一回も披露したことのない豆知識

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは 神の子キリストとして 自由勝手にハリツケになったのであるが――なぜなら おまえらのためにおれが自分の命に代えてその原罪をあがなってやる ありがたく思えなどと言うわけがない―― これをいけにえにされたのだと捉えて わざわざ後からその犠牲となったイエスを聖なるものとした。

 これは 理論ないし思想としては ただのルサンチマンを煽る馬鹿げたものであり その欺瞞をただしいものとして押しつけるのは 或る種の犯罪行為である。そのオシツケに屈する人びとのよわさは やはり共犯である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この命題を問います。


 《第三項排除――つまり第三項として犠牲を作り出すという内容――の理論》があります。
 自分たちの集まりや社会の中から 《異質〔と見なした​者〕を排除する》といううごめきについてです。
 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般​経済序説』(1992)です。
 
 この理論にもとづき イエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これを提出して問いの趣旨を説明します。


 
 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言う

 人は 存在として人びととの関係において 社会​的である。
 しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ ​自由な関係を希求する。
 しかもその自由の実現を 特に社​会集団としては まちがって追い求める傾向もあると言う。

 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除​け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむ​といった傾向であり むろん間違った道筋であるというも​のです。

 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は ​社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ば​しいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば う​れしい。そのときややもすると この承認を 自分から ​追い求めて行く傾向を持つ。たとえ誰か特定の一人の人をワルモノや除け​者にしてでも。・・・



 § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。

 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたら​くと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を​持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つま​り 承認されていると思うことがたやすくなる。

 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段​階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱​》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見​なさない。こういう気難しい一面もあると言う。



 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したの​もつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。

 そこで これなら安心だという一定の判定基準を持​とうとする。
 この誰れにとっても見やすい共通の基準とな​るものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と​言えば早い。
 除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。



 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである​。

 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称​される。
 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他​の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は た​しかに《除け者》として扱われる。

 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人​としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ​ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩​序》を楽しむと言うそうな。

 このような傾向をじんるいは 悲しいかな 残念なことに持​っているのだと。



 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していた​ように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いて​います。

 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして​ わたしたちは獲得することができるとも言います。

 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》​の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんな​と違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてく​れるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。

 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいとい​う欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるとい​う行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取​れる。その道はのこされている。



 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであ​るとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のこと​であるとも論じていました。

 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には ​排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》す​ると言います。

 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を​ 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。
 それに​よって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと​。
 つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。

 したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として み​なであがめる。

 このことを通して あらためて集団ないし​社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。これで人びとは安心するということらしい。

 たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく  その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるという扱いに変わったという。そんなカラクリであるらしい。
 


 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《​聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まち​がいであると考えられるのに かなり有力なかたちでその歴史が続く。

 なぜならそこでは 死後にひるがえって評価を《聖なる者》と見なすようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は​ あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがは​たらくということらしい。
 前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。

 反動のチカラは 出る​杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項​と見なしてその排除にかかる。

 異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間​に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。
 ​ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことがありうる。そのよわさは 共犯を構成する。



 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか?

 ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会​ これも じつは そのまま間違いである。

 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。

 だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれ​は――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には​迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。

 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大な​る聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこま​でも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のな​せるわざである。世に言う《宗教》なるものの為す何たる自己欺瞞 !



 § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。

 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどこ​ろではない。承認されたいという欲望は かなり強いらしく 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかにさえ見える。

 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか​?
 話し合いによるしか道はないのではないか?

 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あく​まで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主​役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。

 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う。

 まづは ローマ教会の欺瞞について始めるのが 有効で有益ではないだろうか。

A 回答 (8件)

こんにちは。




第三項という用語は難しいです。
なので、
第三項→黒い羊(black sheep)→やっかい者、つらよごし、やくざ者
と置き換えた方がわかりやすいようです。
羊は生贄にも使われますので。

