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~無さ過ぎるという日本語は伝統的な日本語なのでしょうか。
無さが過ぎるという論理(の乱用)は現代人ぽく感じました。
情けなさ過ぎる、情けなさでいいと思いますけど。

食べなさ過ぎる。
働かなさ過ぎる。
しなさ過ぎる。

どうも軽さを感じて少し恥ずかしい言葉づかいなのです。
しかしそれは偏見で、肯定型の○○過ぎる●●はマスコミが数年前に流行らせたにしても、言葉づかいとしては古いものなんですかね。なんか、無さ過ぎ、は乱用されている感じがするんです。

どうなんでしょう。

A 回答 (4件)

こんにちは。


>「では」を「じゃ」にするのは関西より関東じゃないの。
@これは失礼しました。東北とすべきでした
>「さ」が入る理由不思議さは不明ですか。
@直接の答えではありませんが、NO2の一番最初に書いたように形容詞・形容動詞を名詞化します。
>(複合的に使う)「~過ぎる」の古さも不明。新しいのでは。「戯れが過ぎる」「おふざけが過ぎる」であって「ふざけ過ぎ」があったのか。
@「(お)ふざけ」は名詞ですが、もともとは古語の下二段活用動詞の「ふざく(古語・現代語同形)」は名詞ですが、「ふざけ過ぎ」の「ふざけ(古語・現代語同形)」は現代語で考えれば下一段活用動詞(古語では下二段)の連用形となります。「ふざけ過ぎ(動詞の連用形+過ぎ)」という古い用例は見つかりませんが、「動詞の連用形+過ぎ」という用例ならば、小学館の「国語大辞典」の「すぎる」の中に、
(2)適当な度合いを越える。イ(略)ロ物事が適当な度合いを越える。過度になる。動詞連用形や形容詞・形容動詞の語幹などに付いて用いることが多い。『冗談が過ぎる』『肥り過ぎる』・西大寺本金光明最勝王経平安初期点-九「已に衰へ邁(スギ)老い耄(ほ)れ」
としています。
*「衰へ」は古語下二段動詞(終止形は「衰ふ」)の連用形。「邁(スギ)=過ぎ」は古語下二段活用動詞の連用形。
「動詞の連用形+過ぎ」という形は、辞書の用例のように平安時代に遡る表現といえます。
この質問に関して、「~すぎる」という表現は、古くからあることは分かっているので、「~な(さ)すぎる」の複合語表現の構造を長く書き、さらに発生時期を考えたのは、質問の趣旨、特に表題に合致すると思ったまでです。
「新しい」「伝統的」について相違があるようで、私は明治の表現は今では古い表現だと思っています。漱石の作品などでも今の若者の多くは古典と同じように感じていると思います。
「(複合的に使う)「~過ぎる」」について、「動詞の連用形、形容詞・形容動詞の語幹などについて複合語を作る。物事がある程度をこえる。度をこえる。」とされています。「美人じゃなさすぎる」=、「美人ではなさすぎる」について言えば、「~すぎる」の作る複合語のまとまりとしては、「なさすぎる」ということです。なお、「なさすぎる」については、昭和56年初版、57年六版発行の小学館の「国語大辞典」に、派生語ではなく単独の見出し語として出ている程ですから、このような捉え方をしてもおかしくないと思います。昭和五六年の時点で見出し語になっているということは、この時点ですでに定着している表現ということになります。三〇年前頃の辞書の作り方は、新明解などの少数を除き、それ以前の何種類かの辞書を基に、作ることが多く、新語の収録数は多くない傾向がありました。新規採録には外来語などを除き、使用頻度が高く、定着度の高い表現ですから、表現ができてから、時間がたったものになりやすい傾向があります。その面でも「(~)なさすぎ」の表現がそれほど新しいものではない傍証になると思います。
「~な(さ)すぎる」の「さ」の表現については、女性的とありますが、同感で、「~な(さ)すぎる」にも、女性的・婉曲的な意味合いがあると思います。つまり、「~な(さ)すぎる」は「物事がある程度をこえる。度をこえる。」の意味を持つわけですが、その裏には程度を越えていることへの非難の感情・たしなめ・叱咤の感情があって、このような女性的や婉曲的な表現が使用されたのではと思います。「働かなすぎる」は、あまりにも働いていない、(もっと働け)という意味で使われているわけで、婉曲という表現、論理ということであれば伝統的な論理であるともいえます。
ついでですが、「~な(さ)すぎる」の表現は話し言葉から成立したのではないかと感じるのです。現代語の上一段活用がいつ成立したのかにもよりますが、浮世床などを見ると、下一・二段活用ですが、「出」について、「モウ出よう」と「忽ち泡を浮(うか)み出(いだ)す」という表現がありますが、「モウ出よう」の「出」は現代語の下一段活用の「で」と読み、「出(いだ)す」は仮名の通り、古語の上二段活用動詞ですから、同じ「出」について古語と現代語が混在していますし、「よう」などは古語では「やう」と表記するなど、古語・古語表現と現代語・現代儀表現が混在しています。そして、話し言葉をどのように表記しようかを志向している様子が見られます。NO2で「浮世床」「浮世風呂」を挙げたのは、「~なさすぎるじゃないか」という表現があったのでは思ったのですが、あやふやな記憶なので書名を上げるに留めたのです。

