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伊藤左千夫『野菊の墓』では、女のほうが年上であるために結婚が認められない男女の悲恋が描かれていました。
同時代の小説で夏目漱石『こころ』を読んでも、「先生」の奥さんが「妻のほうが年下ですから」といった台詞がありましたので(詳細は忘れましたが)、この時代、妻が年下であることは暗黙の了解であったようです。

質問なのですが、なぜ年上女と年下男の結婚は認められなかったのでしょうか?
また、この社会通念はいつ頃から形成されたのでしょうか?

A 回答 (6件)

 参考までに回答を



日本社会における社会通念・・としては回答できない

というか、逆に”年上の女性を娶る”という地域慣習が案外散見されるのである(特に北関東)
これは、特に人口変動期(気候変動が大きい時)などに顕著に生まれる事例なのだが
”売れ残り”を処分する・・というニアンスもあるようだが、要は、ムラ社会・集落において一定の定型の役割を担う人間が必要があることに由来する

つまり、売れ残りはムラ・集落での扱いが難しいので、婚姻させて妻・奥方として社会的存在として嵌め込もうということである。社会学的にリアリティのある話で生臭いがw

この傾向は確か流行性疾患との関係とも指摘できるので、面白い話である

・・・・・・・・・・・

 地理学で人口移動を専門にしている教え子が、”年増の女性を探すにも無理だった”という考察をしている事例がある
つまり、売れ残り女性が存在しないので必然的に、<年下の女性になっているだけ>だと言う
そもそも、女性は社会的に年齢を公表する必然性はないので、いくらでもサバを読めたことは言えるし、美容・化粧などが発展していない状況ではいくらでも年齢を虚偽できるわけで、史料も信用できたものではない・・とw
醜女・老女は、出家して仏門に入るので、必然的に婚姻対象にならない。偽装できないのは、社会的にスポイルされてしまう・・という話である
(姥捨て山は、文字通り婆ではなく適齢期がすぎた女性の社会であるように)

 女性は処女性(これは若年性と相関する)が求められるのだから、当然、年齢詐称は低め設定されるのは当然だろう
 逆に男性側にもメンツの問題から、詐称させる必然性があると指摘できる。
古代から婚姻は、男子に童貞性・女子の処女性(双方に貞淑さ)を求める傾向があるので、それに応じて、サバを読むというわけである

 このような事例は数多指摘できる。例えば、中国唯一の女性の皇帝である則天武后は4歳のサバ読みだし、大奥に輿入れする場合もサバ読むのが普通である。
そもそも、戸籍が厳格に年齢を管理しているのではないのだから、理想の婚姻像を偽装するのは必然的であろう
 要はメンツの問題で実際はそれ相応の年齢詐称・もしくは年齢不詳が一般的な婚姻だという見解である

根本的には、ムラ・集落の社会的状況によって婚姻が決定された背景(実家関係はムラ・集落の都合と大差ないだろう)を考えれば、はめ込み式で婚姻が行われたわけで、必然的に結婚適齢期になれば強制的に婚姻するわけで、秩序だった婚姻状況では、売れ残りなどが存在するはずもないだろう

つまり、年齢詐称・適齢期はめ込み式の婚姻・・という状況から、年上女性との婚姻が存在しなかったというだけの話

口頭査問で、「戦争における男性人口の低下から必然的に年増になってしまうのでは?」
との設問があったが、それについて教え子はこのように回答している

戦時において生じる民間捕虜は奴隷として人身売買されます。野郎も減りますが、未亡人は集落に居場所がなくなるので、戦時捕虜として売れるだけのことでしょう
(ちなみに、戦国時代の人身売買の書類を紐解いた上で、遊郭システムまで論説している)
要は、ムラ・集落の売れ残り排除システムが働いた・・・・というオチ。
ムラ・集落が適正な男女比人口調整した(?)という見解らしい(女衒も引用している)



個人的には、この見解が妥当だろうと思う


実際に多くの歴史上の人物は年齢が怪しいケースが多いし、女性などは名前さえ不明であるのだから、年齢などは不明なのは当然だろう


したがって

>なぜ年上女と年下男の結婚は認められなかったのでしょうか?

年齢管理が出来ていないので、実際は、年増との婚姻はあっただろうが、そうであっても分からない。
実際に年増女性が存在していない

>この社会通念はいつ頃から形成されたのでしょうか?

ムラ・集落の合理的な人口維持施策の誕生と共に・・・・
陰鬱かつグロい話で言えば、ムラ・集落から年増が排除されるシステムが確立して、排除された女性が生存のために娼婦を商い出した頃には発現したのでは?

納得までは保障しないが、教え子の見解を整理したものを回答にしたい
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平安時代の天皇は姉さん女房がゴロゴロ




徳川家康 生誕天文11年12月26日(1543年1月31日)
築山殿(つきやまどの、天文11年(1542年)?

