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課題でアジア太平洋戦争はいつの時点なら防ぐことができたと考えられるか、あなたの見解を述べなさい。
というものが出たんですが、一応私なりに考えてみたのですが-3箇所くらいあると思うのです。

1,満州事変時に石原莞爾を含む陸軍へ適切な処罰をすること。
2,日中戦争時、南進論ではなく北進論をとるべきだったということ。
3,東条英機を首相にした祭に、天皇から直接戦争を止めるよう会議で言わせるべきだったといこと。

※個人的には、石橋湛山の小日本主義なんかもありなのかな?と思っています。

という考えがあるのですが-どう思いますか?観点がズレていたりなど何かご指摘や追加すべき要項がありましたら教えて下さい><

ちなみに、解答サイズはB4用紙の1/4程度だそうです。

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A 回答 (9件)

1,満州事変時に石原莞爾を含む陸軍へ適切な処罰をすること



満州で相次いで日本人及び朝鮮人への襲撃事件が発生しております!満州各地の軍閥も独立宣言を起こし収拾がつかなくなっておりますが、いかがいたしましょうか?
国民は政府を無能・無策、中国人に味方して日本の国益を失していると喚いております!


2,日中戦争時、南進論ではなく北進論をとるべきだったということ

モンゴルへの軍事侵攻は成功するでしょう(ノモンハン以外のソ連軍は大打撃を受けていた事がロシアの情報開示で判明しています)
brainex閣下、大変でございます!海軍が勝手に北部仏印に進撃を開始しました。このままでは二正面で戦わざるを得ません!いかがいたしましょう?


3,東条英機を首相にした祭に、天皇から直接戦争を止めるよう会議で言わせるべきだったといこと

brainex閣下、大変でございます!海軍が東太平洋上で米太平洋艦隊と衝突を起こしました!米国政府は日本が無警告で攻撃を仕掛けてきたと非難しております!

   1の段階
1929年に世界恐慌が起こり、29年・30年は連続で冷害が起こったため農村は疲弊しています。31年は大豊作で米価は大暴落しました。32年・33年は大冷害で農村恐慌が起こります。満州事変を強引に止めて回復途上の経済(事変特需)を不況に持っていきますか?戦争で人減らしできたのに戦争を中断して疲弊した農村に兵隊を戻しますか?

   2の段階
陸軍が反対しているにも関わらず海軍によって強引に推進された北部仏印進駐をどうやって止めるのですか?陸軍がクーデターでも起こして海軍省を制圧でもしますか?間違いなく内戦になりますよ。また、日中戦争で得られる特需で命を繋いでいる中小企業を潰しますか?

   3の段階
東條英機は首相ですので国家方針決定権がありませんし(当時の首相は内閣の総代なだけで、各省の方針は各省が決める。内閣内で方針が一致しない場合は内閣不一致となって総辞職せねばならない)、幾ら陸軍が対米戦に反対しても陸軍大臣が首相であるため反対投票することが出来ません。唯一、対米戦を止める方法はクーデターで以下の様な内閣を作ることです。
首相・陸相…東條英機
その他の大臣は全て陸軍将官ないし陸軍の都合にあった文官
海軍大臣通達によりタカ派の山本五十六を更迭し陸軍の言いなりになりそうな提督を連合艦隊司令長官に据える
対米交渉担当を海軍系から英米駐在武官経験者の陸軍将官に変更し、交渉の引き伸ばしを徹底させる
交渉の合い間にサイパンなどの防備を固める
フィリピン・ビルマ・インドネシア・ベトナムの独立運動を焚きつける
特にインドネシアの独立運動は全面支援を行い、石油の確保を行う
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4.天皇が偽者だったと皆が知る必要がある



最高指導者だった天皇家が歴史を偽り、日本国民を大量に死に至らしめた事を旧日本軍が認識する必要があったと思われる。
歴史的要因として、竹内巨磨と竹内文書、そして階段状ピラミッドの所在です。
闇に葬られた竹内文書と皆神山の真実。

なお、昭和天皇が皆神山の報告を聞きトイレに篭ったことは言わずと知れた事です。
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日露戦争以後は一気呵成に米国との戦いへ傾倒したというご意見が多いようです。

確かに日米戦争は1909年に既にアメリカ人が想定して小説に書いているそうです。最短でこれを防ごうとすれば、日露の勝利後に日本が軍備を自粛して、重商主義から内向きに転向していれば、ひょっとしてあの戦争は回避できたかもしれませんね。
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歴史の見解なんてのは数学物理と違って正解があるわけではありません。

