アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

A 回答 (11件中1~10件)

兵器の開発に携わっていた技術者じゃないかな

    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど!アリって感じですね
ありがとうございます

お礼日時:2007/05/12 12:27

兵器工場経営者とその家族。

叔父がそうでした。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

その方が召集されれば兵器ができませんからね・・
ありがとうございます

お礼日時:2007/05/12 12:29

全員が徴兵されたわけではありません。


順番に徴兵されていますし、重要な職(医師、工場、公務員等)
は国内の職務遂行に支障が無い範囲で徴収されています。

割り当てみたいな感じです。

例えば、兄弟が数人いた場合、一人は徴兵されても
残りは免除されています。
会社員でも、会社の20%みたいな感じで徴兵されています。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

意外と少ないんですね?
ありがとうございます

お礼日時:2007/05/12 13:54

理工学系の大学、専門学校教授や理工学系研究者は徴兵を免除されていました。


従って将来そのような途に進む可能性と学力を備えた学生は徴兵延期が認められていました。
医学系も同様だったのではないでしょうか?

学生でそのような特典が停止されたのは、学徒動員令がでてからです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

特殊技能(能力)のある人達はそうなんですね
ありがとうございます

お礼日時:2007/05/12 13:55

日本の動員率は参戦主要国ではむしろ低い割合ですよ。


学徒動員の行われた1944年でも日本の6%に対し、ソ連25%、ドイツ18%、アメリカが8%と言うところです。
日本の場合、それらの国に比べて色々な面で機械化が遅れていた為労働に人手がかかるのに加え、船舶量の不足から動員しても前線には送れない、与える装備まで生産が回らない、等の問題があったため主要国では動員力は最も低い水準でした。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

その数字は知りませんでいた
ありがとうございます

お礼日時:2007/05/12 13:56

理系の大学生(の一部)などですね。


日本の戦争指導者たちも、あの戦争が科学技術の戦いであることにもちろん気付いていて、東大には「第二工学部」まで設置されました。その学生たちは、戦時中も勉強を続けていました。他の学部の事情についても、次のサイトに詳しく載っています。
別冊「東京帝大が敗れた日」(立花隆、文藝春秋)
http://www.bunshun.co.jp/todai0815/index.htm

総力戦は生産力の戦いでもあります。兵器・機械類はもちろん、広く軍需物資、さらには食料などの生産も重要です。継戦能力を左右するからです。
戦争に行かされなかった若者は、勤労動員というか、工場や農作業の手伝いなどに動員されました。また、本土防衛に備えて、いわば民兵のような訓練にも動員されました。
ただし、勤労動員には女子学生も、本土防衛訓練には主婦・爺さん婆さんまで参加させられた時代です。やはり、若い男は戦争に行かないと肩身の狭い思いをしたようです。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

戦争に行かない若い男子は白い目で見られたのかもしれませんね
ありがとうございました

お礼日時:2007/05/13 21:45

それぞれの村役場に兵事課と言う部署があってそこで徴兵される人を選びました



村の有力者は息子や知人が徴兵されないように兵事課の人達にいろいろ手を廻したと言われます
    • good
    • 6
この回答へのお礼

いつの時代にもそういう人はいるんですね
ありがとうございました

お礼日時:2007/05/13 21:45

うちの叔父は徴兵検査で不合格になり行きませんでした。


視力が悪かったのですけど、めがねをかければ車の運転も出来ましたが、あの時代は近眼は少なかったのか、徴兵されず、今の私も恐らく駄目でしょうね、裸眼視力が0.1以下ですから。
叔父は理髪師でしたから、有力者でもなんでもない一般庶民でした。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/05/13 21:47

一口に言えば


「身体精神上の条件が不足して兵役に耐えられないと認められた者」
徴兵検査
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5% …
で「丙種」以下とされた人。
「理科系の大学生・専門学校生・高等学校生」
「上記のいずれにも該当しないが運の良い人(人為的に幸運を得た人も含む)」
です。

No4さんが「学生でそのような特典が停止されたのは、学徒動員令がでてからです」と言われていますが、学徒動員令という法令はありません。

学徒出陣というのは、「文科系」の大学生・専門学校生・高等学校生等を対象に、

兵役法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs02-47.htm
第四十一条 中学校又ハ中学校ノ学科程度ト同等以上ト認ムル学校ニ在学スル者ニ対シテハ本人ノ願ニ依リ学校ノ修業年限ニ応ジ年齢二十七年ニ至ル迄徴集ヲ延期ス

の適用を

在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs18-755.htm
兵役法第四十一条第四項ノ規定ニ依リ当分ノ内在学ノ事由ニ由ル徴集ノ延期ヲ行ハズ

として解除したものです。

理科系の学生は、在学徴集延期臨時特例の対象外で依然として徴集を猶予され、卒業後は技術士官もしくは軍医士官として比較的安全に戦争に参加することができました。戦時下では、そういうわけで理系を志願する学生が急増したようです。

元警察官僚・作家の佐々淳行氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85% …
の兄の佐々克明氏は、終戦時には新潟医大で医学を学んでいました。終戦後、直ちに東大法学部に転じ、東大卒業後は自治省と朝日新聞社と両方に内定して朝日新聞社に入社しています。医学に全く未練を残さずに東大法学部に移ったようですから、佐々克明氏が新潟医大に進学したのは徴兵逃れのためと思われます。こうした例は他にもあったでしょう。

さて、冒頭の「上記のいずれにも該当しないが運の良い人(人為的に幸運を得た人も含む)」
についてですが、
「証言・私の昭和史」(東京12チャンネル報道部編)
という昭和40年代に編集された全6巻の叢書がかつて発行されており、その3巻に
「召集令状・一銭五厘の命」
として、「昭和18年から名古屋連隊区司令部で動員業務に従事」した神戸達雄という人の証言が残されています。それによると、
「誰を徴兵するかは、連帯区に備わった兵籍簿という名簿を用いて私たちが決定した。誰を選んで誰を選ばないかについて、上役から指示を受けることはあった。それには従った」
そうです。この本は、証言者が口を濁した所はそれ以上突っ込まない方針で編集されていますのでそれ以上は良く分かりません。

「証言・私の昭和史」はいくつかの版があり、古本で比較的容易に入手できます。図書館で所蔵している所もあるでしょうから、実際に読んでみると良いでしょう。

「それぞれの村役場に兵事課と言う部署があってそこで徴兵される人を選びました」
というご回答もありますが、徴兵される者を選ぶ権限はあくまでも陸軍の連隊区司令部(各県に一つ)の担当官にあったようです。

連隊区
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E9%9A%8A% …
    • good
    • 5
この回答へのお礼

とても詳しいご回答に感謝いたします
ありがとうございました

お礼日時:2007/05/13 21:48

私の父は医師でしたが、戦争中は医学生で徴兵の対象にはなりませんでした。

卒業すれば軍医になったかもしれませんが、その前に終戦になってしまいました。
    • good
    • 9
この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2007/05/13 21:47

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A