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 神が天地をつくったのか

 ◆(α)  そう表現したに過ぎないとなぜ言わないのか?

 すべては表現のもんだいであるとなぜ見ないのか?

  ▲ (創世記1:1-5) ~~~~~
  1.初めに、神は天地を創造した。
  2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

  3.神は言った。
    ――光あれ。
   こうして、光があった。

  4.神は光を見て、良しとした。神は光と闇を分け、
  5.光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
  ~~~~~~~~~



 ◆(β)  《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?

  んなわけはない。時空間を超えている〔敢えて擬人法で言えば〕存在にとって 《初めに》とか《つくる》といった時間的行為がどうして必要なものか。なじまない。



 ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。

 経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。

 人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。

 そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。
 あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。

 という当たり前のことを 神の物語――人間にとって非思考の場をわざわざ人間の言葉で表わしたもの――はかたっているのではないか。

 《神が創造主である。〔よって 経験世界そして特にヒトは 被造物である〕》という表現は そういうふうに人間にとって手に負えない不自由なこととそして〔悲願としての〕自由とについての哲学をかたっている。に過ぎないのではないか?



 ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは

  ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。

  ▲ ゆうべがあり あさがあった。

 と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。
 その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。

  ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。


 以上の主題をめぐって 忌憚のないご見解をおしめしください。

A 回答 (4件)

こんばんは。



旧約聖書の創世神話を、僕は、
それに先行するバビロニアなどの創世神話の延長上、関係の上でとらえようとしているので、
今回も非常に勉強になりました。

☆☆☆
  1.初めに、神は天地を創造した。
  2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

創世記の冒頭箇所を読んでは、
『神は、水は作らなかったのか。水は天地創造以前に存在していたのか。
だとすれば、何かバビロニアの創世神話に似ているな』

 《そもそもの大昔、まだ天と地もありませんでした。
  世界には、ただ水と、それを支配しているふたりの者(二柱の神:アプスーとティアマット)
  しかいなかったのです。》
  (世界最古の物語 H.ガスター著/矢島文夫訳 現代教養文庫)

『このバビロニアの創世神話と何かしらの関係があるのだろうか?』
など、僕の興味はそちらの方に向かい、
天地創造が7日で終了するのを見ては、
『これもバビロニアの神話の影響だな』
とひとり納得し、
旧約聖書の創世神話の神学的・哲学的な意味を考えたことなどありませんでしたから。

そこで、bragelonneさんに質問します。

○”神の霊が水の面に動いていた”と水とは、何なのでしょう?

僕には、この《水》は、物質としての水ではなく、
何かの比喩、たとえば《神性》に関与する何か、神の投影(面)など、に思えるのですけれども、
bragelonneさんにそのお考えがあったら、お聞かせください。

○”その水はいつからあったのか?”
創造神話に《水》創造の記述がない以上、それ以前からあったと考えるべきなのではないか?

もっとも、
天地創造・宇宙誕生の際に時間が生まれたとすれば(物理学はこう考えますね)、
時間の前後は意味をなさないので、この点をあれこれ議論しても意味がないのですが、
ちょっとした疑問です。

bragelonneさんはどう考えていらっしゃるのか、興味があるので、質問します。


☆☆☆
 ◆(γ)  光が《ある・ない》 つまり 《なかった状態からある状態に移る》ことは 時間的・経験的・相対的な現象である。

 経験世界を超えている神にとって 質料(物質)の運動はその自己運動にまかせるはずである。モノの動きは 或る意味で 神としても手に負えない。(やたら奇蹟を起こすわけには行かない)。

 人としても モノはその自己運動にしたがってうごいていただくように加工し誘導するよりほかない。

 そもそも手に負えないことを知ることをとおしても その存在や性質を知るようになる。
 あるいは 相手をうやまってこそ 人はおのれの自由を手にすることが出来る。

この部分を読むと、
「神は宇宙誕生の際に、
自由度をもった”やわらかい決定論的”な物質的・精神的法則をポンと投げ付け、
あとはなるようになれ。
でも、時々、修正(このことばが適切かどうかは別にして)をするために、
”奇蹟”や”啓示”、”天啓”などで介入する」
とも読みとれ、
同時に、その中に人間の自由の根拠を求めていらっしゃるように思うのですけれども、
そのように解釈をしてもよろしいでしょうか。


☆☆☆
