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もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください)
大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか?

いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

A 回答 (19件中11~19件)

いません。


というか、定義上、いません。

仏陀は文字で言葉を残していないので、仏陀の死後以降に誕生した新興教団が「仏陀いわく、云々」という形で教えを広めていきました。
すなわち、あなたの言うところの「訳の分からない新興宗教の教祖連中」が定義したものが「悟り」です。
大乗仏教という定義そのものも、そういう連中が創作した世界観です。
もしかしたら仏陀の教えとはかけ離れたモノかもしれませんが、それを確かめる術はありません。

仏陀そのものを研究していくのは学者の仕事であり、少なくとも現代の日本の仏教教団には不可能です。

ご質問の後半の疑問点は興味深いのですが、その答として、
「ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えている」と伝えた教義が誤っているということかもしれません。

このあなたの疑問点こそが、仏陀へ到る道だと、私は考えます。
当時の仏陀の悟りは「食物連鎖の法則」でしたが、現代では「理論物理学」が盛んになっています。

「宇宙全ての最終法則を見つけ出し、生命の起源を法則から推測し、この世の全てを理解する」ことが悟りです。
ね、仏教教団には無理でしょ?
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 ★(No.6お礼欄) ~~~~


 ここには、つまり「悟り」の意味や解釈・その重要性について、「ブッダ」と「私たち」の間に差があるのは明らかです。もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、その一人一人が仏教と同じような世界宗教を構築できたはずです(が実際にはそうなっていないので)。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さとりと宗教とは 互いに違いますよ。宗教とは すでに教義を守るべき至上課題としているなら さとりとは似ても似つかないものです。ただ群れているだけです。

 1. さとりを得ているということは 
 ★ 「悟り」の意味や解釈・その重要性
 ☆ は 何の意味もありません。それらを知っていることは せいぜい金儲けか名誉を得たいがための行動に利用するだけです。ただし そうは言っても 知らないわけでもありません。さとっているのですから。

 2. ★ 「ブッダ」と「私たち」の間に差があるのは明らかです。
 ☆ そのあと 《もし差がなかったら》とも議論はつづいていますが そうではなくもし《差があるのは明らか》であるなら その《私たち》は 《ブッダ》が得たさとりやその解釈・その重要性についても分かっているということを意味します。そうでなければ《差がある》とは分かりませんし言えません。

 3. ★ もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、
 ☆ ですから すでに第 n 番目のブッダも次から次へと現われて来ていると申し上げています。ただし このさとりと 宗教とはまるで別物です。

 4. ★ もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、その一人一人が仏教と同じような世界宗教を構築できたはずです(が実際にはそうなっていないので)。
 ☆ 《構築》すべき観念体系は 要らないと言うべきです さとりにとっては。
 仮りに構築するのだと見た場合 その構築は延々と研究されつづけている過程として為されているのではありませんか? すなわち
 ★ ブッダは悟りを開いてその教えを弟子が引き継ぎ、2000年以上経った現在でもその教えは残っています。
 ☆ ゆえに。

 5. ゴータマ・ブッダも あやまちますよ。
 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】というのがあります。伝承ではありますが どこかおかしいと感じさせられます。自分になされた求愛の断わり方を間違ったようです。悲惨な事件をのちのちまで引き起こしました。
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 ブッダと言うのは、目覚めた人と言う意味ですので


 その意味では、そういう人は、
 釈迦没後2500年間で
 東洋にも西洋にもごろごろ出現しています。
 ここ二百年ぐらいの日本にもごろごろいます。
 釈迦在世当時もごろごろいたでしょう。
 
 ところが、ブッダを「釈迦」本人だととらえると
 ことはそう簡単ではありません。

 なぜなら、釈迦は単なる宗教的(直観的)
 覚醒者であるというだけでなく
 凡夫が陥る「理性」ゆえの迷いについて
 どこまでもその原因を分析し
 解明していくと言う「思弁的哲学者」でも
 あるからです。

 そのふたつを兼ね備えた存在と言うと?
 そう簡単には見当たりません。

 たとえば、ラーマクリシュナは
 宗教的直観のみが突出しているような印象を受けますし
 その弟子のビベーカーナンダなどは
 かなり哲学的思弁性を持ってはいますが
 やや純情可憐で、スケールと言う意味で
 釈迦には届かないような気がします。
 例として挙げられた
 ナーガルジュナなどは、やや学者に傾いているような
 気がします。
 
 したがって、
 釈迦が説いた「誰しもブッダになれる」という教えは、
 (最初に述べたように
 ブッダ的存在はごろごろいるわけですから)
 間違っているわけではありません。
 
 ところが、釈迦的存在は釈迦没後2500年は
 あまり見当たらりませんから
 質問者さんが言われるように
 第二のブッダ(釈迦本人的存在)はいないとも
 言えます。

 釈迦自身はこの両方の事情を見ぬいていて
 自分のような存在は2500年ぐらいして
 再来する → その間は再来しない
 と言ったようです。

 
 
 
 
 
 
 
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この回答へのお礼

なるほど、いろいろ勉強になります。
強引かもしれませんが一言でまとめますと、ブッダはほかの人には真似できないほどの天才だった、ということでよろしいでしょうか。
仏教は素人の私にはなかなか概念を捉えるのが複雑で(ただの勉強不足ですが)、そもそもブッダ自身は哲学者なのか?宗教の開祖なのか?、仏教における神様とは一体誰を指すのか?、仏教徒においてブッダは神様なのか? そういう位置づけがなかなか複雑に感じます。

