり 常でない道=無 である。

無、を天地の祖に名付け、有、を大地の母に名づく
もって、無はその檄(能力、方向性)を現わさんと欲し 有はその橋(色、形)を誇示せんとす。

この無を、空、と置き 。有を、色、と置き換えると

空不異色 色即是空 諸法空相 不生不滅 不垢不浄、不増不減
という、般若心経の一節になります。 多分、玄奘三蔵はそうしたのでしょう?
近年物理学が、反物質の確認、などと言っているようですが、釈迦や老子に言わせると
何を今頃、なのでしょうし。
反物質がなければ物質は存在し得ない。とはいえますが。
それは難しい事ではなく。人間は肉体×精神=1 個人 としいて存在しているが。

肉体から遊離した精神、霊魂、の存在を確認する事は出来ないのです。
精神は肉体を保持変化させる。能力、方向性、として。肉体を有らせている。肉体と一体としての存在でり。それ自体は、無、空、なのです。
それを 肉体+精神=個人 という認識を持つから、神や霊魂、などという幽霊に惑う事になるのでしょう。

長くなったついでに、誰でもさとれるか。ですが
悟りという言葉は、愛とは、善とは、と同様、一面しか見ない言葉、概念です。
漢字を創った知恵、から見ると。解脱、知る事によって脱する、自己を変革する。知っただけでは悟り、にならない。?という意味にするのもいいのかも?
しかし元々の釈迦の悟りに対する考えは。
ブーディズム。仏主義、であり。仏(導くもの)を縁として、悟り、が起こる。なのです。
仏=悟り 仏×悟り= 起こる事=新たな縁  なのです。

地獄に仏という言葉の由縁とも思えませんが?

地獄でもがき苦しむ亡者が、ブッダ、に出会った。亡者は「私は運が悪かった、もっと早く、仏、に出会っていたなら、こんな事にはならなかった。といいます。ブッダがお「そなたは本当に、仏、に出会った事がなかったのか。」と尋ねると。亡者は「ただの一度もありませんでした」と答えます。
ブッダが「そなたは、苦しみ死んでいく者にも出会った事がなかったのか」と尋ねると。
「そんな事なら何度もありました」と亡者が答えると。ブッダは
「それが、仏だったのだ。そなたは、その時、何故、自分も同じ在り方である事を悟らなかったのだ。」 と言った。

「世に仏の有るは難く、仏に出会うは難し。」が 有り難い、の語源のようですが。
誰でも悟れるものであるが。悟ろうとしないのが人の心、なのでは?






  


物事を知る、考える、とは。イメージとしての、定義された対象概念を、聞き、学び、知識、として記憶する。ではないですよね。
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NO7です。



補足します。

 1 ブッダは他の人には真似できないほどの天才だったか?
   
   答) 組合せのレア度から言えば、そうでしょうね。

 2 ブッダ(釈迦)自身は哲学者なのか
   宗教の開祖なのか?
  
   答) 釈迦在世当時も、色々な宗教があり、それぞれの
   教団に神の再来とされたトップがいたようです。
   その教えを単純に信じる人もいたでしょうが
   釈迦自身は、その教えに納得できず、理性でも
   納得できるまで真理を探究しました。
   その結果、いつのまにか自分自身が多くのことに
   答えられる存在になったわけです。
   もちろん最終的には宗教的直観によって
   普遍的真理に至っていますから
   その意味では、哲学者でもあり、宗教的覚醒者
   でもあり、したがって宗教の開祖でもあると
   言えます。

 3 仏教における神様とは一体誰を指すのか?
  
   答)仏教は神を立てません。
   というか、単純に「神」を立てて、すべてを
   説明しようとする既存の宗教教団に
   飽き足らなかったのが釈迦です。
   したがって
   神様はいません。
   当然、(本来の)仏教徒ならば、ブッダを
   神とは思いません。

 

 

   
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仏陀の「悟り」とは「超自然」なものでなく、自然なものすなわち「誰にでも到達可能のもの」ということです。

すなわち仏陀以降に無数の人々がこれに「到達」しているはずです。
「誰にでも到達可能のもの」でなければこれに憧れる理由がありません。禅宗などでは直接な表現で「われと仏陀とが眉毛を互いに結び、同じ目で同じものを見ている」状態であると言います。
ご質問の趣旨は「お釈迦様だけがなぜ特別に敬われるか」のようです。二つの答えを申します。一つにはお釈迦様が最初にこの主張をなさったことのインパクトが大きい(紙と文字が使えるようになった時代でもありそう)ことでしょう。次にはお釈迦様ほどに「人をうまく導く力(人徳)を持つ人が少ない」とされています。この教えは「理解することよりも理解させることが困難」なのだそうです。安心してお求め下さい。求めに失敗する確率は「ハンマーで大地を叩くことに失敗する確率と等しい」そうです。自然則ならば当然でしょうね。
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Q現在の日本で悟りを開いたお坊さんは何人いますか?

