痔になりやすい生活習慣とは?

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (16件中1~10件)

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。


確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。
    • good
    • 29
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
「まったく戦争の影響はなかった」という証言を聞けてよかたです。
広島や長崎、東京大空襲、沖縄線などに比べたら、被害と呼べないような体験しかしていないのに、大げさに戦争体験を語る人を見ると頭にきます。

お礼日時:2010/08/15 23:13

他の人の回答を読んで僕も回答させていただきます。

戦時中僕の祖母も山形で暮らしていて都会からの疎開の子供たちを受け入れていた地域に住んでいたらしいです。疎開を受け入れていたくらいなので食事には、そこまで困っていなかったらしいです。空襲などの攻撃も兵隊の駐屯地を攻撃を受けたくらいで日常的な空襲などもなかったらしいです。ただ祖母の兄などは、兵隊にとられ男手が足りず大変だったらしいです。やはり山形は、盆地で大きい軍事基地もなかったので宮城県など港町ほどの攻撃は、受けずに済んだらしいです。あまり詳しくない情報ですいません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
東北地方はB-29がサイパンから往復するにはギリギリの距離だったので、空襲の被害は比較的少なかったようです。
そもそも米軍は日本国民にアメリカの強さを見せ付け、戦意を喪失させるために住宅地への爆撃を行っていましたから、人口の少ない地域へ爆撃を行っても意味がないんですよね。

米軍の「戦略」という観点から考えれば、日本人を皆殺しにし、全ての家を焼き尽くす必要はないわけです。
戦後の統治のことも考えれば、日本人を「生かさず殺さず」の状態にしておく必要があります。
戦後の統治を考えれば、米軍が日本人に対してやり過ぎるのは逆効果です。

戦争体験談や戦争ドラマに感化された人は、日本人は全員戦争で地獄を見たと思っていますが、米軍の「戦略」という観点から考えれば、日本人をそこまで追い詰めたとは思えません。

たしかに「戦争で苦労した」と言った方が聞こえはよいでしょう。しかし、戦後65年たった今こそ、戦争体験者は勇気を持って、「実は平気でした」とカミングアウトするべきです。

補足日時:2010/08/23 22:09
    • good
    • 43
この回答へのお礼

すみません補足欄にお礼を書いてしまいました。
重ねてご回答にお礼申し上げます。

お礼日時:2010/08/23 22:10

私は少ししか答えられませんが・・・。



私の祖母の兄は、陸軍の士官学校かどこかに行っていて、インパールで死んだそうです。
ですが、招集されたとか言うわけではなく、職業軍人だったので、仕方がありません。

祖母は当時、満州のほうにいたそうです。
そこで特に厳しかっただとか、生活に困窮していたという話は聞いたことがありません。
むしろ、それなりに庶民としていい暮らしをしていたようです。
現地の人に何回か買い物でぼったくられたくらいの話は聞きましたが、その程度です。
日本に帰ってきた後も、地方のど田舎でしたし、そこの村長さんをやっていた時期もあるそうで、他の人と比べ、あまり辛い経験はなかったようです。


確かに、戦争で国民全体が不幸になったみたいな書かれ方をされていますが、限りなく日常に近い生活をされていた方ってけっこういそうですよね・・・。
はじめてその可能性について考えました。
都会はともかく、田舎だとそんな人が多いんじゃないでしょうか?
    • good
    • 26
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
満州に住んでた方は、残留孤児やシベリア抑留など、苦労されたイメージがありますが、実際には普通の生活をしていた方も多かったのでしょうね。

今まで普段通りの生活をしていた方の体験談があまり公にならなかったのが不思議です。
亡くなった方の手前、「自分たちは平気でした」とはなかなか声に出して言えなかったのでしょうね。

太平洋戦争以外では、「ホロコーストは無かった」「南京大虐殺はでっちあげ」というような、被害者の主張を否定するような意見も多数見受けられます。
しかし、太平洋戦争に関しては、被害者の主張が全面的に受け入れられ、それを否定する意見は皆無です。戦後65年間、戦争被害を疑う意見が出なかったのはむしろ不思議です。

戦前生まれの方がご健在な今のうちに、普段通りの生活をしていた方の体験談をもっと聞かせてもらいたいです。戦争の真実を後世に伝えるためにも。

お礼日時:2010/08/22 00:42

こんにちは



時節柄 先日 父(S8生、当時 山形県在住)と、戦時中の話をしていたの
ですが・・・。
太平洋戦争の期間全般を通じて、生活にはそんな変化は無かった、と
言っていました。

「戦時国債買え、とか、ナベ、カマを供出しろ、とか無かったの?」
と聞いたら
「まだ小学生だったから詳しいことは知らないが、ナベやカマはずっと
あったと思う。もっともウチ(実家)ど貧乏だったから、供出するもの
なんか無い、ってバァさん(祖母)が言ってた(苦笑」
だそうです。

朝起きて、握り飯持って学校行って、帰ってきたら、畑や田んぼの仕事
手伝って、メシ食って寝て
ほぼ毎日その繰り返しの日々で、いつのまにか戦争が終わっていたそう
です。

当時、実家には 農耕に使役していた牛や馬がいたそうなのですが
「食料不足で、そいつら(牛や馬)を食用に処分しなかったの?」と
聞いてみると
「そんな事したら、米や作物がとれなくなるよ」「そんな(家畜を殺し
た、なんて)家は周りにも無かったと思うよ」
とも言ってました。

