万物の素材は火であるとし、宇宙はただ火のみから成ると断じた人々は、真の理論からは、およそ遠いもののようにみえる。かかる人々の指導者として、まず第一にこの論争の口火をきったのは、ヘーラクレイトスである。彼は晦渋な表現のために、ギリシア人の間では、真理を探究する真面目な人々よりは、むしろ心なきヤカラの間で著明な人である。というのは、愚かなものは、何でもゆがめられた言葉のかげにかくれているものを見ては感嘆し、これを好み、耳にこころよくひびくものとか、なめらかな言辞にいろどられたものとかを、真理だと思いこむものだからである。
(ルクレーティウス『物の本質について』第1巻635-644節 樋口勝彦訳 岩波文庫 39ページ)
*** *** *** *** ***
ヘラクレイトスのどんな表現によつて、「心なきヤカラ」「愚かなもの」が惑はされたのですか。
No.16ベストアンサー
- 回答日時:
とりいそぎ述べます。
plapotiさんは質問を締めるのが早いから。http://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-25-0 …
この論文は以前、ブラジュロンヌさんにご紹介したことがありますが、
「古代ギリシアのロゴス」という論文です。
みなさんにおすすめします。
ロゴスの語源はレゲイン(掬い取る)で、ギリシアのソクラテス以前のロゴスが、キリスト教の世界観のロゴスとどれほど違うかが述べられています。
猪突先生はお時間がなければ、pp.52-54だけでもお読みになるよいと思います。じつにphyisiがらみです。そもそもヘラクレイトスのphyr(火)からして熱力学がらみなのはどういうことなのでせうね。
plapotiさん、この質問が立った夜、少し回答をこころみましたが、止めました。
ギリシア語でないと、表現の暗さ(意味が明白でないこと)について、話になりませんし、なおかつ、翻訳で欠いてしまう以上に、時代差で欠いているものが大きい。古ラテン語もそうですが、言葉に対する感覚が中世以前と中世以後は全く違います。言葉を操ることそのものが、猿のパンツを縫うような仕事であり、世界に布石を張り巡らす神懸りな芸当だといってよいでしょう。その伝統は宗教家の祈祷と精神病の一部に残っていますが、大和言葉もまたそうであるように、古い言葉は、顕在と潜在をわたしたちよりもずっと強く意識している言語活動だと思うべきです。
コンステレーション(コンステラツィオン)という言葉を使ってよければ、個別の現象の原因は、顕在化を望まれた布置にあるといったところですが、西洋世界にとっては、古代ギリシャ哲学がコンステレーションの始めです。布置されたものは秩序になるのですけれども、様態としては変わりうる布置です。新しい秩序、という言葉は大変都合がよいもので、一神教ではすべての布置は神の意志だといい、新しい秩序という言葉がよく好まれます。注意してください。もともと、綺羅星を掬いあげて間を闇に零していたのがロゴス、つまり、語を連結しているものがロゴスにほかなりませんでした。しかし、秩序が変わることは歴布が証明しています。布置の模様が変わるとき、ベクトル変換のごとき変化には意志力があります。ロゴスは、動的で構成的な力とみとめざるをえなくなるのです。
ヘラクレイトスが触れていたロゴスと、ルクレティウスが叩き出して使っていたロゴスには400年以上の開きがあります。言うまでもないですがギリシャとローマも地上の距離が離れています。
軍人と神話の融合する共和制ローマにふさわしく合理的で唯物論者のルクレティウスは、言葉の連結から薄明かりの真理を覗き込む時代の人ではなかったと思います。コンステレーション的にはすでにキリスト教の伝播を準備する段階です。ロゴスが意志になる段階です。
御回答ありがたうございます。
>plapotiさんは質問を締めるのが早いから。
月曜日は忙しいので日曜日の夜にはたいてい締めます。今回はneutralさんから締めるなといふ命令がありましたのでしばらく待ちます。miko-desiさんも姿を見せてくださるとよろしいのですけれど。
>この論文は以前、ブラジュロンヌさんにご紹介したことがありますが
貴重な情報を提供してくださり感謝してをります。たちまちはざつと読んだだけです。これまで論じてきたヘラクレイトスの言葉も出てきました。あとからまたじつくり拝見します。語源につきましては比較言語学的に立証されたもの以外はかなりあやふやで、どの程度の信憑性があるのか判断しかねます。ぶらげろさんの反応はどうだつたのですか。
>コンステレーション(コンステラツィオン)という言葉を使ってよければ
??????