現在の日本で、いちおうまともな仏教なお寺・宗派に属していて
悟りを開いたとされるお坊さんは全部で何人くらいいるのでしょうか?

Aベストアンサー

どなたかへの補足で「印可」のことをお書きですが、今の「印可」はすでに形式的なものになっています。

「悟り」自体は、さほど難しいものではなく、何かの拍子に「ピン」と来た!という人は結構いると思います。
特に禅宗の坊さんなら、そう感じた人はたくさんいると思います。

ただ、みなさん、そこで「ああ、オレは悟りを得た」と慢心してしまって、そこまでで止まってしまっていると思います。
その状態で、形ばかりの「印可」をもらうわけですから、ますます、「もうこれでよい」となってしまっています。

その「ピン」と来た状態で、さらに修行を積み(何も坐禅することだけではありません)、深めていくことをしないと、「ああ、この人は立派な坊さんだ」と周囲から言われることはないと思います。

先の回答にもありますが、悟りを開いた人は、自分で「悟りを開いた」とは言いません。また、他人も「この人は悟りを開いた人だ」と明確に認めることはできません。
ただ、本当に悟りを開いた人なら自ずとそれが周囲に伝わりますし、周囲はそれをなんとなく感じて「ああ、この人は立派な坊さんだ」と思うことはあると思います。

そのように思われる坊さんは、今、まあ10人いればいい方じゃないかなあと思います。

どなたかへの補足で「印可」のことをお書きですが、今の「印可」はすでに形式的なものになっています。

「悟り」自体は、さほど難しいものではなく、何かの拍子に「ピン」と来た!という人は結構いると思います。
特に禅宗の坊さんなら、そう感じた人はたくさんいると思います。

ただ、みなさん、そこで「ああ、オレは悟りを得た」と慢心してしまって、そこまでで止まってしまっていると思います。
その状態で、形ばかりの「印可」をもらうわけですから、ますます、「もうこれでよい」となってしまっています。
...続きを読む

Q悟りを得た(とされる)最新の高僧

歴史上の高僧の中には、悟りを得たとされる人が多くいます。
たとえば一休宗純が、カラスの鳴き声を聞いてにわかに悟った、というように。

このように、悟った(と多くの人がみなしている)僧の中で、できるだけ新しい時代の人を挙げると誰がいるでしょうか。現代日本にもいるのでしょうか。

Aベストアンサー

本当に悟っているかどうかは、「悟った人」でないと判断できません。

「私は悟りました」と言う人はいっぱいいます(特に禅宗のお坊さんの中には、今現在でもたくさんいます)。
でも、「本当に悟っているのか」は、「本当に悟った人」にしか分かりません。

悟りと対局にある現世を生きる一般の人が、誰かを「悟っていると見做す」ことは不可能です。

また僧侶本人が「ワシは悟りを開いた」と言っている場合がありますが、そういうことを口にした段階で、悟ってはいないでしょう。

偉い徳の高いお坊さんはたくさんいます。
でも、「悟った人」はそうそういないと思いますよ。

一休さんの例が挙がっていますが、「高僧伝」と言われる僧侶(特に禅僧)の伝記の類には、「がれきを竹林に棄てたときのカチンという音を聞いて悟った」とか、そういうエピソード満載です。
それは、もうパターン化しているのです。
「高僧伝」に載るような人は、「何かちょっとしたきっかけがあって悟りを開いた」と書かれるのが当たり前なんです。

さすがに近代、現代の人になると、「悟りを開いた」というような直截的な文言が出てくる伝記は少ないと思いますが、それでも、「○○を聞いて歓喜おくことなし」といった、「悟りを開きましたよ」とほのめかすような表現は使われています。

こういう禅宗の「高僧伝」の類は、「私はお師匠さんから悟りの印可を得ました」ということを書いて、釈尊の教えが途絶えることなくずっと伝わってきているのだということを示そうとする、ある種の“はったり”です。

その程度の「悟り」(一休さんが「悟った」と言っているのと同じ程度)でよければ、今現在、老師と呼ばれている人(たとえば禅宗の本山の管長をしているような人)はすべて「悟っている」はずです。
つまり、後世に「昭和平成高僧伝」といったようなものが作られたなら掲載されて、「(悟りの)歓喜を得た」と記載されるであろう人たちという意味です。

