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朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也。と言いますが

一節には朝に道を尋ねた人が、夕方に死んでも不思議じゃない とも言いますが。

矢張りこれは求道者が「人の道」を求めて、もしそれが分かったら死んでも構わない

ということを言ったものと思います

朝に・・・・夕べに・・・と言うのは知った人の道を人に伝えて死にたいという意味ではないでしょうか?

みなさんのうち この道を持ってる人 或いはどういう道だろう 或いはこの言葉を読んでどう思うか

感想を聞かせて頂ければ幸いです。もう古いですかねえ こういうのは?

A 回答 (13件中1~10件)

"道"を今の時代に当てはめれば、"存在とは"と云う事ですね。



存在にはそれぞれ意味が有るように思います。
進化論的な考えで模索しています。

一つには存在は大きな流れと方向を持っているのではないか、と。
宇宙はビックバンから始まって大きく膨張し続けているらしい。
地球に在っては生物の誕生は微生物からで、段々に進化成長してやっと人間が誕生したわけで、長い時間をかけて人間を作り出した自然の力。進化力。そのすごさを感じます。
矢張り大きな流れと方向性は有る筈。

人間は生命の進化の手順を踏んでやっと創り出されたと思うと、それまでの段階はそのための模索と云う実験ではなかったかと思える程です。

また昆虫では蟻や蜂のように社会的集団を形成して一つの命をつなげる活動もあって、これなどは宇宙の縮図、地球の縮図、を見ているようでもあります。

そんなところから、この生命の大きな流れは大精神と云う大海に向かっている、と云うのが私の暫定結論です。

原初に戻りたいと云う欲動。
これが流れを作り出しているんではないでしょうか。
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この回答へのお礼

Thank you

確かに。進化論は結構重要な考えですね。私も生命は人間を生むためにあった

そして人間も次なる存在を生む為にあるという考えを持っています。

宇宙や社会や昆虫なども、一つの流れを持って、方向性を持って変化しているようですね

循環と引力が関係していると思います。

大精神というものがどの様なものか 見渡せませんが、それはあると思います。

その流れが道なのでしょうか。

それなのに何で戦争等するのでしょうねえ?

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2015/08/09 17:42

更に念を押すが、この道は自分さえ良ければいいという独りよがりなものではない。

世の中には自分さえよければそれでいいと言う者もいるかもしれないが、この道はそのような言い分とは正反対の道である。
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この回答へのお礼

Thank you

成る程更に成る程ですねえ

その通りだと思います。価値観は多様でも自分さえよければ人が不幸になっても構わないという道では行けない。

分かります。どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2015/08/09 17:32

誰にでもあるはずの、心の中にある真っ直ぐな道。


雲が厚くて太陽が見えない時でも太陽は存在している様に、今現在迷っているとしても、その道は心に備わっている。
真っ当なものを求めればこの道を見出す。

この道は所謂人道や道徳、人倫、倫理とは違う。それらから非難される様なものでもない。固定的な、型にはまったものではないので、自ら見出さねばならない。誰かが手取り足取り教えてくれるものではない。しかし、もし道の人に出会ったなら、そして尋ねたなら、快く道を指し示してくれるだろう。それによって自らの過ちを正したならば、正道に出たのである。

念のために言っておくが、もし世界中の人がこの道を歩めば、世界中から争いは消え去る。しかし今、一人の人がこの道を歩いたからと言って、世の争いが全て消えるということはない。この道は、この道を歩く人を安寧に導くが、そうでない者を幸せにすることはない。目的地が異なるのに、同じ道程を踏むことはないのである。
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この回答へのお礼

Thank you

高村光太郎の「道程」を思い出しますねえ 私の前に道はない 私の後ろに道は出来る・・・

回答者様アホナさんが言う道は、人の道ではないのでしょうか?自分の道なのですね。

自分の道は自分で切り開かねければならない、しかし人に尋ねる事は出来る。

そう言われてみるとそうですねえ。自分の道を信じていくなら夕べに死すとも可也。

成る程 かなり説得力がありますねえ。所謂人の道ではない・・・・わかりました

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2015/08/09 17:30

要は道を聞けたならば死んでもよい


そんくらい俺は道を聞きたいっていう感情表現の言葉じゃないすかね
朝と夕は条件文として読ませるために用いているのだと解釈しました

そして道が何かということについてはこの文は語っていませんから
道が何かはわかりません、というか実質的に道は意味のない言葉になっています
孔子の言ってきたことを踏まえて人の道だとか生きる意味だとか当てはめる人がいますけど
孔子は道について言及してない以上、道の意味はないと解釈せざるおえないと判断するのが私は妥当であると思います
なぜなら道とは孔子の言葉であり、その孔子が道について語らぬ以上、孔子が言う道に孔子は意味を与えなかったということになるからです

そういった意味では逆説的な意味が生じます
つまり死んでもよいと思えるような道なんざねーよという意味です

あるいは道を語らぬことで語るという解釈をしてもいいかもしれません
その場合、道とは語りえぬものであり、語りえぬ以上聞くこともないわけです
そう考えると道を聞けたら死んでもよいとは道を聞く(語るれる)ことなんざありえねーよという否定を表現してることになります

もちろん道を聞く以上、道は存在するし意味もあるという解釈だってできます
できますが道について言及してないので結局はわかりません
つまり無いのと同じことです

ま、何にしても孔子の言うことなんて真面目に考える方がバカだってことですよ
どの解釈だろうと人を導くどころか惑わせるだけですから
きっと自分でも何言ってるかわかってないと思いますよ
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この回答へのお礼

うーん・・・

孔子は自分でも何を言ってるのか分からないと言うわけですね。

成る程 哲学者・思想家はある意味そういう面はあるでしょうね

しかしそれでは幻滅ですねえ

何か道があって それを求めていたのでは と考えないと 意味がないでしょうね

お礼日時:2015/08/07 12:55

お礼ありがとうございます。



>自分の道は自分で決めるにしても 人の道 人道と言うものがあるのではないでしょうか?

