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見下すのをやめる方法を教えていただけますか?

ぼく自身、「やってあげてる感」については自覚し、
「ぼくが勝手にやってるだけだからな」と意識していたのですが、
それでも無意識に他人を見下した言い方になってしまうそうです。
(普段のぼくの回答でもたまに言われますが)

そろそろ他人を見下す自分に疲れてきました。

見下すということは他人を気にするということですから。

なんなら、まわりに無関心がいいです。

とくにボランティアでこの感情が出るのは致命的です。

いちばん優越感や支配欲をもちやすくなってしまう危険を孕んでいる。

見下すのをやめるにはどうしたらいいでしょうか。

A 回答 (8件)

ボランティアでも何でもやってあげてる


じゃなくて
やらせてもらってるんだって思ったらどうでしょう。
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大したことはやってない


です。

理詰めで考えて行けば、
 大したことはやっていない
と考えられるはずです。

でも、そうすると、
 大したことでもないのに、他の人はやらない
となってしまうかもです。

そしたら、
 70億人もいる人間の中で自分って特別か?
って考えて下さい。
それで、
 他の70億人とは自分は特別な存在だ!
と思えるなら、それはそれで、人を見下そうが構わないと思います。
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この回答へのお礼

残念ながら、今のところ、ほかの70億と違って特別だまでは思えませんね。

ぼくのやっていることはものすごくありふれているでしょう。

たしかに理詰めで考えればわかることですね。

筋が通っている以上、ぼくは感情を無視して納得します。

お礼日時:2014/02/22 23:06

…と言うか、世間的にもそんな感じが強くないですか?



「えらいよね~」
「忙しいのによく出来るね。すごい」
「何もお手伝いできませんが、がんばってください。」

結局、やってあげた感が強くなるのは
無償で働く事に対しての認識が
日本では「当たり前のこと」ではないからだと思います。
さすがエコノミック・アニマルのお国柄。

私もボランティアに関わっていますが
見下したことはないですよ。
やらせて頂いてる感の方が強いので。

ボランティアだからこそ、評価がしっかりしているんです。
やってくれる人は兎に角ありがたいけど
「出来る人間だから、より頼みやすい」
役に立つから次につながるんです。

逆に「出来ない人」には次に話が来ませんもの。
お願いされる=自分が使える人間 なんです。

だから自分の生活の中で
出来る範囲で引き受け
喜んでかかわっていきます。

こんな感じでいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

なるほど。

そういった世間の声を聞き続けてきたから、もってしまうのかも。
一種の洗脳ですね。

世間のせいにしてもしょうがないですけど、
「今までボランティアはエライよっていう暗示をかけられた」ことを意識するだけでもちがいますね。

お礼日時:2014/02/22 23:03

「自分は」「自分が」をどけちゃうことだよ。



つまり、自分と向き合わない。
自分の価値を、自分で探さない。

すると、相手が教えてくれたり、気づかせてくれたりするのです。
以外に優しかったり、思いやりがあったり・・・人の役に立てる、存在価値のある自分を。
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この回答へのお礼

自分と向き合う。
自分の価値を探す。

今まであなたの主張とは真逆のことをやっていましたね。

相手になにか言われたり、必要とされない限りは価値など見出せませんね。

自分について考えるのをやめつつ、淡々とやろうと思います。

お礼日時:2014/02/22 23:00

 自分自身がボランティア活動をする『目的』をはっきり持つことでしょう。

「別に他人のためにやっていることじゃない。自分で自分なりの『目的』を持って、そのためにやっている活動だ」と思うことです。

 ですから、私は自分が“嫌”と思うような活動には参加しません。非常に『勝手』です。「周りから『勝手』と思われるから・・・」なんて理由で参加したって周りに迷惑なだけでしょう。そこが分からない人には好き勝手言わせておけばよい。そんな時は『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』と嘯きます。
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この回答へのお礼

おっしゃる通りですね。

最初は目的があっても、日々過ごしていくうちに、「ここじゃダメだ」みたいな感情をもってしまったのでしょう。

そのイライラが他人を見下す原因になったかも。

ボランティアの途中でも、イヤなことはイヤだとハッキリ言います。

お礼日時:2014/02/23 07:28

こんにちは。



ボランティアに関して。
どのような活動をされているのか分かりませんが、その活動内容にそう楽しさや意義を見出せないからでは?
中学生の頃にクラス単位で何かしらのボランティア活動をさせられました。
ゴミ拾い、老人ホーム訪問、駅の掃除、幼稚園の子供の遊び相手。
どれもこれも全く興味ないし、「なんでこんなこと私がしないといけないの?」と思ったものです。
ただ、子供好きな子達はいきいきと楽しそうだったし、
おじいちゃんおばあちゃん子な子達は、老人ホームでも人気者。
ゴミ拾いや掃除に関しては、やりだすとやる気が出てきて、綺麗になった場所を嬉しく眺めたものです。

少し年齢が上がってから、自分の勉強する分野に関するボランティア(お手伝い)のようなものに狩り出されました。
このときは結構楽しかったです。
「仕事と同じなんだからお金欲しい」とか思いましたけれど、
今思えば、とても良い勉強の機会でした。

楽しいとか、経験になる、勉強になる、などと言ったメリットがないとボランティアって難しいと思いますよ。
人に必要とされている、認められているという心の満足感を得るためだって良いわけです。
誰だって、だれかに必要とされたいし認められたいと願っています。

そして、人間には良心、正義感、使命感があります。
震災が起きると、居ても立ってもいられず、ボランティアとして現地の人の役に立ちたいと駆けつけた人だっているのです。