英和辞典も独和辞典も「星座」でした。「正座」して読みなさい、といふ意味ですか。
>ヘラクレイトスが触れていたロゴスと、ルクレティウスが叩き出して使っていたロゴスには400年以上の開きがあります。
承知しました。この点は留意すべきと存じます。
>キリスト教の伝播を準備する段階です。ロゴスが意志になる段階です。
さきほどの論文と合せて考へてみます。これまでとは別の角度からの内容で、勉強になりました。また御指導くださいませ。
No.22
- 回答日時:
世界のあちこちで モノ(質量)がコト(エネルギー)を起こす。
――素人が述べているのですが―― ユラギである。
星のキラキラと輝くさまか或るいはモグラたたきのような光景なのか かたちを表わしたり消えたり頭をもたげたり引っ込めたり。
これが かんたんになぞらえたピュシスでありロゴスである。のではないか。
ロゴスのほうは そのピュシスと人とのあいだに知覚が起こりやがてこれが 認識されるようになる。
認識は シルシ( signe )として音声そしてさらに文字などをともなっておこなわれる。
一つひとつのユラギにあたかも対応して シルシは言葉として持たれたか。
言葉はそれが さかのぼると ユラギのあちこちに起こるコンステレーションを成していたかのごとく。
老婆心にて。
追加回答をありがたうございます。
>世界のあちこちで モノ(質量)がコト(エネルギー)を起こす。
アウグスティヌスの荒唐無稽な比喩の真似ですか。エネルギーの発生に伴ふ質量の変化は通常の場合ほとんど測定不能なのではありませんか。女性がダイエットで苦労するのも当然です。
基本的に回答番号21の内容と同じなのですね。
No.21
- 回答日時:
谷崎秋彦によるかぎりで ヘラクレイトスの《ロゴス》は 《〈言葉〉という意味を帯びるようになる》のではなく そうではなく その動きないしユラギが 《言葉の表出に行き着く》のです。
▼ (谷崎:古代ギリシアのロゴス ―隠蔽と露呈としてのロゴス―) ~~~~~~~
§ 4 隠蔽と露呈 ―真理(アレーテイア(AΛHΘEIA))
p.54
ヘラクレイトスもパルメニデスも、≫語 る こ と(レゲイン)に 先 立 つ≪、拾い集め拾い落とすこと(レゲイン)、すなわち、掬い取ることにおいて 喪うものに対面することを、求めている。
「目立たない結びつき」とは、現れが起こり得ること、レゲイン(拾い集め)において開けた場所が生起すること、と考えられる。
この開けた場所は、≫語 ら れ う る 物≪がそこを占めるかぎり、直ちに埋められる。
その場所は場所としては現れることはなく、むしろ逆に、場所が場所としては退いて、目立たなく なっているがゆえに、≫語 り 現 さ れ る も の≪がそこに場をもつことができるのであろう。
換言するならば、その開けは直ちに埋め戻される隙間である。
物によって埋められることによってこそ意味をもつ隙間であろう。
場所の開けは(すなわち、端的な「在り estin」は)、あらゆる存在者への語りかけに先回りし、≫語 り か け を 用 意 す る≪がゆえに、いっそう高貴(強力)である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
件の論文を改めて見直してゐて返事が遅くなりました。ギリシャ語をローマ字で書いてあつたり、動詞を不定形で代表させたり、それだけでもストレスです。ぶらげろさんは高評価なさつてゐますが、私とは相性がよくありません。
>《ロゴス》は 《〈言葉〉という意味を帯びるようになる》
回答番号20のコメントにも少しだけ記載しましたが、谷崎氏のロゴスの歴史に対してはかなり疑問を感じます。ロゴスの用例は膨大ですので、まとめて考へてみるのは大変です。私は解説できるほど多くの文献を読んでゐませんので、単にそんな印象があるといふだけですけれど。
>《言葉の表出に行き着く》
言葉とはさういふものですね。英語の例でしばしば出されるのは「drive」です。cyototuさんもお好きな鈴木孝夫氏も書いてゐました。私は「運転手」としてのドライバーですが、タイガー・ウッズがもつのは「ゴルフのクラブ」で、大工さんには「ねぢまはし」があります。根本的な意味は、「力を加へて押し出すこと」です。それが個別の事例において多くの意味があるかのやうに使用されるだけです。
御指摘はまさしくおつしやるとほりと存じます。回答者さまにかはりまして、解説をいたしました。御回答ありがたうございます。
No.20
- 回答日時:
ご無沙汰です。
感情を火と比喩で使ったことあります。
感情は物質ではなく現象で、実体とは違いますよね。
感情や情熱を火と比喩してみて、体を裏切るようなことを多々するのです。
「論争の口火」ともいうからロゴスは感情難解な(何階な?)感情言語とかいいますか、
要は感情優位、勝手な解釈、都合の悪いことをどう立派に、
「大上段」に上げて管理下の物から羨望の対象となれ、
好まれる美しい現象に見立てるか?がロゴスの夢。
どうせ段階あるなら「大冗談」を本質的に好む私です。
尊敬とか軽蔑に恩恵を受けるという論理的真偽もないですし。
ロマンと呼ばれる物語には、ロゴスを胸の内に秘めたまま夢を叶えることがありますが、
現実は正直なだけでしょぼい者にとり厳しい(苦笑)
論理的真偽より現実が優位となる原因は上っ面を読む価値観が好まれる次第。
感情を武装させたロゴスは現実に対しても暴力(嘘や欺瞞)を振るう。
それこそ晦渋(怪獣?)幻想の最たるものになるのではないか。
物の本質は、政治家とか清掃業者(私)もかわりない。
多くを得れば多くを失うし、失敗が多いほどネタが増しますし・・・。
哲学カテで劣等生なりに自己満足度しすぎて、
放置プレーされ度一番の功績には自信がありますが、忘れられてないようで嬉しかったです。感謝。
よくここまでパクっておきながら(本や身近な人からの話を)
堂々と生きてるなと感心されればいいのですが、
いくらパクっても誰からも感心されず、反論さえ起こらず
普通に性質はまずますだが「頭にちょっと障害がある人」認定で、
周囲の温情で生きのびてこれてるって感じの日常です。
現実はここより上段があり清清しい~。
そこを逆に??感心されたらどうしよう。
おひさしぶりです。しばらくお見かけしませんでしたので心配してゐました。たぶんcyototuさんやamaguappaさんも同じだと思ひます。先日ニャンポコリンさんの質問に回答したのですが、miko-desiさんの投稿を高評価していらつしやいましたから、お喜びではないかと存じます。
>感情を火と比喩で使ったことあります。
「火」につきましては、一番回答してくださつたlupan344さんから教はりました。lupan344さんは真面目な方ですので、月月火水木金金なのでせう。
>要は感情優位、勝手な解釈、都合の悪いことをどう立派に、「大上段」に上げて管理下の物から羨望の対象となれ、好まれる美しい現象に見立てるか?