戦時中で覚えているのは
・戦争が始まった時は、なんだか周りでワーワー騒いでいた
・「出てこいニミッツ、マッカーサー」という唄(?)が一時流行り、友達
同士でよく口ずさんでいた
・軍服のようなもの(国民服?)着ている大人はいたが、軍人は見たこと
無い。
・近所で出征する人がいたので、集落のほぼ全員でバンザイで見送った。
自分(父)が見たのは、その一度きり。
・防空壕は(場所はもう覚えていないが)あって、避難訓練のような事は
やった記憶がある。回数は覚えていない。
・一度だけ遠くの空に銀色のでかい飛行機(B-29かもしれない)を見た
が、こちらには近づいて来ることも無く、そのうち見えなくなった
・終戦は学校の先生から聞かされた。「あぁ終わったんだ、負けたんだ」
くらいしか思いつかなかった
だ、そうです。

その後地元の中学を出て、すぐ東京に(親戚を頼って)やってきたのですが
「その後のほうが、大変だったよ、まだ空き地(空襲の被害で)ばかりで
ほとんど何も無かったんだから」と、むしろ戦後の話のほうが"長い長い"
(^^ゞ

以前 母(S4生、三重県在住)から聞いた話
・開戦直後はなんとも無かったが、だんだんと物資(配給)が少なくなって
いった
・1年くらい軍需工場に動員されて働いていた、辛かった。
・隣町に米軍機(小型の艦載機?)がいきなりやってきて、機銃掃射を受け
て、浜辺にいた知り合いが大ケガした
・終戦の日はみんな悲しくて、ずっと泣いていた

と、同じ時代を生きながら、(東北と近畿という)地域が違うだけで、こう
も体験が異なり、その結果か戦争に対する思いも違うんだなぁと、しみじみ
思いました。
    • good
    • 31
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
「太平洋戦争の期間全般を通じて、生活にはそんな変化は無かった」という証言を聞けて嬉しいです。

戦争を知るとは、このような証言を含めた真実を知ることであって、悲惨な体験だけを知ることではないはずです。
ここで回答している人の中にもいますが、悲惨な体験だけを聞かされてきた来た人は、「普段通りの生活をしていた人は1人もいない、1億の国民全員が死ぬような思いをして来た」と思い込んでいます。

もし日本が鎖国をしているのなら、戦争に対してどのような認識を持つのも勝手ですが、グローバル化された現代では、かつて日本と戦った国や、日本が占領した国の人たちと語り合う機会も多くなると思います。
そのような時に、日本人が知っている戦争が、「悲惨な戦争体験」だけだったら、他国から反感を買うだけです。
例えばアメリカ人に「悲惨な戦争体験」を話しても、「リメンバー・パールハーバー!」と言われて聞く耳を持ってくれません。
中国人や韓国人に話しても、「自分たちの方が日本人にもっとひどいことをされた」と言い返されます。

そもそも戦争は真珠湾攻撃でいきなり始まったわけではなく、発端は日露戦争で日本が関東州の租借権を手に入れたことから始まります。
しかし、ほとんどの日本人は、戦争がなぜ起きたのかを説明できないでしょう。
戦争を2度と起こさないようにするためには、戦争がなぜ起きたのかを知る必要があります。
「悲惨な戦争体験」を聞かされれば、「戦争は嫌だ」と誰しも思うでしょう。しかし、戦争がなぜ起きるのかを知らなければ、戦争の予兆が掴めず、気が付いたらまた戦争が始まっていた、ということになりかねません。

例えば国会議員の中には北朝鮮のミサイル基地を攻撃しようという意見があります。
「悲惨な戦争体験」しか知らない人が、この話を聞いても、それが戦争の予兆だとは気付かないでしょう。
仮に日本が北朝鮮のミサイル基地を攻撃したら、北朝鮮は日本に宣戦布告するし、北朝鮮の同盟国である中国も当然黙ってはいないでしょう。

戦争を目論んでいる人は、国民に「戦争をしますが賛成ですか?反対ですか?」なんて聞くことはありません。つまり、「悲惨な戦争体験」しか知らなければ、戦争を阻止することはできないのです。

他の方からの体験談も引き続きお待ちしております。

お礼日時:2010/08/17 23:50

聞いた話で悪いんだけど



主人が医者で結構裕福だった。
その娘は裁縫教師をしつつ近所の仕立て依頼を受けていた。
診察や仕立ての謝礼は基本現金なんだけど
野菜や魚で支払う人もいた。まあ、のんきな感じで認めてた。
敵機はくるけど攻撃はあまりしてこない。
市街地まで足をのばせば戦争を煽る文言が多く見られたが
家の周りは何ともない穏やかな雰囲気だった。




原爆が落とされるまでは。

市街地から非難してくる被災者を診察するのでてんてこ舞いだったそう。
娘ってのが僕の祖母。
    • good
    • 17
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
裁縫教師というのは今で言えば「おけいこの先生」と言った感じでしょうか。
戦時中であっても実際にはおけいこをする余裕があったんですね。

お礼日時:2010/08/16 23:06

No.7です。


補足について教えていただきたい事があります。
>戦争末期に赤紙1枚で召集された人たちは、全員無事に帰って来ました。
戦争末期とは具体的にいつからの事ですか?
またこのように主張されるにはどこかで調べられていると思います。公表可能でしたら情報源をお知らせ下さい。
回答は強制できませんので、無理にとは申しません。