だけどそれは、「私」じゃなければいけないという訳じゃない。
特殊技術があるとか、財産がいっぱいあるならまた話は違いますが。
一個人として出来ることって限られています。
私が立ち上がっても、世界中を救う力がある訳じゃないし、歴史を動かすような大人物の真似なんか到底できません。
人間一人の力は小さいです。
それでも受け入れ必要として貰えたら、もっと頑張ろうと思う活力になるし、自分にも何か出来るかもしれないって希望を持てるんです。

「やってやっている」と私が思っても、相手にとっては「別にあなたでなくても良い」ということ。
まあでも、若い頃って少々傲慢に(人を見下す)なりがちですよ。
自分は人とは違う気がしたり、何でも出来そうな気がしたり。
色々社会で揉まれると、何となく自分の実力が分かってきたり、他人も同じように精一杯生きていることが分かってきて、
性格が「丸く」なってくるんです。

見下さないためのこつ。
相手を見下すような気持ちになったら、必ず相手の長所を思い出します。
「全くこの人ホント駄目だわ・・・」と思ってしまった後に、
「でも、いつも一生懸命なのはすごいよね」
「でも人懐っこくて可愛いところはある」
「でもサッカーだけはやたら上手いんだよなー」
「でも、あの時すごく優しくしてくれた」
「でも、まだこの人のこと良く知らないし、良いとこもあるだろう」
そうすれば、完全否定にならないし、「でも」で相手を見下した自分の気持ちを否定して軌道修正。
そういう癖を付けていけば、みんな長所も欠点もある人間だと、相手を受け入れ易くなります。
そして、あなた自身も長所と欠点含めて受け入れてもらえるでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど。

たしかに自分が受け入れられないから、半ばやつあたりになっていたかもしれません。

動こうとしても、どう動いていいかわからない。
ヒマ。

こういうイライラが見下す原因になったかも。

自分を受け入れてくれる、必要としてくれるというメリットが大きい場所を探したほうがいいかもしれません。

お礼日時:2014/02/23 07:26

「ぼくが勝手にやってるだけだからな」と



理屈で考えてますよね?


頭の中で、ボランティアとはそういうもので、

人にやってあげてるなんていうのは以ての外だと、

考えるから、「ぼくが勝手にやってるだけだからな」と

思うべきで、あると、考える。

とくにボランティアでこの感情が出るのは致命的です。

いちばん優越感や支配欲をもちやすくなってしまう危険を孕んでいる。

と、考える。


ここに、相手の気持ち、入れたらどうですか?

そんなことを思われながら、されてる人たちの気持ち。

自分がそうだったら、どんな気持ちでしょうか?
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この回答へのお礼

相手の視点が完全に欠けてましたね。

理詰めでどうにかしようとしていました。

どうなんでしょう?

相手は別にぼくの心の中はわからないでしょうから。

ともかく他人の心理がわかっても、共感できないのはたしかです。

お礼日時:2014/02/23 07:22

>ボランティアの時のやってあげてる感をなくす には?


>無意識に他人を見下した言い方になってしまうそうです。

簡単ですよ。ちょっと試してみてほしいです。
どんなボランティアか分かりませんが人と関わって何かお世話とかお手伝いをするような活動なら使えると思います。自分のこと考えないとかは無しです、あくまで工夫の話です。


ボランティア活動中に何か話す時、主語を意識して変えて下さい。

「(僕は)」「(僕が)」という主語を、「(自分が何かをする) 相手 」 に変えるだけです。
(誰々さんとか、施設の名前や活動名などシチュエーションによって変わると思います)


実際喋っている時は「僕は○○」とか「僕が○○」とかいちいち言わないで用件の部分だけ言うことが多いかもしれませんが、隠れた主語は「自分」になっていると思います。意識して主語を「相手」にしてください。

主語が相手になると後に続く言葉も相手目線の言葉に自然と変わってきますよね。

人のお世話をするようなボランティア活動中の行動を言葉で表す時、自分目線の言い方と相手目線の言い方では大分違います。
意識し忘れて主語が「自分」になると、後に続く言葉は相手にしてやってるみたいな言い方になりやすくなります。

要は言い方、言葉遣いの問題です^^;


当てはまるか分かりませんが例です。
・相手が立ち上がるのを補助する
自分→「立たせる」
相手→「立つ」

・相手の飲食を補助する
自分→「食べさせる、飲ませる」
相手→「食べる、飲む」

・相手が座るのを補助する
自分→「座らせる」
相手→「座る」

同じ行動でも言葉だけ聞いた場合、主語が自分だとしてやってる感がすごいです。言葉の印象って大事です。

周りの人から言われるっていうのは無意識に「(僕が) 誰々さんを座らせます」などの言い方をしたのを聞いて、見下した言い方だと思われたんじゃないか?と推測します。

ちなみにこの場合なら「誰々さんに座ってもらいます」「誰々さんが座るの補助します」という言い方にすれば見下した言い方には聞こえません。


話し言葉は、普段は自分が行動する=自分が主語。が普通なので、意識していなければつい言ってしまいそうな感じはします。
人のお世話やお手伝いは、行動するのは相手の人で、ボランティアはその手伝いをするだけなので、主語も相手にするってことです。

ただそれだけのことです。

見下した言い方してると言われるのが不本意であれば言い方を工夫して変えてみてください。実際にどう思ってるか何を考えてるかは別です。変えるのは言葉遣いだけです。
試してみてほしいと書きましたがもし見当違いだったらごめんなさい。
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この回答へのお礼

あまり意識してなかったので、見当違いかどうかはわかりません。

ただ、心の中では明らかに「自分が自分が」だったので、
言葉にでも出ているかもしれません。

ちなみにやっているボランティアの内容は教育支援です。

ぼくが教えている→子供たちが学んでいる
みたいにするといいかもしれませんね。

ありがとうございます。
意識してみます。

お礼日時:2014/02/23 07:20

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