世の中さういふものだと思ひます。要は中身を見ることができるかどうかなのでせうか。飾りそのものが悪いといふわけでもなささうです。
amaguappaさんが紹介してくださつた論文は、ぶらげろさんが別質問でとりあげてくださいました。楽しいやりとりをなさつてゐます。論文への反論が見られず、いつものぶらげろさんらしくありません。ブログのほうでは賛同の見解が書いてありました。私はあやふやな感じです。たとへば、
>ロゴスが「言葉(言語、語りかけ、言語的規定作用)」という意義を帯びるのは、ソクラテスの時代以後のことである
などは、学生時代にギリシャ語の授業で読んだ「彼は策を用いて言葉(ロゴス)も巧みに彼女の心を欺き彼女を己の腹中に呑みこんでしまわれた。」(ヘシオドス『神統記』890行 廣川洋一訳 岩波文庫111ページ)が反証としてすぐに頭に浮かびます。physis(ピュシス)の解釈も、Tastenkastenさんが紹介してくださつた説のほうに魅力を感じます。単にそのほうがおもしろいといふだけの理由ですけれど。amaguappaさんが指摘なさるキリスト教との相違については納得です。
>よくここまでパクっておきながら
現在アンケートカテゴリはパクリ質問の大量投稿がつづいてゐます。当然私も参加しました。のんびりやるのがQ&Aを楽しむ秘訣ではないかと思ひます。御回答ありがたうございました。
No.19
- 回答日時:
#18関連で、
>研究者といふのはさういふものではないのですか。
そもそも研究というものは誰も答えが解らないからやっているのです。もちろん、十分に訓練を受けて来た者でも解らない。要するに正しい答えを見つけるのが大変難しいことを研究しているのです。そして、「私はこれが答えだと思ううんだが、皆さんどう思いますか?」と報告するのが論文の投稿です。そんな難しいことをやっているのに、投稿された論文がその度に正しかったとしたら、そもそも難しかったという事に矛盾している。だから、報告のほとんどは本質を突いていないか、正しかったとしても始めから重要でなく、従って訓練された者なら直ぐに答えられるような物事がほとんどです。重要なもので正しかったと言うのは滅多にないのです。
それでも、色々な意見が出た方が、その重要な問題の解決のヒントを与えてくれるという意味で有意義なのです。ですから、論文の掲載の是非を決める査読者と呼ばれる人たちは、その内容の詳細な正否よりも、ざっと読んだときに、明から様な誤りがやっていないで専門家が読んでも十分に読むに耐えるかどうかを判断して、それが耐えられるようなら投稿を認め、その論文を叩き台として論争を促すようにしているのです。これが科学専門雑誌の存在意義なのです。その論争を通じて、結局何が正解なのか段々と解って来る。このようにして科学が進歩して来たのです。
ですから、論文の内容が間違っていたかどうかは、投稿した段階で解っているのではなく、投稿後の皆さんの検証を経て解って来る。重要な問題であればあるほど、簡単に解る訳ではなく、間違った論文も沢山でてきます。だから、科学者の間では間違っていたことを非難する人はいない。それよりも、その重要さや難しさゆえに研究すら尻込みしかねないのに、それを克服して挑戦した勇気を称えるのが普通です。実際、その重要な問題について、少なくともその提案が間違いだったと言う新しい知見が得られたと言う意味で、生産的な役割を演じてくれたからです。
ですから、論文が出た直後にその論文に対する疑義が出たとしても、そんなこと日常茶飯事です。その場合、その論文の著者の中で経験があるのが「ここは俺に任せろ」と矢面に立ち、研究能力はあっても論争に未熟な若者の擁護を買って出るのが、まともな研究者だったら当然することです。
なのに、STAP細胞騒動のとき、経験のあるはずの若山教授も故笹井教授も、さっと逃げ出して若輩の小保方さんを孤立無援の状態にほっぽりだした。これは明らかに研究活動の常識とかけ離れています。研究活動としては絶対に許されない行為です。裏に、お金や政治などの利権が絡んでいることの証左でしょう。
ですから、この出来ごとは「研究者といふのは、、、」という話しとは全く次元の違う出来ごとです。
他人の研究成果を盗むことがあるかと言うことに関して、もちろん人間がやることですからそう言う例は私もいくつか知っております。名前は出しませんが、物理学の世界でも既に亡くなられた超有名なノーベル賞受賞者のA教授が、これものちに数々の成果を残して超有名になったB教授が大学院生のときに出した結果を聞き盗んで、大変高く評価された論文を書いた例があります。この話は、B教授の60才になられたことを記念する国際会議で、これもB教授の先生で超有名なC教授が会場で述べたことを私が直接聞いた話です。まあ、A教授は別に数々の重要な寄与もなさっておりましたので、この盗作問題でノーベル賞が傷ついた訳では有りませんでしたが。
