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普段やりもしない座禅をやってみたのですが
座禅をしてみると幻聴が聞こえてきます

熟練者の座禅ではどういった状態になるのでしょうか!?

そもそも座禅はなんのためにするものなのかもわかりません(汗)
幻聴が聞こえるのは集中力の欠乏でしょうか!?

A 回答 (4件)

でんじはじめと申します。

電磁波犯罪、テクノロジー犯罪と呼ばれるものがあります。この犯罪組織は遠隔から声を聞かせたり、電磁波マインドコントロールをしたり、痛み等を加えたりと遠隔から心身を攻撃する組織ですが、声を聞かせるにあたってはその人の嗜好に合わせてストーリーを組むなどして、その人が信じ込みやすい内容で聞かせていると思われます。「こうすれば声が聞こえる」的に刷り込み、声が意味あるものであるように思わせたりする目的があると考えます。

この回答への補足

つまりその人達の最終目的は何なのでしょうか!?

補足日時:2014/10/20 21:22
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釈尊の戒め『法華経勧持品第十三』



「末法時代の邪宗の僧侶は、悪知恵に長け、心がひねくれており、たいした悟りも得ておらぬくせに、自分をたいした者だと思って慢心している。彼らは、閑静な寺院や殿堂の中に引き篭もって、さも偉大な宗教家のような身なりをしているが、実際に世に出て人々を救済していくなどという精神は、かけらも持ちあわせていない。しかして自らの名誉心や私利私欲のために、宗教に無知な信者達に対し、じつにいいかげんな教えを説いて、それで、布施や寄付金をまきあげつつ、信者からは≪生き神様≫だの≪お上人様≫だのと、ありがたがれて、満足しているのである。」

『涅槃経如来性品』

「邪宗教は、いかにも聖人君子のような人格者を装い、わずかばかり経典を読んだりするが、その内心では、常に、信者から布施や寄付をしぼり取ることばかり考えている。その有り様は、まるで、猟師が、狙った獲物を細めでにらみながら、音もたてずに忍び寄っていくがごとく、また、猫が、鼠を見つけて、飛びかかろうと身構えているがごとく、なんとか、少しでも多額の布施・寄付金を搾取しようと、信者を狙っているのである。

そうした彼らが、口を開けば、≪自分は神仏の声を聞いた≫とか≪自分は真理を悟った≫とかいうのだから、呆れたものである。要するに、彼らの外面は、あたかも賢人・聖人のようだけれども、その内面には常に、貪欲で嫉妬深い心が充満していることを知らなくてはならない。

しかも、わずか突っ込んで、その教えの矛盾に批判でも加えようものなら、彼らは明快な返答ができぬものだから、怒り狂い、開き直り、最後は、唖法の術を修行中の者のごとく、黙り込んで無視をきめてしまう。このような者達は、いかに宗教家のごとき姿をしていても、実際には、真の宗教家でも僧侶でもない。邪な心を持ち、真実の宗教に背く大悪人なのである。」
この釈尊の指摘を見るとき、その内容が、あまりにも現実の邪宗教の姿を如実に浮き彫りにしていることに、驚きを禁じえません。

『禅宗』

自分の力だけで生きていく、という強さだけは見についてくるように見えますが、反面、迷いと苦しみの中にある自分をそのまま仏であるとする傲慢な教えでありますから、たいへんな思い上がりが強くなり、自分が他の人々より勝っているかのような、また、すべてを悟っているかのような、分を弁えぬ心が起きてきます。そして、そのような心のために、他の人達と心から通じ合えない、相容れないことになって、自分自身が孤独になっていってしまうのであります。

仏法でいうところの「罰」とは、神や仏から与えられるといった、迷信の類いではありません。ひとつの法(ルール)が存在するにも拘わらず、自分がそれに従わなかったならば、結果としてマイナスな現象を招く、という道理でありまして、いわば、自らマイナス現象(不幸)の中へ飛び込んでいくようなものであります。

『日蓮大聖人御書要文集(禅天魔)』

禅宗等の人云く「一代聖教は月を指す指・天地日月等も汝等が妄心より出でたり
十方の浄土も執心の影像なり釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変・文字に執する者は
株を守る愚人なり我が達磨大師は文字を立てず方便を仮らず
一代聖教の外に仏迦葉に印して此の法を伝う法華経等は未だ真実を宣べず」[已上]。
(守護国家論)

