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私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか?

ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか?
ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。

ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。
また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。

つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。
それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

ブッダは偶像を否定したと普通に言われますが微妙に違うと


想うのです。ブッダが否定したのは規範であり教条なのです。
何よりも現実に立脚して人類の苦難を減らそうというのがブッダ。

したがって場所や人々によりブッダの言説は違うのです。
何事かを覚えたらブッダに近づけるというのでは無い。
ブッダが弟子を取らず教徒を増やさなかった根本理由。

生まれや身分や貧富や人種にこだわらず幸福になろうと
自らを導く姿勢の相互認証がブッダの悟り。

輪廻転生を肯定も否定もせず、こだわらずに現実を見るという事。

たとえば、刀で人殺しは奨励出来ないけどソードアートオンライン
による幸福は在る。現代の現実に立脚する点でブッダの教えと同じ。
リアル少女のぺろぺろは罪だが二次元少女のぺろぺろ幸福は在り。

現実に立脚し相互に多数の人々が幸福に進める姿勢がブッダ。
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ブッダの教えは宗教では無い。

という基本を忘れている人達が多すぎるのです。
本来の教えによる宗教教義は当初から存在しません。
ですから直接教えを受けた人達は経典を残しませんでした。

ブッダの教えが記されたのは死後百数十年後であり経典の無い教えがブッダ。
当初記されたのは生前のブッダ問答集と解釈、今でいう現代語訳見たいなもの。
ブッダの教えに言う悟りとは、永遠の判断基準は存在しない。という意味なのだ。

無数の宗教や思想家が永遠の判断基準を求め、ある者は一生を費やしあるある者は
我こそが唯一の判断基準であると主張していた当時の社会。それらの軋轢が社会
を阻害し統治者を縛り民衆に苦難をしいていた。

ブッダもまた永遠の判断基準、つまり悟りを求め思考を続けた・・・
悟りに至らず中断し、水と食事を得た時にひらめいた考えーーーー
この世界全体は休まず変化を続けるのであり永続する万物は無い。

当然、永遠の判断基準は無い、ブッダが悟りに意味が無い事を悟った瞬間。
神の存在を肯定する意味も否定する意味も無い・・・
輪廻転生の肯定も否定も意味は無い・・・

人は出来得る範囲において苦しみ消滅に望ましいと考えた事を成せば良い。
それがブッダの教えなのだ。
教えを宗教ととらえ教義により正誤善悪を決めつける時点でブッダの否定。

永遠の判断基準は無い、だから自分を正しいと信じても永続性は無いのだ。
自分の行動は必要範囲に抑え悪影響を減じて人類の苦難を減らして行こうと
いうのがブッダの教えなのだ。

現実条件に対する最適解と信じても行動はほどほどに、というのがブッダ。
神々は無数にあり判断基準も無数にあるから行動はほどほどにが神道、
ブッダと神道による行動は同じように成るので日本人に深い共感が在るのだ。

これは宗教観では無くて行動観と言える共通感覚と想う。
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この回答へのお礼

大変わかりやすい解説をありごあとうございます。

確かにブッダの教えは宗教ではありませんよね。
宗教でないものを宗教化しまったところに難解さがあるように感じます。

ブッダは説法の名手であった!と聞いています。
つまりその教えはすべて口語によるものであった。しかし口語によるものを文語に置き変えたことによって、さまざまな解釈が生じ、かえって理解しがたいものになってしまった!と言うことでしょうか!
説法の名手であったと言うことは、特に高等教育を受けた人間でなくても完全に理解することができたはずです。つまりそれだけシンプルでわかりやすいものであった!に違いないと思います。

身近な話になりますが、講演とかミーティングとかを行った直後に議事録を作成することがあります。つまり口語を文語にする作業です。しかしその文語では、何となくニュアンスがしっくりこなくて、本来の意味が伝えきれないのではと感じることがあります。その原因は文語を読むだけではその言葉がどのような状況下で発せられたかまでは伝わらないからです。

さらにその言葉を別の国の言語に翻訳しようとすると、文化や習慣の相違によりどんぴしゃり!の適切な語彙がない事が多々あります。その結果、それが思いもよらぬ方向に解釈され、どんどん一人歩きしていきます。ブッダの教えの伝承にも同じことが言えるのではないでしょうか!

