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東京大空襲があった頃の暮らし・服装について調べています。
いろいろな情報や参考論文を読んでいるのですが、その時代に裕福であった(というと語弊があるかもしれませんが)、それほど戦火に怯えなくてもいい田舎のほうでの暮らしはどうだったのか、あまり資料がなく困っています。
さすがに洋服を着ている人はいなかったかもしれませんが、生地の質や持っている時計などの装飾品は都心に比べれば裕福と呼べる程度のものであったのではないかと。
そういった人たちの暮らし振りや、特に格好をどなたか教えてください。
身体が弱くて召集されなかった、もしくはお金があって召集を免れた男性もいるかと思うので、女性だけでなく男性の場合も知りたいです。
できたら家柄も裕福な場合であるとありがたいです。

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A 回答 (5件)

私の祖母は、裕福だったみたいです。

(直接被害のない田舎です)
祖母の父は、レンガ工場の社長で、当時は儲かったらしいです。
戦争は、身長が足りなくていけなかったみたいですが、
すごくいきたかったらしいです。
祖母の服装は、当時は、洋服(ブラウスにスカート)、足元は、下駄を履いていたと言っています。お出かけ時は、靴を履いていたらしいです。
もんぺは女学校で芋を作ってたらしく、その時作業着として着ていたみたいです。
食べ物は、米を食べていたみたいです。(買っていた)
終戦の日は、普通に映画館(芝居小屋?)で映画を見ていたらしいです。(株主だったらしく、それもタダで。)
なんか、私自身、戦時中の想像と違いますね。。。
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東京大空襲のころということで、1945年頃の話


と理解しました、私の母の話をします。ただし母は
既に死去していますから記憶だけですが。
場所は千葉県の中央部です、生家は農家を営んでおり
広い田畑を所有していたようです。家はもうなくな
ってしまいましたが、私が小さいころには茅葺屋根
の家が残っており、けっこう広い家でした。
家には丁稚さんや書生の方もいたそうです。母は
女学校へ行ったそうですから、千葉の田舎の人間
としては裕福な方だったのではないでしょうか。
空襲のときには25才位でした。
暮らしと服装とのことですが、戦時中は農家で
あっても米は供出してしまい口に入ることは
なかったそうです。
その代わりカボチャや芋等はあったそうです、
都会から食物を求めて和服などと芋やカボチャ
と物々交換にきたそうです。
空腹を抱えることはなかったようですが、モノ不足
はあって、毎日すいとんばかり食べさせられて
すっかりすいとんが嫌いになったと言ってました。
着るものは普段は木綿の和服です、冬はそれに綿入
れのちゃんちゃんこを上に着ます。畑仕事をする
ときにはもんぺをはいたそうです。料理のとき
には割烹着。
冬は足袋をはきます。夏は裸足でした。履物は普段
はわらじです。田舎は道路がよくないので下駄は
実用的ではなかったようです。
装飾品はかんざしやくしに凝るくらいでしたが、
戦時中は華美な服装をしていると非国民呼ばわり
されてしまうのでできなかったそうです。
基本は下の方が書いているように「国民服」
でしょう。
時計はあっても懐中時計だったのではないで
しょうか?
他お知りになりたいことがあれば聞いてください。
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まず、もともと当時の農民階級は裕福ではないということ。

小作農が大半を占めており、これは敗戦で農地改革が入るまでつづいています。いわゆる地主天下ですね。もともと裕福ではないのに、戦争始まって裕福になるわけはありません。よって腕時計どころか、着物もかなり乏しいでしょう。

そして、戦火におびえなくてすむ理由は、爆撃がないからです。というかする意味がありません。田んぼなんか工業地区にくらべて桁外れに広い上に、1日運転するとそれだけで国力回復を引き起こす工場にくらべて、田んぼは年1回程度しか国力回復に寄与しません。それはアメリカも十分認識していたので、工業地帯を攻撃目標としたのです。

