プロが教えるわが家の防犯対策術!

最近、友人と話していて気付いたのですが
私は幼少の頃から、自分のためではなく人のためにやっていたということです。

勉強は、テストで点が取れれば親が喜ぶから。
点が取れなければ怒られるし、友達からバカにされるから。

テニスを習っていましたが
楽しいと思ったことはありませんでした。
行かなければ怒られる、レッスンしていれば親が喜ぶ
試合でポイントが取れたら親やコーチが喜ぶ。

ダイエットをしたこともありました。
それも、自分が綺麗でいたいからというのではなく
彼に嫌われないため。
他の女に目が行かないようにするため。
他の女と夜の行為に至らないようにするために
その行為を断ったことはありません。


こういうように、全て他人が基準になっています。
自分が、周りに喜ばれる(怒られない)ためだし
自分が、彼に嫌われないためではあるのですが
「自分のために」努力をしたことがないように思いました。


こういう努力の仕方は、
人のためでしょうか?
自分のためでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

以前一度甘えるのが苦手では?と回答しましたが



「誰からも「人懐っこくて、甘え上手」と言われます。」

間違っている可能性も十分ありますが、逆にこれが気になりました
誰からも、甘え上手だと思われていた
ではあなた自身はどうでしょう?
甘えることで心が"完全"に満たされた、という感覚がありましたか?

間違った愛情の1つに条件付けの愛というものがあります
つまり、相手に与えないと (たとえば甘える) 愛されない、与えられないと思わせることです
親が絶対子供に聞いてはいけないものの一つに「私のこと好き?」という質問があります
無意識に子供は「親が好き」と言わないと相手は自分のことを愛してくれないのではないかと思わせてしまうからです
そうして与えられたものを愛だと勘違いしてしまうのです

そこで私はあなたは人のために何かをしないと、愛されないと無意識に思ってしまっているのではと考えました

それらも前に紹介した本にのっています
私も本で読んだだけの知識なので間違っているかもしれませんが、心当たりがあるようなら読んでみることをおすすめします
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この回答へのお礼

再度の回答、ありがとうございます。

その通りでした。。
母に「どうせお母さんのことなんて、嫌いなんでしょ!」
と怒鳴られたときに
「母が”私が母を嫌いだと思っている”と思わせることをしては、認めてもらえない」
と思ったことがありました。
幼稚園生とかの頃です。

甘えても、完全に満たされることは無いですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2013/04/26 15:16

ご質問者様こんばんは。



人間が誰かに優しくしたり、良いことをしているときって、結局その人の自己満足だったり、他人から見たら偽善的だと思われることもありますよね。優しい人を見ても「どうせ心の中は自分のことだけを考えているんだ」とか「自分を良く見せたいだけなんだ」って。

そう考えると「人の為に」という前提から生み出される全ての言葉や行動が、全くの「大嘘」だと感じたり、計画や計算といったその人の「思惑」であるとすら思えてしまうものです。「人の為の」優しさや親切さは何もかもが疑わしく思われて、人間から信じる力を奪って行くのだと思います。ですが、勉強すればするほどこの考え方には間違いが多いことに気が付きます。

もし私が、私の為に存在していないとすれば、誰が私の為に存在するのであろうか。

もし私が、ただ私の為にだけ存在するのであれば、私はなにものであろうか。

もし今を尊ばないならばーー
いつというときがあろうか。
「タルムード」からの引用です。

人生は自分自身という一回限りの生命の体験です。誰も私の人生の代役を引き受けることは出来ません。人間の本質を理解する為には、その人の持つ欲望と恐怖、激情と理性、そして善の傾向と悪の傾向をバランス良く分析することが大切のようです。

人間の思考や社会は、簡単に2つに分けて済ますことは出来ませんね。人の為であろうと、自分の為であろうと、人間は欲を満たす事が全ての行動の前提であって、全て自分の為です。欲望と対をなすのが恐怖です。恐怖が全ての行動を抑制する前提にあって、これも全て自分の為になります。行動を起こそうとも、行動を抑制しようとも、全ては自分の為なのです。