例えば、輪廻転生についても、専門家によって様々な説がある? というのが、その証拠かと思います。

お礼日時:2014/07/06 15:50

Wikipedia からの引用ですが,


「霊魂」の項の「初期仏教」では,
「ブッダが説いた初期仏教での「無我」は「霊魂がない」と解するのではなく「非我」の訳語が示すように、「真実の我ではない」と解すべきもの(自他平等の境地を目指した思想)である、ともされている。 俗に言われる霊魂とは全く異なる。」
と書かれています。

同じく,「輪廻」の項の「仏教における輪廻」には,
「仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。」
との記載されています。
これらは,調査の参考になるのではないでしょうか。

しかし一方で,今日,特に東アジアの仏教徒は,「不滅の魂の転生」を信じているという実態があります。
先祖崇拝や死後の地獄の責め苦を信じていることは,その証左といえます。

それで,これらを考え合わせると,
(1)仏教の基本的な考え方は,ヒンズー教の「業(カルマ)」や「輪廻(サンサーラ)」の教えを受け継いでいる。
(2)初期の仏教では,不滅の魂を否定しているなどの点で,ヒンズー教と異なっている。
と考えられるのではないでしょうか。

(シンプルな考え)
もし,輪廻転生という考えが「人間の生命,苦しみ,欲望,死というものの解決」を追及しているとすれば,因果の道理に照らして,解決策を知るには,それらの問題の「原因」を知ることが必要です。
原因を知ることなくして,対策や解決のための思索といっても,複雑・不明瞭になるばかりのように感じます。
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こんにちは。

また失礼します。
 こういう、質問の回答を読むとき私が思うのは、仏教における経論釈の論拠やその解釈をした著作がなかなか示された回答がなかなか出されないということです。
 今出されている回答を読むと、仏教一般書籍における解釈や、仏教の中でも釈尊在世の時代を考察したものではなく後に派生していく中観学派や唯識学派等の解釈、または釈尊を現代合理主義科学主義の代表者のように扱った仏教学最初期の海外研究をそのまま受け取ってしまった日本仏教学の解釈、または仏教という土俵にささえ乗る気のない解釈解釈ばかりのような気がします。
 今回の質問のような仏教思想内部の問題に関して言えば、根本的には経論釈によるべきですし、現代の仏教学の研究成果等も知っておく必要があると思いますが、それがなかなか回答されないのは残念に思います。
  
>>私がどうしてもわからないのが「輪廻転生」です。「輪廻転生」とはどのようなことを言うのでしょうか?
>>ブッダの生きた時代はバラモン教が主流であり「輪廻転生」は当たり前の概念だそうですが、ブッダは「輪廻転生」について何か述べたのでしょうか? 述べなかったでしょうか?
>>ある本には、悟りを開いて「輪廻転生」のループから脱するのがブッダの教えであるとも書いてあります。普通、日本で「輪廻転生」と言うと、肉体と魂は別々で、肉体は滅びても、魂はまた別の肉体で生まれ変わるというような事ですよね。
 この問題に関しては二つの書籍、論文を紹介します。まず最初に述べたか?述べなかった?に関しては、

並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版

の中の、第三章原始仏教にみられる輪廻思想に釈尊は輪廻の思想に対して、その表現はあるものの「消極的」であり、輪廻よりも「現世に力点を置く」解釈であったと述べられています。
 しかしこれに対して、

松尾宣昭『仏教と「輪廻」の概念 : 並川孝儀氏の所論をめぐって』
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007059892

のなかで、並川先生の説の論証方法には難があり、釈尊は輪廻についても述べていると指摘しています。

>>ブッダは人間が生まれ変わるというようなことや、魂と霊魂とか・・・は、しょせん事実関係が証明できないことだから、そのままにしておきなさい!と教えています。
 これは、釈尊の「無記」という事についての質問なわけですが、釈尊の無記、そしてその無記の解釈については

金龍煥『仏陀と形而上学 : 無記説に対する諸解釈を中心に』
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002932944

に、仏教がヨーロッパ圏に輸入されてから始まる仏教研究の歴史の中でも「無記」についての大まかな流れがつかめます。結論については、もう少し検討の余地がありますが大きく見ていくという点ではよいと思います。