この回答への補足

あなたへの補足で「根こそぎ動員で招集された人たち」と書いてあるんだからご自分でお調べ下さい。

補足日時:2010/08/16 20:51
    • good
    • 10

誤解があったようですが、東京大空襲の詳細は父親から聞いてます。


また、戦時中の生活の様子も細かく聞いてます。
想像で平穏な生活を送ってたと信じてる質問者より戦時中の様子は現在も同居してる母親から聞いてます。
実際の体験者は話したくないより思い出したくないと理解してます。
それほど悲惨な体験なのです。
近所のオバチャンは満州からの引き揚げ者で戦時中の満州の様子や旦那がシベリアに抑留された事や引き揚げ時の様子も聞いてます。
残留孤児が何故発生したかは引き揚げ時の様子を聞いて理解してます。
戦時中の様子を詳しく聞いてるから平穏な人達なんて日本中にいなかったと断言して言えるのです。

この回答への補足

あなたもしつこいですね。
私の祖父は平穏な生活を送っていましたよ?他にも平穏な生活を送っていたという人はたくさん知っています。
私の周りにはたくさんいるのに、あなたに勝手にいないと断言してもらっては困りますね。
ちなみに私の質問は「いるかいないか」を聞いているのではありません。
あなたがそのような体験談を知らないのなら、ここで回答する資格はありません。

補足日時:2010/08/16 20:27
    • good
    • 19

補足で終わりにしようと思ったのですが気になったので、再補足させて下さい。



私が言うのは昭和10年生まれの少年の太平洋戦争中の日本の首都東京の郊外での生活です。

開戦から敗戦の日まで爆撃や銃撃が身の回りで四六時中行われていた訳ではありません。

そのくらいの事はお分かりでしょう。

たとえ爆弾が沢山投下されても直撃されるのは運の悪い人です。先にも申し上げたように木造の住宅に

1トン爆弾が直撃してもその一家がどこかへ吹き飛ぶだけで隣近所は大きな被害は出ませんでした。

それも私の住んでいる町で4年間に数件あっただけです。だからそれ以外の1400日は普段通りの生活でし

た、と言えるのでしょうか。東京市の中でも本所・深川のように一晩で10万人がナパーム性焼夷弾の空

襲で焼き殺された地区もあります。でも焼かれる前は何回かの爆撃があっただけのようです。

それを「普段通りの生活」と言うのでしょうか。

1400日以上の衣食住を始めとした日常生活の全てを見る必要があると思います。

後は申しません。

勉強したい人は勉強して下さい。まだ生き残りは大勢居ます。 

この回答への補足

あなたもしつこいですね。
あなたが自分は戦時中は普段通りの生活を送っていなかったと言うのなら、あなたにはここで回答する資格はありませんよ。
私が聞いているのは「普段通りの生活を送っていた人の体験談」であって、「たまたま空襲に遭遇しなかった人の体験談」を求めているのではありません。
もう一度質問文をよくお読みになり、内容を理解した上で、回答する資格があるのかを判断して下さい。

補足日時:2010/08/16 19:39
    • good
    • 12
この回答へのお礼

補足に対して補足します(お礼ではありません)

>1400日以上の衣食住を始めとした日常生活の全てを見る必要があると思います。

国民が辛酸をなめるようになったのは、昭和20年3月に日本が南方からの補給路を絶たれ、同じく3月にB-29による本土無差別爆撃が始まってからですよね?
戦争体験者は、まるで真珠湾攻撃が始まってすぐに地獄の生活が始まったような言い方をする人がいますが、開戦当初は連戦連勝で国民はみんな喜んでいたじゃないですか。
1400日以上毎日地獄の日々が続いたとか、そうやって誇張するのは止めて下さい。

戦争体験を語っている人の話を聞くと、「この人自分に酔っているんじゃないの?」と思う時があります。
こうやって戦争体験者の話を聞くと、そのほとんどが誇張されたものであることが分かります。

お礼日時:2010/08/16 20:26

父親は東京大空襲を体験してます。


昭和20年3月9日深夜から10日未明にかけて大規模な焼夷弾が東京下町に降り注ぎました。
この年の正月に母と幼かった姉2人を母の実家に疎開させてますから、空襲の犠牲にならずに済んでます。
この空襲で父の両親は亡くなってますので、私は父方の祖父母を知りません。
しかし、このような体験をした人ほど悲惨な話はしたがらないのです。
全身大火傷を負いながら、妻子の為と生き延びた父は、思い出したくないと東京を離れました。
戦時中の詳細を知ってる人達は、現在90歳以上の高齢者ばかりです。
現在80歳ぐらいの人達でさえ戦時中は子供だったので大人の苦労を知りません。
妻の両親(義父母)は、戦時中は独身で農村暮らしだったので、都会のような空襲体験もしてませんし、農家の息子と娘なので比較的平穏な生活だったようですが、やはり戦時中の話はしたがりません。
日本中の全国民が不安を感じて生活していた事だけは確かです。
戦時中に平穏に暮らした人が居たら、どのように平穏だったか聞いてみたいです。

この回答への補足

>日本中の全国民が不安を感じて生活していた事だけは確かです。

具体的にどのような不安を感じていたというのですか?
あなたの身の回りの戦争体験者は戦争の話をしたがらないとのことですから、戦争体験者から聞いた話ではありませんよね?
そのような根拠のない、想像だけの回答はやめていただけませんか?

