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 小説家の文章をふたつかかげます。

 これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。

 自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。




 なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。

 ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~
 神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。

 あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。

 こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。

 最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)

   我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非
  らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)
  れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は
  汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)

   (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)

 ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~
 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/si … 

 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。

 日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。
 神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。

 山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。

 いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。

 むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。

 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。

 (開高健への弔辞)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (15件中11~15件)

bragelonne様、こんばんは。




>「遠藤周作」

これでは、「人種差別」ですか


>「司馬遼太郎」

ふむ。


>「むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。

 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。
 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。
 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。」

・・・そこから抜け出た、ということを、評価したいんですが。
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >「遠藤周作」

 これでは、「人種差別」ですか
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そこは 文学――虚構作品――のずるがしこいところです。現実から離れるようであっても想像力を伸ばして  その表現世界をまづはたのしむ。といった行き方だと考えられます。

 いまでは 《言葉狩り》といった概念と実際があるようですが ほんとうは 言葉には罪はなくタブーはいっさいないというのが 自己表現の自由ではないかとも考えます。

 ただし 言わば待ったなしで 言葉によっていやな思いをする場合がありますから――それでも 心が傷つくことはあり得ないと考えていますが―― たとえ文学作品の中でであっても それらタブーなる言葉をつつしみ控えることもあります。


 ★ 「人種差別」
 ☆ だと指摘することも出来るのかも知れません。そう感じたという場合には それとして 現実のことですから。
 
 わづかに考えられることは それほど差別発言ではないかと疑われるようなきつい表現を用いても 何かうったえたいことがあった。という場合がなきにしもあらず。ではないかとも考えられます。

 肌の色の中で 白と黒とは それほど人間の内面の問題にはからめて言ってはいないのではないでしょうか。ただし 黄色については 《中庸》あるいは《あいまい・どっちつかず・事なかれ主義・・・・》といったいろんな内面における捉え方とからまってはいます。

 何らかの思想を表わそうとしたのではないかという受け取り方も 出来るのではないでしょうか?





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
   >「司馬遼太郎」
   ・・・
  〔* 《絶対》をめぐる思索・思弁を重ねてきたそのともかくの成果たるところの〕
   ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。

 ・・・そこから抜け出た、ということを、評価したいんですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。《哲学・思想あるいは神学》については 西欧のいとなみは 特に現代に向かうにつれてあまりよさそうには見えないところがあります。ハイデガーが ものの道理以上のことを語ったとは 思えないところがわたしにはあります。つまり 大したことはないのだという受け取りです。

 ただし 科学の分野では めざましいものがあるのではないでしょうか。
 それらを発見・発明しなかったら 世界はどうなっていたか? つまり どうなっていようと なかったとしてもよかったのだという見方もあると思います。と同時に 現代に生きるわれわれは いまではそれがなくては済まないようになっていると思います。


 ということで
 ★ そこ〔* 《絶対》学〕から抜け出た
 ☆ ということは おそらくこれら特には自然科学の発達の道筋としてあるというように思われます。

 そして もっと言えば――言いたいのですが―― じつはクリスチアニスムにおける神学そのものにあって 《神の自己揚棄》という主題もすでに得ていて これの発展がのぞまれる。こうも考えられるところがあります。

 キリスト・イエスの神は すでに自己をアウフヘーベンしたのだという見方です。じんるいにとって普遍的なひとつの神――名前はどうであれ――という高いところに自己(ヤハヱ―なりキリストなりという名の神)を揚げて すでにその自己を棄てた。こういう:
 ★ そこから つまり伝統の神学から――抜け出た ということを 評価したい
 ☆ ひとつの側面も じつはすでに出て来ている。

 こういった見方をわたしは持ちます。どうでしょう?


 * この神の自己揚棄といった観点を 初めから持たずずっと持たないままでいると 《じんるいにとって普遍的なひとつの神》といったわれわれにとって悲願である思想は得られなかったかも知れません。
 (《ひとつの神》ということは もう神のことを殊更語ったりおしえたりする必要がなくなるという意味です)。

 ふつうの日本人は 神はどれでもみな同じだという感覚は持ち合わせていると思いますが たとえば その神道であっても 国家神道はその感覚を阻みますし なかんづくブディズムとかいうあわれなシュウキョウは ブッダと神とは違うのだと 壊れたレコードみたいに言いつづけています。そうであるからには われわれはすくなからずこのモヤモヤワールドに洗脳されてしまって 何ら言う言葉を持たず為すすべをも持たない。といった状態と情況のまま 死んで行くことになる。