ですが、
黒い羊(black sheep)は「頭痛のタネ」くらいの意味にとった方がさらにわかりやすいのかもしれません。

イエスは、当時のユダヤ人指導層にとって、やっかい者、《頭痛のタネ・黒い羊》であったから、排除の論理にしたがって、生贄にされた。
この《頭痛のタネ》であったイエスが尊敬されるようになった。
しかし、このイエスの存在自体が、なんとも理不尽で、再び《頭痛のタネ》となった。
「そうだ、イエスを俺らとは毛色の異なる《黒い羊》にしちまえばいいんだ。これですべてが丸くおさまる!!」
ベクトルの向きは違うけれど、このイエスなる不条理極まりない《頭痛のタネ・黒い羊》をのけ者にした、神棚に祭った。
───「神棚に祭る」はいい言葉だなぁ~。神棚に祭り上げられたものについては、その正体を問うてはいけない。祭り上げられるものがたとえ亀の甲羅であろうが、イワシの頭であろうが、ひたすら拝まれる対象と化す。その正体は永遠に「???」───

イエス、二度目の受難!!
イエス、二度目の生贄体験!!
イエス、二度目の十字架刑!!

この二度目の十字架によって、イエスは、本当に死んじまったのかもしれない・・・。
ローマ・カトリックは、二度目の十字架で死んじまったイエスのナキガラを墓から引っ張り出し、三度目の十字架にかけたのかもしれませんね~。
そして、人は、これまでに何度も何度も《頭痛のタネ・黒い羊》のイエスを生贄にし、その都度、十字架にかけつづけてきたのかもしれませんね~。
《観念の神》としてのイエスを、殺しては、また、新たに復活させ、新しい《観念の神》としてのイエスを作りあげて、ふたたび、神棚に祭り続けてきたのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

 ぢゃあ 自己欺瞞でいいですね。

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ───「神棚に祭る」はいい言葉だなぁ~。神棚に祭り上げられたものについては、その正体を問うてはいけない。祭り上げられるものがたとえ亀の甲羅であろうが、イワシの頭であろうが、ひたすら拝まれる対象と化す。その正体は永遠に「???」───
 ☆ ぶらじゅろんぬ語としては アマテラスの抽象名詞化としての アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität )の生成ですかね。または アマテラシゼイション。ブッダターならぬアマテラシターの誕生。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 第三項という用語は難しいです。
 なので、
 第三項→黒い羊(black sheep)→やっかい者、つらよごし、やくざ者
 と置き換えた方がわかりやすいようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 元の用語としての《第三項》も 特には周縁へと追いやられたノケモノとしての意味で・またそのマージナル・マンが 人びとの共通の合言葉としてコミュニケーションにおいて或る種の《貨幣》の役割りを演じるという意味で 捨て去ることなく残しておくとよいと思いました。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・二度目の十字架によって、イエスは、本当に死んじまったのかもしれない・・・。
 ローマ・カトリックは、二度目の十字架で死んじまったイエスのナキガラを墓から引っ張り出し、三度目の十字架にかけたのかもしれませんね~。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ キリストの地上における代理者(それは 単なる自称ですが)のほうが 本人よりもでっかい顔をして 人びとの《救い主》になりすましているといった事態や情況のことを言っているのでしょうか?
 いまひとつ 具体的にはわかりにくかったです。




 ◇ 《観念の神》としてのイエスを、殺しては、また、新たに復活させ、新しい《観念の神》としてのイエスを作りあげて、ふたたび、神棚に祭り続けてきたのかもしれませんね。
 ☆ そう言えば 神は死んだと言われてからも また起き上がって来た感がありますね。ゾンビみたいに。

お礼日時:2013/11/27 15:58

わからないなあ。


わからないことはわかった。


~~~~~~~~~~~~~~~

パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語化したものと見られる。

『パーリ語文法』第10版  水野弘元 山喜房佛書林 26ページ

~~~~~~~~~~~~~~~

これが問題なんですよね。
念のため、手元にパーリ語文法がある人は確認してもらいたいです。

マガダ語については批判もありましたが
確かにスッタニパータでāseが使用されていても、新しいだろうという箇所もあります。

古い言葉を使っているからといって、使用者が古いわけではない

ただ、持っている方は、岩波文庫のスッタニパータの詩句803の中村元の註を確認して欲しいのですが
(私が持っているのワイド版)

~~~~~~~~~~~~~~~

[ちなみに、ここでpaṭicchitāseというのは、『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している。
pi(=Skrt. api)は、「すべてひっくるめて、いずれも」の意味である]。

