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伊勢神宮の式年遷宮が大きな話題となっています。
人が生まれてから死ぬまでお参りに行くことになっています。
これ自体、意味ないものと個人的には思っていますが。

神社にはお参りに行くが、生きていく上での名言とかを聞いたことありません。
神主から、説教を聞いたことがない。

お寺にいくと、坊主の説教がありますし署名な高僧の言葉が伝えられいます。
出した本が、ベストセラーになった坊主もいました。
説教を垂れている有名な神主がいるということも聞いたことない。

神道と仏教の違いといえばそれまでですが、神道はなぜ言葉による説教がないのですか?

質問の仕方が悪くて答えにくいと思いますが、よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

例えば菅原道真を祀った神社があります。


菅原道真が神社を開いて人々に教えを授けた。わけではありませんよね。

徳の高い人や政争に敗れて亡くなった人をお祀りしているわけなのです。
理由は無碍に殺したという申し訳なさ、災難を引き起こすとされた人に詫びを入れるためなのです。

よって、教えはないのです。

仏教は開祖がいますよね。その人達の言葉を説教してもらえるのです。
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明日(10/4)フジTV系列で池上彰が説明するようです。


ご参考になれば。
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 宗教には自然発生的に生じた自然宗教と、特定の教祖がいる人工宗教があります。



 現在「宗教」と言われるものの大半は後者で、前車の大半は人工宗教の普及とともに廃れました。


 ちなみに、「靖国神社」は、明治時代に明治維新の道半ばに倒れた「英霊」を神格化するために作り上げたものなので、本来の「神社神道」とは異なります。

 本来の神社は宗教とは関係なく、仏教寺院の境内に同居したりしていたものを、明治時代天皇中心の政府を造るために「神仏分離」で切り離してしまったものです。
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神道は仏陀やイエスの様な開祖が居て、広まった宗教ではありません。


自然崇拝から発生した、原始宗教に近いものであると思われます。
だから教義も教えもないですね。
しいて言えば日本人の習慣や道徳に根付いているものでしょうか。

例えば八百万の神というように、いかなるものにも神が宿るというのは
物を粗末にしてはいけないとか、食物になる動植物に感謝して残さず食べるといった考えに通じています。

生きていく上での名言はありませんが
死んだら神になり祀られる、というのは神道の特徴ですね。
そのため不幸な死に方をしたら社を作ってお祓いをしたり
魂の浄化は重要なこととなっていますね。
だから形式的なお参りは実利的には無駄なことですが、伝統的な自然崇拝として考えれば
自然に発生した行事が今も続いているということでしょうかねえ。
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 神様は教えではなく、感謝する形ですね。

 元々自然のものを神として考えたり、人物の怒りをおさめるために奉る物です。そこに考え方などはありません。
 ただ、警告とか注意しない際などのアドバイスは神託などによって伝えられることはあります。

 神様に対しての会話として祝詞もあります。神様にお尋ねして、それでどうするかという流れです。

 仏教などは仏陀など人の言葉があり、それを伝える物です。また、考え方を色々と解釈し様々な考えが生まれていることも。

 神様の言葉を聞き、どのようにすべきは聞いた人達が考え行動する。仏教などはマニュアルみたいな物を理解して、それに従うという感じでしょうか。
 仏教も伝える技術が発達しているので、説教なども発達したのかなと。神道は神様の言葉を伝えるだけみたいなので、技術的には発達しなかった。
 ただ、民話などの形で説教しているのかもしれません。因幡の白ウサギの話しなど。

 それと式年遷宮は宮大工などの技術の継承もあります。様々な事を伝えるためでもあります。

 
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まず先に、なぜ仏教には教えがあるか、です。



仏教の始まりは、釈迦(ゴーダマ・シッタールダ)というネパールの王族が「なぜこの世は苦しみに満ちているのか?」と考え、涅槃の木の下で「この苦しみから逃れる方法はないのか」と瞑想し解脱に至ったことが始まりとされています。
その後、仏教もいろいろ変化しますが、基本は「人間は苦しむもの」→「仏教的な教えを聞くことで、庶民でも苦しみから逃れることができるようにする」ということで、修行をしたお坊さんの説話を聞き、じっせんすることで、苦から逃れて幸せに生きよう、とするものです。

一神教である、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教はもっと単純に、ユダヤ人に「私を信じれば、お前たちを神の民にしてやる。その代わり、私の教えを信じ実行し、他の神を一切信じるな」と神が言ったことが始まりになっています。そしてその神(エホバ)と直接契約した神の民がユダヤ人、神(エホバ)が救世主キリストを遣わして、その言葉(聖書)の教えを信じ実行するのがキリスト教徒、預言者ムハンマドの言葉を神の言葉として信じ実行するのがイスラム教徒です。
彼らは、神が残した言葉があるのでそれにそって実行し、何をどうすればいいかわからないときは、専門的に神の教えを勉強している神父などの聞くのです。これが説教になります。