補足日時:2010/08/16 19:31
    • good
    • 11

 #5です。



 飯の席でアメリカ人にご質問の紹介をしました。彼女曰く「同時テロって戦争でもないのに影響を受けないアメリカ人なんて居ない。あれだけ長く戦争をやって普段通りの生活をした人が居る、と思う人が本当にいるの?」という反応でした。

 僕は「こういう人が居るってことは、戦争を経験した人を信じられない人が出たってことで、また日本人は次の戦争の準備ができた訳だ、どうして過去に学ばないで、人間は戦争を繰り返すのか、だんだん分かって来た」と、話し合いました。

>> なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。

 こういう閉鎖的な所も、面白いですね。

この回答への補足

>飯の席でアメリカ人にご質問の紹介をしました。彼女曰く「同時テロって戦争でもないのに影響を受けないアメリカ人なんて居ない。あれだけ長く戦争をやって普段通りの生活をした人が居る、と思う人が本当にいるの?」という反応でした。

言葉のすり替えはやめて下さい。「影響を受ける」と「普段通りの生活をする」というのは意味が違うでしょ?
同時テロが起きればニューヨークやワシントンから離れた地域でも、警察の警備が厳しくなったりして、市民生活は何かしらの影響を受けるでしょう。
しかし、大半のアメリカ国民は、同時テロでも「普段通りの生活」をしていたはずです。

>戦争を経験した人を信じられない人が出たってことで、
>どうして過去に学ばないで、人間は戦争を繰り返すのか、だんだん分かって来た」

過去に学びたいからこそ、真実を知りたいのです。
例えば中国や韓国では、国民全員が日本にひどい目に遭わされたと主張しています。
南京では当時の人口より多い30万人が日本軍に虐殺されたと言っています。
こういう矛盾点を中国人に言っても聞く耳を持ちません。
しかし、われわれ日本人は中国人や韓国人とは違うはずです。
戦時中は1億の日本国民全員が地獄を見た、と聞けば、それに対して疑問を持つことも自由ですし、それを検証することも自由です。

中国や韓国では、戦争を経験した人を疑うなんてことはとてもできません。しかし、日本ではそれができるはずです。
被害の大きさだけをやみくもに誇張するだけでは中国人や韓国人と変わりません。
戦時中に普段通りの生活をした人がいたら何か都合が悪いんですか?
戦争を知るとは被害を知ることだけではありません。
実際に普段通りの生活をしていた人がいるという真実を知ることこそ、戦争を知り過去から学ぶということなのではないでしょうか?

補足日時:2010/08/16 16:57
    • good
    • 23

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q戦時中、みんな何をしていたのでしょうか?

度重なる質問申し訳ありません。
戦時中について興味を持ち調べてみたところ、次から次へと疑問が噴出してきまして。
さて、今回の質問ですが。
まだ徴兵検査を受けていない、20歳以下の人達についてです。進学して学校に通っていれば、学徒動員などがあったようですが、小学校を卒業後に就職した人達はどのような仕事をしていたのでしょうか?
やはり、学徒動員するほど人手が足りなかったわけですから、彼ら学生に混じって軍需工場などに動員されたのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、12月8日には近くの神社へ必勝祈願のお参りをしました。
千人針を縫ったり、千羽鶴を織ったりして「武運長久」を祈りました。
山へ入って、松の根っこを拾い集めました。
松脂から松根油というのを作って燃料にしたのです。
大勢の男を湯船にいれ、おならをさせ、それを集めてメタンガスを作る実験があったとか無かったとか。
そんな話が、当時では笑い事ではなかったのです。

毎日のように防空訓練というのがありました。
防空頭巾をかぶって防空壕へ非難したり、バケツリレーで消火する訓練です。
出征する兵隊さんを日の丸の小旗を振って送り出すこともありました。

☆中学校、女学校

昭和に入ると、裕福な家庭や都会では、中学や女学校に入ることが多くなります。
いまとは違い、「男女16歳にして席をおなじゅうせず。」といわれ、男女共学ではなかったのです。
中学に入るとすぐ始まるのが、軍事教練と学徒動員です。
女学生の場合、看護訓練などもあったと思います。
軍隊から派遣された教官が中学生を心身ともにしごきあげます。
「一億一心」「鬼畜米英」「海行かば~」と、お国のために命をささげる訓練です。
戦火が激しくなると近くの工場へ学徒動員されます。
軍事物資の生産に狩り出されるのです。
しかし、原材料がなくなると工場の掃除や草むしりです。
動員された工場に爆弾が落とされ死傷者がでることもありました。

幼年兵学校というのもありました。
少年航空隊というのもありました。
予科練習生というのもありました。

☆「甲種合格」

男子は(多分)16歳になると全員徴兵検査を受けることになり、甲種、乙種、丙種に分類登録されます。
「甲種合格」といって喜んではいられません。
先ず最初に徴兵されるのは「甲種合格者」です。
密かに喜んでいたのが「丙種合格者」かも知れません。
しかし、戦争に行かずに街中をうろうろしていると憲兵に捕まり鉄拳制裁を受けます。
あの家にも、この家にも、次々と「赤紙」が届き「恩賜の煙草」を戴き徴兵されていきます。
「練兵場」という場所に集められ訓練を受けた後、戦場へと送り出されます。
しかし、送り出された兵士たちに、弾薬や食料はわずかしか送られません。
そんなものは現地で調達しろというのが「大本営」の方針だったのでしょうか。
旧厚生省調査によれば、日本人戦没者は310万人、内訳は軍人軍属230万人、空襲被災者80万人だそうです。
軍人軍属の犠牲者のうち半分以上は「餓死、病死」といいます。
「復員」した人の話では、蛇、トカゲ、蛙などはご馳走のうち、飢えを紛らわせるために靴の半皮に水を含ませてしゃぶることもあったそうです。
当時の日本の人口が6000万人だとすれば20人に1人が戦争で死んでいったことになります。

