
No.6
- 回答日時:
童話「桃太郎」で、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ行きました。
」といった文があります。平地である必要はなくて、そういう風に山へも川へも近い方が便利だってことです。京都盆地も奈良盆地もその要件を満たしています。山に芝刈りに行く訳でもないでしょうけど、今だって人口が集中しています。山の保水機能で豪雨があっても洪水になりにくい事と地下水が豊富で井戸を掘ったら簡単に綺麗な水が出たとかそんな理由だと思います。北朝鮮はハゲ山ばかりだからあれほど洪水に苦しめられている訳です。徳川家康は関東平野を拓いたけれども、利根川東遷事業や神田上水や玉川上水などの土木事業が必要でした。その全てを徳川家康が為したわけではないが、徳川家康は江戸を水害から守り、その一方で飲料水をどう確保するか頭を悩ませたことは明らかです。古代においては、土木技術も無いし、土木作業員を大量動員する力もないし、水に関する問題はより切実であり、それが適地を選択する決め手であったのに違いないのです。今だって公共事業といえば、やれ無駄遣いだといった批判がつきものですが、古代はそもそも公共事業をする技術も労働力も無い。何にせよ古代から現代に至るまで治水・利水が国家の最大の課題であったのが日本という国です。質問者さんがいわれるように都かどうかは別として、鎌倉・大阪・東京と政権が移動しましたが、それには土木技術の進歩、動員力の向上といった背景もあった筈です。時代と共に政権課題の重心も移動します。
早速の回答ありがとうございました。
<古代から現代に至るまで治水・利水が国家の最大の課題>
ですね。
平地ばかりが良いのでないのですね。関東平野の江戸は、河川や上水に苦労したのですね。
奈良盆地は、古代というその時代なりに、山と川とが共に存在することにより、好都合だったのですね。
No.5
- 回答日時:
休憩時間を利用しての回答ですので、推敲が十分に至らない部分がありましたら御寛恕いただければと存じます。
>日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました
この前提には一つの誤解があります。本格的な統一国家(日本列島および沖縄および島嶼部を含む現在の国土全域とは等位にはならないが)が誕生したのは8世紀、律令に基づく中央集権的な社会統治システムの登場を待つしかありません。
これに対し「ヤマト王権」の誕生と想定されているのはそれよりも以前の段階で、これは地域の首長連合組織であり、田舎の寄り合いもしくは町内会的な組織です。それぞれが「土地にいる王」ですから、その支配下にあるものは王に隷属する形で、この部分が「一つの権力によって統一された国家」との意味にはなりません。「政権」は「何らかの法的裏付けに基づく組織に基づく統治権力」を意味します。7世紀段階まではこうした形態はありません。
「ヤマト政権」の所在ですが、地理的には現在の大和平野南部から飛鳥・桜井・三輪あたりとされています。
この地域は大和川の水運を利用して大阪湾からさほどの距離でもありません。この地域には蘇我・物部・葛城・平群・大伴・巨勢などの豪族がそれぞれの勢力範囲を持っていた痕跡もあります。
ですから、この質問は根本的に成り立たない話となります。奈良盆地から北に目を向けますと、平城山を越えた手近なところに木津川の流れもあります。一概に「水辺から遠い」との結論には至りません。
日本国内では他にも現在の群馬県から栃木県を勢力下に治めていたとされている毛野氏などもいますが、この地域は「海無し県」です。にもかかわらず、そうした勢力があったという事実を「水」と関連づけるだけでは説得力にかけるとの疑問が生じますが如何でしょう。
因みに四大文明殊に中国のそれに関して、現在では華中の淮河一帯に発生した文明が先駆的であるとの見解が定着しつつあって、それは四川盆地周辺の三星堆を始めとする内陸部の遺跡とそこから発掘された遺物によって裏付けられてもいます。
早速の回答ありがとうございました。
ヤマト王権は、
<地域の首長連合組織>
であるのですね。
<大和川の水運を利用して大阪湾からさほどの距離でもありません>
ですね。水辺から遠い、わけではないのですね。
そして、日本では、群馬・栃木の毛野氏の例もあり、中国では、
<四川盆地周辺の三星堆を始めとする内陸部>
の例もあるように、水辺から遠い・・・は必ずしも正しくはないのですね。
No.4
- 回答日時:
水辺に縁遠いというのがそもそも間違いで、当時は大和川による水運が発達していました。
記録として残るのはだいぶ後世のものになりますが、桜井の海柘榴市は河港として栄えたことがよく知られています。「日の出づる処の天子、云々」の国書で有名な遣隋使にたいする使者として隋から派遣された裴世清は難波津から海柘榴市に着いています。大和政権が成立する3世紀ごろも似たような状況であったろうと出土品から推察できます。海柘榴市跡
http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/tubaiti.htm
瀬戸内方面の物品のみならず東海地方由来の物品も非常に多く出土していることから、3世紀ごろヤマトは東西交易の流通の拠点であったであろうことも推察でき、少なくとも東海地方(拡大すれば関東まで視野に入る)から瀬戸内、九州まで広がる広域国家の首都としては非常によい立地であったと思われます。
早速の回答ありがとうございます。
海柘榴市については、初めて知りました。(歴史の初心者ですから、当然ですが) 国際的にも機能していたのですね。
大和川の水運が発達していて、
<ヤマトは東西交易の流通の拠点であった>
のですね。
<広域国家の首都としては非常によい立地であった>
わけですね。
No.3
- 回答日時:
文明の意味がわかってらっしゃいませんね。
南米のインカやマヤ文明を見れば必ずしも大河のそばでなくとも統一権力が生まれます。また中国文明の拠点となった都、殷、それからや秦の咸陽、それから後の長安なども大河のそばではありません。
>日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました
これも認識の誤りです。当時の権力連合体の領域はは畿内から西(九州南部を除く)、東は今の岐阜あたりです。これを「日本が本格的な統一国家になった」というのは間違っています。南西諸島、北海道を除いた地域に中央の権力が届くようになったのは平安時代中期以降です。
あとは#1の方の回答に準じます。
早速の回答ありがとうございました。
旧大陸の4大文明は大河の付近に形成されたのに、新大陸の文明は、大河には恵まれていないにも関わらず.形成されたことは、以前から疑問に思っていました。
本格的な統一国家・・・の件は、勇み足だったようです。
奈良盆地については、防御に優れていた、といことですね。
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