ただし、食糧事情に関しては配給のウエイトが大きい都市部よりも、土に近い農作地帯のほうが、戦中~戦後にかけては少なからず都市部よりも良かったというのはあると思います。
芋が手に入っただけまし、という見方もできると思います。

ただ、地主層に関してはちょっとわかりません(彼らは人口比で考えると特殊層にはいるくらい比率が低いですし・・・)。
もっとも、今と変わらずあるところにはあるのが金と物。彼らと一般の農民の生活レベルを比較するのはまずいです。桁が違いますので。もっとも、これら地主は都会の財閥系と同じだと思うのですよね。
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「日本残酷物語」


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760 …
という、戦前から戦後まもなくの貧しい人たちのことを書いた本によりますと、「九州地域の貧しい農民の常食は薩摩芋であった」ということです。戦後の1960年ごろに米の完全自給が達成され、同時に高度成長で日本が豊かになるまでは、それが一般的であったようです。

「但し作った米はほとんど国に没収され口にすることはほとんど無かったそうで、主食は芋だったそうです」
「戦時中に田舎といえども裕福と呼べる家庭は無かったそうです。」
米の生産量がどの程度だったのかによりますが、現金収入を一番効率よく得られる米は全て売っていたということで、戦争とはあまり関係ないはずです。

田舎の小作農家は、今の中国の農民のような貧しい生活をしていたと言う事実を示しているだけと思いますが。戦前の日本の農村は、戦争の影響を受ける前から今よりずっと貧しかったことをお忘れではないでしょうか?

「さすがに洋服を着ている人はいなかったかもしれませんが、生地の質や持っている時計などの装飾品は都心に比べれば裕福と呼べる程度のものであったのではないかと。」
私の身内で、地方都市で開業医をしていた人がいます。戦前の写真では和服や背広姿で髪の毛は七三に分けいますが、戦時中に撮った写真を見ると、当時の一般的な服装どおりに「国民服を着て丸坊主」で写っています。

生地や仕立てがどうだったかは分かりませんが、写真の感じでは「安物」には見えませんでした。
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こんにちは、


私は戦中派ではないので詳しくはわかりませんが、
私の父、母のことを参考までに投稿させていただきます。
先ず父ですが、
長崎出身です。長崎は原爆を投下されましたが私の父の生家は原爆落下中心地から距離があるため
直接被害はありませんでした。
戦時中は農業を営んでいたようです、但し作った米はほとんど国に没収され口にすることはほとんど無かったそうで、主食は芋だったそうです。
私の父は目が非常に悪く兵役は免れたそうですが、その当時は戦争にいけないことが悔しかったと聞きました。
父が目が悪くなったのは私の父の母親が父を生んですぐに亡くなったため母乳を与えることができず栄養失調からだったそうです。
私の父の生家は海が近いので、私も幼いころ父にこういう質問をしました、戦時中でも魚はたくさん食べれたの?
答えは、釣りができないことも無かったが戦時中はのんびり魚釣りというわけにはいかなかった。です。
母の話ですが、
母は鹿児島の田舎が生家です。
やはり母の生家も父の生家同様に農業、漁業を営んでいたようですが、
食生活等は父と同じだったようです。
私の母の父親(つまり私のおじいちゃん)は、子供を6人残して戦死しました。
私の母は上から2番目だったので、弟、妹の面倒をみるのと家の手伝い(農業、漁業)のため学校へは半分くらいしかいけなかったそうです。
弟をおんぶして学校へ行っていたそうです。靴は無くわらじだったそうです。
そういうわけで母は非常に貧乏な環境にあったため、戦後すぐに長崎に
丁稚奉公に来ていたそうです。
そのとき父と知り合って結婚したそうです。
以上のようなわけで、特殊な例はあるかもしれませんが私の聞いた限り(親戚縁者の話を聞いても)戦時中に田舎といえども裕福と呼べる家庭は無かったそうです。
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Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q太平洋戦争中の食生活は?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、...続きを読む

