痔になりやすい生活習慣とは?

戦争の名称(?)は土地名や人名が多いみたいですが
この西南ってどこをさすのでしょうか?西郷隆盛が関わってるから
西郷南州からとった、なんてことありますか?
明治維新のことがよくわかっておもしろい小説もご存知でしたら
教えてください。

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A 回答 (4件)

No.3の回答で要は尽くされていますが。

補足です。
日本の「西南」部とは、ふつう言いませんね。
まず「南西」部と言うはずです。
これは、明治以前、日本は中国文化の影響もあって、方位に関しては「東、西を先に言う」という習慣だったからです。
早稲田大学の校歌も「都の西北」です。本州の北東部を「東北地方」と呼ぶのは伝統的な言いかたです。
明治の中期になって、地理学、気象学など西欧の学問が学ばれるようになると、西欧では標準的な「北、南を先に言う」という呼びかたに切り替わりました。「西南戦争」「西南の役」と呼ばれるのは、切り替え以前のことだったからです。明治末期にこの乱が起きたら、「南西戦争」「南西の役」と呼ばれたことでしょう。
この「東西優先>南北優先」の切り替えについては、永井荷風ら文人は違和感を覚えて、批難していました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!!!
何で西南なんだろー??と思ってました。北、南を先に言うという決まりは明治中期にできたんですね。なるほどなるほど
これにて締め切らせていただきますが、ご回答いただいた皆様には厚くあつく御礼申し上げます。またよろしくお願いいたします。

お礼日時:2003/03/08 21:49

 


以下のURLの文章では、「島原・天草の乱」を、九州で起こった二大乱の一方が、日本の西南地域である鹿児島・熊本を舞台としたことより、「西南戦争」と呼ばれているように、「西海戦争」と命名するのが適切である、という意見が記されています。

この筆者の考えでは、「西南の役」は、日本の西南地域で起こった戦争であるので、「西南の役・西南戦争」だということになります。これが自然だと思います。

太平洋戦争、満州事変、日本海海戦など、それぞれの戦争や事変の起こった主舞台の場所の名から命名しているようです。古代の内乱である「壬申の乱」は、壬申の年に起こったので、こういう名前ですが、基本的に、戦争・乱などの舞台の地名などで、戦争の名が付くのではないでしょうか。

なお、幕末から明治にかけての歴史小説で面白いものというと、やはり司馬遼太郎氏の作品でしょう。

>ふるさと寺子屋塾<No.54>
http://www.kumakanren.com/magazine_terakoya/Numb …
 
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長州藩と薩摩藩の戦争だったから西と南で西南じゃぁないんでしょうか??



ちがうかな?
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普通に、日本の西南部が主戦場だったから西南戦争、という理解でよいと思いますが……



小説であれば、やはり司馬遼太郎の一連の作品がまず上げられると思います。
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Q西郷南洲という名はどこから来ているのか?

西郷吉之助や西郷隆盛はわかります。西郷南洲とはどこからつけられたものでしょうか?本人や回りの人が実際に使っていたことのあるものでしょうか?何となくの呼び名でしょうか?死後の改名みたいなものでしょうか?私の持っている書物などは、いきなり「南洲は・・・」などと始まっていて面食らっています。これに詳しい方がおられましたらお教えいただきたく投稿します。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 西郷隆盛は文政10年(1828年)鹿児島城下に生まれ、以来多くの名を名乗っています。幼名を小吉といい父九郎隆盛が家督を相続した弘化4年(1847年)吉之助へと改名願いを藩に出しています。その後も自らが家督を相続した嘉永6年(1853年)に善兵衛へ改名し、安政3年(1856年)3月までには吉兵衛を名乗るようになります。以後西郷吉兵衛、西郷三助、菊池源吾(非公式)を名乗り、安政5年(1858年)の有名な月照との入水事件で命を失いかけて以降、隆盛は奄美大島で過ごすことになります。藩庁は西郷を表向き死んだものとして、扱ったため、非公式の名が必要だったのではないでしょうか。