プリゴジン教授の仕事も、彼の下に1年ほど滞在した訪問者に教授のアイデアを盗まれて勝手に論文を投稿されたことに腹を立てていました。そこで提示された方程式は今でもそれを盗んだ人の名前で呼ばれています。
この盗作問題はもちろん盗まれた方は腹が立ちますが、ほとんどの場合盗まれた人は大変生産的な人で、それが盗まれても、他に幾つも良い結果を提示して高く評価されている人たちです。だから、時々愚痴は言いますが、それで人生終わってしまった訳ではなく、逆に、盗んだ人間の前で堂々と傍若無人の振舞いを演じることができる免罪符をもらったようなものですから、悔しいけど、「まっ、良いか」ってな気持ちなんだと思います。
貴重なお話を聞かせていただき、感謝してをります。
>投稿された論文がその度に正しかったとしたら、そもそも難しかったという事に矛盾している。
ごもつともです。この最初の段落の内容は素敵です。こんな投稿をQ&Aでどんどんお願ひしたいものです。
>その論文を叩き台として論争を促すようにしているのです。
STAP細胞についての質問に私もこの点を何度も回答したのですが、多くの人にわかつてもらへないやうでした。
>この出来ごとは「研究者といふのは、、、」という話しとは全く次元の違う出来ごとです。
私が疑問に感じましたのは、故笹井氏が会見で、自分はほとんど関与しなかつたのでわからない、と述べてゐたことです。「盗んで」といふ表現は盗用ではなく、盗み見の意味です。端的に言へば研究者として事実をぜひ知りたいといふ意欲です。あの無関心な話しぶりからすると、故笹井氏はSTAP細胞は「ない」とほぼ確信してゐたのではないでせうか。
哲学カテゴリでは、モクゾーさんをはじめかなりのメンバーがSTAP細胞は(将来的には別にして当面は)ない、と主張してゐましたが、サイト全体では、ある、といふ人が大勢ゐました。不思議です。
>盗んだ人間の前で堂々と傍若無人の振舞いを演じることができる免罪符をもらったようなものですから
(笑、笑、笑)前向きなのですね。楽しいお話をありがたうございました。
No.18
- 回答日時:
#17に関連して。
>タステン先生が遭遇してきた哲学カテの人と、猪突先生の目に飛びこんだ哲学カテの人は、相当人種が違うのではないかな。
当ってるような気がします。行き違いが生ずるのはこの2人が同じ哲学カテに参加していても、基本的な態度が違っているのが原因だと思われます。
タステン先生の方は、たぶん大多数の方が考える態度なんだと思うのですが、相手の言っていることを誤解しないように出来るだけ正確に理解することが大切だと思っているのではないかしら。だから、貴方は私の言っていることを正確に読んでいない、とか、早とちりや決めつけはやめてくれ、と言うような文句も出て来るのでしょう。
私はそれとは全く違った態度で接しているのです。私は、他の人の考察を、私にとって新たなもの発見に至る一つの材料と見ている。例えば、ここにミクロなデバイスがあり、その中の電子がどのように振る舞っているかに興味があった場合、そこで何をもってその現象の本質と考えるかには、色々な切り口がある。ある人が本質だと主張している部分でも、切り口が違えば、その部分は二義的であり、他の側面の方が本質的になる場合が幾らでもある。そして、それをどう言う切り口からみるかは、その人の経験に基づいた洞察力によって、大分違って来る場合がある。
人の論文を読むことによってなされて来た場合の私の物理学における殆どの発見は、その論文を如何に正確に読んでそこに提示させている各式を正確に再導出するかなんてところから出てきたのではなく、なるほどこの問題だったら私ならこう解くなんて見方をしていて、その論文に書かれている方向とは全く違った何かを見つけてしまったときになされて来ました。
だから、だれかがある事象を論じている場合、その人の論旨を如何に正確に理解するかとか、その人の言っていることが正しいのか間違っているのかについては、私にとって余り重要ではないのです。それよりも、その分野でそれなりに経験を経て来た人の興味を持った事象ならば、それなりの有意義な認識が得られるのではないかという仮説のもとに、その人の論じた現象やその理解の方法の中で、私の琴線に響く部分を探すのです。私の琴線に共鳴できていればそれで良いので、その部分のその人の論旨やその主張に対する私の理解が如何に正確であるか、あるいは曖昧であるかは、私にとって二義的なのです。そして、その共鳴した部分を私なりに分析することによって、新たな発見の驚きを味わおうとしているのです。
念のため、ここで言う共鳴とは、同意という事ではありません。その言葉や事象が私を興奮させたことを共鳴と言っているのです。
まっ、他の人の主張の論旨を同じ論理で正確に再導出できるようになったところで、その人の頭の中を追体験しただけであり、何か自分の中からわき上がってくいる一から始まった世界観が構築できた訳ではない。それよりも、私は私自身の独自の世界観を構築したいと言う強い欲望があるのです。