人間は自分では持て余すほどの激情を持っています。この「感情」という情熱は、あらゆる関係性を壊して行く、突破して行く力の源になります。これを「勇気」と言ったりします。逆に理性は感情の炎に水をかける力になります。感情に従って、感情のしたいように人生を賭ける生き方も人間には出来ますが、それは余りにもリスクを伴うものでもあるかもしれません。理性とは「差別」をする力のことです。あらゆるものを比較し、差別をする理性が情熱を抑える役割を担います。

この地球上のあらゆる生命には、本能として「公正さ」を持ち合わせているということが、あらゆる研究結果を通じて分かり始めて来ました。それは人間も同様で、やはり本能として「公正さ」を持ち合わせているのです。自分の為であろうと、人の為であろうと、それがフェアーであることの方がとても重要なことなのです。

本能の領域に踏み込んで改善することは出来ないのです。本能に起こることを変えてしまうことは誰も出来ません。それを前提として、問題となるのが「善の傾向と悪の傾向」になると思います。

完全に善であることも、完全に悪であることも、この世界には存在しません。「傾向」として「どちらよりなのか」ということは言えるかもしれませんが、本能として「公正」さを持つ以上、完全に善であるとも悪であるとも言い切ることは出来ません。

であるから、自分が現実として引き起こした出来事に対して疑いが生まれやすいのです。人間は迷いながら、ゆっくりでも進みながら、行動や気持ちが止まることが無いように生きることをこの世界から要請されていると思います。

現在のようなデジタル化が進んだ時代は、とにかく恐怖が増進されやすい傾向があると思います。過去の人間が経験し無かったような恐ろしい不安にさらされていると思います。日本は、明治時代に社会を構成していた慣習や宗教をほとんどぶっ壊してしまいました。欧米のように宗教の残骸が残っている状態であればまだ救いはあるかもしれませんが、日本では残念ながら宗教は破壊されてしまいました。自分だけでこの大きな不安と対峙しなければならないのです。

社会は断絶されてとても厳しい状態です。しかし、ご質問者様にとっての「公正さ」というものを実現させようと「未来」に対して希望を持ったり、期待を叶えたいと強く思うことが、ご質問者様を迷いから救う為にとても重要な思考になると思います。その希望や期待や夢といった前提をくぐり抜けて引き起こされた現実をご質問者様の生命は求めているのです。その積み重ねが、ご質問者様が一番自分らしい生き方に繋がって行くのですから(^-^)

ご参考になれたら幸いです。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

>人の為であろうと、自分の為であろうと、人間は欲を満たす事が全ての行動の前提であって、全て自分の為です。

お礼日時:2013/05/13 12:02

それは「自分のため」。


自分が「良く見られようとしての努力」をしてるわけだから。
だから自分のため。

ただそういう努力は徒労であって、自分の糧にはならない。
自分が求めることをして、結果が出て、それを受け止めて、初めて自分の糧になる。
だから他人の評価を基本としての行動は、自分の糧にはならないんだよ。

小さいことでいいから、自分の満足のために動く時間を作ったほうがいいよ。
他人の目が気になるのは、そうそう急に無くなるってことはないからね。
だから、少しずつ変わっていくこと。
試していくこと、というほうがわかりやすいかな?。

この回答への補足

>小さいことでいいから、自分の満足のために動く時間を作ったほうがいいよ。

例えば、どんなことがありますか?

補足日時:2013/04/26 11:03
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

自分の為ではあるけど、次への原動力にはならないということですか。。

お礼日時:2013/04/26 11:02

周りの人から喜んでもらいたい自分の為です。



つまり自分の為です。

喜んでもらった人の笑顔を観て、自分が嬉しくなる。
ように、他人のためが自分の為、自分の為が、他人の為に、
なて行くものだと思います。

、、、、理由よりも、やりたいか、やりたくないかを、
重要視するといいと思います。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

>やりたいか、やりたくないかを、

というと、「何もやりたくない」になります。
自分が、やりたいと思って始めたことは
途中で諦めた(辞めた)としても、誰にも迷惑がかからないので
すぐに「もういいや」ってなります。

