
A 回答 (2件)
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No.2
- 回答日時:
A.No1の者です。
いえ、私自身特に詳しいわけではありません。
白状しますが、たまたまバビロン歴史について書かれた
本が手もとにあったので、まる写しして、回答してみただけです。
(「なんだ!」と怒られるかもしれませんが)
だから、「バビロン第一王朝において、カッシート人が支配した
時期があるのか、」と貴方に尋ねられれば、
「私が読んだ本の範囲では、そのような記述を見つけることが
出来なかった」としか私には回答できないのですが、
でも、一応、前回の回答で本から写しもらした所を中心に
補足として懲りずに一応再回答を試みてみたいと思います。
・ハンムラビ王死後のバビロン第一王朝に関して
北方の蛮人の侵入はハンムラビ王の晩年にもあったようで
このとき、彼はこれを討ち、退けています。
新民族カッシュ人(カッシート)がザクロス山脈を出発し、
バビロニアに侵入してきたのは前1900年頃で、その時は
ハンムラビの子サムスルイナが山中に撃退するのに
努力しています。
サムスルイナ治世の時深刻だったのは前回答でも述べた
南部の「海の国」においてのイルマイルの独立、進出であり、
(wikipediaでは「バビロニア」の項において、このイルマイルが
南方で興した新王朝を「バビロン第二王朝」と記述している
ようですね。)
この時はサムスルイナの防衛も功を奏せずニップールに近い
南方の地をことごとく奪われ、バビロン第一王朝第二代の王
スムライルの築いた要塞まで退いてこもらざるを得なかった
ようです。
次の代の王サムスルイナの子アビエシェア(前1711~1684)
は先述のイルマイルの王朝をせん滅するため、チグリス川を
せき止めるなどして遠征を図ろうとするのですが、敵が
逃亡してしまったのでイルマイルを捕えることが出来ず、
結局小さな領地を支配する事で終わってしまいます。
その次の代の王アンミディタナ(前1683~1647)においては
「海の国」に属するドゥール市を陥れ、これを破壊、
次の代の王アンミサドゥカ(前1683~1626)はエウフラテス川
河口に要塞さえ建設します。こうして、「海の国」を著しく
圧迫し、バビロニアにはハンムラビの時代が復活するかに
見えたのですが、もはや国内的には腐朽し、弱体化して
外敵を防ぐ力はありませんでした。次の代の王サムスディタナ
(前1625~1595)の時、前回答で述べたヒッタイトの王
ムルシリシュ一世のバビロン遠征による略奪をもって、バビロン
第一王朝が滅亡したものとされております。
(ここまでの経緯で私が調べた限りではカッシートがバビロン第
一王朝を支配した、とされる記述を見つけることが出来ません
でした。)
ヒッタイトの記録にはムルシリシュ一世がバビロンに遠征し、
バビロンを破壊し、また、フルリ人と戦い、バビロンの捕虜と
財宝をハットゥシャシュに持ち帰った、とされています。
一方、後世のバビロニアの年代記には「サムスディタナに対して
ハッティ人がアッカド地方に進軍した」と簡単に述べられている
だけで、
このためヒッタイトによるバビロン略奪が前1595年とする説が
有力なようですが、ヒッタイト古王国におけるトゥドハリアシュ
一世(前1710年頃)とテリビヌシュ(前1525年頃)の間に200年の
空白の隔たりがあるため、いつヒッタイトによる略奪が行われた
のかはっきりと確定できないのだと思われます。
(バビロンが古い文化国なのに対し、ヒッタイトは北方の蛮族
ですから。)
また、カッシートの古い歴史も、わずかしか存在していないよう
です。
最初の王ガンダシュ(前1746~1700頃)は「四界の王、シュメル・
アッカドの王、バビロニアの王」と称し、ずっと後のアグム二世
(バビロン第三王朝の創始者か)になってはじめて「カッシュ人の
王」という称号を使っております。このとき、東方及び北方へ
領土を広めたようです。なお、前回答で述べた「海の国」へ遠征し
ドゥール=エア城塞を陥れて併合し全バビロニアを再び統一した
のは、アグム三世(前1450~1432年頃)の時だと書かれており
ます。
(wikipediaの「バビロニア」の項もご参照ください。)
どうやら勉強不足の私の回答はここまでが限界のようです。
あまり助けにならなかったようであれば申し訳ありません。
長文失礼しました。
そうだったのですか。怒るなんてとんでもないです。こんなに詳しい記述を載せて頂き本当にありがとうございます。助かりました。
頂いた回答によればカッシート人の侵入は撃退できていることになりますよね…。私の見間違いかもしれないのでもう一度問題集を確認してみます!