Q太平洋戦争時の衣食住について

小学校6年生の息子の夏休みの課題で太平洋戦争についての課題が出ました。それぞれ「衣」・「食」・「住」で振り分けられており、いろいろネット検索しましたが子供には難しすぎてなかなかよい答えが出ません。「衣」に関しては服装や・戦時中どのような配給をされていたのか、「食」に関しては食べていたものや料理など、「住」疎開や住居に関してどのようにすごされていたか。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

お子さんの宿題ですし本人にさせるのが一番かと。お身内や身近な方に戦争を体験されてる方がいらっしゃらないなら、他の方もおっしゃってるようにネットより図書館に行かれるのは良いと思います。うちの両親は戦争体験者で当時の知人との手紙などから生活の様子も多少判りますが、まだお子さんなんですからすぐネットと言うのではなく、何から情報を得るか考える事も勉強なのでは?
とは言え、もう夏休みも終わりなんですね。間に合わないようなら諦めるしかないでしょう。恥をかいて人間は成長します。

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q戦前戦中戦後。人々の暮らし

大日本帝国の人について興味あります。
司馬遼太郎の坂之上の雲は呼んだことある方いますかね?教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?当時の人の暮らしぶり、考え方など知りたいです。
戦前、戦争とは関係ない人々の普通の暮らしぶりはどんなでしたかね?何を考えどう生きていたのですかね?特に教育勅語を学んだ世代の人生観、今の若者をどう思うかを知りたいです。
戦後、メーデー、安保闘争など日本人は今のように去勢されておらず元気いっぱいでした。当時の人の考え方、暮らしぶり、将来への不安と期待など知りたいです。あ、米国の奴隷になったり、米ソ冷戦に巻き込まれて再び戦地となる不安はなかったのですかね?
各地に海外移住された方もいるときいてます。どのような思いで日本を離れたのですか?
よろしくお願いします

Aベストアンサー

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと思います。(従兄弟大正生まれ90歳余曰く)

昭和の初期でも都会では幼稚園はスクールバス。映画もダンスホールも、フランス料理も今あるものは全て溢れ返ってました。

水洗はごく一部で近郊の百姓が肥を汲みに来て御礼の大根なりを置いていくのが都会でも普通の事でした。

また、戦前はそこそこ金を持っている連中でも借家が普通で、余程の事業家や成金、爵位のある家系以外は全て借家。

土地の有力者・・・例えば豪農や代々の庄屋などは家屋敷がありましたが。
家を買うという発想はほぼありませんでしたね。

腰弁(サラリーマン)の出社は歩くのが原則で交通費を貰って電車に乗るというような事は大正の初期までは無かったと従兄弟は申しております。

一家団欒、一家そろって食事と云うのも精々戦後の事です。
商家なら手の空いた人から食事をしますから。

一家の主のお膳は(おかずもご飯も)全て妻子とは別、同じ膳では食べません。主の食事が終わってから妻子の食事。(今ならよめはんに殺されるかも)

子供と大人の世界は完全に区別。

ネットは当然、普通の家に電話もありません。(うちの電話探ってみると最初に置かれたのは大正7年でした。)

戦後初めて白黒TVが発売された時TV一台の値段で当時40坪くらいの家が一軒買えました。

戦後宝くじは一等10万円。一枚10円。小さな家なら買えた。

終戦の年、すぐにアイスキャンデーを作って売ってました。一本1円。

不味いガムやチョコレートは昭和23年頃だったかに。

当時、バスやタクシーは電気自動車が多かった。充電はどうしていたのか??ですが。

従兄弟の戦前の中学校の教科書を見ると(電気技術書)きちんとテレビの写真と技術解説が載っています。

私たちがよく読んでいたのはヘッセ、Tマン、メリメ、シュトルム。

哲学をやっている連中はこんなの読みません。

明治の文学はほぼ濫読、南総里見八犬伝まで手を出した奴も居ます。

映画は手当たり次第。戦前の名画も戦後公開されましたから。
最初のアメリカ映画は確かユーコンの叫びだったかと。

普通の人にとっては戦前の、支那事変や日露戦争の結果に一喜一憂していたのは今と人たちの野次馬的な処と変わりはありませんし、人間の常として考えが楽なほうへと傾いていたのも事実です。