立場によって見方が変わるだけです。だから、質問者さんなりの見解でいいと思いますよ。

なお、事実関係としていつなら止められたかとうのなら、歴史の必然として止められなかったと思います。#1さんと同じですね。日本はアメリカの仲介を受けて日露戦争に勝利しましたが、皮肉にも日露戦争に勝利して太平洋随一の大海軍を持ってしまったがゆえにアメリカとの対決が不可避となってしまいました。だから太平洋戦争を防ぐためには日本海海戦に勝ってはいけなかったのですが、もし日本海海戦に敗北していたらその後の歴史はまったく変わっていたでしょう。

あとは、「結局なんだかんだいったところで防ぎようがないよね」という見解を先生が受け入れるかどうかだけです。私は中道左派の思想の持ち主ですが、バリバリの護憲左派の先生なら「太平洋戦争は防げねえよ」なんて言い出したら落第点をつけられそうですからね。
「先生のお気に召す答えを書く」のが歴史でいい点を取るコツです。
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 難しい質問ですね。

ご指摘の3点のなかでは満州事変の処分が実現性が高かったとと考えます。満州国建国後は中国、モンゴルにもロシアにも侵攻=北進せず大人しくしているのが正解だったと思います。

 ただ、大人しくしていることができたかは別の問題です。私は太平洋戦争は米国が第2次世界大戦に参戦するための口実づくりであったと考えますから、『アジア太平洋戦争はいつの時点なら防ぐことができたと考えられるか』という質問には解なしと言うべきでしょう。その理由は次のとおりです。

 口実の図式

1当時の米国では反戦世論が圧倒的であった。反戦を公約に大統領に再選されたルーズベルトの施策は?

2日本を米国に攻撃させること。日本に攻撃されたなら米国は三国同盟を理由に独伊を攻撃できる、チャーチルの要請に答える事も出来る。大戦終了後は政治的にも世界のリーダーになれる、一石二鳥。当時米国では武器産業への聴聞査察が行われていました。繁栄を謳歌する米国民を参戦に持っていくには日本の米国攻撃しかない。なんとしても日本を怒らすようにもってゆくこと!

3どうやって日本に攻撃させるか?蒋介石をして関東軍をシナの奥まで挑発する。蒋介石には米国から1億ドルの工作資金が渡されていました。戦線が拡大すれば経済封鎖の実施し、三国同盟からの離脱を要求することができる。これはハルノートとなって現れます。

以上の観点からすれば、満州事変で日本政府が責任者の処分を内外に示せばあるいは開戦せずに済んだかも分かりません。しかし、米国はつぎつぎと手を打ってくるでしょう。日本はクリンチでしのぐしか術はなかったと考えられます。亡国か死かという極限まで日本を追い詰めるでしょう。マッカーサーの『ハルノートを突き付けられたどんな小国でも米国に開戦したであろう』との言葉が有名です。

結論として太平洋戦争は避けられなかったと言うべきです。米国は日本のいかなる施策にも耳を貸さず、『日本が先にピストルを抜くようにもって行った』(ルーズベルト)でありましょう。真珠湾攻撃の報に
ルーズベルトは『パンツも脱がずに発射したか』と喜んだそうです。これ以降米国世論は開戦に反転していったことは言うまでもないでしょう。

 

 

参考URL:https://sites.google.com/site/yashinokazenifukar …
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大筋においてNo1様に同意します。



>課題でアジア太平洋戦争はいつの時点なら防ぐことができたと考えられるか、あなたの見解を述べなさい。

「アジア太平洋戦争」という戦争を私は知りませんが、どの戦争のことでしょうか?

日中戦争か太平洋戦争かで全く違います。

それに、「防ぐ」の定義が不明です。
防ぐ=日本が戦争(戦闘)をしない→その結果、日本がどのような事になってもよいなら、いつでも「防ぐ」ことは可能です。

また、↓ですが、あなたなりに考えてみた結果 どのような根拠によるものでしょうか?
それを示していただかないと、観点がズレているかどうかもわかりません。

1,満州事変時に石原莞爾を含む陸軍へ適切な処罰をすること。

適切な処理(便利な言葉ですね)とはどのような事でしょうか?
その内容も示さずに、「適切」とか言うのは、能無しの無責任な発言でしかありません。
「適切な処理」の内容は、回答として求められていないと思います。
それまで要求しているなら、質問者様は他人に課題を押し付けている事になります。
それに、独自行動で満州事変を起した(ということになっている)関東軍がそれを受け入れるか疑問です。


2,日中戦争時、南進論ではなく北進論をとるべきだったということ。

北進論をとるべきだった という根拠は何でしょうか?
南進論は資源確保の為の戦略ですが、北進論の戦略はドイツと協調してソ連を叩く事です。
それで得られる資源は、樺太の原油くらいですが、それだけ戦争の継続は不可能です。


3,東条英機を首相にした祭に、天皇から直接戦争を止めるよう会議で言わせるべきだったといこと。

戦争とは、当時進行中の日中戦争と、その後の対米戦のどちらでしょうか?