徳川秀忠 生誕天正7年4月7日(1579年5月2日)
小姫(おひめ、天正13年(1585年)?
崇源院(す(そ)うげんいん、天正元年(1573年)


徳川家重 生誕正徳元年12月21日(1712年1月28日)
の正妻は増子女王で 正徳元年10月19日(1711年11月28日)

徳川家斉 生誕安永2年10月5日(1773年11月18日)
広大院(こうだいいん、安永2年6月18日(1773年8月6日)

徳川慶喜 生誕天保8年9月29日(1837年10月28日)
一条 美賀子(いちじょう みかこ、徳川 美賀子、天保6年(1835年)

この辺は政略結婚であり、女子のほうが早く大人になるから、さっさと結婚させたいということで、姉さん女房全盛とまでは言わないが、ふつうのコト。

では明治に入ってどうなのかなと

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F% …
水原茂の奥さんは3つ上の女優


高円宮憲仁親王 出生1954年12月29日
憲仁親王妃久子(のりひとしんのうひ ひさこ、1953年(昭和28年)7月10日 - )

具体例を探すのが大変ですが、年齢差ってあんまりきにしてないのでは?

庶民だが私の祖母は1901年生まれで 姉さん女房だったし。
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>なぜ年上女と年下男の結婚は認められなかったのでしょうか?


>また、この社会通念はいつ頃から形成されたのでしょうか?

そんな物は存在しません。
年上女性との結婚なんて珍しいことではありません。

「野菊の墓」は、年上だから反対されたのではなく「身分差、家柄の差」ですよ。
あの話は、本家のお坊ちゃまと、そこの家に女中(お手伝い)に来た分家の娘の物語です。
年上だから反対と言ったのは口実に過ぎません。
母親の反対理由をストーレートに受け取っちゃいましたか?


『こころ』 の「先生」は大卒です。
あの時代、女性は10代で結婚するのが普通でした。
20歳を超えて独身の女性なんて「訳あり女性」だけですよ。
大学を卒業すれば、年齢は20歳を超えます。
要するに、大卒の「先生」より年上の独身女性なんて、あの時代、滅多に存在しないのです。

それに男性の場合、妻子を養うにはそれなりの収入が必要ですから、そんなに若いうちに結婚できないのです。

ただ、大家族で衣食住の心配の無い農村なんかは、15,6歳の男の子が年上の17,8歳の女の子と結婚するのは珍しくありません。
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「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」


(としうえのにょうぼうはかねのわらじをはいてでもさがせ)

という諺があります。

※年上の女は目走りが利くから「目ます繁盛」といって重宝がられたらしい。それを嫁としてを得るため、擦り減らない「鉄(かね)の草鞋」を履いて、方々歩いて探せということ。

なので、一概に「年上女と年下男の結婚は認められなかった」という訳ではありません。


「野菊の墓」の主人公・政夫と民については

「政夫が15歳で、まだ学生だった」
(民と離れた時に在学していた「東京の学校」より更に上の学校(大学)にも進んでいると思われる)
「民が17歳で、当時の適齢期だった」
「政夫の家が旧家(良い家柄)で、従姉妹とはいえ民は家格が下」
(家事手伝い(使用人と大差なし)として、民は政夫の家にやって来た)

等、「身分の差」「立場の差」等が大きかったと思われます。

民が「家格が良い家(政夫の家と同等以上)の娘」だったなら
二歳年上でも結婚相手として認められ、「許婚(いいなずけ)」にもなれたでしょう。
(政夫が学業を終えた時に祝言という感じ)

或いは、
「政夫が学生でなく、既に働いている」ならば
(当時なら、15歳で社会に出ているのは珍しくない)
民との結婚も可能だったかも知れません。


「こころ」にしても、「先生」は「帝国大学を出ている」立場です。


明治~大正時代は(もっと言えば昭和に入ってからも)
男性の学歴は
「帝国大学に進む人間はごく限られている。私立学校(大学相当)に進める人も限られている」
女性の学歴は
「低くて当然」
「小学校しかいっていないのが当たり前」
「師範学校(小学校教員養成)や女学校(高校相当)に進める人は限られている」

又、「職業婦人(未婚で、仕事を持っている女性)」も限られていました。
現代に少なくない「未婚で、何時までの親の世話になって、実家で暮らしている女性」は
当時では「欠陥人間」「病持ち・病弱」「出戻り(死別・離縁等)」等
「実家の厄介者」
「結婚して貰えない女性」
「結婚出来ない女性」
「結婚の継続に失敗した女性」
なのです。

つまり、当時は
「社会的に、女性は若い年齢で嫁がなければ、生活が出来ない」
「結婚する事で、女性として一人前扱い」
だったのです。

「野菊の墓」「こころ」の様に
「男性が高学歴(=富裕層・知的階級層)である」場合
「大学卒の男性より年上の女性」というのは必然的に
「嫁ぎ遅れ」「出戻り(死別・離縁等)」が多数となってしまいます。

「妻が年下であることは暗黙の了解」というよりも
「社会的身分・立場上、女性は若くして結婚するのが当然」だったのです。
「それ以外の選択肢が、殆ど無い」のですから。

「年下の妻が当たり前」というならば、それは
「沢山子供を産んで貰う」
「男性優位の象徴」
等も理由の一部にはなっているかも知れませんが
それよりも、上記の様な「社会的立場」「社会状況」の方が要因として大きいと思われます。
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私の勝手な想像ですが


1)出産に関係があるのでは?
2)女性が年上の場合女性が先に死ぬと考えられていて男が一人生き残ると不憫に思われていた。
ってかんじかな?
あくまで私の考えです。
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社会のことは詳しくないのですが・・・



それは、過去に女性が差別されていからかもしれないです。
歴史上に登場する人物は男性ばかりでしょう?

歳が上だということは、自然と女性が上の立場になると考えられます。
男性が主だということを考えれば、反対されるのはもっともですよね。
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