最後に、前回の記述について気分を害されましたか。用例を「美人じゃなさすぎる」などのように、質問文からとったのは、他から用例を持ってくると恣意的と思われるかと想像したので、敢えて質問文からとったので、悪意はないのです。気分を害されたようですので、お詫びします。

この回答への補足

こんにちは。一寸も気分を害していませんよ。私のお礼文が馴れ馴れしいかったからでしょうね。馴れ馴れしくてすいません。本題を考えながら補足・お礼していますから挨拶の出来ない人になってしまいます。つまり私に考えさせるものがあるご回答だったという事です。
私にはあんまり礼儀正しくされなくていいですよ。本題よりも敬語の方へ気が散っちゃいますから。
美人じゃないからを材料にしていただいていいのですよ。深く勘ぐらないで下さい(^^)

平安時代に書かれたままの本にも見られるという証拠ですね。坊主の言葉づかいで、世間が次第に理屈っぽくなってきたという可能性はないですかね。衰えるのは当たり前だが衰えの度合いが異常であるという伝達ですよね。また複合的な造語みたいなものですし。説教的なニーズからでしょうか。
私も「~過ぎる」は多用していますが、なんかあんまりきれいな言葉に感じないのです。意味の方が誤用だからかも知れません。過ぎる過ぎないとかじゃないのに修辞としての乱用にアレルギーがあるのかも。

補足日時:2013/10/21 03:00
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この回答へのお礼

ご親切にありがとうございます。「さ」一文字ですが追及すると面白いしそれをきっかけに国語の勉強になりますね。
皆様今後とも宜しくお願いします。

お礼日時:2013/10/22 06:22

原則的には「情けなさ過ぎる」は誤用です。


「愚痴か知らねど情な過ぎるが、」(幸田露伴「五重塔」)
「それにしても、すこし、情けなすぎるわね。」(久生十蘭「キャラコさん」)
ただ、そういう「さ」入れの使用例は過去でも一部には散見します。
「それではあんまり情なさすぎる。」(伊藤野枝「転機」)
もちろん、格助詞を付けた統語的用法もあります。
「お前はんもあまり情がなさすぎるやないか。」(徳田秋声「縮図」)
ただし、「無さが過ぎるという論理(の乱用)」という見方は一般的ではなく異分析にあたるでしょう。

1.「度を超す/分を超す」意味での自動詞「過ぎる」が連語を成す場合
1)動詞の連用形+「…過ぎる」
食べ過ぎる。働き過ぎる。し過ぎる。
「ふざけ過ぎて母に叱られるのも面白くないと思って、」(夏目漱石「行人」)
「そのうちに私は少しふざけ過ぎて了つた。」(太宰治「思ひ出」)
2)形容詞の語幹+「…過ぎる」
美し過ぎる。危な過ぎる。
「その人があまりに美し過ぎたからではなかつたかと」(堀辰雄「花を持てる女」)
「白粉が濃過ぎたかな。」(三好十郎「疵だらけのお秋」)
3)強調用法の形容詞型の語幹+「…すぎる」
情けなすぎる。危(あぶ)なすぎる。汚(きたな)すぎる。堪らなすぎる。
4)名詞型(含む形容動詞)+「…過ぎる」
真面目すぎる。幸福過ぎる。物好き過ぎる。有名過ぎる。美人過ぎる。
5)名詞の統語形(格助詞添え)+「…過ぎる」
冗談が過ぎる。度が過ぎる。

2.否定の助動詞「~ない」を接続するとき。
動詞の未然形+打消しの助動詞「ない」の活用「~な」で「…な過ぎる」
ただし、否定形にして三音節のもの(し・ない/来・ない/見・ないナド)に限っては、語調を整えるための間投助詞「さ」を加える。
(**注意:これは特性を表す抽象名詞を作る接尾語「さ」とは役割が異なるものだと考えます。あるいは副詞「然(さ)」由来の挿入語とみても良いのかもしれませんが。)
食べな過ぎる。分からな過ぎる。働かな過ぎる。しな<さ>過ぎる。