日中戦争の場合:朝鮮地方の治安維持や在中邦人の保護ができません。
(質問者様は、満州事変の原因をご存知でなのでしょうか)

対米戦の場合:東条首相のみで開戦を決定したのではありません。
彼はもともと開戦には反対していましたし、他の者達も好きで開戦したのではありません。
それに、内情はどうであれ(動画参照)、アメリカがやる気だった以上、どのような譲歩をしても、引きずり込まれたはずです。


>観点がズレていたりなど何かご指摘や追加すべき要項がありましたら教えて下さい

↑のように言っていますが、質問者様は、課題を他人に押し付けているのではありませんか?


>ちなみに、解答サイズはB4用紙の1/4程度だそうです。

このようなテーマで、B4用紙の1/4 (B5の1/2)・・・?

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どうやったって戦争は防げませんでした 松岡外相があれだけ開戦阻止に動いたのに軍部が強行したんだから

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アジア太平洋戦争って何ですか?何を止めるの?止めてどうなるの?誰がいつどこで何のためにどうやって何をやめるの?

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私は、不可避であったと考えています。


米国がどうしてもやりたかったのですから、これを防ぐのは
無理です。
それはあのイラク戦争を見ても判るのではないですか。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。

では、日本が米国に屈してハルノートを受け入れれば、戦争を避けられた
でしょうか。
私はそうは思いません。イラク戦争を見て下さい。
米国は何か罠を仕掛けて、戦争に持って行ったと思います。

米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。
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Q太平洋戦争は政治力で回避できましたか?

先の戦争で亡くなった方は日本人で330万人と聞いております。なんと言う惨状でしょうか?今更なにも始まりませんが、避けられたのでしょうか? 回避はできたとしても理不尽な要求を呑んで日本人としてのプライドも無くなっていたのでしょうか?歴史に”もし”は禁句ですが、色々想像しています。

Aベストアンサー

どこまで歴史を振り返るのかで変わってくると思います。

NHKの番組やその取材班の日米開戦の本などでは「南仏印進駐」を戦争不可避の分岐点としています。
私もその考えに賛成です。

そもそも、日本の大陸進出が先鋭化しなければアメリカと戦争になる事は回避できたと考えます。

1932年の満州事変ではアメリカを含め国連が日本の行動に反対しましたが、決定的になるところまではいきませんでした。

1937年に日支事変が起きた時も、アメリカ政府はすぐには中国に味方しませんでした。
日支事変発生を受けての九カ国条約会議の開催で、中国側が日本への経済制裁を提案した時、アメリカは反対に回りました。
なぜなら、日支事変発生によって、日本も中国もアメリカから購入する戦略物資の量が増えたからです。
つまり、戦争する両者に物を売ってぼろ儲けする立場にアメリカはいたのです。
だからアメリカは一方的に中国に味方する事はありませんでした。

その状況が変化したのは、中国大陸で日本が中国を負かすため戦略爆撃を開始したからです。
当時、アメリカは中国に多大な投資を行っていました。
それが日本の空爆で被害を受けます。
アメリカは日本に中国での空爆を止めるよう何度も抗議しますが、日本は受け入れません。
怒ったアメリカは日本へ徐々に経済制裁を開始します。
始めは空爆を止めさせるための飛行機関連の輸出停止でした。
しかし、日本の空爆は止みません。
しかも、日本は空爆での民間被害の補償は行わない方針を打ち出します。
さらに、爆撃を強化すると通告し中国にいる外国人の安全も保障しない方針を打ち出します。
アメリカの苛立ちはつのり経済制裁を日本に段階的に行いますが、日本の行動は止まりません。
しかも大東亜共栄圏構想という日本の植民地拡大政策と判断される政策を打ち出してきました。
そこでアメリカは中国への支援に乗り出しました。

アメリカが中国への資金援助を開始したのは1938年12月という日支事変開始より1年5カ月も経った時点からでした。

その後も日本はアメリカを怒らせ続けます。
1940年9月にアメリカがイギリスと防衛協定を結んでドイツを潜在的敵と見なせば、その二週間後に日本はドイツとイタリアと日独伊三国同盟を結びます。
アメリカが敵と見なしている国と同盟を結ぶのですから喧嘩売ってるのと変わりません。
怒ったアメリカは鋼鉄の対日輸出を停止します。