さて、これらの神や仏と日本の神々はどう違うか、というと、日本の神々は人間に特になにも要求していない、ということです。

そもそも日本の八百万の神(神道の神々)は山の神であったり、川の神であったりと日本の自然に存在する神様たちであって、人間がそこに居ようが居まいが関係なく存在している、とされているのです。
もちろん菅原道真のように、元々人間でありながらすさまじい念で祟りをなし、神として祭られるような場合も存在しますが、だからといって菅原道真の怨念が「私を神として崇めよ!」とか言ったりしたわけではないのです。

つまり、日本人の精神の中に「山は美しいだけでなく恐ろしい。川は恵みをくれるだけでなく猛々しい。海は時々津波など人知を超えた恐ろしさがある」と自然そのものに恐怖と敬いをもって接する心があるのです。
 これらは、もともと知恵のない古代人の頃は世界中の人々が持っていましたが、だんだんと別の神様に代わっていき、日本だけにこのような精霊信仰(アニミズム)が残ったのです。

日本においても、最初は山の中腹や頂上に祠をたてて敬うような素朴な信仰だったようですが、豪族が出てくるような時代になると、次第に地域の神と豪族が同化し「氏神が強いから私たちは強い」というような戦争状態にはいり、結果アマテラス信仰を持つ大和民族が日本を統一し、人々は朝廷の下に支配され、各地の神社というか神々もアマテラスの下に並ぶようになり、それが神道という形でひとつの体系になっていったものでしょう。

そのアマテラスを祭るのが伊勢神宮であり、だからこそ日本の頂点の御社であるわけです。
アマテラスがいつの時代にこの名前になり、人々に信仰され始めたのかはわかりません。しかし、神がそこにいてだからこそ敬う、というのが日本の神道であり、神は人間に要求はしないのです。

だから、仏教やキリスト教のように説教もしないし、要求もしないのです。ただ、そこにアルだけです。
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それが神道の特徴です。



神道には教義も教典もありません。
あるのは、ただ自然に対する畏れだけです。

これは、神道が自然を畏れるという、
人間の素朴な感情に根ざした宗教だからです。

教義や教典があるのは、こういう自然発生的
宗教に、教祖という人間が関与したからです。

そこには布教により信者を増やそうという意図が
ある訳です。
信者を増やすのは、自分の考え、悟りを世に知らしめ
たい、金儲けしたい、と色々な理由があります。

しかし、神道にはそのようなモノはありません。
だから、神道は布教活動はやりません。
教義や教典が無いから、やりたくても出来ない、という
こともあります。


”人が生まれてから死ぬまでお参りに行くことになっています。
これ自体、意味ないものと個人的には思っていますが。”
      ↑
人間より上の存在がある、とすることにより
人間を謙虚にさせることが出来るのです。
そうやって、社会の秩序を維持しようとしているの
です。
だから、欧米などでは、無宗教というとテロリスト扱い
されたりするのです。
宗教という枠が無いから、何をするか判らない奴
という目で見られるのです。
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うちは明治維新以降、神社神道なので、神棚があり、仏壇の代わりに祖霊舎があります。



神葬祭(葬儀)、年祭(法事)などは、地元の神社の神主さんを家に招いてお願いしています。
説教というほどのもではありませんが、雑談のような中でいろいろ神道の考え方を説明してくれますよ。

しかし、雑談が90%。しかもほとんどは自分の趣味(自慢の高級オーディオ機器や、過去に乗った高級スポーツカー)の話題ですが(笑)。自慢話ばかりで少し辟易しますが面白いおっさんです。
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神道の中にも教義を持つ教派神道があります。

天理教や金光教も明治以前に出来た競技を持つ神道の一つですし、元々は御嶽教や出雲大社もこの部類でした。
一方で古来神道、現在の神社本庁に繋がる神社神道には教義はありません。天然自然に対し、そこに宿る神性にたいして感謝する、仕えることだけを旨としてきました。そこから自然発生的に日本の文化や生活習慣が成立し、考え方に反映してきたのです。

仏教はその名の通り「教え」です。だからその通りにすればイイという事になります。逆にいえばその通りにして成らなければ教えが間違いという事になります。
神道は「道」です。道というのは、多くの人が歩んでいる中で発生して来る筋です。私達が使う道路は道ではなく「路」なんです。だから私達が隣町に行こうとして道路が崩れると行けなくなります。
しかし狸が餌場に毎回通る獣道は「道」です。道が崩れても狸は崩れていない場所を探して餌場に向かいます。これが道と路の違いです。
仏教が定まった路を唱えるのに対し、神道は道を示すに過ぎない。だから説法等無いんです。

大雑把に言えば、学校の先生が坊さんであり仏教、背中を見て育つ親の姿が神道ということです。
だから先生は能書きは立派だけどやってることを見れば、信用できないということも多々あります。それは教師の言動と教師の行動で判断できます。
一方で親は善いも悪いも子供が自分で判断していかねばなりません。反面教師になるか教師になるかは子供が判断しなければならないんです。
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No.8です。



私の家は、明治の初めから神道と書きましたが、江戸時代終わりまでは仏教でした。

ついでに付け加えると、神社神道は、日本古来の信仰とは違います。

もともと神仏習合で仏教とごちゃまぜだった信仰から神道を分離して、国の政策によって作られた、「新興宗教」と言えます。
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