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理研だっただけに日本の科学の信用に傷を付けたとされていて、早稲田応用化学以降、女子医大の教授(工学)、など理系畑を歩いて理化学研究所にたどり着いて起きた事件だから、理系が黒幕だ、は短絡です。
理系のセンスに拙ければ拙いほど彼女がその地位を得た精神思考の基礎は非理系と言えます。
中学で読書感想文を指導した人が一貫して彼女の知力を鍛え上げ理系はお化粧だったのです。
ライフカテゴリで「小保方晴子=田中角栄」仮説の質問中ですが角栄さんの出世原理は理系能力ではありません。

野依博士も笹井博士も文系と付き合いすぎて理系精神が廃れたのだと思います。つまりシェイカーを振りカッシーナでカクテルを飲むような理化学研究所には博士の出世コースが開けていたのです。
大和先生はアート(芸術)に造詣があるようで、笹井副センター長も文科系の才があるようです。山中先生や若山先生が理系なのです。
以前、教育問題カテゴリで文系不要論を立てて質問したら袋叩きに合いました。私の質問や回答がこのサイトで抹消されまくりですが、あの質問は抹消されなかったでしょうか。
結局、予期したいた事が理研のSTAP細胞問題として起きたわけです。
文系利権が存在するせいで文系学問も存在し文系の存在が文系のみならず理系に悪影響を及ぼし日本を潰すのです。
自然科学的な事実は、文系=無価値です。なのに大和博士や笹井博士が、芸術にひたるからではありませんか。そういう理系リアリズムに完結できない科学思考に陥る似非理系を増やさないためにも文系価値を公式否定してやるのが非科学民族用の教育政策に思います。
文系を廃止するのが日本再生になると思いますがご教示よろしくお願い致します。

A 回答 (4件)

理系と文系があって世の中が回ると思います。


ただ、日本の社会は理系の業績に対して評価が低いです。
陽があたっているのは一部の最先端の研究だけです。
地道な研究が大きく評価されることはありません。

小保方氏は理系でも文系D目尾ないように思います。
しいて言うと「プレゼン系」です。
実験したりExcelで結果をまとめたりしている時間よりも、
パワーポイントを使っている時間の方が長いのだろうと思います。
そうやって大学に入ったのでしょう。卒論もそうでしょう。
理研の面接もそうでしょう。そして、今回の論文もそうです。
画像は単なるイメージの補助としか考えてないのです。

この回答への補足

ありがとうございます。
低いのではなくてレンホーという女政治家を脅しあげても官僚の足の裏ナメナメする理事長だからですよ。そういう文系官僚の御用権威を支持してんのが理系なのに、理系が評価されないというのは厳しく言うと責任転嫁ではないかと。

リケンの野依博士はリケイの(政治的)権威者ですよね?(日本中の理系に対して上から目線は有名です。しかし文系官僚には……ソ連軍は大熊でも党には子猫みたいな)。

野依理事長は最初の会見に出てきて何と言いましたか。
(コピペなどに対して)

「カルチャーが変わった」

↑唖然はこっちだよ。化学の権威は、文系評論家か???
カルチャーと言えば、「培養」のはずですが。この大政治化け学者は、「カルチャー」とかぬかしておりました。

大和博士も笹井博士も同じカルチャークラブなわけです。そこに文科系の親子鷹が現れて理研のアイドルです。
プレゼンなんか、うぜえ、肝心なところは説明されてないんだよ、が理系やリケジョです。
しかし肝心なところがない幽霊学問も否定されずに社会的実在であるわけです。それは文系学問です。文系学問に事実などありません。プレゼン=文系学問なのです。

私の質問は文系が否定され存在しなければ理系は悪影響されずこうした日本破壊をせずに済むという結論を提案する質問です。小説や経済は趣味でやれです。実態の証明なんかありませんよ。
理研は小保方博士が傷を付けたのではなくて縁故採用カッシーナの内部から腐っていたところに最強女子力を置いたからパンチラ番組になったのです。安泰です、何も腐敗は変わらず、科学は再生しません、文系官僚とカルチャーを否定しなければ。
STAP論文叩きの最右翼のリケジョは大隅典子先生ですが、結局心理学方面に手を染めているようです、理系のサラブレッドなのにです、心理学なんて虚学が公認されてる悪影響です。そういうのはとどのつまりカッシーナの方向性です。単純に心理学一つでも廃止されたらそういう間違いをおかす自然科学者が減ります。問題は今回もですが広義の脳科学方面は予算を多く取っているようですが変わらないのです。つまり心理学や脳科学がなければ科学も税金も日本も救われるのです。
他でもない文系の価値観がそれら有害学問を肯定しているのだと思いますが。
ご回答ありがとうございます。