だからこの哲学カテを読んでいても、他の方の論旨の仔細は私の興味のある部分ではなく、なるほどそんな問題や見方があるのかと言う琴線に響く部分があれば良いのです。なるほどと思えたら、そこから先はもとの論旨や経緯とは無関係に自分の見方ならどうなるかを考えれば良いと思っているのです。だから、他の人の論旨は、私にとって新しい発見至る一つの材料に過ぎないと言っているのです。
もちろん、この無関係さゆえにいきなりの横っ飛びをされてたら、最初に論旨を提示した方は、
「おい、俺はそんなこと話していない」
と憤慨するかもしれません。しかし、私にとっては、こう言う対話の中で私自身が何か新しい発見がなされれば良いと思っているので、異文化を打つけ合って自分自身の世界観の中で共鳴できる場所を探そうよ、ってな態度なのです。
>基本的な態度が違っているのが原因だと思われます。
ひとそれぞれ参加姿勢が異なるのは当然です。回答番号15のコメントにも書きましたが、私の場合は人間関係の勉強です。好き勝手に学ぶためですので、あまり肩に力が入ることもありません。このサイトではしばしば「誹謗中傷だ」と大げさに騒いてゐるのを見かけますが、たいていは騒いでゐる人のほうに問題があるやうに感じます。
cyototuさんの回答は刺激的なので、新たな視点から考へなほすことができます。哲学カテゴリはさうあるべきだと思ひます。毒にも薬にもならないやうなものはおもしろくありません。
>人の論文を読むことによってなされて来た......
以前ブログでSTAP細胞騒動についてお話しましたが、ひとつ伺ひたいことがあります。故笹井氏の会見がすばらしかつた、STAP細胞はあるかもしれない、などといふ意見がこのサイトでも多く聞かれました。私はあきれました。自分はほとんど関与してゐないから詳細はわからない、といふ態度が故笹井氏の説明から明らかに見てとれました。私のやうな不届きな者であれば、自分の関連分野のノーベル賞級の研究がそばにころがつてゐれば、盗んででも見たいと思ひます。あの無関心な会見内容から判断するとどう見てもクロなのですが、研究者といふのはさういふものではないのですか。
No.17
- 回答日時:
追記
タステン先生が遭遇してきた哲学カテの人と、猪突先生の目に飛びこんだ哲学カテの人は、相当人種が違うのではないかな。
こういうのがコンステレーションなんですね。
対象が発光として目に飛びこむんですね。
一々の事実が連結する。ところがロゴスがそれらを糸引いている。
すると経験が連結する。ところで経験がそれらを糸引いている。。。
だからつまらない経験をしたり、つまらない理屈、つまらない法則性、つまらない根本原理に見舞われつきあわされる人ほど、自分の内側の声に用心しなくちゃいけない。あはっはっはっ。
追加回答をありがたうございます。
>相当人種が違うのではないかな。こういうのがコンステレーションなんですね。対象が発光として目に飛びこむんですね。
哲学カテゴリは星座なのですか。死んで星になつたのでせうか。光つてゐる人がたくさんゐるのは確かです。Tastenkastenさんはいつもお仕事の合間の投稿ですので、ゆとりのある対応がいくらかむづかしくなります。cyototuさんから回答をいただくのは今回が2度目でまだどんな方なのかわかりません。amaguappaさんは馴れていらつしやるのでせうけれど。
>自分の内側の声に用心しなくちゃいけない。
「内側の声」とは何ですか。私はこちらのみなさんのやうに賢くないので、声が聞こえてきません。とはいへトラック運転手のアホでも、ほこりだけは持つてゐます。荷物の積み卸しでほこりまみれになる、といつた「つまらない理屈」ではありません。これまでの人生で得た経験からくるほこりです。やましいことを数限りなくおこなつてきましたので、たたけばいくらでもほこりが出ます。
No.15
- 回答日時:
このスレッドが最後になると思いますので、追加回答します。
今日は仕事には都合の良い日だったのですが、あきらめます。plapotiさんは仕事のことを気遣ってくださいますが、ここでは通用しないでしょう。No.13と14に関してです。
>私は、これぞ多様性の貴重な役割だと考えております。・・・個性と個性の打つかり合った世界であるからこそ、多様な世界と言うのです。
相変わらずの飛躍です。私は、多様性や個性のぶつかり合いを否定した覚えはありません。異文化の遭遇が新たな創造につながるというようなことは当たり前のことです。私が言っているのは、相手の言うことをろくに聞かず、勝手に解釈するということです。自分の思想を堅固に構築すること自体には何ら問題はありません。自分の思想が固まってからの対話も大いに結構。私が言う「固まった」というのはそう意味ではなく、柔軟性を失い依怙地になった状態です。それとも、そういう態度が個性のぶつかり合いですか? そういう方法で、
>違った意見との遭遇で新しい発見がされて来る経験