戦争末期には殆どの成年男子は戦場へ駆り出されました。未成年者も予科練や特攻隊に志願していきました。死を覚悟して。
沖縄では看護兵として狩り出された女子学生までもが、本土防衛のため、戦闘に加わって死んでいったそうです。

☆小学校

昔は数え年で年齢を数えていました。
生まれたときが1歳、その後正月が来るたびに年齢が上がります。
小学校へ入るのは毎年4月です。
1~3月生まれは「早行き」とか「7つ行き」といって、数え年7歳で入学、それ以外は「おそ行き」とか「8つ行き」といって、数え年8歳で入学でした。
小学校を卒業するのは数え年13歳か14歳で、卒業すると家業を手伝うか、男子は丁稚奉公、女子は女工さんや女中奉公に出て「食い扶持」を減らすのが多かったようです。

小学生たちは、昭和17年以降、1...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む

Q戦争になった時の一般人の生き残る方法は?

ふと、日本国が戦争になった時生き残る方法について考えてみました。
日本の一般人が戦争に巻き込まれた場合、当然初期対応として
自衛隊の出動が考えられますし、兵士不足となったらば、憲法改正を
前倒しして徴兵制が導入されるのでしょうね。日本も生死の境い目に
自国の立場が置かれたら、政府もどう考えて行政を行うかわからない。
小泉純一郎元首相の時は、特例法と称してイラクへの米軍援助を
自衛隊員に行わせた。何だかんだで同時多発テロの時は日本人も
巻き込まれていたわけで、日本国はアメリカの言う事を信用して、
イラクへの派兵を行った。もっともアメリカにはテロ戦争の戦勝国
として日本の名前をよんでもらう事が無かったが。平和憲法が
あるのに、特例法だから許される、そう言うもんだと世の中に、
小泉純一郎氏は示したと言う事ですね。

とにかくそう言った経緯を考えれば、日本人が戦争に巻き込まれて、
戦争で戦って死ねと教えられるのも可能性として無いわけでは
無いと感じるわけで、その場合日本人はどうやったら生き残れるか、
ふと、考えてみました。

要するに金持ちだったら生き残れるのだけどね。
スターリングラードの戦いがわかりやすいかな?
当時のソヴィエトはナチスドイツとの戦争で生き残るために、
スターリングラードと名付けた地に、いなかっぺのわけのわからぬ
その辺の小僧達を戦争にかり出した。そして戦うものだけ生かして
やる、逃げる者には銃殺刑を提供してやると、強制的に戦争に
若者がかりだされてそして多くの人々が死んでいった。当時の
ソヴィエト政府のご事情もあったが、とにかく一般人は本当に
将棋の駒の歩兵の様に簡単に相手にとられてしまう、そう言う役目を
負っていた。

まぁ、書かなくてもわかりますよね?
戦争になって戦地にかり出されたら、殺さないと殺される、
仲間からも殺される、逃げたら家族諸共処刑される事もある、
戦争になったら戦うしかない、生き残れたら儲けもの、
死んでしまったらおさらばさ。どうせ死ぬなら敵諸共にと、
特攻兵の話も聞いたな。それで日本攻め難しと思わせなかったら、
現在の日本である事もできなかったでしょうね。
中国朝鮮はそう言う日本人の心をくじき、日本を我が国領にと
願っているから、戦争では戦わない方が正しい生き方だよ、とか
情報操作をされたりしますが、何だかんだで生き残るには、
戦う他無いと。若くてまだまだ老い先あって欲しいのに、
戦争にかり出されたと言う世代になったら、もう、本当、
運が無かったとしか思い様がありませんね。

戦争は負けたくないし、でも逃げたいしでは成り立たず、
戦争で生き残るためには勝たないといけないし、逃げると殺される。
戦わないと。一般人が生き残るには?

もう、生き残る方法をあえて考えるのがアホ臭いかとも思いました。
日本人が戦争に巻き込まれた場合、どうすれば生き残れるかあれこれ
書いて質問してみようと思いましたが、もうなるようにしか
なりませんね。

と言うわけで、次のような質問にいたりました。


【質問】

戦争になったら生き残れたら儲けもの、
死んでしまったらハイさよなら。
でも嫌だと言って逃げたら末代まで子孫が呪われる。
自分も味方の兵士に殺される可能性がある。
もう、あえて生き残る方法を考えるのがおかしい。
と、思うのですが、皆様はどうお考えになりますか?
思うところお教えください。

こう言う質問するなやと言われるところもあるかと思いますが、
中国朝鮮などの日本への侵略欲の強さを考えたら、考えて
おかないといけない事かなと思って質問させていただきました。
ご回答お願いします。

もう戦争になったらなるようにしかならんよね??

ふと、日本国が戦争になった時生き残る方法について考えてみました。
日本の一般人が戦争に巻き込まれた場合、当然初期対応として
自衛隊の出動が考えられますし、兵士不足となったらば、憲法改正を
前倒しして徴兵制が導入されるのでしょうね。日本も生死の境い目に
自国の立場が置かれたら、政府もどう考えて行政を行うかわからない。
小泉純一郎元首相の時は、特例法と称してイラクへの米軍援助を
自衛隊員に行わせた。何だかんだで同時多発テロの時は日本人も
巻き込まれていたわけで、日本国はアメリカの言う...続きを読む

Aベストアンサー

>>皆様はどうお考えになりますか?
思うところお教えください。

戦場に出向いたら、そりゃあ兵士として、できるだけ多くの敵を殺すと同時に、自分や部隊の仲間が生き残れるように頑張るってことではないでしょうか?

