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1:一見、相手のことを思って行う親切であっても、実は親切を行う側の欲動(自己顕示欲・支配欲…)が動機であるというようなことは、何と呼ばれているのでしょうか?

人に何か親切を行った場合、本当に相手のためになることもあれば、ならないこともあるかと思います。また、親切を行う側の動機にしても、一見、相手のためを思ってのことのようでいて、自己顕示欲というか、支配欲というか、相手から感謝されたい、社会から賞賛されたいとか、そういうことが動機になっていて、それが相手に見透かされて、トラブルになることもあるかと思いますが、そのような親切を行う側の心理は、何と呼ばれているものであるのか、また、そのような行動をする傾向のある人のことは何と呼ばれているのかなど、知りたいです。

2:子育ての場合、子ども自身が何かを行えるように支援を行うのが理想だけれど、子どもが自分で出来ることまで、親が代行して行ってしまったり、親が子供に必要以上の贅沢をさせて、自己満足したり…、こういった親の行為は何と呼ばれているのか、また、子どもにどういう害を与えているのかなどについても、知りたいです。

3:その場合、子どもが自力で何かを行えるように援助するのではなく、子どもが自力で出来ないことを親が取って代わって行うことによって、親が自己満足し、子どもに恩を着せたりしますが、それに対して、人に何か親切を行うあたって、その人が独力で行えないようなことは、やらない方が良いという考え方もあるかとおもいますが、その考え方は、何と呼ばれているのかについても教えて頂けると有り難いです。

4:仏教の説話だったか、何の話だったか忘れたのですが、たしか、砂漠のオアシスかどこかに、ブドウを食べたことがない旅人が来て(ブドウではなかったかも知れませんが)、ブドウを欲しがったけれど、本当にその人のことを思うなら、ブドウを食べさせてあげない方が良い。なぜなら、もしその人にブドウを食べさせてあげて、その人がブドウの美味しさを知ってしまうと、以降、その人はそのブドウの味にとらわれてしまって、故郷に戻って、自力でブドウを食べることが出来なくなると、ブドウの美味しさを知ったゆえに、かえって苦しめることになってしまうから…というような話だったと思うのですが、この話の詳細、どこに出てくる話かなど知りたいです。

以上、一つでもいいので、ご回答いただけると有り難いです。何度か類似した質問を繰り返していること、お許し下さい。
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A 回答 (5件)

>親切を行う人間が抱える問題について教えて下さい。


>1:一見、相手のことを思って行う親切であっても、実は親切を行う側の欲動(自己顕示欲・支配欲…)が動機であるというようなことは、何と呼ばれているのでしょうか?
⇒「偽善的行為」、「親切の押売」というところでしょうか。

>人に何か親切を行った場合、本当に相手のためになることもあれば、ならないこともあるかと思います。また、親切を行う側の動機にしても、一見、相手のためを思ってのことのようでいて、自己顕示欲というか、支配欲というか、相手から感謝されたい、社会から賞賛されたいとか、そういうことが動機になっていて、それが相手に見透かされて、トラブルになることもあるかと思いますが、そのような親切を行う側の心理は、何と呼ばれているものであるのか、また、そのような行動をする傾向のある人のことは何と呼ばれているのかなど、知りたいです。
⇒「偽善者」、「おためごかし」というところでしょうか。

>2:子育ての場合、子ども自身が何かを行えるように支援を行うのが理想だけれど、子どもが自分で出来ることまで、親が代行して行ってしまったり、親が子供に必要以上の贅沢をさせて、自己満足したり…、こういった親の行為は何と呼ばれているのか、また、子どもにどういう害を与えているのかなどについても、知りたいです。
⇒まさに、「親バカちゃんりん」ですね。それは、「子どもの依存心を増長し、傍若無人にする」だけでしょう。

