アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

家族に自殺した人がいて虐待をされている子がいる悲惨な家庭がありました。その子は学校でグループの中に入れず(いじめはない)無視された事で逃げるように学校に来なくなりました。
どんな辛い経験をしている人であっても、人とつながりを得られない事は耐えれない事なのかどうかについて考えていただきたいです。

一人でいる家にいる時は人とつながっていなくても平気でいつまでもその状況を続けられるのに、集団の中でい嫌われてて孤立している場合だと自己評価を気にしたりして耐えられないという事があります。


宇宙が誕生して素粒子が誕生 電子の対生成がおきたように物事には正と負、干渉があり、それで次の次元につながる。そして人間が生まれました。そのような正と負の事象の広がり、それらの干渉により次元の拡張。これは人間にも綺麗に継承されていると思います。(上下関係 権力 戦争 自殺)

人付き合いは複雑な事象の広がりの可能性を生み出し、宇宙が膨張するにつれて宇宙が冷めて複雑さが増すように、人間が人付き合いをしたい複雑さを求める刺激を求める心をを満たさない限りどこまでもその心は寂しさに変換されていき自殺に向かう。これが宇宙との一体感を感じ美しさも感じます。

でも実際は違いました。

ある一人で山にこもる人がいました。死ぬまで人付き合いせず生きれる人がいます。でも集団の中で孤立するのはその人も無理っていってました。

何故一人ではいられても集団のなかで一人でいると自意識が高まったりして絶えれない気分になる仕組みになっているのでしょうか

一人で山にこもる事も寂しさで絶対に耐えれない気分になる仕組みではないのは何故でしょうか

A 回答 (5件)

プライドではないでしょうか。


孤立する方って他人からみた自分をきにする人が多いですよね。
自分なんかとかいいながら自分がめちゃくちゃ大事そうだもん。
誰にも見られていなければそれは安楽の時なのではないでしょうか。
でも人と関わる楽しさをしってしまったら孤独はさみしいでしょうね。
僕なんかに優しくするなーって逃げられちゃいそう。
親の愛情は人間生活を始める第一歩ですな。
    • good
    • 0

集団の中にいる場合は、相対としての個という立場にならざるを得ません。


なぜなら、他者(だけではありませんが)の存在それ自体がエネルギーとして、本人と間で何らかの関係性を生じざるを得ないからです。惑星間の引力のようなもの。
であるのに、その相対関係の構築を拒否(無視)されたり、一方的な関係を迫られる(圧力をかけられる)。つまり、「相対」ではない。
これが、いじめなどの構図でしょう。
「(相対としての)個」が否定される構図ですから、これはたしかにつらいと思います。

一人で山にこもる場合は、「絶対としての個」という方向性を意識することが可能だと思います。
自分に影響を及ぼすものとしての他者は想定不要なので、そのような意識がつらくさえなければ、同時に寂しさを感じる必要も生じない。
他者が想定不要ということは、阻害されるという事象も発生しないわけですから、一人が寂しくないのであれば、穏やかでいられる。
人間は社会的動物だ、などとも言いますが、動物と決定的に異なる点は、自分自身を客観的に見る視点を持っていることではないかと思います。
「絶対としての個」だから山に籠るのか、「絶対としての個」となるべく山に籠るのかは人それぞれかもしれません。
いずれにしても、そこにあるのは強固な意志のはずで、山に籠り続けることができる人は、寂しさとは無縁、または超越できた人であり、しかし、中途で寂しさが蘇り断念する人も中にはいるように思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

他者(だけではありませんが)の存在それ自体がエネルギーとして、本人と間で何らかの関係性を生じざるを得ないからです。惑星間の引力のようなもの。 
なるほど!

あらゆることへ、リビドーは向かわないといけないように出来ているのだなぁと思いました。


個でいる時から集団でいる時に変わるとき、個でいる時は周囲の自然環境や自分の心、等にリビドーが使われ刺激のすくない事を最大限に吟味するようになるのに対し 集団でいる時は人付き合いという複雑なものへリビドーが向かう。
リビドーはその場に応じてあらゆることに向かいその人の生きがいを見つけ出してくれるが、リビドーは単純なものより複雑なものへ向かっていく。こればっかりはコントロールできないのかなぁと思いました。

お礼日時:2015/09/02 22:29

#2です。



>リビドーはその場に応じてあらゆることに向かいその人の生きがいを見つけ出してくれるが、リビドーは単純なものより複雑なものへ向かっていく。こればっかりはコントロールできないのかなぁと思いました。

リビドーには自我リビドーと対象リビドーがあり、恋愛や人間関係方面で発揮されるのが後者。
自我リビドーは自分自身に向かうもので、典型はナルチシズムですが、むろん、過多の差はあれ、誰もが必ず備えているものです。
山に籠って満足できる方は、(少なくとも籠っている間は)相当強烈なナルシストか、または、対象リビドーを強く拒絶された人と考えて良いように個人的には思っています。
山に籠ってリビドーを自分自身に集中させることによって得られるものも多いでしょう。
価値有る行為ともなり得ますが、適度な時点で、そこで得た力を対象リビドーとして他者に向けることが自然な、つまり、本人も(無意識的に)最も満足のいく効果に結びつくような気はします。
いずれにしてもリビドーは、自己保存本能によって無意識領域に貯蔵されているエネルギーであり、リビドーが対象に向かう場合であっても、そこには、あくまで自分を(肉体的精神的を問わず何らかの形で)認めて欲しいからという、人としての自然な欲求が含まれているのだと思います。
対象リビドーへの流れが堰き止められたとき、それが自分自身に向かうのは自然なことと言えるでしょう。

リビドーの堰き止めとは、一種の抑圧ですが、これは、人間が動物と異なった存在であるためには、ある程度必要な作業です。
抑圧が効果的に作用すれば、昇華によって精神的・文化文明的な方面に寄与することが可能となりますが、抑圧が弱すぎると反社会的行為などにつながるエス的要素が野放しになり、逆に強すぎれば神経症などの原因になる場合もあります。
リビドーに関して、フロイトは性的エネルギーに重点をおき、ユングは心理的エネルギーに重点を置いたわけですが、まあ、そのどちらでもあると考えるのが自然ではないかと思います。
いずれにせよ、この世に生を受けた段階で備わっているものですから、おっしゃるように、『あらゆることへ、リビドーは向かわないといけないように出来ている』のは、そのとおりなのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

お礼日時:2015/09/29 19:31

「何故一人ではいられても集団のなかで一人でいると自意識が高まったりして絶えれない気分になる仕組みになっているのでしょうか」


→一人か集団の中か、という問題ではなく、人に嫌われているか否かということです。
一人で山に篭れるのは、人に嫌われていないので何も問題がありません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに嫌われているか嫌われていないかが重要なんですよね。

そうなると人付き合いを出来ていなくても集団で孤立しても平気。

ひょっとすると人付き合いをしていなくても同じ空間で人と一緒にいるだけでも人の会話を盗み聞きしたり、同じ空間を共有しているってことで、自然と人付き合いをしている事になっているのかもしれない。
人付き合いをしたいという欲はただ刺激を求めたいという欲を言い換えているだけなのかもしれなくて、刺激を効率的に満たしてくれるのが人付き合いに過ぎないのかもしれない。

お礼日時:2015/09/29 19:35

人間は誰でも「自己承認欲求」を持っているからでしょうね。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

THX

自己承認欲は劣等感の

お礼日時:2015/09/29 19:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!