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宗教に限らず 霊 と呼ばれてきたもの は何もなかったのでしょうか?

それとも現実の何かを霊・聖霊・霊魂と呼んできたのでしょうか?

スピリチュアルの人とかもよく言いますよね

「そんなものはない」で説明できるでしょうか?

目に見えないけど性質を持つもの。

空気などと違って物質としての見えないものじゃなく 

生霊 等と言う様に 肉体に宿り、または肉体を離れて存在する

と考えられる精神的実体 広辞苑によれば霊とは「たましい」「たま」

一体これはなんでしょう? 霊とは科学的には何でしょう?

A 回答 (11件中11~11件)

 こんばんは。



 次のように用語を定義しています。

 《たましい》が 多義的だというところから始めます。

 A たましい:
  (1) 身体組織としての感性 
  (2) こころ 
  (3) 霊

 B こころ:
  (1) 感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。 

  (2) いっさいの認識をもとにして 自己および他者あるいは世界に相い対するとき人間存在に生じるはたらき。
      これは 好悪の感情や喜怒哀楽の気持ちであったり こころ差し(志)であったり あるいは要するに 《わたし》という意識そのものであったりする。

  (3) さらには たましいが霊としても捉えられる場合と同じこころがある。
      これは 肉(つまりこの場合 精神および身体を言う)をあたかも超えて伸び広がるかに思われるところがある。→《信じる》

 C 信じる(信仰):
   非経験〔について〕の受け容れのこと。経験思考に非ざること。
   または 表象しえぬものをわざわざ受け容れ思うこと。ただしその表象し得ぬものをも 言葉などその代理によって表象すると主張することがある。
   あるいは 絶対とわれとの関係が 《信じる》である。→《絶対》

 D 絶対:
   そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し想定する。思考を超えている。
 《考える》を超える心のはたらき――つまり ナゾの受け容れ――は 《信じる》と呼ばれる。

 それは 有神論と無神論とに分かれる。どちらも 互いに同等である。信仰であり その形態が 有神と無神とで分かれるのみ。つまり《神がある》と言うのも《神がない》と言うのも ともに《信じる》の領域を捉えて言おうとしている。なぜなら 《絶対者》は表象しえぬゆえ。

 E 肉:
  (1)身体 
  (2)身体および精神 すなわち ひとの経験的な存在の全体

 F 精神:
   こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を言う。
  ( a ) 記憶行為:
    精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。意識内容を知解行為が加工したものをも記憶する。
    その組織・その過程。
    先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。

  ( b ) 知解行為:
    記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあらたな整合性をもった認識内容につくる。

  ( c ) 意志(愛):
    大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに すでにそれらを促すように発動していると思われる。
    知解行為の結果から取捨選択しその内容を みづからの意志(おもむくところ)として判断し決定する。実行にも及ぶ。 

 G 三一性( trinity ):
   これら記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為を成し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。
   このとき 時間的な隔たりを持って 三行為はけっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。
   社会形態(一般に国家)にあっては順番に 司法・立法および行政という役割にそれぞれ相当する。

 H 三位一体( Trinity ):
   これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。
   ・記憶能力が 父なる神。光のたとえとして 光源。
   ・そこから生まれる知解行為が 子なる神。光の発耀。
   ・それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。光の持つ明・暖。

   絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。
   三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞれ等しい。無限の半分も無限であり 三分の一もやはり無限である。

 I 霊:
   《絶対》ないし《絶対者》のこと。

 J 《イエスはキリストである》:
   霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。

 K 人間:
   このキリスト・イエスつまり 《かみでありひとである存在》に似る存在者である。
   それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。
   《絶対》によってあたかも指先でのように触れられている。あたかもこころの明けまた伸びとして窓が開かれている。これ――絶対なる霊――を《分有する》という。

 L 《人間は神の似像(にすがた)である》:
   三位一体なる神のはなはだ不類似にしていくらかは類似する三一性をそなえた人間をいう。
   この人間は 神にかたどって造られたと表現された。
   一定の社会形態(国家)も 三権の分立かつ協業というかたちで一種の三一性を有し 似姿の様相を呈している。

   
 M 生命: 
   これは 以上のすべてを言うものか?
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この回答へのお礼

成る程よくまとめてありますねえ 分かったことと分からないことがありました

「信じる」という事ですが 信じなくても確率で考えて試行錯誤できるなら 信じなくてもいいと思うのです。

信じるというのは分らないままでは何も出来ないと思うとき

何かを信じて行動すれば怖くない と考えます。

人間何も信じられないでは生きていけないものです。

絶対というのは信じるから絶対と思うのではないでしょうか?

勿論信じることも大切なことだと思います。何を信じるかですが。

後半はキリスト教のまとめとなっている様です。

もちろんそれも大事ですが。三位一体説でしょうか。

良くまとまっているし 説明もいいと思うのですが

仏教徒には何が何だかさっぱりという人も多いでしょうね

哲学は西洋哲学を勉強する傾向がまだ強いですから

神が出て来ても驚きませんが

霊が絶対者のことと成ると 他の世界との整合性が取れなくなり

前にあった 神があると信じることと神がないと信じることと

どちらも信仰だという点が気になります

神を知らない人は神がないと信じてるわけではなく

見たことも(声を)聞いたこともないので意識にないのではないでしょうか

つまり神は心に拠るものと考えますが 神があるという心の人もいれば 神など知らないと言う心の人もいる

どちらかと言えば後者がベースになってると思います。

つまり神というのが特別な考えで その証拠に神は八百万あります

どうも批判的になってしまいましたが 良くまとまったものを見せて頂きどうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/03/14 22:40

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