補足日時:2014/04/20 16:53
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 結論に至る過程と論理を提示できないのであれば、それは文系・理系との区別よりも学問に携わるセンスすらない者の目立ちたがりとしかいえませんね。


 何としても、僕はあの女の物欲しげな表情が大嫌いです。下品そのもので学問に携わる者とは思えません。同じ女性として領域は異なりますが、ドイツのメルケル首相は原子物理学の研究者としても知られています。実直な表情からは政治と学問それぞれに携わる者が持つべき責任のあり方を自覚している様子を見て取ることもできます。
 文系不要論をお持ちになることは自由ですが、余りに度が過ぎますと削除されかねませのでご忠告申し上げもします。
 山中先生は「科学に携わる者の責任と自覚」をキチンと受け止めていますが、小保方及び笹井にはそれがありません。ただ「研究したい、研究したい!」と自分の願望だけをまくし立てているなら、留学したい!と絶叫するだけの女子中高生と同じです。それによって「何を得ることができるのか」をキチンと説明できなければ、オモチャが欲しいと泣きわめくガキンチョと同じで迷惑なだけです。
 この質問文の中でも「文系」の具体的な概念規定がなされてない上に、官僚と文系学問領域の関係すらも曖昧に濁したままです。これでは説得力もないでしょう。
 少なくとも、全てを「文系イコール官僚」と断ずるにも無理があります。むしろ病巣の本質は「理系に行けば将来は安泰で金儲けができる」とのそれこそ宗教にも近い畏怖と憧憬意識でしょうね。
 理系に行って、貧困層でカツカツの生活を営んでいるとの学生が増えれば、ようやく世間も目を覚ますことでしょうに。

この回答への補足

サッチャーが化学者なんです。
社会主義は非科学です。
日本は科学の振りした非科学(官僚制社会主義)です、科学的に観察すれば。理研は小保方博士が来る前から不正たくさんの組織であり来てから彼女とは関係なく非科学さを加速させたのです。脳科学なんてインチキですが、不正を指摘したら去年首になって今はロンドン大学教授がネイチャーのライバル「サイエンス」に理研の不正を指摘する投稿をしているのでしょう。つまり小保方さんではなくて非難されない利根川さんの方の素顔なのでは。脳科学者なんて元からインチキなんだからインチキ業界の人でも指摘したくなるインチキはスタップ並にトンデモのはずです。その論文名をしりたいです。つまり理研の論文、理研の公費研究とは、インチキだという。公平に批判されないと小姑ババアのイジメでしかなくなり理研はさらに大きなテラトーマに育つ手伝いをするばかりです。つまり、小保方だけ叩きは、正当化できないという事です。むしろおとりになっている彼女以外を目標しなければ天下り文系の天国です。その目的ですか。
回答者さんには他の目標を紹介して頂きたいです。広報室長が文科省から記者会見って何よ?文系官僚が支配しています会見じゃないか?小保方さんなんて社会問題でも何でもない。

ご回答ありがとうございます。

補足日時:2014/04/20 17:09
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文系だろうが、理系だろうが、ねつ造したのだから、そんなことをやっちゃいけないことぐらい、子供でもわかること。


単に「理性」が無いだけ。

そんなに難しい問題じゃ無い、日本人なんて単細胞なのだから。

この回答への補足

文系は事実の学問ではありませんよ。私の質問はその文系の有害性を認めたら、簡単だろ、なのです。それを(理系までも)難しく議論するのは文系の影響ですよ。最初の回答者さんのイメージを伝えればいいというのが文系根性なのです←だから文系的にはスタップは捏造じゃない(悪意はない)になるんです。例えば発達精神心理学をどう証明できますか。それなのにぜんぶ成立しています。理研がΩ真理教という文系原理だからです。
おっしゃる正論が正論だけで通用する社会なら追試も科学的批判も要らない美しい世界宗教世界です。国の研究不正防止会議のメンバーが不正してるんだから。
文系がなくなったら研究も日本も再生しますよ。今は文系がいるから再生するのに再生しないのです。原因は文系教会による非科学的なカルチャーです。例えば心理学や文学や歴史学が普遍的な科学ですか。進化論を主観で議論する動物学だってまるで科学的とは言いがたいという理性的な時代に、文系なんて壁画がどう美しいとかの未開人です。
本論はどっちの主体が悪いとかではなくて文系が無ければ良いだけ、文系癒着と決別をしないままの社会で、他の理念的な防止努力などさらなる無駄使いではです。天下り文系によるカッシーナ問題なのです。再生医療の夢を追う理系研究にはカッシーナバーカウンターも野依理事長のカルチャー論も、無価値です。予算消化で理系器械を買うことさえ出来ない文系だったのです。
ご回答ありがとうございます。

