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 どうしても不可解なんですよね。隋書を見る限り、隋の使者は倭国王に会っています。妻や後宮の存在が記されています。日本書紀の場合は使者は宮門の前で国書を読み上げそこに国書を置いたと記されています。そこに馬子や厩戸皇子や推古天皇の存在には言及してません。側用人でもいて、手紙を天皇に渡したとかあってもいいはずです。
 新唐書には、開皇末に在位したのは用明天皇で目多利思比孤とありました。じゃあこの天皇は誰なのか益々解らなくなりました。
 そこで、この宮門の中を乙巳の変の場面のように見立ててみることにしました。建物のなかに、三韓の使者や蘇我入鹿、倉山田石川麻呂、中大兄皇子、中臣鎌足、古人大兄皇子らがいて、簾の奥に皇極天皇がいるとしましょう。このとき、皇極天皇と中大兄皇子、蘇我入鹿や三韓の使者を推古天皇と厩戸皇子、蘇我馬子と三韓+隋の使者に置き換えます。そして天皇と皇子の位置をまだ確定せず、それぞれ天皇X、皇子・皇女Yとします。そして勝手ながら条件を入れます。三韓+隋の使者はこの天皇Xの即位式に祝使として参加し戴冠の様子を観ました。そして建物の屋根裏や床下には三韓+隋の間者(スパイ)が忍び込んでいます。もちろん即位式を盗み見ていました。
 この場合、天皇Xを厩戸皇子にすることは可能でしょうか?勿論、私の妄想ですけど。

A 回答 (3件)

隋は別に日本だけを見ていたわけではない


高句麗 新羅 百済とも外交あるいは戦いも繰り返し その向こうの日本を見ていた
それに中国と日本が昔から外交を続けていたとは言え 中国は何度も国の興亡を繰り返しています 隋とてそうです
このころは建国されてまだそんなに時間も経ってない国だったはずです
その国が海の向こうの日本のことなど完全に掌握できるものでしょうか?

隋の煬帝は使者として来た小野妹子を日本の王子と見誤ったぐらいです
隋の使者が日本の王室周辺の事情を把握していなくても不思議ではないと思います



卑弥呼の場合は弟が天皇です(崇神天皇)
確かに弟以外に顔を見せなくても 倭国の王は女だと言う事を魏の使者は知ることはできるでしょう
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随書には「倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比弧(たりしひこ)」と記されています


タリシヒコとは天皇の意味で比弧は彦つまり男を指している
タリシヒコには妻がいる つまり男の天皇であると言う事を指している。
しかしご存知当時の大和の帝は推古女帝である ではこのタリシヒコとは誰か?

1 当時の隋では女帝を嫌う風習があった そのため使者が帝を男だと答えた説

2 当時摂政だった厩戸皇子のことである(厩戸は用明帝の子でありれっきとした皇族)

3 大和政権の最大の実力者 蘇我馬子である説

事実 厩戸皇子は摂政であったが実権は大臣の蘇我馬子が握っていた
冠位十二階・十七条憲法も馬子が制定している説が有力



もちろん髄の使者は位置関係を通訳に聞くはずです
帝は推古だが両脇にいる2人の男は誰か?
摂政と大臣です 
であるなら 国内の事情を完全には知らない髄の使者は 摂政こそが事実上の天皇であると考えても不思議ではない
ならば厩戸天皇は可能であったはず
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 隋が日本の国内事情を知らないというのは、無理ですよ。ずっと歴史上、中国と日本の外交の歴史が続いてきたのは事実ですし、中国は自分の東にいる民族を東夷としているのに、そこから何も学ばないというのはどうなんでしょう。天子を名乗った王の国に、何も下調べせずに使いを送るのは自殺行為だと思うのですが。
 では卑弥呼や台与の存在はどうなるんですか。卑弥呼を男弟以外で、ほぼ顔を見ることはなかったんですよね。ならば、なぜ三国志の記述は゛倭国では女王が在位していた。”は可能になったのでしょうか?
 それから、後世に登場する中国の武則天や新羅の善徳女王や真徳女王のその存在意義はどうなってしまうんですか。
 初めから厩戸皇子が位につけば何でもないと思うのですが。

お礼日時:2014/03/01 11:25

妄想隋書



北九州の地方政権で挨拶した。

http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/ …

倭國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,於大海之中依山島而居。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97% …

始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。

つまり朝鮮半島から水陸3000里で末廬国に着くというのが、魏志倭人伝段階の距離感。
過去の歴史書をちゃんと参考にして書いているはずなので、1000×3でまとめて三千里。

地方政権の位置づけ
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bit …

内陸の王権に対して、外交を任された「商人王」という存在が、中世のインド沿岸諸国家では常態でした。
※東南アジアでの文献で見たことがありますが、今検索したらインドしか出てこなかった。

なのでこの地方政権は、大和朝廷から外交を任された従属政権であったのではないかと妄想する次第です。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。
 天子を名乗ったら、どんな事が起きるのか想像がついていたと思うのですが。時の天皇だってある程度は覚悟していたのではないでしょうか。
 従属政権が応対はしたでしょうけど。それだけで済んだのでしょうか。
 中国は自分たちの天命思想に楯突いた日本に激怒していたと思います。そう簡単に追及の手を緩めたとは思えないんですけど。

お礼日時:2014/03/01 11:58

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