今と違って身分社会(出自によって社会的地位が決まる)ですから、例外はあるとしても(例えば爵位のある人や軍需産業などで大金を得て社会に還元したいと地方の優秀な男子や子女を養子として、或いは書生として住まわせて立身の道をつけてやるなど)、ほぼ人は生まれた時に取るべき道は決まっていた社会です。

で、各自それなりに、政治や軍事は・・・そんな難しい事は誰か偉い人がすることであって私たちには関係の無い事、其れよりも毎日の生活や楽しみが先決・・と云うのが本音だったでしょう。

メーデーや安保闘争など・・私の考えですが今の団塊の世代の初期の人たち(昭和22年生まれ以降)は肝心の小学校の教室も教員も足らず、抑留から引き上げてきた共産主義に洗脳されたような代用教員に習った結果が、戦前の身分社会の不条理に気づき労働者とブルジョワジーの対立と云う形で爆発したものだと思っています。

団塊の世代が愛用した歌声喫茶で歌われている歌って労働歌やロシア民謡などソ連に関係したものばかりですよね。

確かに農村部では(戦前は長男が後を取り、次男以下は出て行くか良くても他の農家の婿養子になるかで、軍隊が出来ると米の飯が腹いっぱい食えるとばかり召集どころか争って志願した人が多いのが現実で、後に赤紙で召集される頃は兵役忌避の脱走者も多かったようですね。

でもねぇ、戦時中食べるものが無かったとは云いますが金さえ出せば何でも買えたのです。(結局は金があるかどうかで決まるのかも)

徳川無声の戦時日記を読めば東京空襲時でも牛肉の配給(食糧は物価統制令で自由に売買が出来無い、主食の米などは各戸に割り当てで配るのを配給制と云います。違反者は投獄。外食は外食券が無いと出来なかったけれど、店は知り合いには出来る限り物を提供していた。)があったと記述されていて驚きます。

海外へ移住された方は明治以前から沢山居ますので戦前の暮らしのごく一部の現象に過ぎないと思っていてください。
これに関しては色々本が出版されているので図書館でお読み下さい。

明治中期生まれだった私の母親など若い頃毎晩ダンスホールで踊っていたと。(写真が残ってますわ)

慶応生まれの祖母なんか刺身が好きで良く無理難題を。でも結構手に入ったのですよ。

果物も、ケーキも、菓子も巷に溢れ返ってましたし戦争が始まっても暫くはまだフランス映画など上映してましたしね。

学童疎開はしてましたが食べ物に不自由だった事は有りません。
(場所によるのでしょうけれど)

戦争が始まっても一般の人の生活が急に変わる事は有りませんでした。

東京や大阪名古屋の空襲にあった人たちは大変だったでしょうけれどね。
一般の庶民にとって将来の事などは戦争の行方は心配しても身の振り方までは考えられなかったと思います。

進駐したアメリカ兵が抵抗されゲリラにでもやられるかると緊張していたのに拍子抜けと、戦後隣に住んでいた大佐が笑いながら話してくれました。

昭和20年代は内憂外憂が一般の人には全く感じられなかった時代。
20年代終わりにはアメリカ文化がど~~っと。

圧巻はジャズ。ベニーグッドマン、JATP、サッチモ、ハリージェームス、ライオネルハンプトンetc。飯を惜しんで東京へだら(普通)の夜行で14時間かけ学区をサボって聞きに行った。

新宿あたり焼け跡がまだ板囲いしてありまだ戦争浮浪児も居た時代。

昭和34年まだ国道一号線は舗装なし。トヨタのクラウンの前身トヨペットスーパーがこなれてきて試乗に行きました。

クッションは板バネ。遠出でしてバネが折れて挙母市(今の豊田市)で修理をするはめに。

閑話休題

今時ああだこうだと大げさに言われている面は何事に付けても大いにあると思います。

大正、昭和の話を書いた本は沢山出ていますが、その前に矢田捜雲の江戸から東京へや生方敏郎の明治大正見聞史の一読をお勧めします。
もう少し前の幕末の世人の暮らしや出来事などは鹿島萬兵衛の江戸の夕映をぜひお読み下さい。