 ◆(δ)  もしこの非思考の場にわづかにでも 《のぞみ》があるとするならば それは

  ▲ 5.・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 と書かれたところである。その後も《第二の日》から《第六の日》まで同じ表現で書かれている。

  ▲ ゆうべがあり あさがあった。

 と。《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は世界において現象しているにもかかわらず 人は《ゆうべがあ》ってから その夜へはじつは渡されることなく そうではなく すこやかな眠りを経て《あさがあった》と知る。
 その自然本性〔の動態〕において人は 夜へは渡されないというのである。

  ▲ 2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 のである。《聖なる〈あまえ〉》〔としての すこやかなねむり〕。


う~ん、この部分がさっぱり理解できないです。
文学的感性・特に詩的感性が乏しい僕には、わかるようで分からない。
メッセージ性が読みとれないで困っております。

「《光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ》ところの《夜》は」の《夜》は比喩ですよね。
言葉が適切であるかどうか疑問であるが、
《夜》を不道徳、罪悪などのDarkな面に喩え、
《すこやかな眠り》によって《夜》にとらえられない、おちいらないことを
と表現されているのだろか?
では、この《すこやかな眠り》とは何を意味するのだろうか?
思考停止?
予測・推測困難な《不自由なもの》への畏怖??
論理的思惟を離れた、直覚的感性???

”寝て起きたら、気持ちのいい朝だった。いい眠りだった”なんて意味ではないですよね。
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この回答へのお礼

 ねむりねこにゃあさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回は――とただの主観としていままでの場合とくらべて述べますが―― 設問するにあたって考えが練れていなかったと思いました。
 あたまにあった主題は これは表題に示すごとく《神を創造主とするのは 単なる表現の問題である》です。気がつくであろうのに よぶんな方面へ問い求めの矛先が散らかってしまったようです。
 さて愚痴はこれくらいにしまして。





 ◆(δ)  夕べがあり、朝があった。(ひとは夜へは渡されない)。
 ☆ の問題から入ります。

 ★ ”寝て起きたら、気持ちのいい朝だった。いい眠りだった”なんて意味ではないですよね。
 ☆ 現代では 不眠症のことなどもありますから これでもよいかと思いましたが そうですね。これは ひとえに 心の闇のことです。

 この観点は アウグスティヌスから来ているとおことわりしますが ただし今では出典の箇所がどこであるか分からないまま 自分勝手にかたちづくっている論点ですが 端的にたとえば次のような聖句とのかかわりを言おうとしています。
 
 ▲ (ローマ書8:15) あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

 ▲ (エペソ書5:8) あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――

 ☆ つまり一たん――原罪ゆえでしょうか―― 闇の中に入ったのではあるのですが でも夜へは渡されないということだと思います。
 もう少し引いておきましょうか。

 ▲ (ヨハネによる福音8:12) イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 ▲ (同上12:46) わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。

 ▲ (テサロニケ前書5:5) あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。

 ★ 不道徳、罪悪などのDarkな面
 ☆ を――おのれの内にも見止めつつも それらを―― 跳ね返す光のチカラを言うと思います。






 ◆(γ)・・・
 ★ ~~~~
 この部分を読むと、
 「神は宇宙誕生の際に、
 自由度をもった”やわらかい決定論的”な物質的・精神的法則をポンと投げ付け、
 あとはなるようになれ。
 でも、時々、修正(このことばが適切かどうかは別にして)をするために、
 ”奇蹟”や”啓示”、”天啓”などで介入する」
 とも読みとれ、
 同時に、その中に人間の自由の根拠を求めていらっしゃるように思うのですけれども、
 そのように解釈をしてもよろしいでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ というふうな解釈になりますよね。どうも問い求めの方向が分散してしまった感じです。

 あぁ いま分かりました。(こうやって つづり始めて来ると 分かるものですね。思い出すものですね)。
 つまり ただ表現の問題であると言うだけではつまらない問題提起に終わってしまうと思ったのでしょう そこで何とか比喩としてこの創世記冒頭の箇所が言おうとしている内容を 言葉にし得ないものかと考え ひねり出した。こういう心つもりがはたらいたのだと思います。
 なんとも楽屋内でがやがやしています。

 イエスまでの歴史では 預言者を特に送った。イエスからの歴史では まま奇蹟が起こるかも知れないが もう預言者も必要とせず おおむね人間の知恵と知識とでやって行くであろう。それは 大きく自然史過程であると。
 《自由の根拠》は――神学としては 無根拠であり・よって哲学として 公理であり―― 経験科学としてはこの自然史過程にあると見るかたちです。

 いやぁ 冷や汗ものですね。





 ◆(α)・・・
 ★ ~~~~
 創世記の冒頭箇所を読んでは、
 『神は、水は作らなかったのか。水は天地創造以前に存在していたのか。
 だとすれば、何かバビロニアの創世神話に似ているな』
 ・・・
 ~~~~~~