お礼日時:2013/04/26 11:08

自分のためでないと、そんなに長らく努力を続けることはできません。



自分が、周りの人の笑顔が見たいため、他人からの評価を高めるため、に努力しているのです。

その他には、自分は賢い、運動はできる、綺麗なと、自己満足のためでもあります。
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この回答へのお礼

回答りがとうございます。

自分の為 なんですね。
人の評価を高めるために努力はするのですが、
負けず嫌いでもないので、平均で辞めちゃうんですよね。
なので「満足」はしないんです。。

お礼日時:2013/04/26 11:12

どちらとも言えると思います。



どちらが良い悪いというだけの選択や論評は怖いので差し控えさせて頂きます。
以下は個人的な意見ですので参考にならない、と思われたらスルーで結構です。
前提を3つ最初に挙げます。

■前提(1)
Q:何故ここに居るのか?

問題【過去からの記憶(思いや症状)/(手放すべき)メモリー】をワタシ達がもっているからです。
※参照:豊かに成功するホ・オポノポノ イハレアカラ=ヒューレン  著

■前提(2)
Q:何故生まれ変ってここに居るのか?

(ワタシ達はそれぞれ)前世で未完了だったこと/遣り残したことの成長とバランスを(あなた様の魂が)遂げるためです。
※過去に起こした因縁(カルマや業とも言う)を手放し、そこ(しがらみ)から自由になる/ゼロになるため、と言い換えられます。
※参照:幸せになる準備は出来ています ウィリアム=レーネン  著

■前提(3)
Q:誰の意図でそうなっているのか?

あなた様が生前に書いてきたシナリオに沿って物事は招かれ、経験しているとのこと。誰かに操られているのではない、という意味から、ジブン自身に100%責任があります。

日本に生まれない、という選択も出来たワケですし、ボディを持たずに霊的な存在として誰かのサポートだけをする役目だってある。また家族もいまの家族でない“ただ仲の良い”ファミリーに生まれることだって(あなた様の選択なので)出来たのです。
ワタシ達には自由意志があり、誰かに依存したりもたれかかって生きたりするのは、誰かのせいにして生きることで自身だけを護る考えに繋がりやすいので注意が必要です。
※参照 『100%幸せな1%の人々』 『日々の暮らしを楽にする』 小林 正観  著

経験はネガティブに反応すればネガティブな事を引き寄せると言います。ポジティブに反応すればポジティブな新しい経験を招くことができるという情報です。誰かのため!として動いた時、
1.期待(=制限する事)をもってしまう
2.裏切られるという怖れや負の感情にさいなまれ易い
以上2点を踏まえておかれた方が良いと思われます。

■本質:本来は、誰かのため・・・という時は
3.無償の愛:ほかの誰かがしたいようにさせてあげる権利を愛すること、を指します(主に家族や知人の間で経験する)。
4.ジブンをスキで愛している(エネルギーを持っている)というのの上に出てくる。
※溺れた誰かを援けるには岸に居なければいけないし、ロープを放れるだけの準備や腕力が要るものです。

■舵取りは誰にも渡さない
こうした流れから、
勉強、ダイエット、恋愛はもちろん全てが、ジブン発であれば永続きしますが、バランスの法則があるので、与える分は受取る能力や場面がいやでも欲しくなるし出てくるワケです。

余計な介入すること(感情移入)はエネルギーを漏らすだけですし、与える/受取るが半々でないと、その関係は永続きしようがありません。【誰かに感謝するため】というのなら永続きしそうですが、【誰かに認められるため】や【誰かに護ってもらうため】に行動を起こすことが、あなた様の我:ネガティブな反応や感情からでない・・・そんなことが人間関係の上ではポイントになると思われます。


■例題 2-(1)
ある誰か(そのヒト)にとって与えることが課題になっている時、ありがとう!と受取ってあげることが相手に必要な経験である場合には、行為を受取ってあげないと“相手の経験”を奪ってしまうことにもなりかねない。誰かのためを思って遠慮して受取らないのは、上手くないケースだってあるのです

■例題 2-(2)
また良かれと思って相談に乗る時、ジブンの悩みを話すことを通じて“周囲のエネルギー”を奪う種類の方や相談があります。これは親切でも要注意で、このケースは相談に乗らないこと・・・が一番の親切になります。