教育勅語の内容は素晴らしいものですから私たちは否定しません。
まだ同級生は200人以上が健在ですし、何時もわいわい集まっていますが1年先、3年先の心配をする輩はいませんねぇ。
其れより100年先どうなっているかの議論に口角泡を飛ばすほうです。
戦前、戦中、戦後を冷ややかな目で見てきた世代ですのでなるようにしかならんと物事を割り切ってます・・が多い。(^^)/

取り留めの無い文、乱文で失礼しました。

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと...続きを読む

Q戦時中、みんな何をしていたのでしょうか?

度重なる質問申し訳ありません。
戦時中について興味を持ち調べてみたところ、次から次へと疑問が噴出してきまして。
さて、今回の質問ですが。
まだ徴兵検査を受けていない、20歳以下の人達についてです。進学して学校に通っていれば、学徒動員などがあったようですが、小学校を卒業後に就職した人達はどのような仕事をしていたのでしょうか?
やはり、学徒動員するほど人手が足りなかったわけですから、彼ら学生に混じって軍需工場などに動員されたのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、12月8日には近くの神社へ必勝祈願のお参りをしました。
千人針を縫ったり、千羽鶴を織ったりして「武運長久」を祈りました。
山へ入って、松の根っこを拾い集めました。
松脂から松根油というのを作って燃料にしたのです。
大勢の男を湯船にいれ、おならをさせ、それを集めてメタンガスを作る実験があったとか無かったとか。
そんな話が、当時では笑い事ではなかったのです。

毎日のように防空訓練というのがありました。
防空頭巾をかぶって防空壕へ非難したり、バケツリレーで消火する訓練です。
出征する兵隊さんを日の丸の小旗を振って送り出すこともありました。

☆中学校、女学校

昭和に入ると、裕福な家庭や都会では、中学や女学校に入ることが多くなります。
いまとは違い、「男女16歳にして席をおなじゅうせず。」といわれ、男女共学ではなかったのです。
中学に入るとすぐ始まるのが、軍事教練と学徒動員です。
女学生の場合、看護訓練などもあったと思います。
軍隊から派遣された教官が中学生を心身ともにしごきあげます。
「一億一心」「鬼畜米英」「海行かば~」と、お国のために命をささげる訓練です。
戦火が激しくなると近くの工場へ学徒動員されます。
軍事物資の生産に狩り出されるのです。
しかし、原材料がなくなると工場の掃除や草むしりです。
動員された工場に爆弾が落とされ死傷者がでることもありました。

幼年兵学校というのもありました。
少年航空隊というのもありました。
予科練習生というのもありました。

☆「甲種合格」

男子は(多分)16歳になると全員徴兵検査を受けることになり、甲種、乙種、丙種に分類登録されます。
「甲種合格」といって喜んではいられません。
先ず最初に徴兵されるのは「甲種合格者」です。
密かに喜んでいたのが「丙種合格者」かも知れません。
しかし、戦争に行かずに街中をうろうろしていると憲兵に捕まり鉄拳制裁を受けます。
あの家にも、この家にも、次々と「赤紙」が届き「恩賜の煙草」を戴き徴兵されていきます。
「練兵場」という場所に集められ訓練を受けた後、戦場へと送り出されます。
しかし、送り出された兵士たちに、弾薬や食料はわずかしか送られません。
そんなものは現地で調達しろというのが「大本営」の方針だったのでしょうか。
旧厚生省調査によれば、日本人戦没者は310万人、内訳は軍人軍属230万人、空襲被災者80万人だそうです。
軍人軍属の犠牲者のうち半分以上は「餓死、病死」といいます。
「復員」した人の話では、蛇、トカゲ、蛙などはご馳走のうち、飢えを紛らわせるために靴の半皮に水を含ませてしゃぶることもあったそうです。
当時の日本の人口が6000万人だとすれば20人に1人が戦争で死んでいったことになります。

