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「読みかけた本」は読み始めましたが、まだ終わっていない本という意味ですが、しかし、「見かけた映画」は見始めましたが、まだ終わっていない映画という意味にはどうも取れにくいようです。わたくしの感じは正しいでしょうか。もし正しければ、「見かけた映画」がおかしい理由を教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

言葉とはいろいろな問題があるようですね。

「~かける」の言い方は「(新聞を)読みかける」「(仕事を)やりかける」「(道を)歩きかける」「(運動し)かける」 <参考>「(人を)見かける」

 いくつか挙げた例は「~し始める」・「途中まで~する」の意味ですが、参考に挙げた「見かける」は「目にとめる・見受ける」の意味で、使い方に違いがあります。(実際には「~かける」の用例はいくつもあるのですが、関係のものだけ挙げました)

 さて問題の「読みかけ」は「読みさし」とも言えるのですが、意味は同様です。というところで、質問者のおっしゃるとおりという結論になりそうなのですが、ちょっと気になる事があります。

 「見る」の対象となるもので、違いがあるのではないでしょうか。例えば、絵画の場合は「見さし」「見かけ」ということはあり得ない。時間の長短にかかわらず「見る」ことになります。しかし、時間を要するもの、演劇・映画・コンサートなどは、「見さし」「見かけ」は起こり得ます。それは会場から去ることで、「見た」ことにはならないのですが、今時は活字というメディアの外に映像というメディアもあり、ビデオによる映画の「見かけ」もあるのではないでしょうか。
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「見かける」のルーツとなる古語「見掛く」の用例において、「目に掛ける/目に留めて見る」、また「偶然見る」や「見始める」を意味する「連語関係」が既に固定していますから、もはや補助動詞「掛ける」との連語で「(その動作を)始めたまま」という用法でのコロケーションが生じにくくなっています。



「見」るを、そんな連語関係から自立した「観る」にすれば「観掛けた映画」や自動詞で「観懸かった映画」とすることで、「見る」の連語の縛りが薄れるので、表記だけであれば収まるでしょう。

口頭でも分かるようにということなら、普通に「観ている映画」もしくは「観ていた映画」、また「観ている最中の映画」で落ち着くでしょう。
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 質問者さんの感覚は正しいです。



> 「見かけた映画」がおかしい理由

 この表現自体がおかしいわけではありません。ただ、「途中まで見た」という意味に使われないだけです。

 この表現の場合、「映画の内容を見た」という意味にはならず、「道路を歩いているときなどに、ポスターなどで、存在を知った」映画、というような意味になってしまいます。

 なぜかというと、「見かけた」という表現は、日本に映画が登場して「映画を見る」という言い方ができる以前から、「町で存在を知ったら」「存在に気がついたら」的な意味で使われてきたからです。

 「そのへんで見かけたら(お見かけの際は)お声をかけてくださいませ」みたいに。

 で、「映画を見かけた」という言い回しも、それに引きずられて、「映画の存在に気がついた」というような意味あいに受け取られてしまうのです。

 また、短い映画の歴史においても、その大部分の期間、映画というものは「映画館に行って、その都度高価な料金を払い、見始めたら最後まで見る」のが原則でした。

 「ちょっと見て、途中で止める」というのは「あり得ない話」だったのです。当然、そういう状態を示す言葉も生まれてきません。それを表す言葉は、まだナイのです。

 似た言葉遣いを借用しているだけなので、質問者さんの「違和感」は正しい感覚です。


 映画について、現時点で「途中まで見たが、止めた。まだ全部は見ていない映画」という状況を言い表したければ、「鑑賞しかけの映画」とでもいう以外にないと思います。

 (映画って、"鑑賞"するものなんです、まだ。芸術と一緒)

 50年もして、本の読みかけと同じことが映画でも頻繁に起きれば、もっと練れた言葉が生まれていることでしょう。
 
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イントネーションを変えてみると、どうでしょう?



見かけた
→→→→

の場合と、


見かけた
→↑→→

意味が違ってきませんか?
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