 その後文久元年(1861年)、藩より召還状を受け翌年鹿児島に帰ると西郷は大島三右衛門への改名を命じられます。折しも中央では安政の大獄(橋本左内刑死が1859年)、桜田門外の変(1860年)、生麦事件(1862年)と激動の時代のまっただ中にありました。

 さて西郷ですが、このころより再び不遇の時代を生き始めます。文久2年(1862年)藩兵を率いて姫路に滞在中であった時の薩摩藩主島津久光は、志士を扇動しているとの奸言を受け、西郷を退けます。彼は今度は罪人として鹿児島よりはるか海上の沖永良部島で過ごすことになります。この時大島吉之助へ改名を申しつけられていますが、しばらくは大島三右衛門の名をつかったようです。

 今でこそ、鹿児島県の中では沖永良部島は花卉栽培などで豊かな島となっていますが、ライフラインもほとんど整備されていない当時、西郷はたいへんな苦労を強いられたようです。この沖永良部島での文筆活動で使った名が西郷南洲でした。南洲とは「南の島」という意味で、祖父が沖永良部島出身である私などは沖永良部島という意味ではないかと密かに期待しています。
 
 文久3年(1863年)薩英戦争を経験した藩は西郷が貴重な人材であることに気づいたのか、彼を許し(西郷は薩英戦争に参加するため脱獄まで企てたらしい)、翌年に帰鹿。そのあと、中央を舞台とした活躍へ、そして西南戦争へと歴史はつながるわけです。

 明治初期の激動期は西郷吉之助の名を通し、明治4年(1871年)には平隆盛で参議の辞令を受けています。また西郷隆永の名を使っていたのはこの頃です。

 さて西郷隆盛という名ですが、明治2年正三位に叙せられた際、父の名と間違えられたというのは事実のようです。以降明治政府からの辞令は西郷隆盛の名で出され、鹿児島市にある彼の墓碑にも「西郷隆盛墓」と記されています。

 鹿児島市北部の鹿児島港の埠頭にほど近い、住宅地が小高い丘へと隆起しはじめた場所に南州神社があり、西郷をはじめ西南戦争の薩藩側犠牲者二千余名が祀られています。私の遠い血縁の者もこの場所に眠っているはずですが、ながく失業している私は申し訳なくて墓石の前に立つことはできず、静雨のなか西郷の墓に手を合わせて、たった今その場を辞してきたところです。資料は西郷南洲顕彰館より入手しました。

 西郷隆盛は文政10年(1828年)鹿児島城下に生まれ、以来多くの名を名乗っています。幼名を小吉といい父九郎隆盛が家督を相続した弘化4年(1847年)吉之助へと改名願いを藩に出しています。その後も自らが家督を相続した嘉永6年(1853年)に善兵衛へ改名し、安政3年(1856年)3月までには吉兵衛を名乗るようになります。以後西郷吉兵衛、西郷三助、菊池源吾(非公式)を名乗り、安政5年(1858年)の有名な月照との入水事件で命を失いかけて以降、隆盛は奄美大島で過ごすことになりま...続きを読む

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q有機物と無機物の違いはなんですか?

稚拙な質問ですいません。
有機物の定義とはなんでしょうか?
無機物とどこで線が引かれるのでしょうか?
有機化学と無機化学の違いはなんですか?
髪の毛は有機物?無機物?
ご教授ください

Aベストアンサー

有機物とは基本的に生物が作るもので炭素原子を含む物質です。また、それらから派生するような人工的で炭素を含む化合物も有機物です。ただ、一酸化炭素や二酸化炭素は炭素原子を含みますが無機物に分類されます。
無機物とは水や空気や金属など生物に由来しない物質です。

Qイスラム教の聖地はエルサレム、メッカ?

