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神を信じていない人たちの理由としては、
神が一体我々に何をしてくれたのか?
と、いうことがあると思う。

神は人間のどんな危機にも干渉しない。
誰がどんな目にあおうとも、正義が悪に負けようとも、
神を信じているものが、どんなに祈りを捧げても、
神はあらわれない。奇跡はおこらない。

神が人間をつくったのか、どうかはしらない。
偉大な力を持っているのならそれでもいいだろう。
が、しかし何もしてくれない神を崇拝するのはなぜか?

罪もない人が理不尽に事故や災害で死んでいく現実を
考えると、仮に神は存在したとしても、神は慈悲の心は
持ち合わせていないのではないか、と僕は時々おもう。

クリスチャンのかたに神が我々に何をしてくれたのか
教えていただきたい。
何卒よろしくお願い致します。

A 回答 (16件中1~10件)

人間として生まれる事が『神の力です。

』犬に生まれたとしても神の力です。神と言う概念は『自分自身の中に存在する者の事です。』

科学的な証拠がありますので、二つ程載せてみます。始めは『脳の機能としてです。』

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

貴方の脳内にも、脳梁を切断した場合に、貴方が自我意識としている貴方の意識の他に、もう一つ意識があります。

右脳の意識が、自我意識に対する『もう一つの意識です。』この意識は、生命の維持装置として働いている意識です。この意識が何処に存在するのかを書いてみます。

この意識は、子供時代では、自我意識が芽生える前では、一つのものとして働いています。この一つのものとして働いている『脳の状態』を天国と、聖書では書いています。

その理由は、悩みや疑問がないからです。悩みや疑問がない理由は『心の分裂や対立がないからです。』

是に対して、ある程度人間が成長した場合、ある時期から悩みや疑問が始まります。それは思春期と呼ばれる頃からです。子供時代には考えもしなかった事を考え始めるためです。

自分は(人生とは)何なのか?と言った疑問を感じたり、他人と自分を何かに付けて比べたりして悩みが始まったり、頭の中で自分の価値や、やる事の意味を求めたりします。『何の為に生きているのだろうか?』です。

この現象を、深く受止めた場合が『天国から追放される事を意味します。』失楽園と言う現象です。

この現象が『脳の機能分化の完成』と言う現象です。つまり心が二つになって争いを始める現象です。つまり、心の矛盾を感じて、或る感覚に悩まされられ事を意味します。

その感覚が『原罪』を感じる事を意味します。漠然としていて、何処から押し寄せているのかが、分らない感覚、つまり、漠然とした不安感や、恐怖感です。

この感覚に悩み始める場合を『失楽園』と聖書は表現しています。仏教では『業』です。

この原因は『右脳の意識』を説明する事で理解出来ますが、症状となってしまったものは、知的理解では、なかなか無理があります。

右脳の意識は、思春期頃から『無意識の中に身を潜めています。』つまり脳の機能分化が完成する頃に『意識する自我意識』と言う自分と、『意識していない時の自分の身体と心を支配する自分』つまり『無意識の意識』としての自分と二つになってしまいます。

この『意識する時の自分』と『無意識の時の自分』と二つになってなかなか、同調出来難くなる場合があります。同調出来ている場合を『健常者』と言っています。

同調出来難くなった場合に、不安になり易い性格とか、神経質な性格と言っています。

右脳の人格の機能をもう少し詳しく書いたなら、『神経質な性格』と言う意味の補完が出来ると思いますので、書いてみます。

神経質な性格の人は『自分自身に不安を抱えている人の事です。』この不安が高じた場合では、恐怖症にまでしてしまう人の事を言います。

つまり、大勢の人の中にいたとしても『孤独感が強い場合や、優しい家族に囲まれていながら、自分の頭の中に不安を作り出して感じてしまう場合です。』

右脳の機能は『生命の働きそのものから成り立っています。』この働きを説明する場合では『命在るもの全て』の説明からする必要があります。何故なら『生命の作用そのもので世の中が成り立っているからです。』