最終的には南仏印に日本軍が進駐してアメリカを決定的に怒らせ、アメリカの対日石油禁輸となりました。
この南仏印進駐についてはアメリカは日本に対して警告までしています。
当時の日本の外相は南仏印進駐はアメリカとの戦争になるから止めた方がよいと主張しますが他の閣僚が甘い見通しで押し切ってしまいました。
そしてアメリカは石油を止め、日本は戦争の決断を。

アメリカによる段階的経済制裁の始まりの原因は日本の行動にあります。
アメリカの抗議を受け入れ日支事変での戦略爆撃を止めていたら。
また、日支事変の戦略爆撃においてアメリカに与えた損害について補償をすぐに行っていたら。
大東亜共栄圏構想という他国に日本の植民地拡大政策と捉えられる発表をしなかったら。
アメリカが中国を支援する事は無かったかもしれませんし、その後の日米開戦も避けられたかもしれません。
その後も
日独伊三国同盟を結ばなければ。
北仏印に進駐しなければ。
南仏印に進駐しなければ。
恐らくアメリカと戦争になる事は無かったでしょう。

アメリカのチャールズ・A・ビアードという歴史家の「ルーズベルトの責任」という本の中で、ハーバード大学のデートレフ教授がこの本の紹介文を寄せていますが、そこには
「日本がアジア大陸で膨張主義的な目的を追求した事からルーズベルト大統領は懸念を覚え、日本を押さえ込むために圧力をかけ始めた」と記しています。
この本を読めばルーズベルト大統領が表向きは不戦の姿勢を見せながらもハル・ノートという過度な要求を日本につき付け、日本を戦争へ追いやった事がわかりますが、その前に日本のアジアの膨張政策が問題であった事もわかります。

1941年8月1日、アメリカが日本に対し石油の全面禁輸を禁止を行いました。
その2日後、ニューヨークタイムズにギャラップのある世論調査の結果が載りました。
それは「アメリカは戦争の危険を犯してでも日本の膨張に歯止めをかけるべきか」というアンケートに対するものです。51%の人がYESと回答していました。
この時点でアメリカ国民も半数が日本のアジア進出に危機感を抱いていたのです。

そもそも当時のアメリカの好景気でした。

「ニューディール政策」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%94%BF%E7%AD%96

この上に貼ったウィキの「ニューディール政策」のところにあるアメリカのGDPのグラフと失業率のグラフを見ていただければわかりますが、戦争が開始される1941年12月よりも前の1940年以前において、既に世界恐慌前のGDPの水準に回復している事がわかりますし、戦争開始前に失業率が低下していっているのがわかります。
これはヨーロッパにおいて第二次世界大戦が始まったからであり、イギリス、フランス、カナダ等、連合国から大量の武器や物資の受注があったからです。
それだけではありません。イギリスはアメリカの軍需産業に投資を行い工場の拡大や設備の増強を求め、生産の拡大に動いています。
つまり戦争特需が発生していたのです。
自国が戦争を起こし戦争で経済を回復させるなどという必要はありません。
そもそも第二次世界大戦におけるアメリカの戦費は戦時国債です。つまり国の借金でしかありません。
それに一時的に景気が回復しても戦争が終われば軍需生産は萎みます。
その後は不況が来るだけです。実際、アメリカは戦後に戦後不況に陥っています。
上に貼った「ニューディール政策」のGDPや失業率のグラフにおいて、第二次世界大戦後に悪化を示しているのは戦後不況が起きたからです。
もし世界恐慌からの経済回復を目指して戦争を仕掛けさせる謀略を行うというのなら、そんな回りくどい事をしなくても1937年12月に発生した日本軍機によるアメリカ軍艦攻撃事件「パネー号事件」を利用していた筈です。
何せ、この時はアメリカ政府内から日本に宣戦布告するべきだという声が上がっていたのですから。

ともかく、日本がアメリカの敵視する独伊と日独伊三国同盟を結んだり、南仏印に進駐するなどの膨張政策を見せなければ、アメリカも日本に過度な要求を突き付け戦争に追い込んで来る事はなかったでしょう。

これらの事を考えれば、日本とアメリカの戦争を回避する可能性は南仏印進駐前までなら、その時、その時でありました。
日支事変での戦略爆撃の停止。
日支事変における戦略爆撃被害の補償。
大東亜共栄圏構想の公表を控える。
日独伊三国同盟の締結中止。
北仏印、南仏印進駐の停止。
そうした事が為されていたら、アメリカとは戦争にならず朝鮮も満州もそのまま日本の支配下で暫くは歴史も進んだのではないかと思います。