日蓮大聖人は立正安国論のなかで禅宗は天魔であるとおおせられています。
なぜ禅宗は天魔なのか?それには立派な理由があるわけで、
出鱈目に禅天魔などといったのではありません。
禅宗の信者には武士の家系が多く念仏の信者は農民が多かったようです。
分けが分からない行商とかは真言がおおかったようです。
禅宗の教義は不立文字があり、これは釈尊の悟りは文字によったのではなく
菩提樹の木の下で座禅瞑想し七日七晩めにはじめて無上等正覚を得たというのですから、
《悟りを得るためには座禅瞑想こそが第一》であり、教典はいらないというものです。
お釈迦様一代の聖教は悟りという月を指す指のようなものであり、悟りそのものではありません。
悟りそのものはいくら一代聖教をみても体得できないのです。
教典は指であり悟りは月なのです。
汝らが世界を天地・日月などと見るのも妄想であり真実の世界ではない。
十方世界の極楽浄土などというのも妄言であり、真実の世界とは釈尊と同じ
座禅瞑想によってしか知りえないのであり、教典に執着するのは木をみて
切り株をまもるような愚人だというのです。
達磨大師はゆえに文字(教典)によらず方便を語らず、
仏は一代聖教のほかに迦葉に付属した座禅の法だけが佛教であるというのです。
法華経などとはいまだ真実を伝える法ではない、と言ったのです。
これはとんでもない謗法で佛教が何を説いたものなのかを全く理解していないのです。
人々を成仏させるのは法華経であり法華経が真実を語ったものではない、
などということが天魔の仕業なのです。
座禅をしていると「われ悟れり」と思い込むことがあり、
それは「魔境」といわれるもので、発狂状態なのです。
禅は孤独を招き狂を発し頑迷となり偽善者となります。
脳卒中の病気なども起こします。禅宗は法華経を否定する悪魔の教えなのです。
福井県の永平寺、鶴見の総持寺などが禅宗の総本山です。
両寺院とも大層立派な寺院ですがその中身はまるでなく悪魔の巣窟なのです。


というわけで貴殿の肉体的反応は極めて理に叶った必然的な現象であるのです。
一刻も早く、中止するに越したことはありません。
お大事になさってください。
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禅宗は普通の仏教のように教経を用いず、「坐禅」によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとします。

確かに衆生はすべて仏とも言えますが、それは単なる理論上の仏であって実際の仏ではありません。三毒強盛(さんどくごうじょう)の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心がいかに見つめても仏心を観ずる事は出来ません。だからこそお釈迦様は、「涅槃経」において、「願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでは無い、と誡められています。完全無欠の仏を蔑ろにして、「是心即仏・即心是仏」(ぜしんそくぶつ・そくしんぜぶつ)などと凡夫の愚痴無慚(ぐちむざん)の心を持って、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは随分と増上慢な教えと言えましょう。
なお、「幻聴が聞こえる」については、心療内科へ行って下さい。私も長く精神科病院の事務担当でしたが、宗教によって弊害が起きた患者さんを見てきていますので、専門家に相談して下さい。
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>幻聴が聞こえるのは集中力の欠乏でしょうか!?



 そうではないでしょうね。普段は何らかのことを考えています。ぼーっとしているときでも、自然に何か考えています。眠っても夢を見ます(覚えていなくても、ノンレム睡眠時でも、たいてい見ているらしい)。

 そのとき、大なり小なり注意が向いているものがあります。目を開けているときは、自然に目に入るどれかに視線を向けているのと似ています。禅の瞑想では思考を止めようとします。ある程度止まります。すると、主たる思考以外が顕わになってきます。雑念と呼ばれたりしますね。

 幻聴もその一種でしょう。雑念は消そうとして消せるものではなく、放置すべきものとされています。雑念まで止めようと必死になるのは、禅での自然さとは相反するものです。ある意味、固執ですからね。ただ、あまりに大きく、強く聞こえて困るようなら、専門医に相談してもいい)。

>熟練者の座禅ではどういった状態になるのでしょうか!?