>>また、自分と言うものに実体はない?と言うことも述べています。自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。
>>つまり「輪廻転生」とブッダの教えはどう考えても容認し合えない思想かと思います。
>>それとも、バラモン教の「輪廻転生」とブッダの「輪廻転生」は全然別物なのでしょうか?
 この質問者が言うような「無我説を根拠として釈尊が輪廻を説かなかったという説」を提出した代表的な書籍は

和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(『和辻哲郎全集第五巻』)岩波書店

です。しかし、この本が出版されたのは昭和四年であり、今から八十五年前の書籍です。もちろん私も和辻先生の書籍からも影響を受けた一人ですが、現在の新しい発見や文献解釈、新しい言語学的な研究成果とは隔たりがあるのは否めません。
 この和辻先生の輪廻解釈については、

松尾宣昭『輪廻転生」考(一) : 和辻哲郎の輪廻批判』
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007172137
    『輪廻転生」は「諸法無我」と矛盾するか』
http://ci.nii.ac.jp/naid/40015439061

の二つの論文で、批判と再検討が加えられています。

 また、全体的な問題としてよく取りまとめられているものとしては

森章司『死後・輪廻はあるか-「無記」「十二縁起」「無我」の再考-」
http://www.sakya-muni.jp/fieldwork/3-1212/
がります。

 上述のものはネット上で読めるものと読めないものがありますが、読めないものはどうぞ取り寄せて読んでみてください。

 今回は時間がなく取りまとめる時間がありませんでしたので、私の仏教における輪廻に関する考え方を形成した書籍の達を紹介するだけにさせていただきます。申し訳ないです。たぶん、読んでいただければ今お考えの疑問は解消されると思います 急ごしらえのため誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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 あるお坊さんから学んだ事に由ると、地上の芝草とその根、に例えられるようです。



 地上に生える芝草は年々枯れて生滅するけれど、その地下の根は生き続け毎年新たに芽を出すように、人間も死んで消滅するけれど「阿頼耶」の心は滅せずに“外縁”に触れて新たな命が誕生するらしいです。

 阿頼耶の心は植物の種のようなもので、人間の心では善悪と云った「業」を含蔵して居ると云う。
 その阿頼耶の心が外縁に触れて「末那」が現れると(発芽)、阿頼耶を“我、吾れ”と分別(意識)するのだと云います。

 ☆ 表面上の“我れ”は消滅するけれどその種(阿頼耶)は「常恒流転」即ち輪廻転生するらしい。
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 こんにちは。



 過去にわたしたちとそれぞれ同じ DNA を持つ人がいたとしたら 哲学として真剣に考えることにしましょう。
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さて、ご回答に値するかどうか・・・



これは仏陀の教えから、という前提でお読みください。

仏陀は『諸行無常』『一切行苦』『諸法無我』を説きました。
全ては無常である。全ては流転しとどまることは無い。自分すらも世界と共にただ無常を繰り返す。無常とは変化である。変化するから知覚する。知覚することそのものが存在である。
ところが人間は記憶に縛られる。その記憶が自我を形成する。自分はあると思い込んでしまう。その自分は決して変化することの無い永久不滅のものと勘違いする。変化しない筈の自分が変化し続ける世界(現象世界)の支配を目論見、自分の思うとおりの人生を歩もうとして苦しむ。

・・・とまあ、こんな感じでしょうか。

そこで輪廻転生についてですが、ここからは仏陀の教えで人生が少し変わった私自身の受け止めも入っています。
つまり、仏陀は人間を霊魂と肉体の合わさったものではなく、「カルマ(業)」によってニルヴァーナに至る必要のある存在と捉えていたのでしょう。
人間は一人では生きられないし、生きているだけでたとえ僅かでも変化し続ける世界に何かの影響を与えています。動植物も川の流れも風も木々もそうです。生命はただ生きるために生きているのですが、それすらも因と果の連鎖です。
人間がやっかいなのは、発達し過ぎた脳みそにより、自分自身には永久不滅の「私」がいて、人生は思うとおりになると希望や願望ばかりを強め、そうならない人生でもがいています。つまりとても脆い存在です。だから永久不滅の「神」を創造し、あらゆる学問でこの世の中の真相を暴こうと苦行を重ねます。ところが人間よりも遥かに、いや想像を絶するほどに真実で構成されたこの現実の世界は、人間のそんな希望や願望などどこ吹く風で、無常(一瞬も留まることない変化)をただ繰り返しているだけです。
そこで仏陀は、自分自身の因縁もそのような無常の中にあるのですよ。その無常の世界を発見しなさい。
そして無常のままに自分自身もその真理のままに生きる存在なのですと悟りなさい、と言っています。

