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太平洋戦争時、赤紙で戦地に行かれた方たちの
出征(入営)時および戦地の服装について、教えてください。

1.
出征時の服装は決まっていたのでしょうか?

2.
ドラマなどで、出征する方が家族に見送られるときに着ている服が国民服に似ているのですが、これは国民服なのでしょうか? 

2.
戦地では何を着て戦っていたのでしょうか。戦闘用の服が支給されてそれを着ていたのでしょうか?

A 回答 (6件)

回答者 No.3 再びです。

補足の質問にお答えしつつ、さらにもうちょい書こうと思います。

> 戦地で戦っている方たちは全員(在郷軍人も学徒兵も)
> 国から支給された共通の軍服を着ていた

将校と准士官は軍服も軍靴も何もかも自分で金を出して(最初だけ軍からいくらか補助金が出るケースがありますが)用意します。ですから「国から支給された」というのは違いますね。下士官と兵隊は軍(=国)から軍服を貸与されました。支給っていうともらえるような誤解を受けますから、貸与と表現するほうが好ましいと個人的には思います。 以下は下士官と兵隊について書きます。

「在郷軍人」ってのはシャバにいる時の呼び名ですから、いったん「赤紙」などの召集令状を受けて「召集」され軍隊に入れば、そんな呼ばれ方は過去のもので“普通の兵隊(または下士官など)”です。「学徒兵」というのも、シャバの世界では当時のエリートだった高学歴者をシャバの世界がおだてた呼び名であり、軍隊の中での“公式的な扱い”は他の人と変わらない“普通の兵隊”です。徴兵により初めて軍隊に入った人と同じです(ただし、高学歴の頭の良い人材を下っ端の兵隊にしておくのは軍隊としてモッタイナイので、何ヶ月か兵隊をやらせたあとに「幹部候補生」といって将校になる特別コースに進ませることもありましたが、これは今回の服制とは別の話)。

初めて入営した「現役」の兵隊も、「召集」されて、二度目(人によっては三度目という場合も)の軍隊生活をする「予備役」「後備役」の兵隊も、初めて入営するが、やや低く見られがちな「補充役」の兵隊も、原則的にはみんな同じ“普通の兵隊”です。ですから原則として貸与された共通の軍服を着ていたということになります。軍服は一着きりということはなく、国内にいるときは軍衣と呼ばれる上着、軍袴(ぐんこ)と呼ばれるズボンの上下セットが3つぐらいは貸与され、手元で兵隊個人が管理します。だいたい状態がやや良いもの1セット、劣化しているもの2セットぐらいで普段の生活や演習では劣化しているものを交互に洗濯しながら使い、状態がやや良いものは外出や特別なときに使う「よそ行き」です。冬服と夏服の違いもあります(季節が違うときの服は部隊の倉庫にでも保管したと思います)。これが戦地へ行くとなるといちばん良い状態の軍服を着て出征し、他にいろいろ持って行けないのでそれ一着きりです。ただし戦地といっても常にドンパチやってる最前線ばかりではないですから、すこし安全な後方に駐屯しているときは輜重兵など補給部隊が持ってきた着替え用の軍服を手にいれて、交換して使っていた場合もあるでしょう。

以上が総論です。しかし、物事というものは総論があれば各論もある。各論として、「共通の軍服」といいますが、細かいことをいえば戦地によって気候が違いますから、寒い満州では防寒がしっかりした外套や防寒帽も含めた軍服一式だし、暑い南洋であれば防暑タイプの軍服です。厳密に日本の陸軍(あるいは海軍)すべてが「共通」というわけにはいかない、という答えになります。ま、同じ場所にいる同じ部隊の中なら「基本的には共通」です。