~~~~~~~~~~~~~~~

中村元によれば、803の詩句は非常に古い。

しかし、古いからといって、それがブッダのことばとは限らない。

それにここまでやってもブッダのことばがわからないのなら
もはやそれはスッタニパータにはブッダのことばがあるはずだと信じている
という信仰の話になってくるのではないでしょうか。

いくら思想史をやっても言語学的な観点もないと、決め手に欠けるなら
確かなことはいえないこともわかった。


思考停止して、坐禅でもして議論を放棄するか
わからないことを認めて、浄土門に帰依でもするか
好きにすればいいと思います。

以前いただいた回答に

~~~~~~~~~~~~~~~~

経典の中においては、長部、中部、相応部経典に共通する文章に

n’atthi atta-kāre n’atthi para-kāre n’atthi purisa-kāre
自作なく、他作なく、人作なく

とあって、「keāre」の部分は本来のパーリ語の活用変換だと「kāro」にならないとおかしいですし、また同経には、

sukhe dukkhe jīva-sattame
苦と楽と第七の命と

とあり、ここも「sukhe」はパーリ語の活用変換だと「sukhaḿ」、「dukkhe」は「dukkhaḿ」、「jīva-sattame」は 「jīva-sattamo」となっていなければおかしいのですが、これらはマガダ語的変換のままになっています。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8185342.html

~~~~~~~~~~~~~~~

というのがあり、共通箇所を探してみようかと思ったのですが

http://suttacentral.net/dn/

探し方がイマイチなのか、正直わからなかったので
諦めました。

案外、そっちにあるのかもしれないけど
結局マガダ語はなんなの?という話になってそれがはっきりしないからなんともいえません。

言語学の発展に期待します。以上。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 古い語形を使っているから 古い時代の人が使ったものだとは一概に言えない。つまり
 ★ しかし、古いからといって、それがブッダのことばとは限らない。
 ☆ ということではあるのでしょうね。

 研究成果としては よほどしっかりとした反論がなければ それはそれとして信頼してもよいとは思うのですが。
 つまりパーリ語において マガダ語のものと見られる語形変化として -a 語基の名詞に複数形・主格語尾を -ā ではなく -āse につくるものがある。つまり 後者の -āse がその古形であると考えられるのだと。

 たとえば
 ▲ ( buddha (m.):ブッダ) ~~~~~
   sg.nom.: buddho
   pl.nom.: buddā / buddāse
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これについての解説として 次のような研究成果があるのだと。 

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~
 パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語化したものと見られる。

 (『パーリ語文法』第10版  水野弘元 山喜房佛書林 26ページ

 ▽ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ・岩波文庫のスッタニパータの詩句803の中村元の註(私が持っているのワイド版)

 ちなみに、ここで paṭicchitāse というのは、『リグ・ヴェーダ』の語法が残っているのであり、この詩句が非常に古いことを示している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 ほかにも 事例・語例が挙がって来てはいますね。
 参照の質疑応答のなかから 次の事例も載せておきましょうか。

 ◆ (マガダ語) ~~~~~~~~~~~~~~~
  http://okwave.jp/qa/q8185342.html

 さらに言えば、パーリ語の経典の中において、お釈迦様が弟子たちを呼ぶときパーリ語では「bhikkhavo(比丘達よ)」とパーリ語の活用で呼びかけているのですが、よく見るとちょいちょい「bhikkhave」というマガダ語系の活用で呼んでいるところもあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 話し言葉そのものなので じっさいに話した語形が残っているかとも思われます。

 さらに進展が得られるとよいのですが。

お礼日時:2013/12/05 14:36

ウィキペディアのスッタニパータの項目を読みました。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~

成立[編集]

最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しない。(第4章『八つの詩句』/支謙訳:仏説義足経)現代では日本語訳として『南伝大蔵経』の中におさめられている。ただし、『スッタニパータ』の中にも、新旧の編纂のあとが見られ、パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が含まれていることから仏典の中でも最古層に位置づけられている。

また『スッタニパータ』の注釈書として『ニッデーサ』(義釈)が伝えられている。『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから、この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている。

『ニッデーサ』は文献学的に『スッタニパータ』と同時代に成立したと考えられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83% …

~~~~~~~~~~~~~~~~~

それからニッデーサで検索したときに見つけたこちらのサイト

http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/buddha-mat …

~~~~~~~~~~~~~~~~~

ニッデーサに注解されている詩句とされていない詩句があって
されていれば古いだろうという前提があったので

前回の回答で、モーガラージャを調べてみたのでした。

しかし、ここでまたふと思いついて

じゃあ、ニッデーサをāseで検索したらどうなるのか?


