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仏教の考え方について勉強をしています。

その中でも色即是空という考え方、
物事への執着、煩悩を捨てよという考え方は、
とても本質的で素晴らしい考え方であると思っています。

しかし、良い物も悪い物も根源的には全く同じもの、
表裏一体であって、絶対のものではない、
色即是空の教えは、一見本質的ではありますが、
目の前に見える美しい物、楽しい物すら、
それをそういうものであると心から信じるなという考え方にもなりませんか?

目に見えるものを疑ってかかる行為は、
逆に心の中の不安を増加させてしまう行為であるとも思うのですが、
私の色即是空の解釈は間違っているのでしょうか。

色即是空の教えの上では、人は今目に見えているものをそれとして、
心から信じることはできないのでしょうか。

「色即是空の教え」と「信じること」について、
どなたか無知な私にご教授いただけたらと思っております。

よろしくお願い致します。

A 回答 (16件中1~10件)

こんばんは。



信じる方を重点的に言ってみたいんですが、

心から信じる、ということはあるがままの自然現象であり、意図的に信じることはできないです。
それこそ理由がないのに信じることはできないので。

もし心から信じた出来事があるなら、それは意図したものではなく、自然に起きた気持ちを後から反芻して捉え直したものじゃないかと思います。
脳生理学の知見でも、確か、人が思いを自覚する0.何秒前かに、もう脳の方では先に変化が現れてるという実験結果もあります。


能動的に意図して信じたいという気持ちは、先入観による不安や疑いの裏返しですし、ある種の暗示です。
なので、疑って掛かることで不安が増加するのは、もともと内面にある不安が表面化してることになると思います。
つまり増加したのではなく、意識化された不安のパーセンテージが増えたということで。
つまり膿を出すような。
なのでこれは悪いことではないのではないかと思いました。


以上のことで、色即是空と信じることは特に矛盾しないと思うんですが、
というか逆で、色即是空を徹することで色々誤解が解け、信頼が回復し、自然現象としての信じる気持ちが湧いてくるかも、と思いました。
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この回答へのお礼

素晴らしいご回答ありがとうございました。
これまでの方とはまた違った切り口からのお答えで、なるほどと思わせられました。

確かに「信じる」という行為には、頭というよりは身体の方から比較的自然に行える場合と、
自分で何かしらの理屈をくっつけ「信じよう」とする場合の2種類のケースがあるような気がします。
(前者は感性、後者は理性や先入観が支配的に働いている場合でしょうか)

気付いていないだけで人は、頭で考えるよりも前に、
はるかに膨大な量の情報を感じ取っているのかもしれませんね。

そうすると確かに「疑う」という作業は、潜在的にはすでに自分自身が気付いている不安要素を、
理性が意識的に表にさらけ出させようとする作業なのかもしれないです。
その膿に心を飲まれさえしなければ、「疑う」こと自体は決して悪い行為ではないのですね。

色即是空によって自然な自分と対話できるようになれば、こんなに良いことはないですね。
意図的な「信じる」ではなく、自然現象としての「信じる」を大切にしていきたいと思います。

「信じる」という目線からのご回答、大変参考になりました。
ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/18 22:19

「物事への執着、(=)煩悩」こそが、「不安を増加」させるわけです。



「ありのままを、あるがままに見る」のは、それでいい、と思います。
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この回答へのお礼

ありのままを、あるがままに見れば良いのですね。

たとえワクワクしたとしても、それに執着さえしていなければ一応大丈夫なのでしょうか。
煩悩の考え方は難しいです。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/18 21:05

「色」とは、形あるもの、目に見えるもの


「空」は空虚で実態のないもの、という意味です。
「空虚で実態のない本質的なものを信じる心は、破壊されることがない」という解釈です。

例えば水(水には実態がありますので、「色」です。「空」ではありませんが、喩えとして述べます)には、形がありません。どんな形の入れ物にも入ることができますし、刃物で切ることもできません。氷には形がありますので、入れ物の中で隙間ができますし、叩けばくだけてしまいます。水が「空」で、氷が「色」の喩えです。形ある「色」は壊れてしまうけど、形のない「色」は変幻自在で、壊れたりしません。つまり「形のないものが永遠に存在できる」という意味です。

形あるものは形がなくなり滅んでいく。
形のないものは永遠に残る。
五感を伴って感じとったその感覚も、「色」を感じたもなので、
やがてはその感覚も崩れ去ってしまう。

しかし、ここからが難しいのですが、世の中森羅万象は「色」と「空」の二種類に分類されるというのではありません。「色」であるものは同時に「空」であり、「空」であるものは同時に「色」なのです。「色」でも「空」でもないものを感じることが「悟り」なのです。ここまで書きましたが、私の理解を遥かに超えた心境です。

※回答になったでしょうか?
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この回答へのお礼

「色」と「空」の考え方、改めて勉強になりました。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/18 20:59

空とは実体が無い事。

それが全ての物事の在り方だ。この真実に気づけば、煩悩は弱まる。何故なら、実体が無いと判ったものには執着出来無くなるからだ。

物の善し悪しは、人の心が下す評価に過ぎない。善悪の絶対的な基準など存在しないから、どの様に見なす事も許されている。美しいものや楽しいものも、人によって基準が異なるのだから、どの様に見なそうが構わない。絶対の基準が無いという事は、多様性の自由を意味している。

色即是空とは、何も信じるなという事ではない。物の善し悪しには実体が無いのだから、信じようが疑おうが、好き勝手にして構わないと言う事だ。これが本当に解れば、物の良し悪しに執着する事は出来なくなり、執着によって生じる苦しみが減る。つまり、煩悩が弱まる。

物事への執着、煩悩は捨てようとしても無駄だ。それは捨てたいという新たな執着、煩悩を生み出すだけだ。執着、煩悩の姿形が変わるだけだ。

悟りとは、真実を知って、自由を得る事だ。執着、煩悩の根を、元から断つ事だ。元から断たねば、執着、煩悩は、いくらでも湧いて出てくる事だろう。
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この回答へのお礼

>色即是空とは、何も信じるなという事ではない。物の善し悪しには実体が無いのだから、信じようが疑おうが、好き勝手にして構わないと言う事

なるほどと思いました。実体が無く移りゆくものに、
そもそも信じるも疑うもすること自体が無駄なのですね。
たとえどっちであろうと、それこそが物の本質であるから。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 15:41

「色」は、物質性です。


物質性が絶対的な先入ではなく、諸行無常・色心不二で
移ろい&虚ろな心の影に過ぎない、という事です。
座禅で見るのは、物の奥ではなく、物を見ている自分の
内奥です。
「信じるべき」は、物質的価値や、他人による評価ではなく、
自分自身の心だという事です。
求めるべきは、物質的豊かさではなく、無一物でも心豊かな
人生を!ていう話で。
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この回答へのお礼

他人の評価より自分自身の心を信じる。
できればそうして生きてきたいのですが、
それは一歩間違えた場合、傲慢な行いにはなってしまわないのでしょうか…?

私はよくそこのところで葛藤してしまいます。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 15:32

信じず疑わず、確信・断定してはならない、


という事を伺えて、私は幸運だったと思っています

現世の人としての、人間心の思考・感情・感受の様々に、
霊的視野・視覚・思考・感情、そして油断しない注意深い観察
(勿論、完璧など求める拘り・陥りは不要だと思いますけど)
という、胸中二(2重・多重性の目と精神状態)になりなさい、
という事だろうと

ただし、、空は一面であり、、実体は充満だと私は感じます
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この回答へのお礼

>胸中二(2重・多重性の目と精神状態)になりなさい

私も、色即是空とはそういうことなのだろうと思います。

>信じず疑わず、確信・断定してはならない

信じることもせず、また疑うこともしない、とおっしゃっているところが深いなと思いました。
どちらかに偏りすぎてしまっても心のバランスは崩れてしまいますよね。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 15:08

恋愛は実に時を要し、災いが甚だしい。


色恋は空しいものだ。というのが、色即是空、ではありません。
しかし仏教、釈迦の思想、「私はこのように聞いた」釈迦の言葉を解釈を加えずに。後世に伝えようとしたものが始まりのようで。解釈は自由だし、定義、や、統一された概念はありません。
仏教思想の大きさ、いい加減さは、キリスト教やイスラム教も仏教の分派と言っても。矛盾するものでもない
のです。神が、神を信じる事が、人々を、より正しい生活、より正しい努力、などに、
導くもの=仏 であるかどうか。だけの事。とも言えるのです。
仏教諸派の思想の差は、キリスト教とイスラム教の差、よりはるかに大きいと言われます。
 
色即是空、についての、質問者さんの認識も、正しいものでもあり、見当違いのものでもある。となるのでしょう。
ものごとへの執着、煩悩を捨てよ。というのは、四諦の法門、とか、苦集滅道、あるいは、四諦八正道
と、漢訳されている。仏教の入門。釈迦の最初の説法、のことです。何度も書いた事を繰り返すと。

菩提樹の下で、瞑想思索、般若波羅密多(ハンニャパラミ-タ、知恵によりて見る=理法に照らして考える)
の後。かつて修行、苦行、を共にした5人のバラモン修行者を前に。次のように語った

ここに、四っの真理がある。苦と苦の起源と苦の滅と苦の滅に至る道とである。
苦とは何か、生も苦老いも苦死も苦でり、愛する者と離別するのも苦なら
好まぬ者と結合するのも苦である。
しからば、苦の起源、とは何か
喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛執である。
苦の滅、とは何か、愛着の心を残りなく捨て去ること、である。
苦の滅に至る道、とは何か。
八つの正しい道、
1、正しい思惟 2、正しい見解 3、正しい言葉 4、正しい行為  5、正しい生活
6、正しい、努力 7、正しい思念  そして 8、正しい瞑想  である。

釈迦の考え方の基本は、心と知恵は、表裏一体、であり。心が想起している時は、知恵は起きない。
知恵が起きている時は、心は滅している。心は自覚出来るが、知恵は自覚出来ない。自分に知恵がある。
とは自覚出来ないのです。知恵が働いている時は、無我、であり、静けさ、なのです。
そして、知恵、にも二つある。老子は、一般の知恵とは区別して、明(ミン、道(トウ)を知る知恵)
釈迦は、理法、なのです。世界の在り方、起こり方、と合致する、考え方、を会得するなら、知恵が
自覚、出来るものとなる。釈迦の思想は理法(正しい思惟)第一の哲学=方法論 なのです。
だから、知恵を起こしたくば 心=執着 を捨てよ。
ソクラテスが在るものをあるがままに見る者は、思惑愛好家(心で見、評価、判断する者)ではなく、愛知者(哲学者)と呼ぶべき者。というのと同様なのです。

色即是空、とは色(形あるもの、固定的、と捉えられる物)と 空(実体のない、変化=変化を起こすもの)は一体となって。一つの存在となっている。

あなたという存在は、肉体構造という、色、と精神という、あなたを、動かし、変化させる、能力
という、実体としては何処にも存在しない、空、が一体となって。あなたは存在している。

それは、あらゆるものに共通する、存在形式である。との意味です。

在るがままに見ることを忘れると。文字通り、空論(からっぽな理論)になりますよ。
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この回答へのお礼

心と知恵の関係。面白いと思いました。

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 15:00

>目の前に見える美しい物、楽しい物すら、それをそういうものであると心から信じるなという考え方にもなりませんか?



そういうことです。仏教は諸行無常の考えですから、「目の前に見える美しい物、楽しい物」はいずれ醜く、哀れに変質し、滅びる、ということをいっているのです。

さらに、視覚だけでなく5つ感覚入力すべては、その個人のイメージ(想像)にすぎない、と主張しています(唯識)。よって、質問者さんの考え方は根本的に間違っていると思われます。
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この回答へのお礼

自分の感ずるものは全て自分自身が生み出した偶像でしかないということですね。

そうすると我々は何をよりどころにして生きていけば良いのでしょうか…?
「自分の感覚」とは一体どう向き合って生きていけばよいのでしょうか?

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 14:55

般若心経は仏説らしいですが、


如是我聞もないし、観自在菩薩が舎利子に説法します。

目の前の般若心経を、
たまには疑ってみたらどうでしょうか。
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この回答へのお礼

般若心経そのものを疑えということですね。

それでも、般若心経が何を説いて教えようとしているものなのかは気になってしまいます^^

ご回答いただきありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 11:32

仏教の目指すところの一つに涅槃寂静ってのがありますね。



これは、煩悩が消え去り、静かで何事も起きないことです。

エロい美人を見ても勃起しませんし、美味そうなステーキを見ても涎を垂らさない、そういう状態でしょう。

ですから、仏門に入る人は、肉食妻帯を禁ずといって、肉の美味さやセックスの味を遠ざけるのです。
それをお経で表現すれば、色即是空ということになりますかねぇ。
日本仏教の現実は、日蓮宗、浄土真宗の坊主など、平気で肉食妻帯しているのですから、仏教のオリジナルとは変質してしまっていますね。

ちなみに、僕は、仏教ってのは他の宗教とことなり、教義を「信じる」必要のない宗教だと思っています。
例えば禅宗では方案ももらって考えることを大切にします。方案には正解はありませんよ。

正解を押し付けるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教など、アブラハムの宗教とはこの点が決定的に異なっているので、おもしろいですよね。
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この回答へのお礼

「肉食妻帯を禁ず」の世界って大変ですよね。
「エロい美人を見ても勃起しませんし、美味そうなステーキを見ても涎を垂らさない」
彼らは虚無感や虚しさというものを感じたりはしないんでしょうか…?

「信じる」必要のない宗教。
仏教って面白いですよね。

ご回答いただき助かりました。ありがとうございました。

お礼日時:2012/11/11 11:28

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