>3:その場合、子どもが自力で何かを行えるように援助するのではなく、子どもが自力で出来ないことを親が取って代わって行うことによって、親が自己満足し、子どもに恩を着せたりしますが、それに対して、人に何か親切を行うあたって、その人が独力で行えないようなことは、やらない方が良いという考え方もあるかとおもいますが、その考え方は、何と呼ばれているのかについても教えて頂けると有り難いです。
⇒「親が取って代わって行う」のは、単なるおせっかいに過ぎないのではないでしょうか。例えば、理想的家庭教師とは、子どもが「自力でできた」と、感じるように教えることだと考えます。

>4:仏教の説話だったか、何の話だったか忘れたのですが、たしか、砂漠のオアシスかどこかに、ブドウを食べたことがない旅人が来て(ブドウではなかったかも知れませんが)、ブドウを欲しがったけれど、本当にその人のことを思うなら、ブドウを食べさせてあげない方が良い。なぜなら、もしその人にブドウを食べさせてあげて、その人がブドウの美味しさを知ってしまうと、以降、その人はそのブドウの味にとらわれてしまって、故郷に戻って、自力でブドウを食べることが出来なくなると、ブドウの美味しさを知ったゆえに、かえって苦しめることになってしまうから…というような話だったと思うのですが、この話の詳細、どこに出てくる話かなど知りたいです。
⇒原典は「今昔物語」あたりかと思って、岩波の『日本古典大系』の22~26をのぞいてみましたが、見当たりませんでした。

それはさておき、「本当にその人のことを思うなら、ブドウを食べさせてあげない方が良い」というのは、少々「うがち過ぎ」と思います。「故郷に戻って、自力でブドウを食べることが出来なくなると、ブドウの美味しさを知ったゆえに、かえって苦しめることになってしまう」などは、余計な心配で、それこそ杞憂に近いことでしょう。「彼が交通事故に遭ったのは、私が彼を呼び止めて立ち話をしたからだ」などというのと同じ部類の、取り越し苦労に他なりません。思慮深さは必要ですが、度を越すと単なるマヌケになります。慎重な安全運転を心がけているつもりで、後続車のいらいらにも気づかずに高速道路をちんたらちんたら走る車と同じです。
そもそもその人がブドウを気に入るか否かも分からない段階だし、たとえ気に入ったとしても、その人はその度合いに応じてその人なりの手段を講じることぐらいはするでしょうから、それに任せておけばよいだけのことでしょう。
その人のことを慮ってあげるとしても、せいぜい「ブドウをさし上げようと思うが、故郷に戻って、自力でブドウを食べることが出来なくなると、ブドウの美味しさを知ったゆえに、かえって苦しめることになってしまうのではないかと案じられるので、どうしたものか迷っているのですが、いかがしましょうか」などと聞いてみて、その人の希望通りにしてあげればいいのではないでしょうか。
いずれにせよ、「その人の、その後のことを慮ってブドウをあげないことにする」などは、ナンセンスです。Affirmative action(差別撤廃運動)の一環と称して、short(背の低い)をvertically handicapped(垂直方向に不自由)などと言い換えた人がいたと聞きますが、それと同じ程度に間の抜けた行為である、と思わざるを得ません。

まとまりませんが、以上ご回答まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ブドウの話、今昔物語ではないとのこと、ありがとうございます。

この説話の本当の意味は知らないのですが、ブドウを知らない人に、ブドウを食べさせて上げたいと思うことは、私にとっては、相手のことを思って行う親切ではなくて、ブドウを知っている自分を誇示して、相手にあっと言わせたい、感謝されたい…というようなことが動機になっていて、本当の親切心ではなく、本当の親切を思うなら、ブドウを上げることによって、それがどういう結果となるのかを考えるべきだと思う感じです。

例えば、子どもにブランドものの服を着せて喜んだり、いろいろな習い事をさせて喜ぶ親とかと、本当に子どものためを思っていることもあれば、親の見栄、自己満足が優位に来てるように思うこともあるのですが、なんか、そんなことを戒めているのではないかと思った感じです。