それで
組み合わせというわけではないのですが
āseでニッデーサを検索してみました。

いくつかありましたので、ここではそのうちの一つから。

[BJT Page 156] [\x 156/]
Na kappayanti na purekkharonti
Dhammāpi tesaṃ na paṭicchitāse,
Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo
Pāraṃ gato na pacceti tādī.

http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Nid …


Na kappayanti na purekkharonti,
Dhammāpi tesaṃ na paṭicchitāse;
Na brāhmaṇo sīlavatena neyyo,
Pāraṅgato na pacceti tādīti.


803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

~~~~~~~~~~~~~~~~

もしもāseが古いなら、何の問題も無かったのですが、
どうもそうではない、古くないみたいだ

というのは今までやってきましたので、

困ったことになりました。

ニッデーサには古くない詩句も注解されていることになります。

これでは、ニッデーサでスッタニパータ第四章と第五章が古いはずだという前提すら
なくなってしまうのではないでしょうか?

どう思いますか?

私の疑問。

スッタニパータは本当に古いのか?



ちなみに以前話題にした法華経の箇所ですが漢文は
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版 (SAT 2012) のリンクがうまく張れないので
法華部から妙法蓮華經:0262 (鳩摩羅什譯)を選択して探してみてください。

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php

サンスクリットのほうだと

ニルヴリタとニルヴァーナの使い分けが気になります。

vimucya tā dṛṣṭikṛtāni sarvaśaḥ

śūnyāṁśca dharmānahu sparśayitvā|

tato vijānāmyahu nirvṛto'smi

na cāpi nirvāṇamidaṁ pravucyati||12||

http://www.dsbcproject.org/node/4257

~~~~~~~~~~~~~~

nirvṛto'smi

nirvāṇamidaṁ

これです。
それにしても難しい話ですね。
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この回答へのお礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 まとめということで ここにもご自身の質問ですがそのリンクを張っておきます。

 ○ 【Q:「nibbuta」と「nibbāna」の違いとは?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8123179.html

 ○ 【Q:ニルヴァーナを否定する思想】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html





 スッタニパータとニッデーサとを 或る程度まとまった量において読み解く。その上で――言語からの研究をも合わせて―― どういうことが言えるか。これをしらべて行かなければならないかと思います。

 専門の人たちに いまは任せると言いますか まづはこれまでに得られた視野をもって あらたに見渡してすすめることになりましょうか。
 よくは分からないですが。





 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 803 (あ) かれらは、妄想分別をなすことなく、
  (いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
 (い) かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。
 (う) バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。
 (え) このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (う)は おもしろいと思いました。実存思想ですね。

 しかも (え)では ええっ? とうたがうほど やはり面白いことを言っていると思います。

 いわゆる無住処涅槃のボディサトワの実存から言えば――この娑婆世界に戻って来て シガラミの中で生きることをその立ち場とするのですから―― 《もはや還って来ない》というのは マチガイである。しかも それが必ずしもそうではないと思われるには その《もはや還って来ない》という中核をもって現実世界に帰って来て実践するということもあり得る。かも知れない。と思ったからです。

 つまり 無住処涅槃の立ち場と同じでありうると。

お礼日時:2013/11/30 07:04

>「互いに だめでも話し合う。

それでも話し合う。​いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があると​きには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様​子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う​。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほ​ど話し合う」


B様、こんばんは。

日本はB様を生んで、B様あっての日本だったでしょう。
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この回答へのお礼

 くりなるさん。言い過ぎですよ。

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 No.5のかざみどりさんのように 話し合いに疲れた人のお話もあるようですし。


 それにわたしは いつも瞬間湯沸かし器で けんか腰ですし。



 くりなるさんは みなさんに対して公平に接しておられる。

お礼日時:2013/11/28 20:13

話しあいとはいっても


もう仏教について語ることないなあ。

ネタが無いなあ。と思ってすっかり気楽に日々を過ごしていました。
そんな中

もしかしてニッデーサをモーガラージャで検索してみたらなにか分かるかも。
と思いついて、検索してみましたよ。

そしたらありました。おめでとう。
たぶん、古い?