なので、スカパーで兵器に関連するTV番組を見るとか、「三島瑞穂の自衛隊へのアドバイス」「日本人が知らない軍事学の常識」などの書籍を読んだりしています。前著は、「あなたがテロリストの人質になったら?」など、役に立ちそうな(立つ時が無いほうがいいけど)こと書かれていますね。

また、スイス政府が発行している「民間防衛」には、スイスの一般人として戦時に対処すべきことがイロイロと書かれていました。これを参考に可能なところは対応したいなあと思ったりしています。

また、「民間防衛」には「外国からの武力によらない国家侵略の方法とそれに対する防衛方法」が書かれています。現在、日本は、中国・北朝鮮・韓国から、そうした直接の武力によらない攻撃を強く受けつつあり、その攻撃にアメリカのマスコミも参加する始末です。ですから、安倍総理は反撃に苦慮しているように思えます。
なので、それらの国の言論反撃に反撃するため、日本が武器になる論点を、幸福の科学の大川総裁が、このたび「東条英機の霊言」において提示してくださいました。
私たち日本人は、この霊言を参考にすれば、中国・北朝鮮・韓国に対して、「正しい歴史認識をしなさい!」と主張していくことが可能になると思います。
また、アメリカに対しては、「アメリカ人の血を流しても、アメリカには日本を守る責任があるのですよ」と言うことが可能になります。
(この東条英機の霊言は、幸福の科学の大川総裁から、安倍首相への大きな援護射撃です。)

>>皆様はどうお考えになりますか?
思うところお教えください。

戦場に出向いたら、そりゃあ兵士として、できるだけ多くの敵を殺すと同時に、自分や部隊の仲間が生き残れるように頑張るってことではないでしょうか?

なので、スカパーで兵器に関連するTV番組を見るとか、「三島瑞穂の自衛隊へのアドバイス」「日本人が知らない軍事学の常識」などの書籍を読んだりしています。前著は、「あなたがテロリストの人質になったら?」など、役に立ちそうな(立つ時が無いほうがいいけど)こと書かれていますね。

ま...続きを読む

Q太平洋戦争中に街で見かける男性たち

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われます。

考えれば、あの戦争中でも男性が必要となる職場が多くあったように思います。 たとえば鉄道関係者、警察官、消防士、医師、自治体の公務員、電気・ガス会社の社員、あるいは建設関係 ・・・ などなど、女性だけでは運営出来ないと思うのですが、これらの男性たちには徴兵義務が免除されていたのでしょうか? 

それとも、形だけ一旦徴兵に取られてどこかの軍部に属し、その後に 「派遣」 という形でまた元の職場で以前同様の仕事を続ける、そして家から通う ・・・ こんな制度だったのでしょうか? たしか軍艦を建造する造船所の技師や職工はそんな身分になっていたと、どこかで聞いた覚えがあるのですが、ハッキリしません。

もしそうなら、そんなラッキーな職業には具体的にどんなものがあったのでしょうか?

健康上の問題で徴兵が免除された人は除くとします。

テレビなどで太平洋戦争前後の映像を見ていて疑問に感じる時があるのですが、当時は日本国男子の全員がある年齢になると徴兵の義務が課せられていたように聞いています。 いわゆる赤紙というものですね。

もし拒否したり逃亡したりすると、非国民として厳罰が待っていたはずです。

ところが戦争末期になっても、当時の映像では普通のサラリーマン風の男性が街中を歩いたり、家族と買物や散歩したりしている光景を見る事があります。 おそらく年齢的には徴兵に取られておかしくないような世代かと思われま...続きを読む

Aベストアンサー

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えなどということもあったでしょうが、45年には徴兵検査を受けた者の9割が実際に動員されたということですから、それほど多い事例ではなかったと思います。
むしろ、金持ちの子弟は、高学歴ですし、働く場所も親の力などで選べますから、軍属名目の勤務先に勤めたり軍関係の仕事に従事したり、満州国政府に勤めるとか、ということで結果的に徴兵逃れが出来たケースが多かったのではないでしょうか。

アメリカではこれが結構多くて、大統領選挙の時の経歴で問題になったりしますよね。徴兵逃れのため州兵の、しかも空軍(一番戦場に行かないポジション)に親の力で入隊するとか、カナダに移住しちゃうとか。

高等文官試験に合格した官僚(今で言うキャリア)は基本的に徴兵免除だったそうです。また、軍といえども、徴兵関係は役所(陸・海軍省)の仕事ですから、本省勤務の人間は、他省庁でも、キャリア組でなくても「余人を持って代え難い」という名目で徴兵免除、或いは徴兵されて即日帰郷などの措置が取られたそうです。この時に、上司や同僚に嫌われているとその措置をしてくれない、なんてこともあったとか。これはコネの方ですね。

金の方ですが、まぁ、人間の世界ですから露骨な袖の下で徴兵名簿の書き換えな...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q戦前戦中戦後。人々の暮らし

大日本帝国の人について興味あります。
司馬遼太郎の坂之上の雲は呼んだことある方いますかね?教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?当時の人の暮らしぶり、考え方など知りたいです。
戦前、戦争とは関係ない人々の普通の暮らしぶりはどんなでしたかね?何を考えどう生きていたのですかね?特に教育勅語を学んだ世代の人生観、今の若者をどう思うかを知りたいです。
戦後、メーデー、安保闘争など日本人は今のように去勢されておらず元気いっぱいでした。当時の人の考え方、暮らしぶり、将来への不安と期待など知りたいです。あ、米国の奴隷になったり、米ソ冷戦に巻き込まれて再び戦地となる不安はなかったのですかね?
各地に海外移住された方もいるときいてます。どのような思いで日本を離れたのですか?
よろしくお願いします