補足日時:2014/04/21 10:24
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 何か質問の前提として、「理系>文系」との近視眼的な断定が見られる印象を受けました。


成果そのものすら同一俎上で比較検討できようはずもありません。また同時に研究とそれに対する運営も同じく同一レベルで比較されるべき性質の問題ではないでしょう。
 アートに造詣があるといっても、それは個人の問題であってそれを公的立場と同一視するのはいささか論点が異なるように考えもします。
 一つ確認しておきたいこととして、質問者様が区分する「文系」にはどの領域が含まれるのでしょう。少なくとも社会科学ならば、政治学や経済学、社会学や歴史学までそのカテゴリーに分類されもし、現在では心理学や言語学もそこに含まれてきます。
 そうした「科学」と対置されるのが「人文学」ですが、これとて英語ならば“Human Science”との訳語になります。なぜでしょう。「扱う対象」が人間だからです。
 そしてこれら「科学」と「人文学」に共通するのが「哲学」であることも明確です。哲学が主領域として扱うのが「認識論」だからですよね?。哲学は全ての学問の前提でもある。
 欧米の大学では「歴史学」を専門とする「歴史学部」が独立した学部であることも珍しくはありません。そこで「研究方法」として緩用されるのは専ら政治学やら経済学といった社会科学の領域で確立された幾つものスタイルだからです。なぜそれらを「方法論として緩用するのか」といえば、歴史学が対象とするのは「人間の足跡」を通して観た「人間と社会の関係」であって、個別の研究方法論は史料学や図像学として「材料を料理するための具体的な手段」として区分もされます。
 現在の日本で「理系に属する人間」の殆どに共通しているのは、実験や受験勉強のスコアは良くとも、それが単に学校に入るための手段にしか過ぎないことを理解できていない部分に特徴的に現れてもいて、こうした現象に対し大学教員側も企業も危機感を持っていることだけはまちがいありません。「その実験は何のためにやっているの?」と尋ねてもキョトンとした顔で「何を言われているのかわからない」と逆に質問してくる始末です。
 そうした時に理系の教員が学生に対して掛ける言葉は「単位が欲しいだけならば差し上げます。けれども今の質問に答を出せないならば、次回からは研究室に来る必要はありませんよ」とやんわりと引導も渡します。
 企業ならばもっと直裁的で「明日から出勤しないでもいいよ」となります。自分のやっていることに自分で答や説明もできないならば、それは自分の内側だけで問題に解答を与えていると勘違いしているにしかすぎません。

 もし1945年のあの時点で仁科芳雄が研究を続けていたならどうなったでしょう。日本が大量破壊兵器を有し、その結果として何を想像できるか。悪魔の研究にのめり込んでいった仁科にはそれが解ろうはずもありません。
 アラモアナでの実験を観たオッペンハイマーが自らの手を悪魔に委ねたと悔悟したこと話も有名です。自らは物理実験のつもりだったが、実際には実験の意味を遙かに超えたものだったとの悔悟です。
 理研も小保方もそうした部分には全く触れもせず、これは人類にとって掛け替えのない福音であると豪語したはよいが、それをどう使うかとの問題にまで視線を送ってもいません。彼等は「実験結果」を出すことで、全てを可決させうるとでも誤解していた。
 「実験結果」が実験者の手を離れた瞬間から独り歩きを始めることにすら気付いてもいないから、質問者様が再三にわたって指摘されているベンチャー企業の株価が高騰したとの部分にも気付いてもいないとの結論を導き出すこともできます。
 余りにも皮相的に「文系学問」を断罪するのは如何なものかと感じてきました。冷静になって問題の所在を整理し直してみてはどうですか?。

【補足】
今から100年前の1914年、夏目漱石が新聞連載小説で『こころ』を発表しました。一般的な印象からすれば漱石は作家ですが、実際の漱石は創作作家というよりも、文明時評を含む言論人の側面を色濃く打ち出してもいます。
 自身は幕末から維新の変動の真っ只中に生まれもし、そして新政府の下で新たな近代国家を構築するために必要な「教育や学校制度のあり方」を調査する目的で渡英し、そこで日本と彼の地での「国家と個人」「人間と社会」「学問と国家」それぞれ本質的な違いを肌身で感じることともなりました。
 彼が帰国後に交流を持っていたのは作家だけではなく、寺田寅彦や医師としての森鷗外でもあったことも知られています。
 もし彼が文学のみの世界にとらわれていたなら、数々の講演や社会評論を残すこともできなかったはずです。彼がそれをなし得たのは、社会との距離感を常に保っていたからともいえ、こうした「距離感」を持てないのが日本の理系の特徴であり彼等の限界ともいえます。二三の例外もありますが、理系だけにこの国を任せてはアブナイ方向に行っても軌道修正することができないとの危惧も多分にあります。
 