3.非存在の形容詞「ない」の場合は「なさ過ぎる」
「ありません」で置き換え可能。
1)名詞+格助詞での統語的表現
美人じゃ(=では)なさ過ぎる。風情がなさ過ぎる。元気がなさ過ぎる。
「なんぼなんだッて余(あんまり)勘弁がなさすぎらア。」(二葉亭四迷「浮雲」)
「遠慮がなさ過ぎると云うのか、」(夏目漱石「行人」)
「なんぼなんでもそれじゃお色気がなさ過ぎますよ。」(林不忘「怪談抜地獄」)
2)形容詞未然形+形容詞「ない」の活用「な」で「…なさ過ぎる」
美しくなさ過ぎる。おいしくなさ過ぎる。
「日本の文学は、面白くなさすぎた。」(坂口安吾「通俗と変貌と」)
「一方は余り偉くなさ過ぎます。」(岡本かの子「母子叙情」)
「頼母しくなさ過ぎます。」(泉鏡花「菎蒻本」)

この回答への補足

私は、情けな過ぎる、と言っていたのですが、「さすぎる」を聞く機械が多くて、ら抜き言葉的な強迫観念に囚われていました。落ち着かないから、「さ」を入れとけになります。そんな警戒心から(補足される)言葉は変遷するような気がします。

補足日時:2013/10/21 02:35
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この回答へのお礼

いつもありがとうございます。
引用数に圧倒されました。お手数をおかけして恐縮しています。

無さが過ぎるという解釈ではなく、以下のように分類できるだろう、というご注意でしょうか。
無さが過ぎるという原始的な解釈に集約するような流儀は問題でしょうか。語源問題などではそういう分析がよく見られませんか。
動詞 + さ過ぎる、が間違いだから別という事になりますよね。
形容詞「ない」 + さ、によって(適当に)無さと解するのは、とんでもない認識なのでしょうか。
私は分けるよりも統一したいたちでして。国語学は網羅的な説明方法が正義なのでしょうか。
「○○過ぎ」という言葉づかいを女性はよくしますよね。それは何なんですか。