戦争末期には殆どの成年男子は戦場へ駆り出されました。未成年者も予科練や特攻隊に志願していきました。死を覚悟して。
沖縄では看護兵として狩り出された女子学生までもが、本土防衛のため、戦闘に加わって死んでいったそうです。

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、1...続きを読む

Q大阪大空襲について

大阪大空襲ではたくさんの人が亡くなりました。そこで思ったんですが、大阪大空襲は大阪のどこの地域を中心に爆撃されたんですか?中、高の授業ではそんなに詳しく習った記憶がないんで、詳しく知りたいです。

Aベストアンサー

あくまでも記憶の範囲内ですが。
現在で言う大阪ビジネスパークの辺りだったはずです。なぜなら京橋ツインタワーなど、あの辺りの高層ビル群を建設する際に大量の不発弾が出てきましたから。なぜそんなことを覚えてるかというと、不発弾処理のたびに片町線、大阪環状線がストップし、学校の授業が早く終わったりしたことを覚えていますもので。

Q日本兵の戦争中の服装

よく映画や漫画などで、迷彩服を着た兵隊が出てきますが、
日本兵も迷彩服を着て、ジャングルの中で戦っていたのでしょうか?
どうしても「迷彩服」と聞くと外人の兵隊が着ているイメージがあるのですが、
それは僕のただの思い込みでしょうか。

「迷彩服を来た日本兵がジャングルで戦っている」という表現(設定)は
無理はないでしょうか?

Aベストアンサー

日本では、「視認性を低くする」という意識は無かったみたいです。
なんせ、「無敵皇軍」ですら。
それに、「5銭の葉書で集められる兵隊」という言葉が残っている位ですので、「擬装」をしたという話も寡聞にして知りません。
「バンザイ突撃」が物語るように、余り気にしなかったのでしょう。
いずれにせよ、日本軍が迷彩戦闘服を使用していたという記録は知りません。旧軍の戦争資料館でも見たことがありません。

Q日本はこれから100年以内に戦争をしてしまうのでしょうか?

日本はこれから100年以内に戦争をしてしまうのでしょうか?

私はこの春から中学生になりますが、本当に本当に心配です。
心配で死にそうです。
戦争が本当に怖くて、戦争を体験するくらいなら、先に死んでおきたいです。

母にも何度も大丈夫?と聞いていますが、皆したくないと思っているから大丈夫。と
あまり安心できない答えが返ってきます。
何度母に大丈夫といわれても、心配で心配で繰り返し同じことを聞いたので、精神科に行く?
とも言われてしまいました。学校も心配で楽しくありません。
もう怖くて死にたいです。
ごはんもおいしく感じないし、なかなか眠れないし、ずっと不安に追われています
1、日本は100年以内に戦争をする可能性はどのくらいあるんでしょうか?
2、もしも戦争が起きてしまった場合、核は使われるのでしょうか?
3、今第九条改正の声が高まっていますが、それって戦争に近づくということなんでしょうか?
4、皆さんは戦争についてどう思いますか?
教えてください。
私は、今頃戦争をしても何にも利益はないと思っています。
そう思いたいです。
そういう風に自分に言い聞かせていますが安心できません。 

未来が怖いです。もう死んでしまいたいです。助けてください。安心させてください。

日本はこれから100年以内に戦争をしてしまうのでしょうか?