でも、ニッデーサは意味わかりません。
正直、これ以上探求する気力が私にはありません。

興味ある方はがんばってください。

Buddhism Downloads
Niddesa

2のpdf186ページ 右上の番号437

https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/ni …


Vuttampi hetaṃ bhagavatā:
1. "Suññato [PTS Page 438] [\q 438/] lokaṃ avekkhassu
Mogharāja sadā sato,
Attānudiṭṭhiṃ ūhacca
Evaṃ maccutaro siyā.
Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ
Maccurājā na passatī"ti[a]

Nidd I_utf8
http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/Nid …

XV. ATTADAṆḌA SUTTA
http://pathpress.files.wordpress.com/2012/06/ppt …

小部経典 翻訳目次
http://tipitaka.cocolog-nifty.com/

Suttanipata
(Pali Text)
https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/su …


http://suttacentral.net/

疑問1
なんでモーガラージャ経の空の詩句の前に
アッタカヴァッガの15、武器を執ることの詩句があるのか。

XV. ATTADAṆḌA SUTTA

17. yassa natthi idaṁ meti
paresaṁ vāpi kiñcanaṁ
mamattaṁ so asaṁvindaṁ
natthi meti na socati

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

疑問2

結局、何が書いてあるのか。

めんどう。
だれか教えてくれる人いないかなあ。

そんなわけで、話し合いに疲れた人の話でした。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 よく分からないので まづは 原文をかかげます。

 ▼ (スッタニパータ 1119 とその注解:ニッデーサ) ~~~~~~~
 § スッタニパータ 1119
 Vuttampi hetaṃ bhagavatā:
 1. "Suññato [PTS Page 438] [\q 438/] lokaṃ avekkhassu
 Mogharāja sadā sato,
 Attānudiṭṭhiṃ ūhacca
 Evaṃ maccutaro siyā.
 Evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ
 Maccurājā na passatī"ti[a]

 § ニッデーサの注解

 Evampi - yassa natthi idaṃ meti paresaṃ vāpi kiñcanaṃ.
 Vuttampi hetaṃ bhagavatā: "yaṃ bhikkhave na tumhākaṃ, taṃ pajahatha. Taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati1 kiñca bhikkhave na tumhākaṃ? Rūpaṃ bhikkhave na tumhākaṃ, taṃ pajahatha, taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati.

 Vedanā - saññā - saṅkhārā - viññāṇaṃ na tumhākaṃ, taṃ pajahatha, taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati. Taṃ kiṃ maññatha bhikkhave yaṃ imasmiṃ jetavane tiṇakaṭṭhasākhāpalāsaṃ taṃ jano hareyya vā, daheyya vā, yathā paccayaṃ vā kareyya; api nu tumhākaṃ evamassa: ' amhe jano harati vā, dahati vā, yathā paccayaṃ vā karotī'ti?

 No hetaṃ bhante. Taṃ kissa hetu? Na hi no etaṃ bhante attā vā attaniyaṃ vā'ti. Evameva kho bhikkhave yaṃ na tumhākaṃ, taṃ pajahatha. Taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati1.

 Kiñca bhikkhave na tumhākaṃ? Rūpaṃ bhikkhave na tumhākaṃ, taṃ pajahatha; taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissati. Vedanā saññā - saṅkhārā - viññāṇaṃ na tumhākaṃ, taṃ pajahatha; taṃ vo pahīnaṃ dīgharattaṃ hitāya sukhāya bhavissatī"ti[b] evampi - yassa natthi idaṃ meti paresaṃ vāpi kiñcanaṃ.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2013/11/28 15:19

貴方は誰の音頭で踊る?