 いまから数十年あるいは一世紀ほどは いわゆるキリスト教および仏教のそれぞれの揚棄をわたしたちは 大きな課題として持つのではないでしょうか。シュウキョウは要りません。

お礼日時:2014/08/12 09:30

>それを批判しつつ 何らかのかたちで日本人についての理解を深めて行きたい。

こういう趣旨からのものです

すいません、前言の「カテ違い」の発言を撤回致します。

確かに此れを「哲学」とする方々は、一定数存在します。


ただ、環境に左右される条件の物を、不変的な法則に収めようとする思考を哲学とは私には受け止められません。

要は、「対手に勝ちたい」の理論なので、変動性を持っている訳ですから、ジャンルは違うのですよね。


しかしまぁ、其処で戯れたい方々とわざわざ喧嘩をする事も無いかと・・・

すいません、お邪魔しました。

此れで終わります。
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この回答へのお礼

 おっしゃっていることが よく分からないでいます。

 まづは ご回答をありがとうございます。
 
 つまり この質問じたいが
 ★ しかしまぁ、其処〔* 民族性の優劣を決めようとするかのような議論でしょうか〕で戯れたい方々とわざわざ喧嘩をする事も無いかと・・・
 ☆ ええっとですね。この質問は 最近の《好戦的な》と見える質問とは別ですよ。 

 対話の問題として 日本人の性質やら特徴やらが どう関係しているかといった問い求めとして出て来たものです。
 関係ないことはないと言われるかも知れませんが 出て来た筋としては 別です。


 ですから
 ★ 要は、「対手に勝ちたい」の理論なので、変動性を持っている訳ですから、ジャンルは違うのですよね。
 ☆ とも見方は違うと思うのですが。・・・



 ★ ただ、環境に左右される条件の物を、不変的な法則に収めようとする思考を哲学とは私には受け止められません。
 ☆ そうですか。遠藤もしくは司馬あるいは質問者のわたくしが 《不変的な法則》を持っているということですか。

 《普遍性》は求めますけれど。



 そうですか。仕方ないでしょうか。
 おつかれさまでした。

 

お礼日時:2014/08/11 17:42

日本人を他人種と区切って思考するのは、文化人類学などの分野です。



優劣を思考するのは勝手ですが、それは生物学の分野です。

唯のコンプレックスからの優劣論等に哲学の力はありません。

まぁ、其れを信じたいと言う事は、「優秀な人間であれば、幸せになれる」等と言う考えと同義なのですが、別に私は其れを否定して回るほどの暇人ではないと言うだけです。

スルメと天気予報のどちらが、より信号かという様なものです。


政治学・軍事学・統治学・法学・社会学等々の分野であれば、此のテーマを語るのも楽しいですが、カテが違います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 
 ★ 日本人を他人種と区切って思考するのは、文化人類学などの分野です。
 ☆ 《人種》ですか。まぁ この場合は 日本人とは何か? という主題のもとに 民族性というくらいの特徴を挙げて問い求めようとしているのだと考えます。
 
 それに もし文化人類学つまり民族学ですね であっても それをも哲学は 欲張りですから いともかんたんに自分の分野に取り込んで人間論や社会論として展開するものと考えるのですが。

 ★ 政治学・軍事学・統治学・法学・社会学等々の分野
 ☆ もすべて 哲学の主題としますよ。あるいは 哲学からそれらの学問が分かれて行っただけですから。細分化は 専門化のための都合でしかないと考えます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 優劣を思考するのは勝手ですが、それは生物学の分野です。

 唯のコンプレックスからの優劣論等に哲学の力はありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《優劣》を論じていると受け取られたのですね。しかも それも《コンプレックス》からの議論であると。



 もしかすると 自虐的な見方ではないかと疑われるということなのでしょうか?
 ならば むしろ小説の中からのひとつの日本人論を引っ張っておきましょう。

 このわれわれの社会では 人を腐らせる《日本の何か》があると言い これは《日本と申す泥沼》という言い方で 例の踏み絵の時代のことを描いています。

 ▲ (遠藤周作のひとつの日本人論) ~~~~~~~~~~

  ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの
   ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本
   と申す泥沼に敗れたのだ。

  ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。
   ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。

  ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん
   だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申
   したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言
   葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。

  ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。

 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。

  ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言
   った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが
   ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな
   らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて
   おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは 
   それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけでのものではな
   く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる
   とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲
   げてしまったのであろう。