お礼日時:2013/08/11 12:14

いわゆるボランティアの本質に関する問題ですね。

相手の欲求を満たすことは、本質的には受け身の行動でいわばいやいややること、義務としてやることだと思います。これを自発的にやろうとしたり、楽しいこと、うれしいこととしてやろうとすると,相手の欲求を正しく認識できなくなることがしばしばおこります。無償の愛という言葉がありますが、有償の愛というものもあるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。相手のことを思って行動するよりも、やはり、人間には自分のやりたいようにやりたいという思いが強いのでしょうか…。

一見、無償の愛のように見えても、愛を与えることによって、自分自身が満足することが、最大の報酬になっているとか…、その辺の自覚が大切なように思ったりしました。

お礼日時:2013/08/11 12:40

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>一見、相手のことを思って行う親切であっても、実は親切を行う側の欲動(自己顕示欲・支配欲…)が動機である

 たいていがそうでしょう。慈善行動の本質です。よほどその傾向が強くて実質ためになっていないことを「善意の押し付け」といわれます。またその押し付け側の人間を「偽善家」と言う場合があります。

でも
物事にはかならず裏の部分があり、それをことさら言い立てるのもまた醜いことです。善意は素直に受け取るのが人間社会のマナーでしょう。

2.
>子どもが自分で出来ることまで、親が代行して行ってしまったり、親が子供に必要以上の贅沢をさせて、自己満足したり

「溺愛」、「子離れが出来ない親」

3.
>人に何か親切を行うあたって、その人が独力で行えないようなことは、やらない方が良いという考え方

「自立心の涵養」、「突き放し」、「放置プレー」

4・
聞いたことがありません。筋の通らない奇妙なお話ですね。わたしならたっぷりと食べさせて、種を持って帰らせます。故郷でそれが絶対芽吹かないとは誰も証明できません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。私は、善意の裏が非常に気になり、特に親子関係において、親の親切は欺瞞であると思い続けている感じです。

ブドウの説話で、種を持って帰らせるという選択があったとしら、それは、欧米型の理想的な援助論ということになるのでしょうが、何もしない、そこで、乞食が野垂れ死にしようとしていても、乞食に握り飯を分け与えるのでもなければ、乞食に握り飯の手に入れ方を教えるのでもなく、何もしないという選択もありかと…

お礼日時:2013/08/11 12:37
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。人は果たして、最善と思われるものを選択しようとするのか…非常に難しい問題で、一見、愚かと思われる選択をしても、別の視点から見ると最善であることもあり…だからと言って、人が選択したものが常に最善と呼ばれるものなのかと問うと、そうではなく…

ちょっと違う問題かも知れませんが、子どもを無理に塾に通わせて、勉強させる…、子どもに学問を身につけ、立身出世させようとすることは、親の見栄なのか、子どものためを思ってなのか…。手癖の悪い子どもは、矯正させるべきなのか、それとも、特技をいかして、立派な盗人に育てるのは…。そこには、どの観点から見て、善なのか、徳なのかといった、どこか相対的な評価しかないようでもあり、なんだか、わからないです。

お礼日時:2013/08/11 12:31

専門用語は、まったく知りませんけど。



そういう恩着せがましい人の心理状態は、よくわかります。

エゴを自覚していないエゴイストです。

相手のためって言うけど、実は全部自分のためです。

愛する人のために命を捨てるのさえ、永遠にカッコいい自分でいたいからです。

別に悪いことではありませんよ。

他人に食べ物あげたことで、自分が飢え死にしたら、
バカでしょって話です。

人は、みんなエゴイストだし、自分のためであっても、
結果的に他人のためになればいいんです。

ただ、自覚していないヤツは、ほんとうに質が悪い。

100%利他だと思っている。

そういう人は、100%エゴです。

迷惑でしかありません。

他人を不幸にして、自分が得してる。

自分がエゴイストだと自覚してないエゴイストほど、
汚いエゴイストはいませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。何か専門用語のようなものがないのかなと思って質問したのですが、やはり、一般的な言葉しかないような感じですね~

利他的だと言って行う行為の中に潜む利己心、私も気になって仕方がないのですが、世の中、利他的な行為をして、満足する人が多いのが、何故なのか、気になるところです。

お礼日時:2013/08/11 12:19

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