そう言うものも全部含まれていますから、大丈夫でしょう。
外の求めなくても、持ってますから。

形を求めれば、形に囚われます。
自分が持てば、どうにでも使えます。

そうなって居れば、質問など必要がありません。
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この回答へのお礼

ありがとう

求めなくても人道というものを持ってると言う訳ですね

それは凄いですねえ でもちょっと凄すぎて 内容は分かりませんねえ

質問など必要ない 成る程どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/08/07 12:50

違うよ。

孔子が言っているのは、
「生きている意味を悟ることさえできれば、いつ死んでもいい」
ということ。それだけ、最も難しく、誰も答えを出せない問題であるということ。孔子でも歴史上の偉人でも、生きている意味の答えがわからないということ。
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この回答へのお礼

Thank you

そうでしょうね そういう事かもしれませんね

その道を突き止めてこその哲学ですよね。

成る程ガッテンです どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/08/06 18:16

1.存在の意味。

(空間軸)
2.生きる目的。(時間軸)
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この回答へのお礼

ありがとう

それは言えてるとは思うのですが そうすると生きる意味は

過去から未来につなぐと言う事でしょうか?

成る程どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/08/06 18:15

"孔子の道は理想的な政治ですか でも仁や義も説いていますけどねえ"


  ↑
仁や義の政治をやれ、てことです。

君が仁なら、民もそれに感化されて国全体が
仁になり、よく治まる、てことです。

だから易姓革命になるのです。
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この回答へのお礼

うーん・・・

成る程 そのようなトップダウンの考えなのですか。

しかし実際今の自民党が仁の道をやっているのでしょうか?

どうも僕はあれが仁の道に値するとは思えないのです

人は人それぞれが持つべきものでしょう 現代ともなれば

と思うのですが・・・どうですかねえ?

お礼日時:2015/08/06 18:13

自分自身を知れば、何処へ行こうとしているのか


何処に向かって行きたいのか、どちらへ向かえばいいのか
今までやってきたことは何なのか、今やることは何なのか
そんな事が分かるようになると思います。

そうなった時、もし今死んでも悔いは無いでしょう。
死を迎えるに恐怖も無く、戸惑うことも無い。
残念に思いはしても、来たとしてもそれはそれでいいと思える。

道はそれぞれであるので、人に伝える道は無いですよ。
自分の道は、自分だけの道ですから。

道は、自分の根底から持つものから発せられるので
その裏付けがあるからこそ、自分の道を歩いて行けます。

人(他者)の道に関心を持っても、同じ道は歩めません。


自分の道を持てば惑いが無いので
生きることに集中できると思います。
生きる今を存分に味わいながら、進むことができる。

そんな感じだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

自分の本当にやりたいことが分かって それをやり遂げたら、死んでもいいと思いますが

自分の道は自分で決めるにしても 人の道 人道と言うものがあるのではないでしょうか?

人の真実というか 真の理というか、その様なものがなければみんな勝手に生きてバラバラなのではないでしょうか?

僕は真理はわかりませんが 何か人間の存在原理があると思えるのです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/08/06 18:10

韓国人は儒教、民族日本人は道教民族、と言われます?(言われていたようです)。


柔道、茶道、華道、など何にでも道、どう、を付ける。という意味で、道教民族、と言うなら。
道は儒教の道、言われるように、人の道、的な意味になるのでしょう。
道教、あるいはその教祖に祭り上げられている「老子」の道、(トウ、タオ)とは、
世界を世界として在らせているもの、万物の根源、世界の存在原理。が道(とう)なのです。
道教の寓話、でしょうが。
儒教の祖、孔子、が道を聞くべく、老子、を尋ねたら。トウを知りたくば、まずその身なりを改めなさい
、と言った。身なり、格好や、人の評価、などに執着しているようでは、明(ミン:一般の知恵とは区別した、トウを知る知恵)は無理だ。と言った亊になります。
とすると、明日に道を聞かば、夕に死すとも可なり、とは。孔子には、道(トウ)が全く解っていない。と言っている亊にもなります。
道とは、「老子」弟一章
道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。
無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名づく
もって無はその檄を現さんと欲し。有はその橋を誇示せんとす。
無=有 無×有=道 という亊でしょう。
縁=起 縁×起=諸相 という釈迦の、縁起の理法、と同じ考え方、です。
さらに、無=檄(ゲキ:方向性)が、時間、 有=橋(姿形)が空間とすれば。
空間=時間 空間×時間=世界 という。般若理論 になります。
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この回答へのお礼

うーん・・・

う~~ん 何だかよく分かりませんねえ?剣道や華道の道と 道教の道は同じなのでしょうか?

無というものも東洋思想的でいいですが、よく考えると ?ですねえ。

無×有=道 と言うのも分かるようで分からない。知ってるつもりになるのではないでしょうか。

混沌には目も鼻も口もなかった それに目鼻口を作ったら死んでしまった でしたっけ?

そういうのもなにか深いものを暗示してるとは思うのですが よくは分かりませんねえ

どうもありがとうございます。

お礼日時:2015/08/06 18:05

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