お礼日時:2012/02/23 08:03

 こんにちは。



 おそらく誰れもが 自分はさとりを得たと思っていましょう。

 ただ 軽率だとみられるのを嫌って言わないだけです。

 たぶん たとえば悪人の親玉だって 自分はすでにさとっていると思っていましょう。

 三十歳代から四十歳代にかけて そういう自信がついて来ていると 人びとはそれぞれ内心では思っているでしょう。

 と思います。

 もしそうでないとすれば たしかにおっしゃるように ブッダは 詐欺師だということになります。
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この回答へのお礼

仮に誰もが悟りを開いていると思っていたとしても、ブッダだけが特別な理由が説明できません。
ブッダは悟りを開いてその教えを弟子が引き継ぎ、2000年以上経った現在でもその教えは残っています。
ここには、つまり「悟り」の意味や解釈・その重要性について、「ブッダ」と「私たち」の間に差があるのは明らかです。もし差がなかったら第二第三のブッダが現れて、その一人一人が仏教と同じような世界宗教を構築できたはずです(が実際にはそうなっていないので)。

お礼日時:2012/02/23 00:49

順番はムチャクチャだけど有名な所で、舎利子、目蓮、迦葉、老子、荘子、達磨、臨済、道元、雲門、趙州、南泉、無門、無難、桃水、風外、一休、良寛、白隠、雪渓、雪担、無明庵回小、ダンテス・ダイジ、バグワン・シュリ・ラジニーシ、ジッドゥ・クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシ、アジズ・クリストフ、フーマン・エマミ、マイスター・エックハルト、ガンガジ、ラーマクリシュナ・パラマハンサ、バーナデッド・ロバーツなどなど。

名前を挙げそこねている有名人や、無名の禅師、無師独悟の人も含めたら、結構な数になると思います。

彼らはそれぞれ言い回しは違えど、全員が全員、釈迦世尊と同じ事を言っているのですが、それはブッダの教えが正しいと言う事の証明になりませんか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
つまりブッダの教えというのは、周りの人が悟りを開くこと=第二のブッダになる、ということでしょうか?
人によって千差万別の道のりから悟りを開いたとしても、行き着くゴールは全てただ一人ブッダの考え方とイコールになるという意味なのでしょうか?

お礼日時:2012/02/23 00:17

仏教は判りませんがヒンズー教で自他ともに悟ったと認められる人物は歴史上に人物に限らずそこらじゅうにぞろぞろいるそうです。

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この回答へのお礼

ブッダ的に言わせると、悟りを開くというのは至高の境地に達したというニュアンスだと思うのですが、その悟りを開いた人たちがブッダやその教えと同じような影響力を周りに及ぼせなかったのはどうしてでしょうか。

お礼日時:2012/02/23 00:45

私もそんなに詳しいわけでは無いですが、おっしゃるとおりのような気がします。


2500年だか、2600年だか忘れましたが、こんだけ期間があれば、何百人もブッダがいてもいいですもんね。

釈迦は悟ったと思っていましたが、本当だろうか?と10年くらい前から思っています。

ある坊さんだと思ったのですが、悟ったと言ったもん勝ちというようなことをいっていました。

確かに釈迦がどういう悟りを得たかなんて、本人にしか分かりませんもんね。

死んだあとどうなるかも、言いませんでしたし、本当はなんにもわかっていなかったのかもしれませんね。

多くの仏典が中国で作られたと本の中で書いてありました。
お坊さんが困る仏教の話ー村井幸三という本の中で色々書かれていました。
でも、この本を否定してる人もいます。

また、仏典を訳した人なら中村元さんですが、スッタニパータとか読んでも、訳がわかりませんし。

ニルヴァーナってどんな状態?ッテ感じもしますし。

禅の話では、悟っても悟らなくっても、人間としてやることは同じー食べたり、寝たり、トイレに行ったり、働いたり。。。

なので、もしかすると、悟った人は周りから見ても分からないのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに言ったもん勝ちだとしても、ブッダが悟りを開いたことによって彼の教えは二千年以上たった今でも残っています。
仮に自分は悟りを開いたと言う人がいて、それが言ったもん勝ちだとしても、その人が第二のブッダになれなかったのは悟りの意味も絡めた理由があるはずです。その違いについて、ブッダが天才的にズバ抜けていた哲学者だったという優秀さに根拠を求めるとしたら、この話の主題が悟りを開くというよりも才能の優劣の話になってしまいます。

お礼日時:2012/02/23 00:43

そもそも悟るとは何かがわかっていなければ


悟った人間の数を数えるのは無理な話だ。
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この回答へのお礼

私が思っているのはブッダと同じ考えの持ち主になることだと思っているのですがどうでしょうか。

お礼日時:2012/02/23 00:36

周利槃特(しゅりはんどく)は悟ったといわれています。



 ある日、釈迦は、大衆を前にしてこう言いました。
「悟りを開くということはたくさん覚えることでは決してない。たとえわずかなことでも、徹底しさえすればそれでよいのである。見よ。周利槃特は箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~SHUJI/hanasi/shuriha …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
この場合周利槃特の悟りというのがどういう意味なのか難しいですね。
悟り=ブッダと同一になる、とは違う意味のようですが、第二のブッダになる以外にも悟りを開いた状態というのはあるのでしょうか。

お礼日時:2012/02/23 00:35

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