 頭の中をただ単に眺めているようなものです。脳波的には面白いことが起こっています。禅の初心者と熟達者が静かな環境で禅の瞑想に入ると、どちらも脳波が安定します。そこで、短い物音を聞かせます。

 初心者は、脳波が乱れ、しばらく乱れが続き、やがて元の安定に戻ります。同じ短い物音を何度も聞かせると、だんだん乱れが少なくなり、やがて反応しなくなります。

 熟達者は、物音を聞くと一瞬脳波が乱れ、すぐに安定に戻ります。物音を何度聞かせても、最初と同じ反応を示します。変化があると反応してすぐ鎮まり、しかも慣れることがないという状態です。

>そもそも座禅はなんのためにするものなのかもわかりません(汗)

 何のためでもありません。いろいろ効能を述べる人もいますが、たいていまやかしです。無心に座れば何かが得られるなんてことはありません。それは仏教の開祖、ブッダですらそうでした。彼は当時、最終の境地が達成困難で有名だった瞑想法二つを容易くやり遂げますが何も得られませんでした。その他の苦行もあれこれ試して、どれも駄目だと「悟った」のです。

 じゃあ無駄かというと、そうでもないのですが、得ようと思って行えば、決して何も得られない、かえってマズいもの、危険なものを掴んでしまうのです。

 禅で有名な宗派に臨済宗と曹洞宗があります。曹洞宗は「只管打坐」、つまりただただ座れ、座るだけになれ、として延々と座禅を行います。

 臨済宗は、まず徹底的に禅問答をします。よく分からないお題が入門者に与えられ、それに対する見解を入門者は考え抜いて述べます。しかし、どんな見解を出しても駄目出しされ、痛棒で打ち据えられます。

 それが何度も何度も、延々と繰り返されます。入門者は何を言っていいか分からなくなる、何を考えていいかすら分からなくなる「境地」に至ります。黒漫漫地(こくまんまんち)と呼ばれる状態です。

 そうなって初めて、座禅が始められるようになります。曹洞宗の只管打坐も、単に座っていればいいというのではもちろんなく、座る以外のことを排せというものです。これも、やろうとしてもできず、黒漫漫地にいったんは至らざるを得ません。

 なんでそんなことをするかと言えば、何もしないためです。無駄なことをしないためです。ただ、それだけです。そこから先は説明不能の世界らしいです。そこまでできれば自然に分かるものでもあるらしいです。

 それでも一つだけ注意があります。「神に遭うては神を斬り、仏に遭うては仏を斬れ」という言葉があります。その言葉での神や仏は、自分の心中に生じた「何か素晴らしいもの」です。瞑想するとときどき出くわします。瞑想以外でも、何かを一生懸命やっていると、遭遇することがあります。神秘体験と呼ばれたりもするようですが、禅では魔境と呼ばれます。

 自分の中に何か素晴らしいものがある、何か凄いものに出会った、という感覚、考えが生じたら、すぐに捨ててしまえ、我が身を切り捨てでも捨ててしまえ、ということです。本当に素晴らしいものが生じたのだとしても、その感動は何の役にも立ちません。本当に素晴らしいものなら、何らかの素晴らしい考えを残します。もしそうなら、その後はいろいろとうまく行く、やれるでしょう。それだけでよいのです。そうでないなら、気の迷いだったのです。

 素晴らしい、という感動に拘ると必ず間違います。凄いはずなんだから、という思いばかり強くなり、かえって何もできなくなります。以前にできなかったことは、やはりできないことを確認するのが怖くなりますからね。間違ったプライドですが、依存心の一種です。依存心は禅の敵です。だから斬り捨てるわけです。そして瞑想に拘るのも、実は依存心です。だから、禅の瞑想に何かを求めてはいけないのです。拘るくらいならやらないほうがよいのです。
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この回答へのお礼

なんだか座禅は日課でやるのならわかりますが趣味にはならないというわけでしょうか。
座禅をすればああなるこうなるというのはうたい文句で嘘っぱちなわけですね
詳しい解説ありがとうございます

お礼日時:2014/09/27 17:04

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