この回答への補足

分かりますし私の勉強にもなっています。私は仁科に興味がないので知りませんが文系思想に悪影響されたのではというのが私の質問です。貴方の小保方さん指摘は(笑)私には十分伝わっていますからその名前ではない名前でお願い致します。乱暴に言うと私には彼女はリケジョであっても文系の研究者なのです。小保方さんが文系の研究者なら袋叩きにあっていましたかね?ですから応化の学生であったにせよ(親子鷹の影響が勝り)文系であった彼女の理系との交差点では(おそらくネイチャーの本音であろう、利益相反問題に象徴される)女子医大になります。工学医学融合次世代研究という宮俊一学長の文系言葉遊びな企画の中に文系型研究者が活躍する隙間が生じていたのです。文系政治家や文系官僚との話がなければこんな冒険はしません、なぜなら中身がないからです、理念先にありは文系です。
この質問は誰が悪いか論ではありません。文系教員は文系を廃絶して理系の教員になればいいのです。例えば東大理学部博士の文系教授なら簡単でしょう。それが簡単でなければ文系研究者とは小保方さん以下の博士論文です。
要するに、回答者さんみたいに、科学性にこだわりがあるなら、最初から理系に行けばいいし、文系に留まるならば文系の上に対してガマンならなくなるはずなのです。小保方さんは仮想の細胞に関する現象論なのだからそんなバイオの議論よりも先にその何倍も文系論文に対して頭に来ないようでは矛盾します。間違えまくっている方が頭良い人になっているゾーンがありますよね、貴方はどっちの味方か。貴方や貴方が全ての会員の目にも明らかなゴマ擦りされる教授らが身を置く文系は虚構と間違いだらけなのだから、細胞生物学にご関心がなければ小保方叩きをしなくていいです、文系の間違い教授の放置こそ文系の恥です。恥を放置どころか応援されていませんか。
文系の中で科学を実現したがるのはスタップ現象実現より無謀であり、小保方論文よりも非現実論なのです。
文系が存在していなければ貴方が文系に騙されることもなく今頃、理系で活躍されていましたよ。そういう話です。文系は宗教しかないのです。しかないのです。社会科学の幻想も宗教です。科学は自然科学の事なのです。自然科学を文学しないのと同じ。村社会でない海外は日本の例にならない。なったらコンタミ。
ともかく生データの削除が一番非科学者の証拠になりますから宜しくお願い致します。
ご回答ありがとうございます。

補足日時:2014/04/21 12:20
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この回答へのお礼

私が文系の敵に見えるならそれは観察者側の心理学問題です。
私は、村社会病の日本において、近代的学校制度として、

理系>0>文系

という指摘ですからね。
助成金も官職名乗りも求めないなら私塾で歴史・経済・文学を教えればいいのです。文系は上記になるのです。

要するに回答者さんは文系があったから文系に行きたくなっただけなのです。工学部卒で歴史や文学をしている人はたくさんいます。求めているのが官職や公的名声でなければ。自然科学のノーベル賞で威張りこいてるのは理研の理事長と理研の脳科学ぐらいでしょう。山中先生は先端競争と謙虚さを両立させる天才だし。スチュワーデスもカッシーナもバーカウンターもアートも理系型の理系にとっては無価値です。最初の回答者さんの指摘ではないがイメージ映像の映画作りならば文系に行けです。文系が職人気質的な日本の理系を色物に変えてきているのです。責任者であるのに野依理事長は文系評論家みたく、カルチャーが変わりましたな、とか。培養ではない文系のカルチャーとか言い出す理系人が文系に変わったのです。これは文系のインチキに酔う程度の理系がいるという事実ですから悪さで言えば理系<文系になります。野依さんは最初から政治的な受賞ですが山中先生は騙されない理系です。脳科学とか始めたら疑問符に変わりますが。脳科学は趣味か詐欺であり(あの研究姿勢では)自然科学にはならないのです。
回答者さんは経済なんだからセルシードや利益相反や会計検査院(早稲田)などを頼みますよ。小保方批判は最低でも那須優子さんぐらいの理科的興味があってからの優先順位です。
結局、文系の割烹着祭りを理系が否定し、手のひら返した文系が理系の知力を借りて理系叩きという、ぜんぜん文系叩きがありません。これは文系が文系を叩かないからでは。貴方のインサイダーなどのご指摘の宛先は理系ではなくそれをしない役立たす文系です。
いつもご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/21 13:03

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