もう一つの各論があります。いま「基本的には共通」と書きました。なぜかというと年代によって軍服のデザインや品質が違うからです。陸軍の場合ですが、まず大きな違いとして昭和13年(1938)にデザインの変更がありました。上着がそれまでは立襟(学生服みたいな感じ)だったのが折襟(国民服と似た感じ)になりました。そして階級章は肩についていたものが襟につけるようになりました。また、パッと見ではなかなかわからないことですが、軍服の品質も年を追うごとにどんどん変わっていって、質が悪くなります(布地やボタンの材質や縫製の確かさ)。兵隊の数が増えたことと、何よりも物資が不足したことが原因ですね。襟の形や階級章の位置などデザインが同じでも年代が終戦の昭和20年(1945)に近づけば近づくほど品質は劣化していきます。そこで兵隊たちは年代の古い軍服を好んだという著述がよく見られます。ひとつには良い品質のほうが、やはり着ていて快適であるということ。もうひとつは古いデザインの軍服を着ていたほうが、いかにも歴戦のベテランのように見えてかっこいい。ですから下士官は当然、兵隊でも階級が上の者や軍隊の在籍年数が長い(部隊の中で立場が強くなる)者ほど、いろんな手段を駆使して「古い軍服」を自分に回してもらって着ていたようです。昭和14年~17年ぐらいの写真を見ていると、下士官の班長さんや上等兵が立襟の軍服を着ていて、階級章の星1つの新兵は折襟でペナペナな生地の軍服なんていうのもときどき目にすることがあります。襟のデザイン変更は太平洋戦争が始まる3年前ですから、戦争後半にはもう立襟の軍服は(戦地では特に)ほとんど手に入らなかったでしょうが、品質に関しては終戦まで良質の軍服を求める傾向はあったといえます。


最後に蛇足ですが、前の回答にも書いた「兵隊になっても軍服は“貸与”されるだけであって、もらえるわけではない」傍証の資料をリンクしておきます。昭和12年春に帝国議会の衆議院が「兵隊が除隊する際に、かわいそうだから一着ぐらいあげたらどうだ」と出した建議書の写しです。それはつまり昭和12年春までは、兵隊になっても軍服はもらえなかったことを意味します。その後どうなったという資料はすぐに見つかりませんでしたが、この建議書が出された直後の7月に日中戦争が始まり、日本は泥沼に入っていくわけで、国も軍隊も軍服をくれてやるほど財政の余裕はなかったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C010015396 …
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この回答へのお礼

こちらの回答をベストアンサーとさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/25 11:43

たびたびすいません、回答者 No.3 & No.5 です。

No.5の回答において

> 軍服の品質も年を追うごとにどんどん変わっていって、質が悪くなります
> 終戦の昭和20年(1945)に近づけば近づくほど品質は劣化

などと書きました。誤解の無いように補足すると製造年が新しい物のほうが品質が悪いという意味です。「古い軍服を何年も着ていて擦り切れたり破れたりで劣化する」ということではもちろんありません。 製造年が古くても、何らかの事情で使用されずに保管されたまま(いわゆるデッドストック)とか、あまり頻繁に使用されておらず状態が良い、という軍服を下士官や古参兵は欲しがったと補足させてください。皆さんわかっていたとは思いますが、念のため。

ついでに

> 戦後、戦地から帰ってこられた方は軍服のまま戻られた
> 方が多いのでしょうか? これもドラマ等では国民服に
> ゲートルを撒いたような服装の方が多いように思うのですが

戦地では軍服以外にないでしょう。敗戦のあとの戦地の日本軍は捕虜として米英中などの軍隊の監視下にありましたから、民間の服など手に入れる余裕はほぼありません。 そして日本行きの船が手配されたらそのまま詰め込まれて帰ってくる、その際に僅かな私物なども没収された人が多かったようです。No.3で私が書いた要領の良い人は軍の毛布をウンヌンという話も内地(国内)の部隊だろう、と修正させてください。

しつこく書きますが、兵隊と下士官の軍服は基本的に軍隊に返すものです。昭和ヒトケタの頃なら除隊のときも羽織袴とか背広とか、ちょっと良い服を除隊直前に送ってもらったり休日外出のときに持ち込んだりするのが許されたようで、それを着て除隊します。人によっては在郷軍人服を準備して、それを着て除隊したんでしょう。また日中戦争や太平洋戦争中も2年ぐらいでは簡単にシャバに戻してくれませんが、長年いれば除隊できる人はいました。そういう人は戦地にいても一度内地の留守部隊などに戻ってその後で除隊するので、内地の部隊でシャバの服を準備すればいいのです(戦争中は晴れ着なんか着る余裕はなかったでしょう)。敗戦後は軍隊が機能しなくなったので、軍服を返す相手がいないも同然ですから、軍服から階級章や徽章の類をはずして(そうするとちょっと国民服のように見えます)その格好で帰還するのが普通。終戦直後はそういう服のまま生活している人も珍しくなかったようですね、何しろモノのない時でしたから。そういう服を「兵隊服」とも呼んだそうです。