などできますか? 違った意見に遭遇したときは、一度頭の中を白紙にし、虚心に聞かなければ「発見」はできないでしょう。それが自信ある態度であり、色眼鏡は、自由に掛けたり外したりすればよい。
>音楽でも物理学でも創造性の契機となる不安定性は必ずしも対話の痛みとは限りませんが、創造的な営みに従事する者が、その不安定性に耐えられず、不安定性でいることの不安から逃げ出そうとするのは、運動選手が練習の疲労に耐えられず練習をしないことに決心したと言うような滑稽と言うか悲哀を感じてしまいます。
結局こういうことになるんですよ。私がぶつかり合いを避け、不安から逃げる者と勝手に思い込んで憐れんでいるわけですか。plapotiさんは御存じのことなので書いていませんが、私は十数年ヨーロッパに在住し、異文化との対決を身を以て経験してきた者です。そもそも、私が渡欧する少し前から、西洋の文化を最も優れた普遍的なものとして追いかけてきた日本の在り方に各分野から疑問が提示され、価値観の相対化ということが言われるようになっていました。私は、西洋文化の価値観に最初から疑いの目を持って渡り、日本人としての発想にこだわり、西洋批判をしていました。つまり、私自身の思想を固めてしまい、色眼鏡でだけ西洋を見ようとしました。そういう依怙地なぶつかり方を異文化としても、何も発展はありません。次第に行き詰まり、仕事が進まなくなりました。幸いにも師匠が賢明な人だったので、誤りに気付かせてもらい、西洋的なものをもう一度見直すことになったのです。向こうの人たちともいろいろな話をしましたが、基本的に、ある程度以上の知性の持ち主なら、相手の言うことをじっくり聞きます。いきなり反発的にぶつかるのではなく、まず理解しようとします。こちらの言うことがよくわからないときは、質問されます。西洋では、個人には個人の考え方があるのは自明のことで、したがって他人には他人の考えもあるということを尊重し、相手に興味を持ちます。日本に帰ってきたら、こういう対話が成り立たないのです。哲学カテでしばしばおこる、非生産的な衝突にも同じような不満を感じているということを言っています。
>対話によって意見が統一化されてしまうのはある意味退化として好ましくない方向
私がこういうことを要求しているのではないことはすでに述べたので、コメントする必要はありませんが、対話がすぐに統一につながるわけではありませんし、違った意見を一部取り込むことで、進歩することもあります。柔軟でありながら、しかし自分の考えの基盤をしっかり保っていれば、流されるということはありません。それから、ぶつかり合いが大事というのなら、難解なヘラクレイトスや意味不明な現代芸術をいきなりゴミと呼んでそっぽを向くのではなく、一度は本気で取り組んで中身を知った上で批判すればよいでしょう。
ロゴスの問題が何度も出されていますが、このスレッドはヘラクレイトスに関するものです。ヘラクレイトスと関係なく、現代の物理がロゴスをどうとらえるかということを言っているのなら、別にスレッドを立てて、科学関係の方たちと話されればよいと思います。ヘラクレイトスにおけるロゴスをどう解釈するかが物理にとって重要、というようには読めないのですが。
ロゴスというギリシャ語は、すでに書いたように、多様な意味があります。「理」ととるか「原理」かが重要と言いますが、ギリシャ語のロゴスにはどちらの意味もあります。私個人の解釈ではありません。ペルセウスのサイトで、リデルの辞書を引いてください。たくさんある意味の中に、「law, rule of conduct」と「reason, ground」の両方が出ています。しかも、両方の意味にヘラクレイトスの文例があります。
3.law, rule of conduct, “ᾧ μάλιστα διηνεκῶς ὁμιλοῦσι λόγῳ” Heraclit.72
5. reason, ground, “πάντων γινομένων κατὰ τὸν λ. τόνδε” Heraclit.1
つまり、断片72では「原理」の意味、断片1では「理」の意味となっています。断片1はすでに出ているので省略しますが、断片72は、日本語版ウィキペディアには引用されていません。大雑把な訳しかできませんが:
たいていの人びとが、宇宙を司るロゴス(原理)と頻繁に交わっているのに、両者は離反する。彼らが日々出会うものは、彼らにとってはよそよそしく見える。
Mit dem sie am meisten ununterbrochen verkehren – dem Logos, der das All verwaltet –, von dem sondern sie sich ab, und was ihnen jeden Tag begegnet, kommt ihnen fremd vor.(ハンス・ツィンマーマン独訳)
