家・車以外で、人生で一番奮発した買い物

東京大空襲があった頃の暮らし・服装について調べています。
いろいろな情報や参考論文を読んでいるのですが、その時代に裕福であった(というと語弊があるかもしれませんが)、それほど戦火に怯えなくてもいい田舎のほうでの暮らしはどうだったのか、あまり資料がなく困っています。
さすがに洋服を着ている人はいなかったかもしれませんが、生地の質や持っている時計などの装飾品は都心に比べれば裕福と呼べる程度のものであったのではないかと。
そういった人たちの暮らし振りや、特に格好をどなたか教えてください。
身体が弱くて召集されなかった、もしくはお金があって召集を免れた男性もいるかと思うので、女性だけでなく男性の場合も知りたいです。
できたら家柄も裕福な場合であるとありがたいです。

A 回答 (5件)

私の祖母は、裕福だったみたいです。

(直接被害のない田舎です)
祖母の父は、レンガ工場の社長で、当時は儲かったらしいです。
戦争は、身長が足りなくていけなかったみたいですが、
すごくいきたかったらしいです。
祖母の服装は、当時は、洋服(ブラウスにスカート)、足元は、下駄を履いていたと言っています。お出かけ時は、靴を履いていたらしいです。
もんぺは女学校で芋を作ってたらしく、その時作業着として着ていたみたいです。
食べ物は、米を食べていたみたいです。(買っていた)
終戦の日は、普通に映画館(芝居小屋?)で映画を見ていたらしいです。(株主だったらしく、それもタダで。)
なんか、私自身、戦時中の想像と違いますね。。。
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東京大空襲のころということで、1945年頃の話


と理解しました、私の母の話をします。ただし母は
既に死去していますから記憶だけですが。
場所は千葉県の中央部です、生家は農家を営んでおり
広い田畑を所有していたようです。家はもうなくな
ってしまいましたが、私が小さいころには茅葺屋根
の家が残っており、けっこう広い家でした。
家には丁稚さんや書生の方もいたそうです。母は
女学校へ行ったそうですから、千葉の田舎の人間
としては裕福な方だったのではないでしょうか。
空襲のときには25才位でした。
暮らしと服装とのことですが、戦時中は農家で
あっても米は供出してしまい口に入ることは
なかったそうです。
その代わりカボチャや芋等はあったそうです、
都会から食物を求めて和服などと芋やカボチャ
と物々交換にきたそうです。
空腹を抱えることはなかったようですが、モノ不足
はあって、毎日すいとんばかり食べさせられて
すっかりすいとんが嫌いになったと言ってました。
着るものは普段は木綿の和服です、冬はそれに綿入
れのちゃんちゃんこを上に着ます。畑仕事をする
ときにはもんぺをはいたそうです。料理のとき
には割烹着。
冬は足袋をはきます。夏は裸足でした。履物は普段
はわらじです。田舎は道路がよくないので下駄は
実用的ではなかったようです。
装飾品はかんざしやくしに凝るくらいでしたが、
戦時中は華美な服装をしていると非国民呼ばわり
されてしまうのでできなかったそうです。
基本は下の方が書いているように「国民服」
でしょう。
時計はあっても懐中時計だったのではないで
しょうか?
他お知りになりたいことがあれば聞いてください。
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まず、もともと当時の農民階級は裕福ではないということ。

小作農が大半を占めており、これは敗戦で農地改革が入るまでつづいています。いわゆる地主天下ですね。もともと裕福ではないのに、戦争始まって裕福になるわけはありません。よって腕時計どころか、着物もかなり乏しいでしょう。

そして、戦火におびえなくてすむ理由は、爆撃がないからです。というかする意味がありません。田んぼなんか工業地区にくらべて桁外れに広い上に、1日運転するとそれだけで国力回復を引き起こす工場にくらべて、田んぼは年1回程度しか国力回復に寄与しません。それはアメリカも十分認識していたので、工業地帯を攻撃目標としたのです。