Aベストアンサー

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと思います。(従兄弟大正生まれ90歳余曰く)

昭和の初期でも都会では幼稚園はスクールバス。映画もダンスホールも、フランス料理も今あるものは全て溢れ返ってました。

水洗はごく一部で近郊の百姓が肥を汲みに来て御礼の大根なりを置いていくのが都会でも普通の事でした。

また、戦前はそこそこ金を持っている連中でも借家が普通で、余程の事業家や成金、爵位のある家系以外は全て借家。

土地の有力者・・・例えば豪農や代々の庄屋などは家屋敷がありましたが。
家を買うという発想はほぼありませんでしたね。

腰弁(サラリーマン)の出社は歩くのが原則で交通費を貰って電車に乗るというような事は大正の初期までは無かったと従兄弟は申しております。

一家団欒、一家そろって食事と云うのも精々戦後の事です。
商家なら手の空いた人から食事をしますから。

一家の主のお膳は(おかずもご飯も)全て妻子とは別、同じ膳では食べません。主の食事が終わってから妻子の食事。(今ならよめはんに殺されるかも)

子供と大人の世界は完全に区別。

ネットは当然、普通の家に電話もありません。(うちの電話探ってみると最初に置かれたのは大正7年でした。)

戦後初めて白黒TVが発売された時TV一台の値段で当時40坪くらいの家が一軒買えました。

戦後宝くじは一等10万円。一枚10円。小さな家なら買えた。

終戦の年、すぐにアイスキャンデーを作って売ってました。一本1円。

不味いガムやチョコレートは昭和23年頃だったかに。

当時、バスやタクシーは電気自動車が多かった。充電はどうしていたのか??ですが。

従兄弟の戦前の中学校の教科書を見ると(電気技術書)きちんとテレビの写真と技術解説が載っています。

私たちがよく読んでいたのはヘッセ、Tマン、メリメ、シュトルム。

哲学をやっている連中はこんなの読みません。

明治の文学はほぼ濫読、南総里見八犬伝まで手を出した奴も居ます。

映画は手当たり次第。戦前の名画も戦後公開されましたから。
最初のアメリカ映画は確かユーコンの叫びだったかと。

普通の人にとっては戦前の、支那事変や日露戦争の結果に一喜一憂していたのは今と人たちの野次馬的な処と変わりはありませんし、人間の常として考えが楽なほうへと傾いていたのも事実です。

今と違って身分社会(出自によって社会的地位が決まる)ですから、例外はあるとしても(例えば爵位のある人や軍需産業などで大金を得て社会に還元したいと地方の優秀な男子や子女を養子として、或いは書生として住まわせて立身の道をつけてやるなど)、ほぼ人は生まれた時に取るべき道は決まっていた社会です。

で、各自それなりに、政治や軍事は・・・そんな難しい事は誰か偉い人がすることであって私たちには関係の無い事、其れよりも毎日の生活や楽しみが先決・・と云うのが本音だったでしょう。

メーデーや安保闘争など・・私の考えですが今の団塊の世代の初期の人たち(昭和22年生まれ以降)は肝心の小学校の教室も教員も足らず、抑留から引き上げてきた共産主義に洗脳されたような代用教員に習った結果が、戦前の身分社会の不条理に気づき労働者とブルジョワジーの対立と云う形で爆発したものだと思っています。

団塊の世代が愛用した歌声喫茶で歌われている歌って労働歌やロシア民謡などソ連に関係したものばかりですよね。

確かに農村部では(戦前は長男が後を取り、次男以下は出て行くか良くても他の農家の婿養子になるかで、軍隊が出来ると米の飯が腹いっぱい食えるとばかり召集どころか争って志願した人が多いのが現実で、後に赤紙で召集される頃は兵役忌避の脱走者も多かったようですね。

でもねぇ、戦時中食べるものが無かったとは云いますが金さえ出せば何でも買えたのです。(結局は金があるかどうかで決まるのかも)

徳川無声の戦時日記を読めば東京空襲時でも牛肉の配給(食糧は物価統制令で自由に売買が出来無い、主食の米などは各戸に割り当てで配るのを配給制と云います。違反者は投獄。外食は外食券が無いと出来なかったけれど、店は知り合いには出来る限り物を提供していた。)があったと記述されていて驚きます。

海外へ移住された方は明治以前から沢山居ますので戦前の暮らしのごく一部の現象に過ぎないと思っていてください。
これに関しては色々本が出版されているので図書館でお読み下さい。

明治中期生まれだった私の母親など若い頃毎晩ダンスホールで踊っていたと。(写真が残ってますわ)

慶応生まれの祖母なんか刺身が好きで良く無理難題を。でも結構手に入ったのですよ。

果物も、ケーキも、菓子も巷に溢れ返ってましたし戦争が始まっても暫くはまだフランス映画など上映してましたしね。

学童疎開はしてましたが食べ物に不自由だった事は有りません。
(場所によるのでしょうけれど)

戦争が始まっても一般の人の生活が急に変わる事は有りませんでした。

東京や大阪名古屋の空襲にあった人たちは大変だったでしょうけれどね。
一般の庶民にとって将来の事などは戦争の行方は心配しても身の振り方までは考えられなかったと思います。