自然界を統一する「原理」なるものという西洋人独特の見方の根拠に、一神的世界観を見ているいう話が出ていますが、そもそも西洋における自然科学というのは、世界を創造した神の意志を知るため、という目的で始まったのではありませんでしたか。ロゴスという語は、キリスト教ではイエスを指すこともありますし、最初からそういうものであったのではないでしょうか。現在に至るまでそういう傾向を保ち続けていることについては、これも一つの宗教という印象は持っています。ただ、一つの原理に基づいて統一的に構築するというのは、科学に限ったことではありません。西洋と東洋の芸術作品を比較してもわかることです。そういう方法にこだわる背景には、アカデミズムの力も大きいと思います。たぶんどの分野でもある程度似たことがあるのでしょうが、西洋の保守的な考えと違う発想を持った人がいても、なかなか認められないということはあるでしょう。
西洋文化を考えるにあたって、キリスト教的世界観が鍵になることは言うまでもありませんが、あまりステレオタイプに考えるとかえって誤ります。古代ギリシャの一元的発想は、後付けではないでしょう。そもそも、一元論にしろ二元論にしろ、西洋、東洋の両方に古くからあって、単純に一神教と多神教にリンクするものではないように思います。今日までの西洋文化の源流はソクラテス以降のギリシャ文化であって、それ以前ではありません。ソクラテス以前の自然哲学者の多くは、ギリシャではなく、小アジアの出身です。哲学の創始者と言われるタレスにしろヘラクレイトスにしろ、ミレやエペソスの出身ですが、小アジアは地中海の交易と文化の中心地でした。まさに異文化交流の地であり、価値観は多様であったでしょう。一つのドグマに追従するような世界ではなかったとも読みました。ギリシャの多神教なるものが、宗教としてどれだけ堅固に信仰されていたかどうかもわかりませんし、ギリシャ神話にしても、やはり初めは混沌があり、そこからガイア、そしてウラノスが生まれるという話になっています。世界の根源として一つのものを想定するという発想が起きても不思議ではないと思います。ただし、これらの哲学者が考えたのは「アルケー」、つまり「始まり」「根源」「元素」です。タレスは水をアルケーとし、ヘラクレイトスは火としました。詳しくは知りませんが、ロゴスよりもこちらの方が先ではないですか。「近世西洋人独特の意味」での「原理」の意味とは違うでしょう。
ソクラテス以前の哲学者と最初に本格的に取り組んだドイツの哲学者は、ヘーゲルとシュライエルマッハーです。彼らが具体的にどんなことを書いているのかは知りませんが、現代ドイツの哲学者では、ハンス・ゲオルク・ガダマーがよく論じています。レクラム文庫から出ているガダマーの「哲学の始まり」(1988年の講義)の冒頭には、ギリシャ文化を祖としない、西洋とは全く異なる海外の文化との交流が行われるような変革期を迎え、西洋文化が確信と自信を失いかけている今、ソクラテス以前の哲学はアクチュアルである、と書かれてあります。時代をさかのぼると共通点が見出せるとplapotiさんもおっしゃいましたが、ガダマーは、西洋人にとってソクラテス以前の思想は、近代西洋がよりどころとしてきた文化とは違うものであると見つつ、西洋文明の見直しという立場からアプローチしており、近代西洋的視点から恣意的に解釈しようとはしていません。
最後なので言いたいことを書きました。これで終わります。
御多忙のなか、回答を寄せていただきありがたうございます。Tastenkastenさんはユーモア精神をお持ちのなかで基本的には生真面目な御性格ですから、お気になさりすぎるのではないかと存じます。私は知識の面よりも人間関係の考察の場としてこのサイトを利用してゐます。直接会つてのやりとりとは違ひも多く、おもしろく感じてゐます。
>私は、多様性や個性のぶつかり合いを否定した覚えはありません。
ときどき「ぶつかり合い」をなさつてゐます。ねこひこさんとの対決がおもしろいのですけれど。
>私は十数年ヨーロッパに在住し、異文化との対決を身を以て経験してきた者です。
Tastenkastenさんとcyototuさんの対話に期待するのはこの分野です。私は広島県から外に出ることがほとんどなく、日本と海外の両方で生活なさる方の考へ方から学びたいと思つてゐます。
>ペルセウスのサイトで、リデルの辞書を引いてください。
いつもアナログ辞書を使ひます。アリス・リデルのお父さんの辞書は学生時代にパンの耳で食ひつなぎながら24050円で買ひました。手放せません。
>断片72は、日本語版ウィキペディアには引用されていません。大雑把な訳しかできませんが
たびたび訳をつけてくださつて助かります。私自身も楽ですし、ここは不特定多数の参加するサイトですのでなるべく大勢が理解できるやうにすべきだと思ひます。出典はマルクス・アウレリウス『自省録』ですね。訳本は2冊あるはずなのですが、どこに置いたかわからなくなりました。見つかつたら引用しておきます。
