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よく、オリンピック参加で「柔道」が「スポーツ(柔道)」になってしまった、というようなことを聞きます。これは「勝つために手段を選ばず」的なニュアンスがあると思いますが…。

柔道・剣道・合気道 … 日本の「道」はだいたいわかります。しかし「スポーツ」との違いがよく分かりません。

「スポーツ」だって「勝敗」だけでなく「スポーツマンシップ」という言葉があるくらいですから、「正々堂々と」とかそういう側面はあると思うのですが、根本的なところで何が違うのでしょうか? 「スポーツ」という言葉の定義を辞書で調べましたが、全然分かりませんでした。(スポーツという言葉はイギリス発??)

「道」と「スポーツ」 その定義・認識において、一体何がどう違うのか? ご存知の方、宜しくお願いいたします。

A 回答 (4件)

 本来相手を殺す為の技術だったのを技術と精神論を一緒にしてしまい「道」として矛盾したまま伝えた所から始まっています。


 だから正しい者が強いとか勝つとか言いながら、そうでない者が勝ってしまうという武道の考えでは説明出来ない事になってしまっています。
 だから他の流派との違いを出す為に精神論を取り入れて活人剣を名乗った柳生なんかは対外試合禁止にして、その矛盾をごまかしてきました。 これを矛盾とともに引き継いでいるのが○○道と名乗る流派です。

 これが、茶道なんかのように競わないものなら問題なかったんですけどね。 戦う為の技術に精神論を取り入れてしまったから負けてしまった時の言い訳が苦しくなっちゃうんですw


 そして、その矛盾を抱えたままスポーツとしてルールを決めて世界に広がったのででそこで矛盾がさらに歪んでしまっているって所でしょうか(最初に精神論の部分を同じ武道をやる者なら判るだろうって甘えてしまいルールに明記しなかったのが悪い)

 スポーツというのはルールがありそれが全てです。 そのルールの中で勝つ為の工夫をするのがスポーツであり、そのルールに記載されていない事を言っても通用しません。
 だから一本取るのが柔道だなんて精神論振りかざした所で、ルール守って勝ったのに「何言ってるの?」となるんです。



 スポーツとはルールがあり、そのルールの中で勝つ為の工夫をするものです。 スポーツマンシップってのはそのルールを守った上で戦った相手をお互いに気遣う事で成立するものであり、ルールに書かれていない精神論なんか持ち出さないって所でしょうかね。




武術の技術と精神論を一緒にして教えが歪んでしまったものが武道。
ルールがありその中でお互いに勝つ工夫をして競い合うのがスポーツ。
武道がルールを作り競技化して広めてしまった時点で武道としての技術、精神論を捨ててスポーツとしての道を歩んでいるって事です(捨てるつもりが無かったとしても、もうすでに大多数の人は技術も精神論も建前だけになっている)
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

>武道がルールを作り競技化して広めてしまった時点で武道としての技術、精神論を捨ててスポーツとしての道を歩んでいるって事です(捨てるつもりが無かったとしても、もうすでに大多数の人は技術も精神論も建前だけになっている)


どう考えても今後武術が実戦に戻ることは考えられませんので、スポーツ化の流れは止まらない、ということですかね。

実戦のための武術 ⇒ 武道 ⇒ スポーツ

悲しいですが…。

お礼日時:2014/03/12 18:10

武術は戦いの技術です。


武道は武術を通しての生き方です。
スポーツはルール内での勝敗を競うゲームです。

武道は武術の技術上達の為にルールに沿った競技(スポーツ)を行うもので、根幹は武術ですが、稽古体系としてスポーツを内包しています。
「柔道がスポーツになってしまった」という言葉は、具体的には「技術上達の為の競技なのに、競技で勝つ為の技術だけを磨くようになってしまって本末転倒だ」という意味です。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

「実戦で勝つ」というものがなくなってしまった以上「試合で勝つというのが至上目的になってしまう、というのはある意味当然の流れだったのですね。柔道に限らず剣道なども。今はその過渡期にあるのでしょうか。悲しいですけど。

戦国の世から江戸の太平の世に変わっていった時代のお侍さんの気持ちはこんな感じだったのでしょうか…。

お礼日時:2014/03/12 18:22

武術が堕落して武道になったのです。



戦争が無くなり、武術はその行く場が
無くなってしまいました。
それで武術が武道になってしまったのです。

つまり、武術というのは闘いの技術です。
殺し合いに勝つ。
そのことに意義があります。
しかし平和な時代にはそんなことできません。

それで勝つ、という結果は問題でない。
鍛錬する、それ自体に意義を見いだそう、とするのが
武道です。

鍛錬は勝つためにやるのではない。
苦しい鍛錬を重ねることにより人格が向上する。
人生の道が見えてくる。
それが武道だ、ということです。
殺し合の技術である武術からみれば堕落です。


これに対して、スポーツというのは競技です。
相手と技や結果を競うものです。
なぜ競うのか、といえば楽しいからです。
そこには人格の向上とか、人生云々などは
存在しません。

スポーツマンシップは、ルールを守れ、
あまり勝敗にこだわると楽しいはずのスポーツが
楽しくなるなるじゃないか、ということです。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

日本だと武道に限らず、華道茶道...と何でもかんでも「道」になってしまうようですが、例えばフェンシングなんてのももともとは殺し合いの技術だったとは思いますけど、他の国では単なる「スポーツ」で、「道」とは呼ばないまでも、つまりは哲学的な「何か」にならなかったというところに、何か日本的な、独特な考え方があるのだろう、と思えます。

お礼日時:2014/03/11 04:10

何をやるにせよ、それが、己の生き様の問題、自身の思想哲学の問題とピッタリ重なる場合、それは「道」になる。

生き方の問題とは全く関連せずに、ただ単に個別のひとつの「競技」と捉えている人にとっては、それは、「スポーツ」でしょうね。

つまり、「道」か、「スポーツ」か、という問いは、個別案件。個々人によって違うのであって、それを一律に定義づけすることは出来ない。個人個人にとって、それが「道」であったり、「スポーツ」であったりする。「柔道」、「剣道」を「スポーツ」としてみる人が居ても残念ながら、今日的には、許容するほか無い。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

hekiyu さまのところでも申し上げましたが、そうすると日本もこれからは新しい「スポーツ」は生まれても、「道」は生まれないかもしれませんね…。

お礼日時:2014/03/11 04:14

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