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私の、先祖について質問します

1、岡山城主の一門である
2、岡山城主の一門として、幕末まで続く藩の殿様
3、岡山城の家系図に、名前がちゃんと描いてある

などなどと、まったくそういった事に
関心の無い両親から聞かされました

幕末まで続く、岡山城主の一門と言う事は
やはり、池田氏一門と考えてよろしいのでしょうか?
ただ、宇喜多氏説もあり、混乱しております

詳しい方が居られたら、お知恵を拝借したい

なにとぞ、よろしくお願いします

A 回答 (3件)

池田氏かな?



宇喜多は秀家の時代に八丈島に流罪になってます
なので八丈島にいけば宇喜多さんは今もいますけどね


でも 城主の一門でしょ?
てことは藩主ってことではないのかな?
池田氏の分家の大名とか?

まぁでも池田氏です

この回答への補足

おぉ!よく見れば、前回、岡山城の事で

質問した際に、答えてくださったazuki-7さんですよね?

本当に、ありがとうございます

補足日時:2013/02/09 18:45
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この回答へのお礼

そうなんですよね~宇喜多さんは、流罪なんですよね~

仰るとおりに、城主一門&岡山近辺の藩主です

やはり池田か~微妙だな~

まあ、信長の乳兄弟だからいいか・・やられキャラ的な人達だけど・・徳川殿に・・

お礼日時:2013/02/09 18:30

岡山城主一門で幕末まで続いたということだと池田氏ということになります。


江戸時代になると備前地域は池田氏の所領となりますが、2代忠雄(ただかつ)が没すと鳥取の池田光政と領地交換になります。忠雄までを「前池田氏」、光政以後を「後池田氏」と称しこの系が幕末まで続きます。幕末の茂政(もちまさ)は水戸の出身、つまり幕府の15代将軍慶喜の弟です。

後池田氏から分家して藩主となったのは備中鴨方藩(25000石)、備中生坂藩(15000石)の2家。
また岡山藩の家老となって藩内に知行地・陣屋を持っていたのが天城池田氏(32000石)と周匝(すさい)池田氏(22000石 片桐氏ともいう)の2家。
さらに旗本となった池田氏が現在の岡山県井原市内に2家ありました。幕末に遣欧使節としてナポレオン3世に謁見した池田長発(ながおき)はこの分家のひとつです。
幕末まで続いた殿様という条件に該当するのは本家と上記の6家となります。

なお備前藩内の建部に知行地を持っていた池田氏(森寺氏ともいう)がいましたが岡山藩池田氏とは別系です。
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この回答へのお礼

詳しく、説明頂き有難うございます

たった6家しかいないのか~

先祖の名字が分からないので

どれなのかな~

お礼日時:2013/02/10 11:03

池田家が岡山藩主になれたのは 輝政の父 恒興(信輝)が小牧長久手で戦死したおかげですよ


家康はそれで池田氏の実力を認めたわけですから
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この回答へのお礼

おぉ~ありがと~

奇声を発する癖があるのが何さ!

池田氏だって、かっこいいんだぞ!

・・と、空元気・・

お礼日時:2013/02/09 19:30

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