天皇陛下は日独伊三国同盟に反対していました。
また南仏印進駐にも反対で東条陸相に言いましたが受け入れられませんでした。
もっと天皇陛下の御意思を政府の閣僚が尊重していれば日本とアメリカの戦争は避けられたと思います。

どこまで歴史を振り返るのかで変わってくると思います。

NHKの番組やその取材班の日米開戦の本などでは「南仏印進駐」を戦争不可避の分岐点としています。
私もその考えに賛成です。

そもそも、日本の大陸進出が先鋭化しなければアメリカと戦争になる事は回避できたと考えます。

1932年の満州事変ではアメリカを含め国連が日本の行動に反対しましたが、決定的になるところまではいきませんでした。

1937年に日支事変が起きた時も、アメリカ政府はすぐには中国に味方しませんでした。
日支事変発生を受けての九...続きを読む

Q第一次、第二次世界大戦

課題で困っているので、教えてください!!!
第一次、第二次世界大戦はなぜ避けることができなかったのでしょうか?
そして、もし避けることができたならどのように避けることができたのでしょうか?

Aベストアンサー

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、ということもできます。
実は、1870-71年のプロイセン・フランス戦争の後は、第1次世界戦までヨーロッパで列強同士の大きな戦争は起こっていません。しかし、激しい軍拡競争は展開されていました。また、局地的武力衝突が起こったときに、前面戦争を回避するためのメカニズムが整備されておらず、電報で瞬時に情報が伝わっていくことにも不慣れなところがありました。

第2次世界大戦の場合は、先行して満州事変につづいて日中戦争が東アジアで起こっていたことはまず1つの前提となります。日本が、軍事力による領土拡張と国際連盟の脱退という点で、ドイツに先例を与えたことの意味は大きいと思います。
第2次大戦に先行する時期にも、ナチス・ドイツは戦争も覚悟の賭けを何回かしています(1935年のザールラント併合や徴兵制復活・再軍備宣言、36年のロカルノ条約破棄とラインラント進駐など)が、これを米英仏が容認したことが、ドイツの領土要求のエスカレートの直接の要因となっていて、ミュンヘン会談が有名ですが、英仏はその要求も認めます。この段階で、英仏がドイツに対してもっと強く出ていたならば、早期に戦争になっていたら、ドイツの軍備拡張が追いつかず、早々とドイツの敗北で終わっていたでしょうから、ドイツ側が戦争回避に動いた可能性があります。戦争が防げたかどうかはわかりませんが、もっと違った展開になっていたのは確かだと思います。
1939年9月のポーランド侵攻のときも、ドイツは英仏と全面戦争になるとは予想していませんでした。これに対して英仏は対独宣戦布告はしますが、ポーランドの独ソでの分割占領の段階では、ドイツと英仏の大規模な軍事力の衝突は起こっていません。それで、ドイツは英仏を恐れるに足らず、と考えるようになって、その後、北欧・ベネルクス3国・フランスを「電撃戦」で次々に占領下に起きますが、そこには英仏の油断があったことは否めません。英仏がドイツを甘く見たということです。これはソ連についても言えます。ドイツが、英仏やソ連に勝てないと思うような状況だったら、また違う歴史がありえたとは思います。

根本的なところでは、他の方の回答は的を得ていると思います。各国が、軍事力を用いてまで領土を拡張するという意思を持たなかったならば、戦争は防げたというのは、基本だと思います。僕は、もうちょっと細かい技術的なところを書きます。

第1次世界大戦の場合、多分に偶発的な要素がありました。当事者たちも何がどうなっているのかよくわからいないまま、軍事同盟網を伝って戦火が全欧に広がっていったようなところがあります。軍事力の均衡による平和という考え方のもろさを第1次世界大戦は示した、という...続きを読む

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Q途中で戦争をやめる

太平洋戦争で日本は途中でなぜ戦争をやめなかったのですか?
1945年で日本軍軍人の戦死率が一気に上がりました。1944年で降伏していれば無益な血を流さずに済んだハズです。
なぜ日本は途中で戦争をやめれなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

回答:以下の理由より、連合国が受け入れられない条件を出していた為です。

前の戦争は、何も考えず開戦してしまったという意見がありますが、間違いです。
天皇が神と思われていたと言うのも間違いです。だとしたら、立憲君主制の憲法を制定したりしません。
また、開戦までは自由な言論が行われていました。でなければ何度も首相が変わったりしません。