一休さんとて、その程度の「悟り」だったのだと思います(もちろん、一休さんが高僧であることは間違いないのですが)。

「この人は確実に悟りを開いている」といえる人物は「釈尊」しかおらず、しかしそのことですら、我々は「信仰」の立場からそう言っているだけで、実際、釈尊が悟ったのかどうかは、我々では分からないのです。

「悟りを開いた僧」ではなく、「名僧」「高僧」「徳が高い僧」は誰ですか?といった質問なら、ある程度の個人名が出てくると思います。
(まあ、そういう人の中には、時間がたってある種“神格化”されて、話に尾ひれがついて……という場合も少なくないのですが)

長々と失礼しました。

本当に悟っているかどうかは、「悟った人」でないと判断できません。

「私は悟りました」と言う人はいっぱいいます(特に禅宗のお坊さんの中には、今現在でもたくさんいます)。
でも、「本当に悟っているのか」は、「本当に悟った人」にしか分かりません。

悟りと対局にある現世を生きる一般の人が、誰かを「悟っていると見做す」ことは不可能です。

また僧侶本人が「ワシは悟りを開いた」と言っている場合がありますが、そういうことを口にした段階で、悟ってはいないでしょう。

偉い徳の高いお坊さんはたく...続きを読む

Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Q釈迦とイエスは同じことを悟った??

釈迦とイエスは同じこと(真理)を悟った。
が、真理というものは、言葉で人にわからせることは非常に困難であるため、
あたかも二人が、違うことを悟ったかのように後世に伝わってしまった。
と、人から聞いたのですが……
そういうことなんでしょうか?

Aベストアンサー

一つの考え方としてお答えします。
悟りを開く、悟りの境地に身を置くというのは、博愛主義に目覚める――な
んてこととは全然次元の違うことです。釈迦やイエス以外にも悟りの境地に
達した人はいますが、その時知りえたことは寸分違わず時代環境を超越した
普遍の真理です。
それがどういうものであるかというと、当然私もその境地に身を置いたこと
がないので、あくまでも想像ですが、簡単にいうと、相対の世界から絶対の
世界に身を置くということです。相対の世界が虚構であることに気がつくと
いうことです。前後・左右・増減・遠近・遅速・苦楽・美醜・優劣・勝敗・
貧富から生死に至るまで、全てが虚構に過ぎないことに気がつくことです。
生死をも超越してしまうわけですから、己が永遠不滅の存在であることを実
感でき、まさに神になったように思えるのです。そしてその言動も俗人から
は非常に奇異なものに見え、神として崇拝する者もある反面、危険人物とし
て排撃される場合もあるのです。ソクラテスや老子なども悟りを開いている
と思われますが、高名心がなくなるので、悟りを開いても無名の民として生
涯を終えることもあるようです。
誰にでもその境地に達することが可能である半面、それがどういうことであ
るかを説明することは非常に難儀で、書き記すことなど不可能に近いことな
ので、多くの覚者(悟りを開いた人)は書を残していないのです。人に説くこ
とを諦めて山にこもってしまった覚者もいるそうです。
悟りを開いた瞬間というのは、まさに、雷に打たれたような衝撃を受け、そ
の歓喜のあまりに叫ばずにはいられず、釈迦は「唯我独尊」とうそぶき、イ
エスは「我神の子なり」と自負し、日蓮は「我が法の他に法はなし」と叫ん
だとか。ただ単に博愛主義に目覚めたくらいでは、このような言動はとらな
いことでしょう。

一つの考え方としてお答えします。
悟りを開く、悟りの境地に身を置くというのは、博愛主義に目覚める――な
んてこととは全然次元の違うことです。釈迦やイエス以外にも悟りの境地に
達した人はいますが、その時知りえたことは寸分違わず時代環境を超越した
普遍の真理です。
それがどういうものであるかというと、当然私もその境地に身を置いたこと
がないので、あくまでも想像ですが、簡単にいうと、相対の世界から絶対の
世界に身を置くということです。相対の世界が虚構であることに気がつくと
いうこ...続きを読む

Q《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?

 《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。

 その文章を取り上げ 二件 問います。

 ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
 ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~
 http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。
 一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。
 仏教はこころの自由は大事にします。
故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。
 人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。
 
 「救う事」は非仏教的な行為です。
 
 仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。
 
 スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。
 
 話を聞きたいと思う人には話せます。
自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。
放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。
 
 地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。
人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。
 
 仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。
 
 生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。
経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。
 終り。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 問いは こうです。

 (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?

 ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。



 ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~
  http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに
 「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。
 
 ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 A.投稿ありがとうございます。
 批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。
 しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。
 世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。
 その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。
 「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。
 キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。
 しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。
 とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。
 A.Sumanasara
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 問いは こうです。

 (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか? 
 《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?

 《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?


 テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

 《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。

 その文章を取り上げ 二件 問います。

 ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
 ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~
 http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。
 一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。


最初のQ&Aを読み、何か違和感を覚えました。
最初はその違和感を感じさせるものが分からなかった。
ですが、《驕り》を敏感に感じ取っていたようです。
皮膚感覚的に《驕り》を感じ取っていたようです。

たとえば、
「魚に陸上マラソン教えるようなものでした。」

人(私)の話を聞いて分からない奴は、ヒトではなく魚なんですよ。聞く耳を持たないような奴は、ヒトではなく魚。同じ人間だなんて考えていない。

そうした《驕り》があふれているんですよ、この文章。
まぁ~、Theravadaですから。
比丘(魚籠?)、仏教の出家者は、優婆夷・優婆塞より限りなくステータスが高い。恐れ多くて、優婆夷・優婆塞は、比丘に声をかけたり、話しかけたりしてはいけない。お話をしていただくのを待つしかない。それくらいエラいんでさ~、Theravadaの比丘というのは。


”経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。”
なんてありますが、
それは、《あなた》もなんですよ。
こうした自覚がないんですわ~、欠如している。


【誤】「救う」ことだけいたしません。
【正】「救う」ことはできません。

所詮、オシエですから、人を「救う」ことはできない!!

この文脈でならば、
☆ (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?
◇自身を救うのは、他者ではなく、自分ですからね~。自分の行為であり、自身に内在する???。摩訶不思議なハタラキ、チカラ。
そして、
 ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。
と一致します。


☆ (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか? 
 《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
◇超~上から目線ですから(ニコニコ)。
対等な関係ではないので、《仲良く楽しく批判しあう》などありえない。
何しろ、《魚》ですから、わたしたち(笑い)。
Theravadaを信じられない奴は、みんな《魚》です。
自分を人間やヒトだなんて思ってはいけませんよ。
思い上がりも甚だしい!!(笑い)

こんにちは。


最初のQ&Aを読み、何か違和感を覚えました。
最初はその違和感を感じさせるものが分からなかった。
ですが、《驕り》を敏感に感じ取っていたようです。
皮膚感覚的に《驕り》を感じ取っていたようです。

たとえば、
「魚に陸上マラソン教えるようなものでした。」

人(私)の話を聞いて分からない奴は、ヒトではなく魚なんですよ。聞く耳を持たないような奴は、ヒトではなく魚。同じ人間だなんて考えていない。

そうした《驕り》があふれているんですよ、この文章。
まぁ~、Theravadaですから...続きを読む

Q大日如来様とはどんなお方なのですか?

私は浄土真宗ですがご説教の中に大日如来様の話が出て詳しくしりたいと思いました。

もしよければ教えてください。

Aベストアンサー

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一目見た中国真言宗の最高僧が、「遅し!我、汝を待つこと久し!」と叫んだという逸話があります。

 勉学に励んだ空海は真言宗のすぐに最高位に就き、奥義や仏典などを全部日本に持って帰ったために、以後、中国では真言宗は廃れました。数年前、中国に空海像が里帰りしたような記事を見た記憶があります。


 密教では当然、大日如来は宇宙(宇宙を描く曼荼羅)の中心であり、諸仏(如来その他)も大日如来から産まれるものとされています。それ故、諸仏の王とされて王冠を被って描かれたり、彫られたりします。場合によっては装身具も身につけます。

 大本の思想は、帝釈天と戦った阿修羅系の神だそうです。ゾロアスター教のアフラ・マズダ(全生命の根源)・・・ そのものではないようですが、思想的には同系だとのこと。

 一神教は、他宗教信徒に対して「受け入れ」を求めるだけ(拒否すれば死)ですが、仏教のように平和的な宗教では、相手の言い分を認めて受け入れなければなりません。

 有名なところでは、阿修羅は帝釈天と何度となく戦った後、仏教に帰依したことになっています。これなどは、阿修羅を信じる者に、「阿修羅でさえ帰依したんだから、おまえたちも」と言うための方便だったものと思います。