極端な書き方になってしまいましたが、桜の木ならその木の種によって『咲く花の色や、葉の色や、時期までも全て備わった働きから成り立っている事です。それには櫻の『命の働きが在るからです。』

昆虫にしても、動物にしても、全ての命あるものは、その命の働きを働かせている事によって、その種として働いている事が、分ります。

全ての命あるものは、学校で学ぶ以前に全てが、生まれる前から備わっています。この備わった働きを『仏性』とお釈迦様が名前を付けています。聖書によるなら『神』です。

人間の自我意識は学ぶ事によって『言葉を始めとして、人生の全てを学ぶ事を意味します。』処が、もう一つの意識、生まれた時に既に備わっている働きを『働いているまでです。』その証拠が、生まれたばかりの赤ん坊です。

乳を飲む事や、安心する事や、不安や恐怖する事を既に知っている存在から成り立っています。学ぶ事無く『心得ています。』他には心臓の早さも呼吸する回数も既に心得ています。ホルモンの調節や、発汗作用などの体温調節機能さえも、学ぶ以前に備わっています。この学ぶ以前に備わっている機能が『命を働かせる存在』と言う意味です。

暑いところにいる場合では、涼しい所や、水分の補給をする事を『自我意識は知らないにしても、指示さえ出しています。』寒い場合でも然りです。

かように『神』は、自我意識のために力を尽くしています。便所以外でする事が、迷惑のために、排便の時期や、排便する必要がある事も、自動的に指示しています。

お腹が減った事も教えています。寒い所では血管さえ収縮させて、体温が下がらない工夫をしています。

貴方は何もしてもらっていないと思っていますが、右脳の意識が健在でないなら、心臓一つ呼吸一つ出来ません。

右脳の意識が、自我意識と交代して交互に出ている事を、詳細に語っている脳科学者の動画がありますので、載せてみます、参考にして下さい。

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カトリックのクリスチャンです。



最近、同じようなテーマで秀逸な回答があったので、ご紹介します。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7467460.html

No.9の回答です。
回答された方は神道のようですが、通じるものがあります。
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神を信じない理由はちゃうよ。


明らかに人間が創った概念だからだよ。
人間は、そういう存在を欲しているし、その存在が特に苦しい精神状態に一定のプラスの効果をもたらすことも認識しているし、集団をまとめるのに都合の良い方法だし、別に否定はしない。むしろ日本民族には優れた宗教があればここまで落ちぶれないのにと思うほどだ。
ただ、神は1000%いない。地球上の人間以外の動物たちは、誰もそんな存在を感じたことも想像したこともないよ。
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私はフリーのキリスト教徒です。

聖書を学びはじめてから20年ほど経ちました。

その間、神は私の祈りを聞くことによって多大の慰めを与えてくださったと考えています。キリスト教に改宗する前、私は持病の発症に伴ってうつ病になっていました。まだ高校生の時でしたが、登校拒否をし、人間不信に陥っていました。「だれも自分のことを理解してくれない」と思っていました。

そのような時に、キリスト教に出会い、神は人間を造った創造者であるゆえに「天の父」であり、人間に愛情を持っておられることを知りました。私はそれからずっと人に語りかけるかのように自分の思いすべてを神に向けて注ぎ出してきました。本当にすっきりとします。私は神を私の最大の理解者だと感じています。この点、http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7509290.htmlのNo.9とhttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/7505641.htmlのNo.15にて詳しく回答いたしました。

さらに、聖書から学ぶ内容は神からのメッセージであり、それは私の抱いていたいろいろな疑問に答えていたので、それを神らの返答とみなすようになりました。ですから、私は祈りによって神に語りかけ、聖書によって神の言葉を聞くという仕方で神とのコミュニケーションを図ってきたということができます。