ただし、食糧事情に関しては配給のウエイトが大きい都市部よりも、土に近い農作地帯のほうが、戦中~戦後にかけては少なからず都市部よりも良かったというのはあると思います。
芋が手に入っただけまし、という見方もできると思います。

ただ、地主層に関してはちょっとわかりません(彼らは人口比で考えると特殊層にはいるくらい比率が低いですし・・・)。
もっとも、今と変わらずあるところにはあるのが金と物。彼らと一般の農民の生活レベルを比較するのはまずいです。桁が違いますので。もっとも、これら地主は都会の財閥系と同じだと思うのですよね。
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「日本残酷物語」


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760 …
という、戦前から戦後まもなくの貧しい人たちのことを書いた本によりますと、「九州地域の貧しい農民の常食は薩摩芋であった」ということです。戦後の1960年ごろに米の完全自給が達成され、同時に高度成長で日本が豊かになるまでは、それが一般的であったようです。

「但し作った米はほとんど国に没収され口にすることはほとんど無かったそうで、主食は芋だったそうです」
「戦時中に田舎といえども裕福と呼べる家庭は無かったそうです。」
米の生産量がどの程度だったのかによりますが、現金収入を一番効率よく得られる米は全て売っていたということで、戦争とはあまり関係ないはずです。

田舎の小作農家は、今の中国の農民のような貧しい生活をしていたと言う事実を示しているだけと思いますが。戦前の日本の農村は、戦争の影響を受ける前から今よりずっと貧しかったことをお忘れではないでしょうか?

「さすがに洋服を着ている人はいなかったかもしれませんが、生地の質や持っている時計などの装飾品は都心に比べれば裕福と呼べる程度のものであったのではないかと。」
私の身内で、地方都市で開業医をしていた人がいます。戦前の写真では和服や背広姿で髪の毛は七三に分けいますが、戦時中に撮った写真を見ると、当時の一般的な服装どおりに「国民服を着て丸坊主」で写っています。

生地や仕立てがどうだったかは分かりませんが、写真の感じでは「安物」には見えませんでした。
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こんにちは、


私は戦中派ではないので詳しくはわかりませんが、
私の父、母のことを参考までに投稿させていただきます。
先ず父ですが、
長崎出身です。長崎は原爆を投下されましたが私の父の生家は原爆落下中心地から距離があるため
直接被害はありませんでした。
戦時中は農業を営んでいたようです、但し作った米はほとんど国に没収され口にすることはほとんど無かったそうで、主食は芋だったそうです。
私の父は目が非常に悪く兵役は免れたそうですが、その当時は戦争にいけないことが悔しかったと聞きました。
父が目が悪くなったのは私の父の母親が父を生んですぐに亡くなったため母乳を与えることができず栄養失調からだったそうです。
私の父の生家は海が近いので、私も幼いころ父にこういう質問をしました、戦時中でも魚はたくさん食べれたの?
答えは、釣りができないことも無かったが戦時中はのんびり魚釣りというわけにはいかなかった。です。
母の話ですが、
母は鹿児島の田舎が生家です。
やはり母の生家も父の生家同様に農業、漁業を営んでいたようですが、
食生活等は父と同じだったようです。
私の母の父親(つまり私のおじいちゃん)は、子供を6人残して戦死しました。
私の母は上から2番目だったので、弟、妹の面倒をみるのと家の手伝い(農業、漁業)のため学校へは半分くらいしかいけなかったそうです。
弟をおんぶして学校へ行っていたそうです。靴は無くわらじだったそうです。
そういうわけで母は非常に貧乏な環境にあったため、戦後すぐに長崎に
丁稚奉公に来ていたそうです。
そのとき父と知り合って結婚したそうです。
以上のようなわけで、特殊な例はあるかもしれませんが私の聞いた限り(親戚縁者の話を聞いても)戦時中に田舎といえども裕福と呼べる家庭は無かったそうです。
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