 そう説得するためには、まず阿修羅の存在を認め、次に仏教の中に受け入れなければなりません。

 つまり、平和宗教というのは、いろんな宗教からの影響を受けざるを得ないのです。で、その一つが、大日如来。

 大日如来は、万物の根源であり宇宙そのものですので、かくかくしかじかの容姿であった、こう考えた、というようなことはおそらく伝わっていないものと思います。

 その代わり、というわけではないのでしょうが、金剛界や胎蔵界のそれぞれで、さまざまな仏や菩薩、明王などに変身して人々を教え導くとされています。例えば、不動明王も大日如来の変身姿の一つ(教令輪身)です。

 従って、大日如来そのものを直接知るのではなく、それぞれの仏などの教えや特徴を知って積み上げていくしかないのではないかと思います。
  

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q悟りを開くと死を超越できる?

悟りを開くと死を超越できると聞いたのですが、
死を超越するとはどういうことなのでしょうか?

Aベストアンサー

辞書によると悟りとは欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)のはたらきである迷妄を去って、真理を会得することとあります。

真理を知ることこそが死を超越すると言うことなのではないでしょうか?したがって死を超越するということは真理を知ると言うことだとおもいます。
例えば死に対する真理を知ることにより、死とはどのようなもので、なぜ恐れるに相応しく、なぜ誰もが受け入れねばならぬものなのかという疑問から開放されるのではないでしょうか?

例えば、死を超越する-死を経験する(死は経験できないが)、不死である-のいずれに当てはまるものではなく、死は生との表裏一体、死と言う現象が生じない存在は生命体ではなく生命活動を行わない物質であり、生きることが死ぬことを伴うことの根拠を論理上理解することではなく心の奥深い場所で強烈に「知る」ことなのではないのでしょうか?

「人の死」を私たちは至る所で「体験」します。
しかし「自分の死」だけは決して「体験」することはできないのです。
死の訪れはそのまま生からの離脱です。
生を抹消された生命体が一体なにを「体験」するのでしょう・・

そういったもろもろの、真理を心の奥深いところで知ることができたことを「悟り」と人々が命名したのでしょう。
死は決して論理上で克服できるものではありません。

赤ちゃんの「産声」というその表現を決して我々は言葉で表すことはできません。そう、その「産声」は我々の全身で感じ取ること以外その表現を説明できる方法がないのです。

死を超越するために悟りを開きましょう(私の悟りとはなにも仏教だけに限っておりません)。

(言葉では説明しつくせる議題ではないような気がしますね。もちろん私の言葉足らずではあるのですが^^;)

辞書によると悟りとは欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)のはたらきである迷妄を去って、真理を会得することとあります。

真理を知ることこそが死を超越すると言うことなのではないでしょうか?したがって死を超越するということは真理を知ると言うことだとおもいます。
例えば死に対する真理を知ることにより、死とはどのようなもので、なぜ恐れるに相応しく、なぜ誰もが受け入れねばならぬものなのかという疑問から開放されるのではないでしょうか?

例えば、死を超越する-死を経験する(死は経験できない...続きを読む

Q「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。

「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q舌の先などにプツッとした痛いできもの

舌を噛んだり傷つけたわけでないわけではない時に、時々舌の先等に、小さい見えるか見えないか程度のプツッとした凄く痛いできものができます。あれはなんですか?

よく、食べ過ぎたりして胃が悪い時に出来る、と祖父母なんかに聞かされた気がしますが・・・。

実際、出来たときは、疲労時というか、心身どちらか一方でも過度に疲労したかな?少し食べ過ぎ?と思い当たることもあります、が、毎回ではありません。

あれは何で、どんな時に出きやすくなりますか?
また、予防策、出来てからの対処法など教えて下さい。
病院に行くほどひどくならないので、これまでそれで病院に行ったことはなく、だいたい1週間程度で治りますが、出来るととても痛いです。

Aベストアンサー

口内炎が舌にできたものだと思いますよ。私も子供のころからしょっちゅうできます。舌にできるとものすごく痛いんですよね(T_T)

原因はストレス、栄養の偏り(特にビタミンB不足)、睡眠不足、口の中の不衛生、胃の不調や風邪の時などの体調不良時などさまざまだと思います。
私はできてしまったら薬を塗って早めに就寝して睡眠を十分にとること、食事後や口の中が痛いときなどとにかくうがいをして口の中を清潔に保つこと、ビタミンBを取ることを心がけています。

よくできるならひどくないと思ってても一度医者に行ったほうがいいかもしれません。薬をくれるので次にできたときにも便利ですし原因もわかるかもしれませんよ。


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