誰かのため・・・それは素晴らしい考え方であり、高尚な行為であると言えます。
ニュースで叫ばれていることより、余り知られていませんが地球や小動物、子供達を援けることの方が大事なことが多いものです。個人的に国境のない医師団サポートやアジアの子供の里親をやっています。

ただし、1.2.に挙げた様にジブンをみうしなってしまう事もあり、実際個人的には“ストレス”や“エネルギーを奪われる経験”が無かったワケではないので、あくまでジブンを愛する/大切に扱い「ワタシはこれでもよくやっている」という労いや自身へのご褒美もないと煮詰まってしまったり苦しかったりした。そんな経験を踏まえて書き進めました。

ヒントや参考になることがあれば嬉しいです、陰ながら応援しています♪

~ あなた様に全ての理解を超える程の平穏が訪れ、あらゆる良きことが雪崩の如く起きます ~
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。


難しくて、理解できませんでした。。
すみません。

お礼日時:2013/04/26 11:20

自分のためです。



嫌われたくない、世間体を良くしたい。

すべては自分が傷つかないための行動です。

だから、悪いとかじゃなくてね。
これはどういう生き方を選ぶかの問題なのです。

元を正せば、人はみな、エゴイストなんです。

それが結果的に、他人のためになることもある。

現にそれで喜ぶ人がいるなら、いいではありませんか。
ただ、窮屈になってきたら、生き方を改めたほうがいいですね。

自己犠牲はバカのやることですから。
あなたが満足しているなら、なんの問題もありません。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

満足はしてないです。
窮屈です。
が、自己犠牲でもないです。

なんだろう。。

お礼日時:2013/04/26 11:30

自分が心から好きで遣り甲斐を感じながら行う とか言うのはあまりないです。

大抵は世間の評価のために流されてやりますよね。 「それでは面白くない」と考えているのでしたら、今後は「いますることの意義」をしっかり確認しながら生きてゆけばよろしいかと存じます。
ただ それって性格の部分も大きいように思います。「人を喜ばせるのが好き」な人と「人はどうでも良い。自分が大事というマイペースな人」。 後者の人はこのような悩みは少ないですよね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>大抵は世間の評価のために

そうなんですね。
周りに、
「自分が思ったような評価をされなかったら
もっとやるだけだ。
でも、それまで自分がやったことは、無駄ではない」
という人がいて
私の感覚では理解に苦しみます。。。。


私は、どちらかというと
「自分が大事というマイペースな人」こっちに近いと思います。
できるだけ、「人が喜んでくれる」結果に近づいたらラッキー くらいに思ってますが
気付いてないだけで、凄く前者寄りなのかな。。。

お礼日時:2013/04/26 10:39

人のために頑張るというのは決して悪いことではないと思います。


それに多かれ少なかれ大半の人は「人のために」頑張ることも多いはずです。

そもそも「自分の為に」と思ってやっていることでも、結局他人の為になっていることも多いし、その逆もあるでしょう。

自分と他人は一蓮托生。
切り分けて考えようと思っても無理なように思います。

質問者さんのように他人の為に努力できるのは長所ですよ。少なくとも短所じゃありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>他人の為に努力できるのは長所ですよ。少なくとも短所じゃありません。

ありがとうございます。
自分のために努力できないことが、短所だと思ったので
逆のことで長所だと言っていただけて、安心しました。

お礼日時:2013/04/26 10:42

「人に喜ばれる、怒られない、嫌われない」といったたぐいのことを素直に自分が喜びと感じることができているのならば、それはストレートに自分のためになっているのだと思います。

もしそうではないとしても、一見自分のためでなく他人のためでしかないように見えることが、めぐりめぐって自分のためになるということもあります。「情けは人のためならず」というように。もちろんすべてそうなるわけではありませんが、利他から享受できる自分のためというような意味や価値というのも、大多数の無駄の中に一つか二つくらいしかないものです。とにかく、直接自分のためというやり方もあるとは思いますが、「利他から間接的に自分のため」というのも世の中にはあるものなので、考え方として心の中に利他の枠組みを置いておくのは悪いことじゃないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほどですね。
「利他から間接的に自分のため」

お礼日時:2013/04/26 10:44

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