人間が自分自身の因縁と存在の本意となる無常たる存在であり、愛すらも煩悩と気づくこと、全てから開放され、いつか滅するその時まで生きるために生き、ありのままに成すべきことを成し終えれば、そこで煩悩を断ち切り、その結果として二度と再生することのないニルヴァーナへと至るのでしょう。
煩悩がある限り他者を傷つけ、悪のエネルギーが誰かに因縁となって響き続けます。
人間は肉体は滅びますが、何かの形で誰かの悪因縁となって、続く自分を原因とする負のエネルギー。
そのことを仏陀は「輪廻転生」と言ったのではないでしょうか?

ちなみに私は霊界も魂も神も悪魔も一切、信じていません。
というか、仏陀の悟りを少しでも学ぶと、それらは全て荒唐無稽であることが実感できます。
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この回答へのお礼

大変参考になりました。ありがとうござます。

「輪廻転生」については、様々な人が解説しているにもかかわらず、どれを読んでも不可解そのもので読めば読むほどそれまで完璧と思われたブッダ教えが、一体今までの論理は何だったのだろうか?と思うほどに崩壊したものでした。

仏教には、ブッダの教えとは思えない様々は思想が混入されており、大抵のものは自分の力でこれはブッダの教えでない!と簡単に排除することができたのですが、この「輪廻転生」にはお手上げ状態でした。

今回ご説明していただいたことで、何となくその解決の糸口に近づいたような気がします。

お礼日時:2014/06/28 15:45

「諸行無常、万物は形を変えて移り変わる」


 これは物質に関しては自然科学の成果とも矛盾しません。
 魂、つまりは精神の生まれ変わりに関しては仏陀が触れているかどうかは知りませんが、触れているとしたらおそらくフィクション的にだと思います。
 いろいろな移り変わりの中の一つの現れが現生の各人の精神、魂。ただそれが生まれ変わるような移り変わりをするかは現代でも語ろうとすればフィクションの域を出ないと思います。
 おそらく当時既存の定説となっていた輪廻転生という考えに対して、精神(魂)が生まれ変わるとまで結論せずに諸行無常という包括的な柔らかい表現で、精一杯わからないことを含まない形で正確に表現しようとしたのではないかと考えます。
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No.3最後の文の訂正と追加です:



もうひとつ注意すべき点は、仏教によればこの肉体と自我意識があったとしても「無我」なら、肉体がない自我意識があったとしても論理的には「無我」と判断してもよいはずです(よいの「い」がぬけていました)。つまり、しっかりと論理的に考えるなら、肉体がない自我意識のある存在、つまり霊魂でさえ、(永遠の実体ととらえなければ)仏教でいう「無我」と判断できるのです。
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生まれ変わりを認めても、霊魂をみとめない考え方はあります。


前世記憶をもった子供を調査した、かの有名なイアン=スティーヴンソン自身はそんな考えです。

イアン=スティーヴンソンによれば、肉体は別の肉体なんだけれど、記憶や人格は故人のものを引き継いでいる、、、
そういう現象があることが、綿密な調査の結果です。

>自分に実体がなく存在していないなら生まれ変わることもないはずです。

記憶や人格は故人のものを引き継いでいるということと、実体としての永続性があるかどうかは厳密には別問題です。

ただ、記憶や人格は故人のものを引き継いでいるなら、何らかの「継続」を意味するものであることは確かですね。

仏陀自身の考えについてはわかりませんが、仏教の無我と、記憶や人格は故人のものを引き継いでいる「生まれ変わり」現象とは、相容れないものではないことは以上から納得できることではないでしょうか。

もうひとつ注意すべき点は、仏教によればこの肉体と自我意識があったとしても「無我」なら、肉体がない自我意識があったとしても論理的には「無我」と判断してもよはずです。
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