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この回答へのお礼

 もしいれば 愛する人か子どもの音頭で踊る。



 0ふーる0さん ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2013/11/28 08:56

こんばんは。




第三項という言葉をはじめて目にしましたので、ちょっとネットで検索をかけまして、
 第三項排除、スケープゴート
http://www.geocities.jp/toku2501/scapegoat.html
を見つけました。
そこで、
「警察右翼の言論活動の植民地体制の維持のために、第三項の《黒い羊》が見世物化され絶対的に排除される」
という文章がありまして、
《黒い羊・black sheep》というコトバを用いました。

こちらの方が理解しやすいので。

ほら、わたし、理系人だから、
《第三項》という言葉を目にすると、
本能的に関数の三番目の独立変数をイメージしてしまうんですよ。
たとえば、
 t = f(x,y,z)
の三番目の変数である《z》が《第三項》であるように考えてしまう。
も~、これ、思考のクセなんで・・・。
───数学で言う《三項関係》でもいいんですけれど、数学でいう関係は関数みたいなものですから(ポリポリ)。───

そして、
《第三項の排除》という言葉を目にすると、
 zはxとyの関数φでz=φ(x,y)と表現できるの意味???
となってしまうですよ。
脳ミソがあらぬ方向に暴走をはじめてしまう(笑い)。
そして、「生贄と全然、関係がないだろう」となってしまう。


☆ ・・・二度目の十字架によって、イエスは、本当に死んじまったのかもしれない・・・。
◇例によって、思いつきです。
特に誰か特定の人をイメージして書いたのではないですけれども、
「二度目の十字架」と書いた時、
《パウロ》の名が浮かびました。
「《十字架の神学》を作るときに、《パウロ》はイエスを磔にしたのかもしれないな~」と漠然と考えました。
イエスという存在を人々から遠ざけてしまったのかもしれない。人間と縁遠い存在にしてしまったのかもしれない・・・
なんて、すこし思ったりもしました。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ▲ 引用改造
 ☆ さんの中で 《黒い羊》が現われた・持たれたということですね。
 今村は たぶん黒い羊とは書いていなかった。(いや これは自信がありませんが)。

 ○ 第三項
 ☆ というのは われの第一となれの第二のあとの かれのことを指しています。そして いまの場合は 当事者の二者が 仲間となってその輪を閉じようとしているからには 第三者のかれは よそ者ということになります。

 というより よそ者扱いをする。つまり 除け者とする。――でしょうか。

 そんな数学にかかわっていたとは 困りましたね。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 「二度目の十字架」と書いた時、
 《パウロ》の名が浮かびました。
 「《十字架の神学》を作るときに、《パウロ》はイエスを磔にしたのかもしれないな~」と漠然と考えました。
 イエスという存在を人々から遠ざけてしまったのかもしれない。人間と縁遠い存在にしてしまったのかもしれない・・・
 なんて、すこし思ったりもしました。
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 ☆ これには 真っ向から反論します。

 パウロが《イエス・キリストを ふたたびハリツケにしたかに見えたり 聖化し人間とは縁遠い存在にしてしまったかに見えたりする》のは キリストをイエスと分けて捉えなければ理解できないと考えます。

 つまりは 何のことはなく キリストは初めから神の子でありみづからも神であるのですから イエスなる人間の中で同時にハリツケになったのですし もともと《人間とは縁遠い存在 つまり 非経験の場なるむしろ非存在》であった。そのことを パウロは描いているに過ぎません。二番煎じでも何でもなく もともとそういうものです。そのように説明してしかるべきキリストです。

お礼日時:2013/11/27 18:57

《黒い羊》という言葉は、キリスト教由来の言葉ですよね。



《黒い羊》と《白い羊》という言葉、
聖書に出ているんですか?

ちょっとした疑問です。

ちょっとねっとで調べてみたら、
放蕩息子のたとえがどうたらこうたら、
創世記のカインとアベルがどうたらという話は見つけたんですけれども・・・。
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この回答へのお礼

 つづいてご回答をありがとうございます。


 いやぁ よくは知りません。

 羊と山羊との区別は ありますね。はっきりと。


 ちょっと調べただけでは 出ませんね。検索。

お礼日時:2013/11/27 16:01

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