ドラマなんて、すべてテキトーなんで真面目に見るもんじゃありません。白黒時代の映画ならまだ多少は参考になりますが、カラーになって、まして平成以降なんてすべて“イメージ映像”でしかないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
No.3, 5も含め、ご回答くださった文章もわかりやすく、大変勉強になりました。
リンク先の資料も興味深く拝見いたしました。

ありがとうございました。

お礼日時:2012/08/25 11:39

元軍国少年です。


日中戦争の初期徴兵(応召)で入営する青年の見送りに
行ったことがあります。」
町会で駆り出されたものです。

「祝出征○○君」と書かれた幟を先頭に20人位いました。
駅のすぐそばの線路脇の空き地で激励会、軍歌を歌い
万歳三唱です。
そこで解散し駅まで行ったのは家族だけのよう。
激励会は他に何組もありました。
入営する人は平服です。
国民服が決まってからは衣料の配給制で制限され、それしか
作れないので普通は入営は勿論国民服でしょう。

激励会の参加は一回きりでその後はありませんでした。
大勢の見送りは控えるようにと通達があったと聞きました。
当時はあの時の軍歌にかなしさのあるものもあったので
そのせいかと思いましたが、スパイを警戒してのことでした。

戦場では兵は支給された軍服、軍帽、軍靴、ゲートル、鉄兜
を付けて戦います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/08/25 11:40

服装の前にまず、ハッキリとしておかなければならないことがあります。



シャバの世界から陸軍に入る場合、みんなが「赤紙」をもらったわけじゃないです。二十歳の時に徴兵検査を受けて甲種や乙種で合格し、数ヶ月後に予定どおり指定された部隊に入って(これが「入営」)兵隊になる人は「現役」の兵隊で、「赤紙」をもらわないはずです。そこで原則2年間、兵隊として努め除隊すると「予備役」となり、またシャバで生活するわけです。「予備役」の人は年をとると「後備役」という扱いになります。これら「予備役」や「後備役」でシャバで暮らしているひとを「在郷軍人」とも呼びます。それから徴兵検査のときに体が弱くて不合格だったり、合格でも兵隊の数が余っていて(大正から昭和ヒトケタの頃はそういうこともあった)結果的に「入営」しなかった人は「補充役」とされてシャバで暮らします。

昭和の始めごろなら、「入営」する人はシャバの服装で出かけますが、軍隊生活というのは人生の一大イベントですから、多少は気合を入れた服装として紋付の羽織袴であったり、背広にネクタイという格好の人が少なくなかったようです。このシャバの服は貸与される軍服に着替えたあとは荷物としてまとめ、「入営」に付き添って来てくれた人に手渡したり郵送したりでシャバに戻します。

昭和12年(1937)、日中戦争が始まると兵隊の数が多く必要となったので「予備役」や「後備役」の人をまた陸軍に呼び戻すために「召集」します。このときの「召集令状」のひとつが俗にいう「赤紙」。この召集はその後もずっと続き、昭和16年(1941)太平洋戦争の時代に突入していきます。初めはまだ年齢が若めの「予備役」から、そのうち戦争が激しくなって人員が消耗してくるとオッサンの「後備役」や、今まで「入営」経験がない「補充役」も「召集」されるようになりました。なお、「赤紙」ではなく「現役」として「入営」する人も戦争が終わるまで変わらずにいました。

「召集」されて軍隊に入るのは「応召」と表現する場合が多いようです。「出征」とは本来は兵隊が日本を離れて戦地に行くことを意味するはずでが、戦争が盛んになると、兵隊になることは近い将来に戦地に行くこととほぼイコールになってきたので、シャバから軍隊に入ることも「出征」と呼ぶことになったようです。