開戦前の昭和16年に、当時の日本政府は、「総力戦研究所」を作り、軍・官僚・マスコミ等、各分野の有識者を集めて対米戦のシミュレーションを行っています。
その結果は、現実と殆んど変わりませんでした。(原爆・ソ連の参戦は除きます)
ということは、軍部も勝てるとは思っていなかったということです。
しかし、僅かな可能性に掛けなければならない程、アメリカのハルノートは厳しいものでした。
(質問者様は、その内容と交渉の過程をご存知ですか。また、受諾した場合の影響を考えたことがありますか。)

戦争とは、武力で目的を相手に認めさせる為の、手段に過ぎません。
この場合の目的とは、対中戦争の為の資源の確保ですが、それはアメリカが輸出を再開すれば達成されます。
日本は初戦で勝って、戦意を挫き講和させようとしましたが、あの国を占領統治しようなどとは思っていません。
予定通りには行きませんでしたが。

一方が戦場から出て行けば、戦争は終わるというのも間違いです。
そして、それは戦争=相手国の占領・消滅という、誤った短絡思考から来るものです。
戦争は戦闘の終了ではなく、講和によって終わるものです。
極論すれば、戦闘に負けても、講和条件で目的が達成されていれば勝利です。
戦場(領土)の占領がその戦争の目的であった場合、撤退=目的が達成できない=失敗です。
更にその土地を失う事が、更なる損失を招く可能性も考えければなりません。

日本は、もっと早く講和しかったのですが、できませんでした。
理由は、アメリカの講和の条件に、国体(天皇)の保持が明記されていなかったからです。
当時の日本が、これを受け入れられる筈はありませんでした。
アメリカは、これによって原爆を準備する時間を稼ぎました。
目的は、人体実験と他国に力を見せて戦後の国際社会での影響力を確保する為です。
(遅れすぎるとソ連が日本本土まで占領し、日本が朝鮮やドイツのようになる怖れもありましたが)
実際、ソ連は北海道を取るつもりで侵攻してきましたが、日本軍により北方領土までで阻止されています。
無条件降伏についてですが、これは軍隊だけで国家に対してのものではありませんでした。
それを調印後に連合軍が勝手に国にまで適用してしまいました。
しかし、軍を失った日本はそれに抵抗できませんでした。
ドイツは国として無条件降伏しましたが、これは政府が崩壊し消滅していた為です。


軍が国民を騙していたとも言われていますが、これは戦後のアメリカの洗脳で間違いです。
アメリカは、自分を正義の解放者と思わせる為に、戦争は日本政府が国民を騙して始めたと宣伝し、国民に責任はないと宣伝しました。これを信じると、国民は罪悪感からは解放されますが、自国への不信とアメリカへの劣等感を抱き、アメリカによる戦後の統治はより容易になります。

大日本帝国の最期  第参幕
http://www.youtube.com/watch?v=wxB1TjPHTQc

http://www.youtube.com/watch?v=-0PzqrHjeKU&feature=related

回答:以下の理由より、連合国が受け入れられない条件を出していた為です。

前の戦争は、何も考えず開戦してしまったという意見がありますが、間違いです。
天皇が神と思われていたと言うのも間違いです。だとしたら、立憲君主制の憲法を制定したりしません。
また、開戦までは自由な言論が行われていました。でなければ何度も首相が変わったりしません。

開戦前の昭和16年に、当時の日本政府は、「総力戦研究所」を作り、軍・官僚・マスコミ等、各分野の有識者を集めて対米戦のシミュレーションを行っています...続きを読む

Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む

Q太平洋戦争を早く終わらす事ができなかった理由

皆さんこんにちは。

昭和20年8月15日に太平洋戦争は終わるわけですが、
日本政府が勝つ見込みがないと、考えていたのは、
いつぐらいからなのでしょうか?

そして、それならなぜもっと早く終わらす事ができなかった
のでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ええと、負ける云々の前に早期和平について、

はじめる前は当然、早期和平ではじめましたが具体的な方策がありませんでした。

真珠湾攻撃前、アメリカ国民は戦争賛成派は極少数でしたが、外務省の馬鹿のおかげで奇襲攻撃とされ、アメリカ国民が一挙に戦争賛成派にかわりました。

ある一定の有利(?)な条件で講和が進められる可能性のあったのはイタリアが降伏する前でしたが、相手のあることで上記のような理由と、海軍がミッドウエーの敗戦を海軍内部のみの秘密としていたため、東条総理ですら1年間しりませんでした。

負けを政府が悟ったのは?

これは難しいですが、まず、サイパンが陥落し、東条内閣が総辞職したときと判断するのが適切と思います。

なぜもっと早くできなかったか?