 ☆ まづわたくしは 軽く通り過ぎただけに終わっていますと白状します。
 その上で まづヰキぺからも引きます。
 ■ (ヰキぺ:エヌマ・エリシュ) ~~~~~~

  □ (『エヌマ・エリシュ』冒頭部) ~~~~~~
  上にある天は名づけられておらず、

  下にある地にもまた名がなかった時のこと。

  はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。

  混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。

  水はたがいに混ざり合っており、

  野は形がなく、湿った場所も見られなかった。

  神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 冒頭で、真水を司るアプスー、塩水を司るティアマト、そしてその息子で霧を司るムンムといった原初の神が登場する。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ ~~~~
  ○ ”神の霊が水の面に動いていた”と水とは、何なのでしょう?

 僕には、この《水》は、物質としての水ではなく、
 何かの比喩、たとえば《神性》に関与する何か、神の投影(面)など、に思えるのですけれども、
 ・・・
 ~~~~~~~
 ☆ 水ではなく むしろ火であったほうが分かるような気もしますが。

 ★ ~~~
  ○ ”その水はいつからあったのか?”

 創造神話に《水》創造の記述がない以上、それ以前からあったと考えるべきなのではないか?
 ~~~~~
 ☆ さほど考えたことのなかったその延長線上で考えた結果は 《地》が《水》を含んでいたと考えざるを得ないというようにまづは思いました。

 1.初めに 天と地を創造
 2.地は
 ( a ) 混沌(トーフボーフ)であって、
 ( b ) 闇が〔* 地の一部を成すところの〕深淵の面にあり、
 ( c ) 神の霊が〔* やはり地の一部を成すところの〕水の面を動いていた。

 3.神は言った。
   ――光あれ。


 ☆ そうして バビロニアの創世神話としては 《真水を司るアプスー、塩水を司るティアマト》が《天および地》にいたというのでしょうか? 天と地が 水を含んでいたと。それとも 天と地の以前から水はあったと言おうとしていましょうか?
 後者だとしたら
 ★ 何かの比喩、たとえば《神性》に関与する何か、神の投影(面)など、に思えるのですけれども
 ☆ というところにまでさかのぼるように思えますが。・・・



 

 トーフボーフなるお応えになりましたが。・・・

お礼日時:2012/05/19 20:51

>《光あれ》と神が その文字どおりに 《言った》のか?