このときの服装は、すでに過去に厳しい軍隊経験がある「予備役」や「後備役」の「在郷軍人」の中にはプライドを込めて「在郷軍人服」という、階級章も付いた軍服そっくりの服を作って持っている場合があり、それを着て家を出ていった人がいるので、それが軍服と誤解されることが多いのではないでしょうか。兵隊や下士官の軍服は軍隊(=国)のものであり、軍隊にいるあいだだけ貸し与えられているものですから、シャバから軍隊に行く時に軍服を着ているのは(将校を除いて)話の辻褄が合いません。当時の日本は間違いなく貧乏国であり、兵隊になったからとしていちいち軍服をあげていては財政負担がとんでもないことになるということを考えてみてください。

また初めて軍隊に入る人を含め「在郷軍人服」を持っていない人の中にも、ちょっと見ると軍服っぽい「青年団服」や「消防団服」などを着ていく場合があるようで紛らわしいです。さらに昭和15年(1940)には「国民服」という、これまた陸軍の軍服に似ているものが定められた(奨励はされたが義務ではない)ので、それ以降、つまり太平洋戦争の期間中は今の目から見ると軍服と見間違えやすい服装が多かったと思います。大学・専門学校からの学徒兵は学生服でしょう。こういった服装はそれぞれの自由意志だと思います。

しかしながら、太平洋戦争も進んでいくと防諜(スパイに情報が漏れないようにすること)として、どれだけ兵員を増やしたか知られないためにあまり大っぴらに入営や応召を行わないように軍部からお達しがあり、言われるままに酒瓶を片手に浴衣がけで夕方に兵営の門をくぐって兵隊になったという著述を読んだことがあります。真偽の程は知りませんが。

最後に、戦地では軍人はもちろん軍服が基本ですが、憲兵の中には任務のために民間の服(背広や防暑服、時には支那服)を着て、頭髪も軍人丸出しの坊主頭ではなく、少し伸ばして七三にしている者も少なくなかったようです。また、軍服でも将校はふつうテーラーメイドの良い軍服を自分で誂えますが、質が良いために目立ち、狙撃されることが多いので安全のために兵隊と同じような安物をわざわざ着たと『ある陸軍予備士官の手記』(中村八朗著)で読みました。当時の日本陸軍は今の自衛隊や米軍と違い、戦闘の時もデスクワークの時も同じデザインの軍服だけです。飛行機に乗るような職種はもちろん例外ですね。

敗戦後はもう軍隊に気兼ねすることもないですから、階級章などを取り去った程度の軍服をそのまま着て復員したでしょう。そのぐらいは退職金がわり(涙)ですね、要領の良い人は軍の毛布などをいただいて帰ってきたようです。

参考URL:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/ …

この回答への補足

ありがとうございます。大変参考になります。
ご回答くださった文章を引用させていただきながら、再度質問させていただきたく、以下お願い申し上げます。

>最後に、戦地では軍人はもちろん軍服が基本ですが、

戦地で戦っている方たちは全員(在郷軍人も学徒兵も)、国から支給された共通の軍服を着ていた、というふうに理解してよろしいでしょうか?

補足日時:2012/08/24 11:29
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応召でしょうか?入営でしょうか?



応召(再召集)の場合は軍服です
入営(新兵)の場合は私服です…軍服の支給を受けていないので
服装に決まりはありません

ドラマにもよりますが、昭和18年頃までは国民服は普及しませんでした。ドラマではイメージ先行で国民服を着用させています。(げげげの女房の姉の結婚式は凄かったですが…結婚式だというのに誰も国民服の儀礼章を着けていませんでした。つまり女房の実家は村八分扱いな状態…もっと考証して欲しいものです)

戦地では無論、軍服です。但し、沖縄で防衛召集された住民は国民服その他を着用していました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>応召でしょうか?入営でしょうか?
はい、入営の時の服装についての質問です。

ドラマではイメージ先行で国民服を着て出征シーンを撮影したのですね。

昭和18年頃まで国民服は普及しなかったということは、逆に言うと、それ以降は国民服で出征した方も多いということでよいのでしょうか? 国民服の普及(着用?)率を調べたほうがよいのかもしれませんね。

また、戦後、戦地から帰ってこられた方は軍服のまま戻られた方が多いのでしょうか? これもドラマ等では国民服にゲートルを撒いたような服装の方が多いように思うのですが、どうなのでしょう???

お礼日時:2012/08/23 17:46

>戦地では何を着て戦っていたのでしょうか



当然戦闘用の服というか軍服。種類は色々ありましたが。
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