特攻隊の生みの親と言われる大西中将は、特攻などという戦術として成立しないことを行えば、臣民にたいし慈愛ある昭和天皇は、即刻、講和を行うと考えていたが、天皇は「不憫ではあるがやむなし」とお褒めになったので、やぶ蛇になった。

まず、陸軍は中国戦線では負けてないので感情的にも負けてないのに講和考えられない。海軍は特攻のやりすぎで、今までの死んだものに顔向けできんと自暴自棄状態だった。そうした現場の殺気だった中間管理職層を陸軍も海軍も抑えきれるものがいなかった。

また、外務省がとろく、連合国側の情報収集がまったくおそまつだった。

アメリカと和平工作を開始しようとした途端に、その責任者にしようとしていた吉田茂が憲兵に拘束され、対アメリカ工作ができなくなった。

などなど、あげればきりはありませんが、そもそもは、最初に負けたときのことを考えていない。勝ち方も考えていなければ、負け方も考えていなければ結果はああなるということです。よく、それで戦争を始めたという無責任ぶりに呆れるばかりです。

ええと、負ける云々の前に早期和平について、

はじめる前は当然、早期和平ではじめましたが具体的な方策がありませんでした。

真珠湾攻撃前、アメリカ国民は戦争賛成派は極少数でしたが、外務省の馬鹿のおかげで奇襲攻撃とされ、アメリカ国民が一挙に戦争賛成派にかわりました。

ある一定の有利(?)な条件で講和が進められる可能性のあったのはイタリアが降伏する前でしたが、相手のあることで上記のような理由と、海軍がミッドウエーの敗戦を海軍内部のみの秘密としていたため、東条総理ですら1年間...続きを読む

Q太平洋戦争は避けられなかったのか?

日本は太平洋戦争でどうして勝ち目のない戦争に挑んだのか、避けることはできなかったのか というような質問がこのカテでも過去に何件かありました。そして、比較的多くの回答がつく傾向にありますが、決まって大半は反論的な回答です。どうしででしょうか? 私なりに若干補足を加え整理していました。確かに、当時の段階で戦力を分析するのは難しかったかもしれませんが、山本五十六たちは日本は逆立ちしてもアメリカには勝てないと踏まえていたし、最悪のシナリオも想定していたはずです。

(1)歴史にifはないと 言われるように、タラ・レバを語るのはナンセンスだから。

(2)結果論の後知恵なら誰にでも言えるから。

(3)こういう質問は歴史の認識が浅い人の典型的な愚問の一つであり、複雑な背景を考えると 単純に当時の日本の中枢部が愚かだとは結論を導けないから。

(4) 当時の日本は 窮鼠猫を噛む 状態にあり、万に一つの可能性に賭けたから。東京裁判のパール判事が ハルノートを突きつけられたら、モナコやルクセンブルグのような小国でさえ アメリカと開戦するだろう と言ったように、ハルノートはそれほどまでに無茶な要求であり、ましてや、日清・日露戦争で勝利した日本がハルノートを受け入れることはあり得なかった。

(5)日本は倒幕、または黒船到来の時から いずれアメリカと衝突する宿命にあった。宿命は誰にも変えられない。

(6)当時の日本は政府も国民も一種の集団マインドコントロールを受けていた状態にあり、開戦を回避するのは もはや不可能だったから。

(7)当時の日本の中枢部は最悪のシナリオを想定外に置いていたから。その点では
今回の福島原発事故に通じるものがある。

(8)当時の日本人は元寇の時のように、ピンチの時には神風が吹いて 奇跡が起きると信じていたから。

(9)ハルノートを突きつけられた時点でもはや手遅れだった。l日本は満州に進出した時から、その流れは理屈や論理で歯止めが利かない状態にあり、アメリカとの開戦の流れは誰にも止められなかった。もし、戦争を回避するなら もっと早くから舵取りする必要があった。

(10)日本はアメリカ本土に上陸することは考えておらず、日露戦争の時のように、最初の段階で相手国に打撃を与え、自国に優位に講和を持っていく思惑があったから。

(11)日本は同盟国のドイツがイギリスとソ連から戦勝することを見込んでおり、そうすれば、日本は必然的にアメリカに勝てると思ったから

(12)東条英機などの軍部トップたちに、日本軍は質素剛健で強い(はずだ)という過大評価があり、米軍は贅沢に慣れきって弱い(だろう)という完全に間違った思い込み・過小評価をしていたから。