回答ありがとうございました。
No.1
- 回答日時:
紀元前1936年ごろシュメール人のウル第三王朝
がバビロニアに侵入したエラム人に滅ぼされて、
バビロニア各地で西セム人のアムル族の諸王
が各地を占拠し、(イシュビエラ、ナブスラム、スムアブム等)
このうちのスムアナブはアムル人を率いて1894年、北部
バビロニアの一部をを占領、小都市バビロンを居所にし、
以後のバビロニアはイシン、ラルサ、バビロンの三独立王国
に分裂、
前1835年、エラム人がラルサ王を破り、ラルサに新王朝を建て、
ラルサ王朝のリムシンはイシンを滅ぼし、更にウルク、バビロン
を手に入れ、メソポタミアの大部分を支配するのだが、
小バビロンのバビロン第一王朝の六代目の王ハンムラビが
「国に秩序を作って」後、リムシンに征服された土地を
次々に奪回、更にイシンを破って、前1764年にエラム人の軍
を殲滅、前1763年にリムシンを捕虜にし、ラルサ王朝を滅ぼし、
メソポタミアの統一に成功する。
従って、>バビロン第一王朝はアムル人の王朝
これについては、全く疑いないと思われるのだが、
ハンムラビ王の死後、子のサムスルイナが王に就くのだが
メソポタミア東部でリムシンの子孫と称するものが元々ザクロス
山中に住んでいたイラン系民族で以前から奴隷や小作人として
バビロンにはいりこんでいたカッシートたちを率いてバビロニア
南部の「海の国」と呼ばれる地域に侵入、
東方及び南部の大部分をその権力化におく。
サムスルイナはこれと戦い、背いたウル、ウルクなどを奪回し、
一時征討に成功するのだが、南部の「海の国」において
イルマイルが独立し、南部に新王朝を建設し、バビロン第一
王朝の国土は北部に限定される事になる。
北部バビロン王朝は、南部のイルマイル朝を徐々に圧迫
するのだが、それより以前、(バビロン第一王朝成立あたり)
小アジアのハリュス川のほとりに興ったヒッタイトの王国が
この頃勢力を南方まで支配を拡張、ヒッタイトのムルシリシュ
一世の遠征により、バビロンは略奪にあい、当時の北部
バビロン王のサムスディタナは王位を失って、バビロン
第一王朝は崩壊する。
このヒッタイトの略奪は一時的なもので、なんら政治的な
効果をもたらさず、疲弊しきったバビロンにカッシートが
進入、後に先述の「海の国」も征服し、576年間、バビロンを
支配するのである。
一見すると、>古バビロニアはカッシート人の王朝
というよりは「バビロン第三王朝はカッシート人の王朝」
のほうがしっくりいくように思われるのだが、
ヒッタイト古王国の歴史に不完全な部分がかなり多いため、
ヒッタイト王国による略奪がカッシート王朝時代に起こったと
する説もあり、そうなると良くわからない。
こんな回答で申し訳ないのですが・・・・・。
回答ありがとうございます。とてもお詳しいですね。教科書に載ってないことを知ることができました。
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。では何人の王朝かといえばアムル人で間違いなく、またカッシート人が征服した時期もあると…いうことでしょうか。
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