イスラム教の聖地とはエルサレム、メッカ、どちらなのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

どっちもです。

メッカ、メディナ、エルサレムの3つの都市が、イスラム教の三大聖地とされているようです。

メッカには、「神の館」であるカーバ神殿があり、また、預言者モハメッドの生誕地でもあります。

メディナには、モハメッドの墓所に建てられたモスクがあるらしいです。

エルサレムは、モハメッドが天に登った場所だそうです。

Q内閣総理大臣の任期について。

内閣総理大臣の任期についてなのですが、アメリカでは四年で二期までですが日本ではどうなっているのでしょうか?
憲法第七十一条には「内閣総理大臣は、衆議院の解散や衆議院議員の任期満了により国会議員の地位を失っても、次の内閣総理大臣が任命されるまでの間は、その地位を失うことはない」とありますが何期できるのですか?
知っている方は教えてください。

Aベストアンサー

 日本の内閣総理大臣は,「1期○年」と決まっている訳ではありません。
 首班指名されてから,衆議院選挙後の首班指名まで,或いは辞職・死亡するまでが1期と言えるでしょう。というより,「第○代」と言う言い方をします。
 
>何期できるのですか?
 制限がないので,何年でもできます。
 ただ,自由民主党では,総理には党の総裁が就くことになっています。自由民主党の総裁の任期は現在,3年と定められており,2期までと定められていますから,最長6年ということになると思います。
 でも,自由民主党は総裁公選規程をコロコロ改正しています。昔,中曽根氏が総理総裁の時,総選挙で大勝したから,総裁任期を1年延長されたりしました。

参考URL:http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html

Q西南戦争田原坂をなぜ決定的な戦いのようにいうのか?

西南戦争の歴史、本を何冊か読み、巷で言われる「田原坂」が決定的な戦いでも転機でもないことがわかりました。

田原坂戦は、熊本篭城軍の後詰を薩州軍が押さえるというのが大局的な状況です。そして、そのために熊本に向かう道に幅広く防衛線(30km位?)を敷きます。で、この防衛線は4月15日に薩州軍が自発的に退却するまで、漸次後退しますが、突破はされません。大きな戦線の移動が3月20日の田原坂七本付近の小突破によってあるが、その日のうちに戦線を整理し、政府軍の動きはまた封じられています。熊本城までの道程を考えると、たいした意味のある動きではないわけです。このままのペースで戦ったところで、篭城軍が兵糧攻めで降伏するまでに、つけるような見込みはまったく立たないという状況です。

なぜ、自発的な退却があったのかというと、熊本の南八代に上陸した政府軍が城との連絡に成功したから、攻城を解いた。その動きによって、北部の戦線は意味を失い、総退却に移ったものです。

田原坂は非常な消耗戦でしたが、決定的な戦いではないのです。あえて決定的な瞬間といえば、八代上陸軍が熊本城に到着した瞬間でしょう。なぜこれがメインテーマにならないのか?

不思議です。

西南戦争の歴史、本を何冊か読み、巷で言われる「田原坂」が決定的な戦いでも転機でもないことがわかりました。

田原坂戦は、熊本篭城軍の後詰を薩州軍が押さえるというのが大局的な状況です。そして、そのために熊本に向かう道に幅広く防衛線(30km位?)を敷きます。で、この防衛線は4月15日に薩州軍が自発的に退却するまで、漸次後退しますが、突破はされません。大きな戦線の移動が3月20日の田原坂七本付近の小突破によってあるが、その日のうちに戦線を整理し、政府軍の動きはまた封じられてい...続きを読む

Aベストアンサー

明確な作戦図や地形図を見ているわけではないので、明快な回答はできないかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。

薩摩軍は熊本を攻囲しつつ、田原坂で、政府軍と戦闘をしているわけです。もちろん幕府軍の戦線を突破、あるいは迂回してしまえば決定的な戦闘となるでしょうが、それはできなかったのですよね。(あくまでも政府軍の目標は熊本城攻囲軍でしょう。田原坂の薩摩軍は主目標ではないと思います。)