お陰で、今ではうつ病も完治し、元気になりました。要約すると、神は生きる意味を教え、賢明に生きる方法を教え、苦しい時に祈りを聞いて慰め、支え、また忍耐するための力を与えてくださるということになると思います。



ところで、「神は何もしてくれていない」とのご懸念をお持ちだと感じました。しかし、その一方で同時に考えなければならないのは「では、人間の方は神に何をしてきたのか」ということです。あるいは「どんな態度をとってきたのか」でもよいと思います。

人間はこれまで、歴史上、神の正義とは反する道を歩んできました。私利私欲のために争い合い、強い者は弱い者を踏み付け、ずる賢い者は他の者をだましたり、利用したりしてきました。実際、人間社会は神の恵みを受けるに値するような行動をとってきたとはとても言えません。神は人間の召使いではなく、一方的に人間に対して義務を負っているということはないと思います。

とはいえ、神は決して人間を見捨てたわけではなく、人間の中にも善良で神を求める人たちがいるということをご存知です。そのような人々が神を誠実に求める時、神はその祈りに心を留めて答えてもくださるのです。

聖書によると、将来、神は再びエデンの園のような楽園を復興し、死者を復活させ、人間が完全な神の子となれるよう再教育されるとのことです。しかし、楽園復興の前に、現在の人間社会は神の裁きを受け、ハルマゲドンで滅びを被ります。その際、神の恵みを受ける人々は生き残り、その人々によって楽園は復興されるのです。



それにして、神はご自分の親切を押し売りはしません。それで、どうして神を求めてもいない人たちにご自分の恵みをお示しになるでしょうか。現在の世界は社会的にも個人的にもとても人間の手に負えないような問題ばかりです。その解決には人間以上の力が必要であることは明白です。神は人間がご自分を求めるようになることを望んでおり、恵みを示したいと考えておられます。

ですから、「神は何もしてくれない」という疑問も確かに一理あるとは思うのですが、それをさらに一歩進めて、「人間一人一人が神の恵みを求め、それを受けるに値する生き方をする」ということこそが重要だと私は考えます。
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>神が何をしてくれたのか?。


一言で言えば、「深く愛してくれている」と言う事です。
人間創造の目的は、至高の神の子とイエスの兄弟また妻とする為に、至高の神と養子縁組みして神の子供とする為に創造されましたが、最初の人アダムは聖なる神の子に相応しく無い悪を行った事で退けられました。(罪を犯した)
その罪を命と引き換えにして、創造当初の霊(心)の状態に戻して下さったのが、至高の神と独り子の神(全能の神)がして下さった事柄です。
ですから道は既に開かれていますので、見いだそうと思えば直ぐ前にあります。
「心の貧しい者、悲嘆にくれる者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を造り出す者」は、神を見るでしょう。(マタイ5:3.~10.)。
現在神は、上に挙げた聖句の状態を気付かせるような環境を許している、と言うのが今神が行っている奇跡と言えます。
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プロテスタントのクリスチャンです。

すでに多くの良い答えが提示されておりますが、「クリスチャンの方に」というご指定がございましたので、一言述べる責任があるように思いました。

私どもクリスチャンの目からしますと、神は私どもの祈りに答え、あるいは祈る前から私どもに必要なものを知り、与えてくださったと言うのがクリスチャン人生の実感です。

神はご質問者さんの地上にいるお父さんと似ています。ご質問者さんがこれまで生きてきて、その間にお父さんおよびお母さんのサポートが有って今のご質問者さんが存在しています。現在のお父さんおよびお母さんも実はおじいちゃん、おばあちゃんの目に見えない配慮により必要な食事や、教育や、環境を与えられて、生まれて、育ってきたと思います。振り返って見ますと回答者の父も母も神を知らない人間でしたが、子供を育てるために時間のほとんどを使用して、子供のために生きてきたことが解ります。本来であれば、人は罪にまみれています。24時間365日自分中心に、自分が一番大事と思って生き、計画し、実行していますが、父と母に限って言えば、子供のために自分を犠牲にして生きております。だれがそのような人間を作り出したのでしょうか。神はご質問者さんに最も必要な者としてお父さんとお母さんを与えたと思えませんでしょうか。祈っても答えられないとき、そのような祈りはご自分の本当の望みではないと考えることが出来ませんか。

