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日本人はいつから一週間単位で労働したり休んだりするようになったんでしょうか?

これってキリスト教?ユダヤ教?の慣習ですよね?

その前はどうしていたのでしょうか?

A 回答 (6件)

そんな概念が導入されたのは明治以降でしょう。

それ以前は勤め人事態ほとんどいませんでしたから、庶民は関係がありません。勤め人というのは要するに幕府や大名の家臣や側用人のことで、基本的に何処も数が多すぎてもてあましているくらいでしたから、特別な時を除いて交替で休みを取っていたのでしょう。
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この回答へのお礼

さっそくの回答ありがとうございます

なんでこんな概念が導入されたんでしょうかね?あんまり意味が無いと思うのですが

お礼日時:2014/07/19 11:38

> 日本人はいつから一週間単位で労働したり休んだりするようになったんでしょうか?



明治になってから。欧米との交易で不便を感じたから欧米に合わせた。

> その前はどうしていたのでしょうか?

Wikiでは「休日という概念自体が存在せず、盆や正月、祭礼の日などだけに仕事を休んでいた。」と言っている。
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>日本人はいつから一週間単位で労働したり休んだりするようになったんでしょうか?


明治政府が明治5年の旧暦(太陰暦)12月2日の翌日を新暦(太陽暦)の明治6年1月1日と改めたときからです。

>これってキリスト教?ユダヤ教?の慣習ですよね?
現在の日値曜日を休日としたのはキリスト教、ユダヤ教共通の習慣です。
イスラム教では、現在の金曜日が休日です。
いずれにせよ、一週間単位で日にちを区切るのは共通しています。
日本では単に休日とだけ捉えられていますが、敬虔なキリスト教徒やユダヤ教徒、イスラム教徒にとっては安息日とされて、教会へお参りに行く日です。
教会へ礼拝に行くためには仕事を休む必要があるだけのことでした。
現在のアメリカでも、口うるさい年寄りが、若者に教会へ行けと小言を言います。

キリスト教国でもないのに何故?というのは大きき分けて二つの理由が考えられます。
一つは、あらゆる技術、学問の先生として、キリスト教圏の人達を国家の費用で招聘していました。
この人達が、日曜日に休んだり教会へ行きました。
生徒も仕方がないのでお休みということになりました。
もう一つは、何でもかんでも西欧風の習慣を取り入れてた時期ですから、週間単位で生活するリズムを取り入れました。
もし、このときにイスラム教圏から文化や技術、学問を学んでいれば金曜日が休日となっていたでしょう。

>その前はどうしていたのでしょうか?
日にちを一週間単位で考える習慣がありませんでした。
精々二十四節季と呼ばれる、一年を二十四等分した考え方があっただけです。
今でも、立春、春分、夏至、立秋、秋分、冬至、大寒などと名前が残って使われています。
この基本的な考え方は農作業の目安です。
農作物という植物相手の仕事ですから、人間の都合で手を抜くという訳にはいきませんから、一週間単位での休みなどいものはありませんでした。
精々農作業のない、大寒から立春の間に新年のお祝いとかいって休みました。
後は、農作業が一段落した夏のお盆に休みました。
まぁ~一年中働いていたと思ってください。
ただし晴耕雨読と言われるように、天気次第では、何もやることが無い日が沢山ありました。
江戸時代のお侍さんでお城勉めがある人は月に数回当番の日にお城へ出掛けていました。
TVの時代劇によく出てくる八丁堀の捕り物のお侍は、ひと月置きに外回りをして、外回りがない月は、お奉行所で書類整理などしていました。
江戸時代に下役のお侍の中で一番忙しかったのはこの人達でした。
偉い人は毎日セッセとお城の中で仕事をしていました。
ということで、全国的に皆が同じサイクルで休むというような習慣はありませんでした。

日本だけ日曜日だろうが土曜日だろうが働けばいいではないか、というのは高度成長期のサラリーマンがやっていました。
今のように労働時間がどうのということをお互いに喧しく言いませんでした。
文字通り、夜討ち朝駆け休日出勤の毎日でした。
やがて、世界中から嫌われてWorkaholic=仕事中毒と言われました。
日本人はウサギ小屋に住むワーカーホリックだ、と言われました。
日本のサラリーマンは自嘲的に、オレの家はうさぎ小屋といっていました。
1973年以降オイルショックで不景気になったころから労働時間がどうのこうの、他の国なみに休もうということになって現在の姿になりました。
ご希望とあれば、一年中働いてください。誰も止めません。
但し、働かされたと言うと問題が起きますので、あくまでも自主的に働いていると言ってください。
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七曜が日本に入ってきたのは、意外と古くて平安時期だったと思います。