光だけであり、空気がないので通常のしゃべり方とは
違うと思います。

貴方は、良く表現の問題や「ただの文字」という表現を
使いますが、聖書の時代に録音機器があったとは思えないので
文字でしか記録を残せないのは仕方がないと思います。
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この回答へのお礼

 あるゑんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 光だけであり、空気がないので通常のしゃべり方とは 違うと思います。
 ☆ むつかしいですね。ぎゃくに ものすごくむつかしいことをおっしゃっている。こう思います。

 とにもかくにも 何らかのかたちで神は《しゃべった》という見解をお持ちなのですね?

 それを何らかのかたちで聞いた人間がいたということでしょうか?

 そしてそれを記録した。


 ――こういう見方のほうが それはいったいどういう出来事であるのか われわれ人間にはきわめて分かりにくいことだと思うのですが どうでしょう。すんなり受け容れられましょうか?

 ううーん。ちと 考えてみます。






 空耳でもよい と言えば 言えるかも知れないのですが。
 とにかく 出来事をしるしたのだというかたちでしょうか。
 思いとして持ったその内容なのだということもあり得るかも分かりません。

 ううーん。でも ただ いづれも推量ということでしょうね。

 

お礼日時:2012/05/23 22:06

神の擬人化に問題を感じておられるのですね。

つまり、神が時空に広がる我々のような存在物であると考えているところに、メスを入れたいというのでしょうかね。
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この回答へのお礼

 ご説明・ご回答をありがとうございます。

 ★ 神の擬人化に問題を感じておられるのですね。
 ☆ 微妙です。擬人法による表現 これは ひとつの方法だと見ます。そのような表現方法によって表わされたものを――つまり このばあい神を―― ややもするとその文字どおりの意味内容として受け取っていることが見られます。それは おかしいではないかという問いです。


 ★ つまり、神が時空に広がる我々のような存在物であると考えているところに、メスを入れたいというのでしょうかね。
 ☆ 結論は そうなります。

 ただし迂回路があるにはあります。

 
 1. 神は 非経験の場であると想定します。

 2. 非経験なら それを人間が経験しうるかし得ないか これが分からない。経験可能か不可能かが分からない こういう場を想定して 非経験の場と言い それを神の定義にあてています。

 3. 非経験の場は 経験世界ないし相対世界を超えていますから 絶対ということになります。

 4. そして これを擬人法で表現するなら 絶対者です。そこからさらに創造主という属性をあらわす表現も持たれます。

 5. 表現の問題を そのまま表現の問題なのだと見ていれば それでよいわけです。そうは見ない場合があることに 異議をとなえています。

 6. 絶対なる非経験の場は けっきょく経験世界を超えているということは この経験世界を覆いつつむと――さらに属性の規定として――見られるようになります。

 7. つまりは 神はあまねく存在するといった神の遍在説です。あるいは 神の霊が われわれ人間の心にやどるといった表わし方も持たれます。

 8. ということまでは 表現の問題およびそこから推理されうる属性の表わし方として みちびかれる。
 
 9. と考えますが いくら神の遍在を言うからと言って 神が そこここにあったり起こったりする経験事物であるとはならないはずです。つまり
 ★ つまり、神が時空に広がる我々のような存在物であると考えているところに、メスを入れたい
 ☆ ということです。結論として おっしゃるとおりです。

お礼日時:2012/05/21 14:59

永井均『私・今・そして神』に、ナレーター仮説というものがあります。

ナレーターとは、テレビでもおなじみでしょうけれど、画面には現れずに解説する人のことです。テレビと宗教では、問題が多少異なるかもしれませんが、神の所業についても、それを外部から神を見下ろしている、そういう人物、ナレーターがいなくてはいけない、というのが、永井氏の説です。それでは、神を実況中継するナレーターを追加すればいいではないかとも考えられますが、そのナレーターを記述する第二のナレーターが必要になり、さらに、と続けていくと、収拾がつかなくなるというわけです。永井氏は、だから、聖書をはじめとした創世記については、あまり信用していないようです。