私はこの春から中学生になりますが、本当に本当に心配です。
心配で死にそうです。
戦争が本当に怖くて、戦争を体験するくらいなら、先に死んでおきたいです。

母にも何度も大丈夫?と聞いていますが、皆したくないと思っているから大丈夫。と
あまり安心できない答えが返ってきます。
何度母に大丈夫といわれても、心配で心配で繰り返し同じことを聞いたので、精神科に行く?
とも言われてしまいました。学校も心配で楽しくありません。
もう怖く...続きを読む

Aベストアンサー

戦争は、一般的な常識を持った人なら、だれしもがしたくもないと思っているものです。日本は今平和ですが、日本以外では紛争や戦争が起き、憎しみの連鎖が起こっています。それは日本から遠く離れた国々だけでなく、日本に近い国々も同様です。
質問者様は、この春から中学生になるということですので、12歳ぐらいでしょうか? 僕が12歳で小学校を卒業する時は、ちょうどイラク戦争が始まったときでした。なんと、卒業式の日にちょうどアメリカがイラクに進行したのです。そのニュースをテレビで見たときは、とても怖かったことをおぼえています。

質問に答えさせていただきますね
1、100年先のことは誰にもわかりません。1年先のことも、10年先のことだってわかりません。可能性はゼロではありません

2、万が一戦争が起きたとしても、核兵器は使われることはおそらくないでしょう。もちろん、可能性はゼロではありません。

3、今も昔も憲法改正が時代によって表に浮き上がってくることがありますが、これは何も戦争を日本からしかけてやるとか、他国を侵略するために改憲するというわけではありません。今日本を守っているのは自衛隊という組織ですが、これは政府の見解では軍隊ではありません。非常に微妙な立場にあるのです。
憲法では軍隊や武器を持つことを禁じられ、専守防衛という決まりでこの国を戦争が起こっても、こっちからは最初に手は出さない。相手が(例えば核兵器などを撃ってくるなど)しかけてこない限りは、手を出さないということになっているのです。(もちろん、相手が攻撃してくるのにただ見ているというのはあり得ません。ですので、敵のミサイル基地などを先に攻撃して、最低限の自衛行為を相手の攻撃がなくても行えるなどという議論もあります。重要なのは、先に攻撃できるという結論がでていないことです。あくまで、できるだろうという議論をしているだけなのです)つまり、今の憲法はややっこしいのです。憲法改正の目的は、自衛隊の存在を認めさせ、その他日本の防衛に関してよりきちんと、戦争から国を遠ざけ守るために改憲しようとしています。ですので、なにも戦争をするために改憲するわけではありません。

4、戦争はもちろん嫌です。そして、怖い。しないにこしたことがありません。ただ僕は、予備自衛官という予備役というものですので、戦争があれば行かなければならないかもしれません。なので、非常に怖いです^^;

質問者様がおっしゃる通り、今日本が戦争をしても利益はありません。それは、中国や、韓国、北朝鮮などすべての国について言えることです。現代社会、戦争はそう簡単に起こるものではありません。さまざまな要因が絡み合って、初めて起こるものです。
未来が怖い。よくわかります。誰しもが、怖いのです。そして、質問者様の年齢ぐらいなら、その怖さはきっとお母様や僕といった人たちより、何倍も強いものだと思います。
でも、怖がっているだけではだめです。たくさん勉強してください。中学に入って、公民や現代社会や日本史や世界史を勉強することになると思います。そうすれば、知識が増えます。日々のニュースや新聞を読んでください。そうすれば、世界が広がります。そして、世界のことを知ってください。

戦争は、誰もが怖いです、あなただけではありません。だから、安心してください。悩みすぎないでください。何かあれば、自衛隊が必ずこの国とあなたを守ります。だから、心配しないでください。怖がらないでください。あなたが悲しめば、お母さんも悲しみます。
あなたのような人がたくさんいれば、きっと戦争はおきなくなります。その気持ちと考えを大事にしてください。

戦争は、一般的な常識を持った人なら、だれしもがしたくもないと思っているものです。日本は今平和ですが、日本以外では紛争や戦争が起き、憎しみの連鎖が起こっています。それは日本から遠く離れた国々だけでなく、日本に近い国々も同様です。
質問者様は、この春から中学生になるということですので、12歳ぐらいでしょうか? 僕が12歳で小学校を卒業する時は、ちょうどイラク戦争が始まったときでした。なんと、卒業式の日にちょうどアメリカがイラクに進行したのです。そのニュースをテレビで見たときは、と...続きを読む


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