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こんばんは。一般的に日本人は欧米人と比べて、論理的にものごとを考えることができない、

といわれますが、そもそも、論理的にものを考えるというのは、どのように考えることを

いうのでしょうか?

A 回答 (5件)

Q、論理的に考えるということ。


A、合法則な筋道を有して思考すること。

だが、次のようなケースとは違う。

>AはB。BはC。よって、AはCとも言える。

これは、単なる論理性を強調したい理屈屋の弁。

>Aという事象を可能な限りバラシてみると・・・。
>今回の案件と深く関わっている要素はあれとこれ。
>それらは、抽象的には概念Bと定義できる。
>概念Bにそれに最も相応しい装いを与えるとすれば・・・。
>こういう要素で組立て装えばよい。

こういうバラシと組立を主観を抜きに客観を重視して行う。
そうした結果のプレゼンは、理屈屋の弁とは一味違う。

と、思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>バラシと組立を主観を抜きに客観を重視して行う。

バラシと組立ですか…面白い表現ですね。

お礼日時:2013/11/22 12:27

たぶん・・・・



利益と損失をクールに考えることが論理的思考なのかな・・

いわゆる利益至上主義、資本主義ということ・・・かなぁ


でも、欧米人のほうがキレて何をするかわからないイメージがありますけどね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/11/22 12:25

社会学における論理など実にいい加減なものです。


論理で信用できるのは自然科学だけ。
だから、日本人は昔から論理などバカに
してきたのです。

例えば経済学の論理などは、ウソばかりです。
これはノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン
教授の言葉です。
また、同じく経済学者のロビンソンは、経済学を
勉強するのは、経済学者に瞞されないようにする
為だ、とまで言い切っています。

ま、それでは回答にならないので。

売春は悪である。
これを論理的にかんがえると次のようになります。

1,売春とは何か。その意義定義を明らかにします。
2,次に、悪とは何か。その意義定義を明らかにします。
3,そして、売春と悪とが、因果の流れにおいて 
  必然であることを論証します。

これが、売春は悪である、という論理的な展開に
なります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>論理で信用できるのは自然科学だけ。

そのとおりだと思います。そもそも、社会学自体が、科学として客観性を持った学問として

成り立つのだろうか?私も疑問に思います。

お礼日時:2013/11/22 12:24

 論理的とは到底言えない、主観的な感想文ですけど。



 結論に至った考察のプロセスを他者(ただし馬鹿が相手じゃしょうがないですが)に丁寧に説明したら、そのプロセスには見落としや飛躍がないと納得してもらえたとしましょう。すると、そのプロセスには、大抵誰がやっても同じ結論に至るだろう、という客観性と緻密さがあると言えるでしょう。
 そうなるように、考察プロセスの説明を整理して構造化する。考察が完了してからこの作業をするのでは、穴だらけになってしまって旨く行きません。なので、プロセスの進行中に絶えず構造化をして行かなくてはならない。これが「論理的にものを考える」ということではないかと思います。
 まず、それが何に関する考察なのか、対象を明確にする。また、考察がどんな前提に基いているのかを明確にする。これらの作業はときには、誰しもアタリマエと思っているような価値観の根源にまで遡る大掛かりなものに発展してしまいます。ですが、ここを疎かにすると、話が途中ですり替わってしまったりする。(実際に、人をだまくらかすために悪用されていますしね。)
 そして、全体の筋道を立て、部分に分解して個別に論じ、それらの部分を適切に統合して結論を導く。それぞれの部分の些細なところにも見落としや飛躍がないか、絶えずチェックして着実に積み上げる。思い込みや文化が邪魔をして飛躍や予断がうっかり紛れ込むことには特に注意が必要です。「そんな馬鹿な」「非常識」「それを言っちゃおしまいよ」「××に決まってるでしょう」「とにかく反対」のような感情的なツッコミは、容易に思考停止を引き起こします。
 さらにもうひとつのポイントは、使う言語の表現力や慣用句などによって考えが左右されることがないように注意することです。幾ら注意しても、言語の構造は思考の形式を強く縛りますから、完全に自由になることはできない。けれどもその束縛に抵抗しなくては、思考はパターン化し、創造や発明・発見に繋がる機会を失ってしまいます。具体的には、日常使うような単語だけではスッパリ言い表せないような概念・様相を、なんとか言い表すことが必要なのです。普段おおざっぱな一括りの対象としてしか見ていないものを、精密に分類して扱ったり、逆に普段は別ものと思い込んでいる対象たちを、共通の特徴で括られるひとつの概念で捉えたり、そのような、日常の範囲を越えた言語の使い方が必要になる場合が多々あります。そういう時に、安易に既存の単語を流用すると誤解・混乱の原因になるので、敢えて新規の用語をこしらえて、その意味を厳格に定義しなくてはなりません。
 日本語は造語能力に秀でている。この性質は新規の用語をこしらえる際には大変便利で、それらしい単語が即席で簡単に作れます。しかしそうであるがゆえに、却って語感や雰囲気だけを便りにしてしまって、用語の意味がきちんと定義・了解されないまま使われるという危険性があります。ところで、ある単語(つまり概念)の定義を述べる、というスキルは、実は明治時代の小学生の国語教育では非常に重視されていたんです。しかし、昭和以降にはなんだか文芸と国語が混同されるようになってしまって、顧みられなくなった。「【論理的にものを考える】とはどういう意味か」という題を与えても、ろくな作文が書けないのもそのためであろうかと推察します。だとすれば、

> 一般的に日本人は欧米人と比べて、論理的にものごとを考えることができない

ということがもし本当だとするなら、それは、定義を述べる能力の開発を怠ってきた、比較的近年における教育・文化の弱点の現れではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>プロセスの進行中に絶えず構造化をして行かなくてはならない。これが「論理的にものを考える」ということではないかと思います。

示唆に富んだ深いご意見、本当に参考になりました。

お礼日時:2013/11/22 12:22

感情や先入観を入れず、きちんとした根拠を元に機械的にきちんと順序だてて考えること。



と言えるかと思います。

日本人は感情的・情緒的に考えて、欧米人は合理的に考えるという傾向があるということかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/11/22 12:19

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