進駐したアメリカ兵が抵抗されゲリラにでもやられるかると緊張していたのに拍子抜けと、戦後隣に住んでいた大佐が笑いながら話してくれました。

昭和20年代は内憂外憂が一般の人には全く感じられなかった時代。
20年代終わりにはアメリカ文化がど~~っと。

圧巻はジャズ。ベニーグッドマン、JATP、サッチモ、ハリージェームス、ライオネルハンプトンetc。飯を惜しんで東京へだら(普通)の夜行で14時間かけ学区をサボって聞きに行った。

新宿あたり焼け跡がまだ板囲いしてありまだ戦争浮浪児も居た時代。

昭和34年まだ国道一号線は舗装なし。トヨタのクラウンの前身トヨペットスーパーがこなれてきて試乗に行きました。

クッションは板バネ。遠出でしてバネが折れて挙母市(今の豊田市)で修理をするはめに。

閑話休題

今時ああだこうだと大げさに言われている面は何事に付けても大いにあると思います。

大正、昭和の話を書いた本は沢山出ていますが、その前に矢田捜雲の江戸から東京へや生方敏郎の明治大正見聞史の一読をお勧めします。
もう少し前の幕末の世人の暮らしや出来事などは鹿島萬兵衛の江戸の夕映をぜひお読み下さい。

教育勅語の内容は素晴らしいものですから私たちは否定しません。
まだ同級生は200人以上が健在ですし、何時もわいわい集まっていますが1年先、3年先の心配をする輩はいませんねぇ。
其れより100年先どうなっているかの議論に口角泡を飛ばすほうです。
戦前、戦中、戦後を冷ややかな目で見てきた世代ですのでなるようにしかならんと物事を割り切ってます・・が多い。(^^)/

取り留めの無い文、乱文で失礼しました。

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと...続きを読む

Q戦争中の子供達、どうしているんですか?

小6の女子です。
今、国語の授業で調べているんですけど、
戦争中の子供はどうやって生活をしているんですか?
学校は、どうしているのか。食料は? 日本と同じような生活だったのか。・・・・・など。
戦争中の子供達に関することなら、大歓迎です!
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「子供」をどの階層にするかで答えは代わりますが。、
2字対戦中の農村地主-比較的裕福な小作層小学生ですと、
学校に出かけて、学校帰りに近所の農地を襲って適当に食料を調達。
うちの畑が教われました。ちょっと前までPAT会長等の役職についていました。

埼玉県某村の子供ですと、その村で「食量の補給を受けろ」と命令された日本兵がとさつして食べてしまいました。

戊辰戦争の頃かな。
官軍に逆らったとして、殺されました。

学校はありません。学校では、「何とかを集めろ」という話しがあるたびに児童生徒が該当業に従事して、「しょうこんゆをとるから松の根を掘って来い」なんてやっていました。
疎開者には食い物はまずありません。その地区の餓鬼大将が配給食をほとんど略奪して、自分のつかいっぱしりに配ります。疎開者は略奪されるだけです。
疎開者が戦後学校の試験で一番を取ったことがあります。餓鬼大将がその児童を殴りました。半年後死亡しました。
都内からの疎開者は、略奪の対象に過ぎませんでした。

だから、「川魚」は食べられません(取ったらば食べる前に略奪され、半殺し。多くの場合には1-3週間食料を与えられず死亡)。カエルとか蛇とか地区の人間が食べない物が疎開者の食料でした。

「子供」をどの階層にするかで答えは代わりますが。、
2字対戦中の農村地主-比較的裕福な小作層小学生ですと、
学校に出かけて、学校帰りに近所の農地を襲って適当に食料を調達。
うちの畑が教われました。ちょっと前までPAT会長等の役職についていました。

埼玉県某村の子供ですと、その村で「食量の補給を受けろ」と命令された日本兵がとさつして食べてしまいました。

戊辰戦争の頃かな。
官軍に逆らったとして、殺されました。

学校はありません。学校では、「何とかを集めろ」という話しがある...続きを読む

Q戦災孤児はどこへ消えましたか?

終戦直後あちこちの都市にいた戦災孤児。靴みがきや金属拾いなどでたくましく生きていた様子が当時の映像資料などで見ることができます。
しかし皇太子殿下御成婚や、東京オリンピックの頃には当然その姿は見かけないようです。
あれから彼らはどのような人生を歩んだのでしょう??
・アメリカ人の養子縁組などで海外に出た
・栄養失調、伝染病等のために一般人より寿命が短かった
・愚連隊、ヤクザ稼業を歩んだ
・仕事を持ち、一般人の社会に溶け込んだ

おそらく今でもご存命の方々はいらっしゃると思います。
体験をお聞かせ頂ければ幸いです。

Aベストアンサー

今年70になった私の叔父は、戦災孤児です。というと変な言い方ですが、実は私の父やもう一人の叔父(父の弟)とは血がつながっていないのです。私の祖母が、東京大空襲の翌日、飯田橋(不思議なことにその一角だけ焼け残ったそうです)という所で近所の子供が焼け出され、孤児になったのを不憫に思って家に連れてきたのだそうです。戦後、養子縁組だか何だかをして(終戦後のどさくさですから)、自分の子供として育てました。祖母は女手一つで3人の子供を育て、全員を大学まで出しました。実は、3人兄弟の中で、一番の出世頭は、その叔父です(笑)
私の父は生前、酔っぱらうと、「あいつは、血が違うからできが良いんだ」と叔父のことをほめて?いました。別に隠すこともなく、普通にそんな話をする兄弟だったようです。
祖母も父もとっくに亡くなっていますから、何でそんなことをしたのかは分かりません。ただ、その叔父は、今でも祖母(本人からすると義理の母)に深く感謝しています。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング