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「大政奉還」の勅許と「倒幕の密勅」が下ったのが同じ日だと、ある本で読みました。
「勅」というのは天皇が出す命令のことではないのですか?
同じ日にこの2つが同じ人から出るというのは、どうも違和感があるのですが、おかしいことではないのでしょうか?

A 回答 (2件)

こんにちは。


 正確に言うと、討幕の密勅が下った1867年10月14日は、大政奉還を幕府が朝廷に「上奏」した日です。大政奉還の勅許が下ったのは、翌10月15日でした。

 討幕の密勅は、武力討幕を急ぐ薩長両藩と討幕派公卿が、幼い天皇からいわば強引に引き出させたもので、本物ではなかった(なんと天皇本人の名前が書かれていない!)という説もあるものです。
 それを察知したのが、あくまで公武合体の立場をとる土佐藩でした。なんとか武力衝突を回避したい坂本龍馬らの必死の工作で、将軍慶喜は大政奉還を決意しました。討幕派の機先を制した、間一髪のタイミングでした。朝廷側としても、政権が天皇に戻り、かつ戦いを避けられるならそれに越したことはありません。勅許を与えたわけです。

 仰るとおり、その後天皇は矛盾するふたつの勅許の板挟みになり、討幕の密勅の方を取り消します。しかし、いったん大義名分を得た薩長両藩と岩倉具視ら公卿を止めることはできず、12月9日の王政復古の大号令というクーデタになだれ込むのです。

 違和感は解消されたでしょうか?
一日単位の人間たちの動きが歴史をまさに動かす、たいへんなドラマですよね。
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この回答へのお礼

詳しいお返事ありがとうございました。

たった1日の間に、大変なドラマが起きていたのですね。
本当に時々刻々と情勢が変化していたのだなぁと
納得しました。

「明治維新」って興味を持ち始めると奥が深いですね。
魅力的な人物もたくさんいるし・・・。
これからもっと勉強したいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/02/28 17:32

1.倒幕の密勅が下った


2.その事を察知した慶喜がその日のうちに大政奉還を願い出た
3.明治天皇がすぐに大政奉還を勅許した
と考えれば、同じ日に出てもおかしくありません。

倒幕の密勅が下れば、慶喜は朝敵になってしまいますから、それを避けるためにすぐに大政奉還したのでしょう。
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この回答へのお礼

早速のお返事ありがとうございます。

大政奉還→倒幕の密勅、ではなく
逆だったのですね。
本で目にしたのがその順番だったため、
私が勝手に勘違いをしたようです。

ご指摘ありがとうございました。

お礼日時:2004/02/28 17:26

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