 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。

  ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支
   丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では
   もう捕える気もない。

  ――なぜでございます――と通辞が聞くと

  ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ
   のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば
   なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。
   根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百
   姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても
   似つかぬものになっておる。

 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。

  ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知
   れぬものとなっていこう。

 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。

  ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。

 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。
 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。
    (遠藤週作:『沈黙』 IX)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたしは 遠藤のクリスチアニティにかんする信仰の姿勢を――ということは 信仰そのものではなくその説明書きを・つまりは思想としての見解を――嫌っていますが けっきょくこの《日本という・あるいは日本人という泥沼》について何も手をこまねいて傍観しているというわけではないはずです。

 いい思想を仕立て上げようとしてはいると思います。

 それを批判しつつ 何らかのかたちで日本人についての理解を深めて行きたい。こういう趣旨からのものです。

お礼日時:2014/08/11 15:56

哲学の皮を被った、イデオロギー



いや、まぁ、此れこそが哲学だと言うのであれば、それも人生ですが

この回答への補足

 そうですね。

 文学の範疇での多少とも哲学にかかわる――もしくは 日本人論にかかわる――議論を提供しているのではないかと思って取り上げたのですが。

 ひとつか二つの論点などをひろって 議論を展開するというわけにはまいりませんか?

 それと 回答No.1へのお礼欄にて 具体的に質問をふたつかかげました。それについても よろしかったら考えてみてください。



 思想は みな 志向性を有するかぎりで イデオロギーですよ。

 観念体系として体系化されているかどうかに違いがあるでしょうが けっきょく何らかの世界観としてある(ありうる)のですから イデオロギーであり得ます。

 ならば 哲学もそれらを取り扱うことはあり得ます。
 《皮》でも 思想であり得ます。

補足日時:2014/08/11 15:30
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ですが ちょっと分からないでいます。何が
 ★ 哲学の皮を被った、イデオロギー
 ☆ なのですか?

 ★ 此れこそが
 ☆ の《此れ》とは 何を言うのでしょう?

 著者はふたりいますから たたき台としての命題・思想は ふたつありますし。

お礼日時:2014/08/11 14:09

両文章は結局、日本人は御都合主義をその本質としていることのあらわれにすぎない。

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この回答へのお礼

 ぶちきれ_まくりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 日本人は御都合主義をその本質としている
 ☆ 《本質》ですか?

 この点は 質問者は保留して われわれみんなの主題としたいと思います。

 【Q-1】 日本人は《本質》においてご都合主義であると言えば すでに誰もが日本人であるならそうであり つねにそうであって もうほぼ永遠に変わらないという意味合いが出ます。果たして そうか?


 ただし 細かいところについても こちらからさらに問うて行きたいと考えます。

 なぜなら:
 【Q-2】 ~~~~~~~~~~~~~~
 ご都合主義というのは あっちに――迎合ではなくても――意見を合わせ じつはこっちにも別の意見に賛同しているといった事例だと考えますが おそらくそれが《中途半端という意味に近い中庸なる色――黄色――》によってそうなる。こういう見方だと思われます。

 あるいは別様に 西欧・クリスチアニティの文明におけるように《絶対》を想定しないし扱おうとしないことにより 言わば《あいまいの美学》が堂々と横手を振って街を闊歩している。つまり イエスかノーかをはっきりさせない。時の流れや風向きによってイエスに就いたりあるいはノーに回ったりする。こういう見方なのだと思います。

 けれども――ここから反論と言えば反論ですが―― そうは言っても イエスかノーかがきわめて明瞭であると思われる欧米の文明社会にあっても けっきょくは蝙蝠のごとく二股膏薬のごとく 二枚舌もダブルスタンダードも むしろ本家本元であると言わざるを得ないようなかたちで そういう事例にもでくわす。のではないでしょうか?

 中東におけるユダヤとアラブの敵対も もとはと言えばイギリスの《三枚舌外交》(*)による影響も大きいらしい。

 * 三枚舌外交: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9A% …

 つまり――長くなりましたが―― ご都合主義は ひとり日本人に限らない。ではないのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 アメリカが 日本と中国とに対して 二枚舌を使わないと誰が保証しましょうか。

 むしろ欧米人は ダブルスタンダードを平気で使うように感じます。
 
 いつもトリプル・スタンダードを用いる日本人であっても 恥づかしながら使っているかも知れません。かれらは それがバレても居直る。こちらは しおらしくなる。かも知れない。
 

お礼日時:2014/08/11 10:40

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