日本は太平洋戦争でどうして勝ち目のない戦争に挑んだのか、避けることはできなかったのか というような質問がこのカテでも過去に何件かありました。そして、比較的多くの回答がつく傾向にありますが、決まって大半は反論的な回答です。どうしででしょうか? 私なりに若干補足を加え整理していました。確かに、当時の段階で戦力を分析するのは難しかったかもしれませんが、山本五十六たちは日本は逆立ちしてもアメリカには勝てないと踏まえていたし、最悪のシナリオも想定していたはずです。

(1)歴史にifはないと...続きを読む

Aベストアンサー

 (1)歴史学者を称する連中の逃げ。二度と起きないだろうから、分かっても仕方ないという思考停止。要するに想像力のなさを隠すため。
 (2)検証・分析が浅いとあと知恵にしかならない。当時の人たちが外界をどう観ていたかの理解がない。
 (3)ようくあること。組織や制度上の問題を個人にすり替えて流してしまう。いまと同じ。
 (4)ハルノートはアメリカの手口。相手に先に手を出させるテクニック。トンキン湾でユーゴスラビア内戦で、イラクのクェート侵攻時。いたるところでやっている。ただし、アメリカが元気なときだけ。
 (5)現実には日米の摩擦は中国市場の取り合いという面が大きい。(米系のスタンダード石油が日本の企業に遮られた影響は無視できない。)
 (6)(3)と同類。イデオロギーを振り回されると、論理がなくなり印象だけで判断する。いわば思考停止
 (7)衰退しつつあるとはいえ、イデオロギー中心で考えているので、(6)と同じになる。(イデオロギー中心ということは、論理ではなく、あくまで初期の信仰。つまり「神国日本」「文明は未開を助けるべし(=植民地は神の意志)」「神の意志を実行するものは白人でなければならない」)
 (8)信じてはいない。思考停止していたから、なるようになるさ、と思っていただけ。(現実には、終戦間際フィリッピン近海で、米艦隊が台風の直撃を受け大損害を受けた。)
 (9)そのとおりだが、思考停止状態ではそういう発想にはたどり着けなかったとおもわれる。
 (10)上記と同じで、勝つか負けるかということだけに意識がいって、「負けない戦略」や講和へもっていくにせよ、そこへいたる戦略がまったくできていなかった。要は思考停止と烏合の衆による小田原評定。結果は個人になすり付けておしまい。
 (11)ほら話の一種。こちらがコントロールできない事柄を都合良く解釈しているだけ。そもそもどのようなことが勝利なのかさえ、まったく理解していなかった。要は「アジアのことはこちらでやるから口を出すな」程度の話。
 (12)個人か組織(制度)の二者択一で、どちらかを選んでいるだけ。思考停止の一種。

ーーーーーーーー
 当時のイデオロギー中心の世界観は、国として人ををまとめるための方便。たとえば創世神話を土台に、「われわれは~人」だから「このように行動しなければならない」という意識に取り付かれたまま、自らの世界をただ広げようとした時代。その昔のように人口もさほど大きくなく、輸送手段も限られていた時代ならともかく、この時代は膨大なヒト・モノ・カネが動員できる、史上まれな時代だった。
 そういった巨大システムに忍び込んだのが「神の世界を実現する」というイデオロギー。そこから未開に知識をおくり、より(われわれ白人のように)神に近づくように啓蒙するという考えができる。(昔のキリスト教のヒエラルキーは神の下の人間というのは、白人のみ。もっと昔には女はだめだった。その人間の下、つまり獣の類に有色人種が入っていた。)
 別の言いかたをすれば、キリスト教徒で白人でないものは、すべて異教徒。異教徒は神に従わせるために絶滅させて一向にかまわないという結論が導きだされる。それが戦争の土台になり、さらには、列強に追いつき追い越せの日本も、同じようなスタンスで事に当たった。(もちろん、日本人個々人は宗教性を意識したわけではない。しかし当時の「土人」という言葉にあるように、その他のアジアを上から目線で観ていたことは間違いがない。)

 だから日本独自の論理ではなく、白人国家の論理、そしてイデオロギーに載っている限り、戦争は回避できなかったと思われる。

 (1)歴史学者を称する連中の逃げ。二度と起きないだろうから、分かっても仕方ないという思考停止。要するに想像力のなさを隠すため。
 (2)検証・分析が浅いとあと知恵にしかならない。当時の人たちが外界をどう観ていたかの理解がない。
 (3)ようくあること。組織や制度上の問題を個人にすり替えて流してしまう。いまと同じ。
 (4)ハルノートはアメリカの手口。相手に先に手を出させるテクニック。トンキン湾でユーゴスラビア内戦で、イラクのクェート侵攻時。いたるところでやっている。ただし、アメ...続きを読む


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