聖書の言葉
「創世記1章26節 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。.......」と仰せられた。

私ども人間はそれ故、子供を可愛がり、ある人たちは他の人たちを助けに災害地に出かけたりしております。仮に私どもが幸いな時を過ごしたとしましたら、それは神のもたらしてくれた時間です。また何の助けもないばかりか、状況はわるくなるばかりであるという時も実は神がもたらした時間であり、出来事でございます。

>神が一体我々に何をしてくれたのか?ということがあると思う。
>罪もない人が理不尽に事故や災害で死んでいく現実を考えると、仮に神は存在したとしても、神は慈悲の心は持ち合わせていないのではないか、と僕は時々おもう。

ごもっともなご質問と思います。クリスチャンとして反論の余地はございません。回答者自身がなぜそのような理不尽なことが起こるのか理解できないからです。いすれにしましても、いまご質問者さんのいる環境や持っているもの、あるいは失ったもの全てが神からもたらされた事柄です。つまり人は生まれ、そして死んでゆきます。日々の生活の中でご自分の希望が達成されたり、あるいは思った方向に進まなかったとしても、最後は暗い闇夜に一人で船を漕ぎい出すような状況が死というものの印象ではないでしょうか。ところが私どもクリスチャンにとっては、地上で楽しい生涯を送ろうが、あるいは逆に悲惨な生涯を送ろうが、天に帰る希望ほど大きな希望はございません。

仕事がうまく行かなくて、この先会社を首になるかもしれないとき、あるいは意中の異性に全く関心もなにも示してもらえない時、いくら努力しても一向に成績が上がらない、志望校に入れないなどということはある時期、あるいはその現実の真っただ中に居る時は死ぬほどの苦しみかもしれませんが、私どもクリスチャンにとってはそのような時でも歓喜を持ってそのような現実を受け入れることが出来るのです。現実の苦しみをクリスチャンが感じないということではございません。そのような苦しみと同時にその苦しみに勝る歓喜があるということです。

聖書の言葉
(エレミヤ書29章10、11節)わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ書29章10、11節)

もしご質問者さんが聖書が述べる確定的な希望と将来だけでなく、なにか別の理由によってでもそれらが約束されていると知るならば、いま苦しくても頑張れると思いませんか。聖書が述べる神はご質問者さんの希望通りに解決策を与えてはくれないと思っておられれるかもしれませんが、それはご質問者さんには必要がないか、それ以上のなにか別のものを用意していると考えることが出来ます。

つまり希望に沿った出来事だけが祈りの答えではございません。希望しなかったことも、神に対する祈りの答えであるばあいもございます。また何の変化もない場合もございます。それは祈る人の忍耐と真実の叫びか否かを見ておられるか、あるいは待ちなさいということだと思います。
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人間の作った概念でしかない


信じる者には絶対だが
なにもしてくれないような
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私にはとてつもない干渉をしています。



罪もない人が理不尽に事故や災害で死んでいく現実を慈悲深く私に見せてくれています。
それで私がどうするか自由を与えてくださっています。

どうなるかも私の自由であることに気づきをお与えくださっています。

これは奇跡です。
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そんなことに疑問を持たないからキリシタンに成れたのではないかなぁ。



人間は、疑問を持たない限り、回答をも得ないものなんじゃ。

だから、キリシタンの方々からは回答が得られないことじゃろうな。
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天の恩恵に気づかない者に何を言っても無駄ということでしょう。


自分が今そこに居ること。それこそが天恵というものです。

我欲にどっぷり浸かってしまっているから、水面から上のものにしか目が向かないんです。
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