私たちも、神について考えるということは、ある意味で、ナレーターの地位にいることになります。神の創造日記を読んでいるのですから、神よりも上の立場にいるわけです。神の創造にあたっての表現がどうであればいいかということも、私たちのすることです。でも、そうすると、神というものは下等な動物になってしまいます。神を観察しているわけですから。

少し質問に対する回答になっているか少々不安ですが、これにて。
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この回答へのお礼

 ・・・クリスティとつづくかどうかは分からない こるぷすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 いきなりですが 乱暴なかたちでのもっとも正直に申せば 《独我論》という半ば鎖国政策を敷くわが城に籠もってのご議論ではないでしょうか? となります。

 そうは言っては いけないのでしょう。つまり 内実はおっしゃっていることが――永井の説をも合わせて――よく分からなかったというのが 本当ですから。
 
 ただ 部分的には 趣旨説明とは話がかみあっていないことが はっきりしています。たとえば
 ★ 神の所業についても、それを外部から神を見下ろしている、そういう人物、ナレーターがいなくてはいけない、というのが、永井氏の説です。
 ☆ この所論には 意義を見い出しがたいというのも ほんとうです。

 (あ) 《神の所業》と言っても それを人間の言葉で表現するということ自体に 問題がある。――こう趣旨説明は言っているわけですから そのことを踏まえていないと考えられます。話がかみ合っていないという意味です。

 (い) 《外部から神を見下ろしている》。――神について《外部》も《内部》もありません。あるいは あるか無いか そんなことは――絶対ないし無限のものについて――人間に分かるわけがありません。
 人間は 神の外部であるかも知れないし いやじつは 内部に入っているということであるかも分かりません。
 人間を超えたところの非経験の場と ここでは 説明する神について 非経験の場が 外部からにせよどこからにせよ 見下ろすにせよ見上げるにせよ 《見る》ことが出来ると前提していること自体 おかしなことではありませんか?

 (う) ナレーターであるにせよ単なる秘書としての記者であるにせよ何にせよ ともかく人間の言葉で神について物語がしるされています。これについて 哲学はどう考えるか? こういう単純な問いです。
 《ナレーターがいなくてはいけない》と言われても いったいどういけないのか? さっぱり分かりません。何がいけないのか? も合わせてつけ加えます。

 (え) 永井均がどう見ようと わたしたちの知ったことではありません。議論の中身が 問題です。


 あるいは
 ★ 私たちも、神について考えるということは、ある意味で、ナレーターの地位にいることになります。神の創造日記を読んでいるのですから、神よりも上の立場にいるわけです。
 ☆ つまり
 (お) 《ナレーターの地位にいて 神の創造日記を読んでいる》と どうして《神よりも上の立ち場にいる》ことになりましょうか? さっぱり分かりません。

 (か) 《神の創造日記》と言っても それは人間が書いたものですよ。書かれてあるとおりが《神の所業》だと見なすこと自体から おかしいのではありませんか?

 (き) ★ 神の創造にあたっての表現がどうであればいいかということも、私たちのすることです。
 ☆ 人間の能力と努力のみだとは 信仰の立ち場からは 言えないでしょうが 一般に このとおりですよ。おっしゃるとおりです。

 (く) ★ でも、そうすると、神というものは下等な動物になってしまいます。神を観察しているわけですから。
 ☆ いったいぜんたい どういう推論なのでしょう?
 たとえば夫が妻を あるいは妻が夫を それぞれ《観察している》としたら その相手としての妻あるいは夫は それぞれ《下等な動物になってしまう》ということでしょうか?


 たぶん舌足らずだったと言いましょうか 時間を急いでしたためられたのでしょう。
 と見ましたし 考えましたが いかがでしょう?

お礼日時:2012/05/20 19:17

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