ただ日本では六曜が主に使われていたので、一般の人が七曜を使用しだしたのは、明治以降です。

七曜でお役所などが動くと、他の人たちもそれに合わせることになるでしょう。
ただ、一週間単位で休みを取るのは、仕事柄などもありますが、農業など生き物相手は基本的に休みなしですし、曜日とは関係ないローテーションで仕事をしている人も多く居ます。

江戸時代は、基本的に毎日仕事、と聞いたことがあります。
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#4さんの言うとおり七曜は平安時代には日本に伝わっていましたよ。

ただ庶民が使うのではなく仏教の僧侶とかが細々と伝えていたに過ぎません。
明治になってヨーロッパ経由で七曜が再輸入されたとき,約1000年の間に1日のずれもなく曜日が一致していたのはちょっと感動ものです。
そして日本で日曜日が休日になったのは1876年(明治9年)3月12日です。この日に太政官が官吏に対して日曜休日,土曜半ドンを通達しました。特に明治改暦(太陰暦から太陽暦)とは関係がありません。それまでは1868年(明治元年)9月以来,太政官布告で毎月1と6のつく日(31日を除く)を休日と定めていました。
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>日本人はいつから一週間単位で労働したり休んだりするようになったんでしょうか?



明治9(1876)年3月12日太政官布達第27号に基づいて、官公庁の官吏・公吏の休暇が、
明治9年4月から土曜日正午十二時までと日曜日に定められたのが概ねの開始時期のようです。

また、下記の明治九・三・一八、東京曙新聞の記事によれば、
明治九年四月一日(土曜)・二日(日曜)の並びから、
日曜休暇よりも土曜半休暇の方が先に生じたようです。

なお、「改正借庫規則(明治2年1月19日付/明治2(1869)年3月1日改正)第15條」によれば、
税関事務取扱関連で「借庫を開くは日曜日及ひ普通の祭日祝日等を除く」と規定されていたり、
『明治事物起原/石井研堂/橋南堂/明41.1』によれば、
「明治五年五月より、兵学軍医の二寮、日曜日を休暇と定めしは、雇外国人等、
一六休暇にては不都合なりしより起れるとなるべく、…」とありますように、
「日曜日」が先行導入された部署や雇外国人も存在したようです。

〇『太政官日誌.明治9年1-6月/太政官/慶4-明9』
・太政官日誌明治九年第二十號
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787672/117
<117/275>(2頁)
○三月十二日
(第貳拾七號達書)輪郭附 院省使廳府縣
從前一六日休暇ノ處來ル四月ヨリ日曜日ヲ以テ休暇ト被定候條此旨相達候事
但土曜日ハ正午十二時ヨリ休暇タルヘキ事

〇『新聞集成明治編年史. 第二卷/新聞集成明治編年史編纂会編/林泉社/昭和15.11再版』
・明治九年三月(皇紀二五三六─西暦一八七六)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/275
<275/317>(500頁3段目)
○[一六日休日]を日曜日に變更〔三・一三、東京曙〕
…中略(内容は上記と同一)…
明治九年三月十二日 太政大臣 三條實美
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/276
<276/317>(502頁3段目)
○早速に休日研究〔三・一八、東京曙〕
來月よりは日曜日を休暇になし替へられ、土曜日は午後よりの休暇と御定めになりました。
早速四月一日は土曜日にて半休暇、二日は日曜日、三日は神武天皇の御祭日にて
都合二日半の休暇になるから、随分ゆつくり愉快な遊びが出來やうと、今から待つてをりますと、
或る官チヤンの御咄しなりとぞ。其頃は彼岸櫻は盛りなり、向島邊も段々咲くか知れませんから、
何所も彼所も嘸賑やかなことでござりませう。

〇『法令全書. 明治2年/内閣官報局/明20.10』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/311
<311/328>(18頁)
法令全書附録
[第三]
改正借庫規則 明治二年己巳正月十九日即一 千八百六十九年三月一日改正

第十五條 借庫を開くは日曜日及ひ普通の祭日祝日等を除くの外税關の事務を取扱ふ時間とす
     …以下省略…

〇『明治事物起原/石井研堂/橋南堂/明41.1』
「第六類 暦日歳時─日曜休暇の始」
<195/297>(337頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/195
日曜休暇の始 外人にだけ日曜
明治五年五月より、兵學軍醫の二寮、日曜日を休暇と定めしは、雇外国人等、
一六休暇にては不都合なりしより起れるとなるべく、…

>その前はどうしていたのでしょうか?