当たり前の事を今頃気がつきましたが、文法というのは既成の文法を駆使して説明を完結させるわけですよね。パッチワーク化する短所があって、その弊害が結構ありませんか。

お礼日時:2013/10/21 02:27

こんにちは


「な(さ)すぎる」について、文法的に説明すると、次のようになります。
「すぎる」は、動詞の連用形、形容詞・形容動詞の語幹などについて、物事がある程度をこえる。度をこえる意味の複合語を作る性格があります。接尾語的と説明するものもあります。
「さ」は、接尾語で、形容詞・形容動詞の語幹に付いて、形容詞・形容動詞の表す性質・気持ちやその程度を表す名詞を作ります。
「な」は、打消しの助動詞「ない」、形容詞「ない」、接尾語「ない」の語幹。詳細は以下で。
用例で挙げられている中で、「美人じゃなさすぎる」は他と違い、もとの形は「美人ではなさすぎる」です。この「では」が「じゃ」に変化したもので、室町期の文学作品や謡曲などに見られます。発生は、辞書では中世としていますから、鎌倉期なのかもしれませんが、謡曲などに出てくるように、話し言葉の中で変化、使用されることが先行したのではないでしょうか。関西を中心に今でも使われる表現です。
「では」の「は」は副助詞で、文の構成上から言えばここで切れますので、複合語的な言葉のまとまりで言えば「なさすぎる」です。
ところで、「~なすぎる」、「~なさすぎる」について、例として挙げられている言葉を原則に従って直すと次のようになります。
情けなさすぎる=〇
食べなさすぎる=食べなすぎる
働かなさすぎる=働かなすぎる
しなさ過ぎる=しな過ぎる
「~なすぎる」になるか、「~なさすぎる」になるのかは、「な」が形容詞の「ない」の語幹なのか、打消し助動詞の「ない」の語幹なのかにより違います(助動詞の「ない」も形容詞型の活用をしますので、語幹の用法があります)。形容詞の「ない」の場合は原則的には「~なさすぎる」に、打消しの助動詞「ない」の場合は原則的には「~なすぎる」になります。違いは、「な」の上の語が未然形であるかないかです。打消しの助動詞の「ない」は未然形接続なので、上が未然形になります。「食べ」が、下一段活用動詞の未然形。「働か」が、五段活用動詞の未然形。「し」が、サ行変格活用動詞の未然形になりますので、その後に続く「な」は、打消しの助動詞「ない」で、「なすぎる」と続くことになります。
形容詞の「ない」の場合は、名詞について形容詞をつくったり、形容詞型の活用語の連用形についたり(この場合、「ない」を補助形容詞と考えて、付属語的に考える説もあります。)します。ですから、「情け」は名詞ですので、「な」は形容詞「ない」の語幹で、「なさすぎ」になります。
つまり、「な」の上が、活用語の未然形の場合は、「な」は打消しの助動詞「ない」の語幹で、「なすぎる」になり、「な」の上が、活用語の連用形や、名詞などの場合、「な」は連用形「ない」の語幹で、「なさすぎる」になります。現代語の文法で「ない」の識別はよく問題になりますが、簡便な識別方法としては、「な(い)」の上が動詞の場合、「ない」はほぼ打消しの助動詞と説明します。
実は、これ以外に接尾語の「ない」があるのですが、接尾語の「ない」は、性質・状態などを表す語に付いて、新たな形容詞を作ります。そのような面では、形容詞の「ない」と同じなのですが、「すぎる」に続く場合に、一語に、「~なすぎる」と「~なさすぎる」の両方の形を持っています。例えば、「あどけない」は、「あどけなすぎる」と「あどけなさすぎる」のように両方の表現を持っています。
「すぎる」の上に「な」がくるのか「なさ」がくるのかの原則は上に述べた通りですが、動詞の未然形+打消しの助動詞「な」の後に「さすぎる」と使われることが多くなっています。接尾語の「ない」のように両方の表現を持っていたり、そもそも「ない」が助動詞・形容詞・接尾語共に同じ形容詞型の活用で、当然同じ形をしていますので、原則通りにならないのも当たり前といえます。今、確認のために何種類かの国語辞書を引いたところ、新明解の「す・ぎる」の用例に、「知らな(さ)-」とあったので、この傾向は一般化しつつあるのでしょう。
「~な(さ)すぎる」という表現の成立時期ですが、はっきりしたことは分かりませんでした。ただ、「な(い)」は、終止形「な(い)」で古語でも同じ品詞で存在します。「さ」についても同じく存在します。「すぎる」は、古語では上二段活用ですが、同じ動詞として存在します。「なさけなさすぎる」という言葉を例にすれば、「なさけなし」は平安朝期には成立していますし、「なさけなさ」については江戸期にはありますので、「~な(さ)すぎる」との表現は、江戸時代にはあったかもしれません。滑稽本や黄表紙などを見れば用例が見つかるかもしれません(式亭三馬の「浮世床」や「浮世風呂」に用例があったような気がしますが、確認はしていません)。または、明治期に入ってからかも知れませんが、それほど新しい表現でもなく、それほど昔の言い回しでもないように思います。

以上、調べ切れませんでしたが、参考まで。

この回答への補足

こんにちは。
「では」を「じゃ」にするのは関西より関東じゃないの。

「さ」が入る理由不思議さは不明ですか。

(複合的に使う)「~過ぎる」の古さも不明。新しいのでは。「戯れが過ぎる」「おふざけが過ぎる」であって「ふざけ過ぎ」があったのか。

補足日時:2013/10/20 00:40
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この回答へのお礼

ご親切にご回答下さいましてありがとうございます。

証拠を列挙してもらえたので納得しやすいです。

お礼日時:2013/10/21 01:55

文法的には、形容詞「ない」の場合は「なさすぎる」、接尾語、あるいは助動詞「ない」の場合は、「なすぎる」が正しい。


情けないの場合は、形容詞とみて「なさすぎる」、食べない、働かない、しないは助動詞とみて「なすぎる」だね。
ただし、慣用表現として認められているものもあるようだ。詳しくは、以下サイト。 
http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20130710

この回答への補足

>岡島昭浩先生は、島崎藤村や井上ひさしの「しらなさすぎる」の使用例をあげておられる。
(引用終わり)

URLだけではリンク出来ない場合があります。
ご紹介ありがとうございます。

結論としては間違いなんですよね。

~そうだ、も、さが介入するんですね。
良さや無さはあまり使われませんが濃さは濃度の意味でよく使われます。
濃さそうとも言うと思います(言ってしまう)。東北方言でもあるまいし、一音で意味を感じがたく、意味が安定するまで心理として言葉が伸ばされるのだと思います。

さを入れたがるのは女性的だからではないかと。軟弱さです。

補足日時:2013/10/17 02:20
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この回答へのお礼

分かりやすいご回答ありがとうございます。
リンクも探していただきありがとうございます。
分かりやすいのが助かります。
今後とも宜しくお願いします。

お礼日時:2013/10/21 01:47

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