しかし、これができなかったとしても、政府軍は薩摩軍を田原坂戦線に拘束しているわけです。もし田原坂を圧迫しなければ、薩摩軍は全部隊を熊本城攻城に振り向けることができるのです。熊本城は政府軍にとっては、軍事戦略上以上に、政治戦略的な意味をもちますから、開城を許すわけには行きません。結局、田原坂戦線を崩壊させなくても、薩摩軍は戦力を分散させることになり、戦略的に不利になります。だからこそ決定的なのではないでしょうか。

八代上陸作戦は、第2戦線を築いたという点では決定的でしょうが、田原坂戦線がなければ意味はなかったかもしれません。いずれにせよ薩摩軍は同時に3つの作戦を同時進行しなくてはならなくなります。だからこそ攻囲を解いたのでしょう。

これは朝鮮動乱の時の、釜山橋頭堡(洛東江コリメーション)と仁川上陸の関係に似ているかもしれません。釜山橋頭堡が維持されているからこそ、仁川上陸の意味が大きくなるのです。これによって北鮮軍は兵力を二分され、戦線の崩壊を招きました。

決定的とは、華々しさだけで論ずるものではありません。敵戦力の拘束は、殲滅などに比べ華々しさではおとりますが、戦術・戦略上では重要な意味を持つのです。

しかし30kmの前線というのは、よく守れたものです。常識的に考えれば3個師団以上は必要です。まあ田原坂が長い隘路の役割をして、政府軍の戦力を各個撃破できたのかもしれません。それにしても突破口を押し返したのですから大したものです。観測点射撃や鉄条網と機関銃火網陣地出現以前の時代ですから感心しますよ。

明確な作戦図や地形図を見ているわけではないので、明快な回答はできないかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。

薩摩軍は熊本を攻囲しつつ、田原坂で、政府軍と戦闘をしているわけです。もちろん幕府軍の戦線を突破、あるいは迂回してしまえば決定的な戦闘となるでしょうが、それはできなかったのですよね。(あくまでも政府軍の目標は熊本城攻囲軍でしょう。田原坂の薩摩軍は主目標ではないと思います。)

しかし、これができなかったとしても、政府軍は薩摩軍を田原坂戦線に拘束しているわけです...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Q「前九年・後三年の役」の呼び名の由来は?

日本史に詳しい方、どうか教えてください。
平安時代後期の「前九年・後三年の役」ってありますよね。
鎌倉時代初期までは、前九年の役は「康平の十二年合戦」と呼ばれていたと古今著聞集にあるのですが、ではいつ頃からどういう由来で「前九年の役」と呼ばれるようになったのでしょうか。
同じように、後三年の役も、後白河法皇が後三年合戦絵詞をつくったことからそう呼ばれるようになったことまでは分かっているのですが、その後三年という言葉がどこから出てきたのか分かりません。
やっぱり、「前・後」というからには何かから起算して9年だったり3年だったりするんでしょうか?
学校の先生に聞いても「知らん」と言われてしまいます。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

源頼義と安倍氏の戦いは、古くは、「奥州合戦」とか、「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。それが、「前九年の役」と呼称されるようになったのは、鎌倉時代からです。ところが、この九年という年数がどこから出されたものかは甚だあいまいで、恐らくは十二年合戦というのを源義家の「後三年の戦い」を合わせたものと錯覚し、十二年から後三年を差し引いて出された年数と考えられます。もっとも、十二年合戦という呼称は、頼義が陸奥守となって赴任した永承六年から、安倍氏との戦いの終結する康平五年まで足かけ十二年に及んだことに基ずくのですが、実際に十二年の間戦闘が行われたわけではなく、こうしたことも後に誤解を生む原因の1つにもなりました。


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