前記の「明治9(1876)年3月12日太政官布達第27号」に「從前一六日休暇」とありますように、
明治元年9月18日行政官「但以後一六ノ日休日ノ事」とか
明治2年8月7日太政官規則「但節朔一六休暇之事」などから、
江戸時代には毎月、一と六のつく日(一日・六日・十一日・十六日・二十一日・二十六日)が
休日・稽古日・会合日などにあてられることもあったことを踏襲してか、
明治初期には「一六日休暇」が採用されていたようです。

江戸時代に関しましては、全ての階層が「一六日休暇」だったわけではないでしょうが、
各々の職業・階層などに応じ、例えば農民などは村単位での休日の定めなどもありましたから、
一般人でも休暇の概念があったことは間違いなさそうです。
また、いきなり古に遡りますが、在京諸司など官人に限れば
『令義解 九 假寧』(※養老令注釈書、833年完成)では六日に一日の休暇が定められていた
様子で、『古事類苑.政治部6/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』の
「政治部十九上編 休假」(1144頁)の項目では、
「凡ソ在京諸司ハ、六日ゴトニ休假一日ヲ給フ、卽チ毎月六日、十二日、十八日、二十四日、
三十日 小盡ノ月ハ二十九日 ノ五箇日ニシテ、…」などと解説されています。

〇『法令全書. 慶応3年/内閣官報局/明20.10』
・明治元戊辰年九月
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787948/200
<200/383>(298・299頁)
○[第七百五十八※仮番号]九月十八日(行政官)
來二十一日休日ニテ無之二十二休日之事
但以後一六ノ日休日ノ事

※行政官…1868(明治元)年設置の行政機関。翌年、太政官に改組。

・『法令全書. 明治2年/内閣官報局/明20.10』
明治二己巳年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/184
<184/328>(294頁)
[第七百十六※仮番号]八月七日(太政官)
太政官規則
一 日々十字出仕二字退出之事
  但節朔一六休暇之事
…以下省略…

下記では、当時、正院(※太政官の最高官庁、1871年設置~1877年廃止)に対し
五省(海軍省・陸軍省・司法省・大蔵省・工部省)が揃って
「一六休暇」から「日曜休暇」への変更を積極的に上申した動きをみましても、
私ド素人の見立てに過ぎませんが、
当時は欧米からの技術導入に限らず、行政・法律等の制度面なども含め、
何でもかんでも欧米に倣う事が近代化への道の気風が蔓延っていたと
考えざる得ないようにも思います。

〇『海軍制度沿革. 巻5/海軍大臣官房/1939印刷』
・第二節 恒例休暇
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886708/109
<109/473>(187頁上・下段)
・恒例休暇ニ関スル沿革
明治二年八月七日節朔一六ノ日ヲ休暇ト定メ(太政官規則)六年一月七日
休暇ヲ定ムルニ至リ(太布二)書中休暇ヲ除クノ外休暇ヲ確定シ次デ
翌七年七月三日書中休暇ニ関スル令達アリ(太達八四)
祭日及祝日ノ公暇日ニ関シテハ第一篇皇室第三章祭祀ニ詳述シアルヲ以テ
同章ノ参照ヲ要ス(巻一、一九頁乃至二三頁)
明治五年十月十日海軍省ハ陸軍省ニ対シ当時毎月一六ノ日ヲ以テ休暇ト定メラレタルトコロ
右ニ代フルニ日曜日ヲ以テスルノ件ヲ両省連署ヲ以テ正院ニ上申方照会シ(海軍省内一五九八)
同月十三日両省ヨリ正院ヘ上申セシモ(海軍省内一六一二)容レラレズ
越エテ六年一月十二日山縣陸軍大輔ヨリ江藤司法卿並ニ井上大蔵、勝海軍及山尾工部ノ
三大輔宛五省連署ヲ以テ本件上申方照会スルトコロアリ
遂ニ九年三月十二日日曜日ヲ休暇ト定メラルルニ至レリ(太達二七)

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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