>まさに異文化交流の地であり、価値観は多様であったでしょう。
ギリシャ文字からして元元フェニキア文字に由来するとされ、少なくとも地中海沿岸はほとんどすべてひとつの文化圏であつたとも言へます。ヘレニズムとヘブライズムは意外と近いのかもしれません。
>最後なので言いたいことを書きました。
Tastenkastenさんのおつしやりたいことは、いつでも大歓迎です。
No.14
- 回答日時:
#9と10に関連して。
ロゴスを1)「理」と取るか、2)「原理」あるいは西洋人の理解した「Laws」とそれに日本人の世界観のフィルターを掛けた「法則」と取るかは、私の物理学の理解に取って深刻な問題です。
1)の意味で「理に合う」、すなわち合理性の追求はあらゆる民族が行って来たことです。人類はこの追求の結果、「法則」なる概念に全く触れることなく、古代から高度な建築物の構築や薬学や病理学の整理を行って来た。すなわち合理性の追求は、自然界や人間界を出来るだけ効率良く整理する百科全書の構築を目指す方向で進歩してきました。今でも、工学はこの方向で進歩しています。
ところが、少なくとも理系の学問の中では物理学だけが2)でいう自然界を統一する「原理」なるものがあるとの神懸かりのもとに、その存在の仮説に基づいて世界を理解しようとする西洋人独特の特異な見方を執拗に追い求めてきました。すなわち、同じ数学を使っても、物理学と工学では全く違った文化、すなわち世界観を持っているのです。
私はこの西洋人の特異な見方の根拠に、ユダヤ・キリスト教の一神教の世界観があると見ております。エジプトもインドも中国もマヤもインカも日本も、みな1)の意味での合理性を追求してきましたが、その底にある多神教的な世界観ゆえに、工学的、百科全書的な接近で世界を理解して来たのだと。
そこで疑問が湧いて来たのですが、多神教であった古代ギリシャの人々が、この近世西洋人独特の2)の意味で「原理」の存在を信じるなどと言う神懸かりを果たして思い描くことが出来たのか、あるいは、後の人が無反省にユダヤ・キリスト教的一神教の世界観を古代ギリシャの人々に後付けで当てはめてみて解った気になっているのか、どちらなのでしょうか。
これは、私にとって「物理学ってなんなのか」を考える上で深刻な問題ですので、宜しかったら皆様のご意見を聞きたいです。
この御回答を拝見して、ロゴスについて私の頭の中もいくらか整理できました。
>1)の意味で「理に合う」、すなわち合理性の追求はあらゆる民族が行って来たことです。
これは企業内でおこなはれることです。合理性の追求は死活問題になります。民間企業で働く者にとりましては常に念頭におくべき要素です。
>理系の学問の中では物理学だけが2)でいう自然界を統一する「原理」なるものがあるとの神懸かりのもとに、その存在の仮説に基づいて世界を理解しようとする西洋人独特の特異な見方を執拗に追い求めてきました。
ブログの中では一種の宗教だと指摘なさつてゐました。
>どちらなのでしょうか。
私は後者だと考へてゐます。回答番号10のコメントにも書きましたが、西洋的なものも時代をさかのぼれば日本と共通するものが多くなると感じてゐます。後世の西洋文明こそが人類史のなかで特殊なのではないでせうか。具体的な根拠が示せるわけではありませんけれど。ギリシャ古典が好きな理由でもあります。
他のかたがたの見解もうかがひたいと存じます。御回答ありがたうございました。
No.13
- 回答日時:
#12の回答の関連です。
>哲学カテに集まる方たちのかなりの人が自身の思想を固めてしまっていて、他の者の投稿を最初から先入観で恣意的に曲げて読むということです。
私は、これぞ多様性の貴重な役割だと考えております。あらゆる個々の学問や芸術活動はそれぞれ固有の文化、すなわち個性を作り上げてきました。文化の違いとは価値観が違うと言うことです。そして、その人が偶然に選んでしまったその活動分野をトコトン押し進めて行くと、その文化固有の色眼鏡を手に入れることになる。その色眼鏡で見た価値観の序列から物が言えるようになった段階で、自身の思想を固めることができるようになったと表現できるでしょう。そして、この個性と個性の打つかり合った世界であるからこそ、多様な世界と言うのです。
で、この打つかり合いは、世界を統一に向った方法に進ませて来たでしょうか。芸術、学問、社会、生物、自然、どの発展史を振り返ってみても、ほとんどの場合、この打つかり合いのもたらす「不安定性」のためにその点に留まっていられなくなって、新たに右に進む者と新たに左に進む者の「分岐」が生じ、今までにだれも想像だにしなかった新しい世界の創出がなされて来ました。すなわち、これが創造的な営みです。その営みによって、存在、すなわち「時間の流れ」を否定する「存在」に相対するものとして、陰にも陽にも存在していなかった新たなものの創出を通してもたらされる「変化」がもたらされ、時間が前進させられて来たのです。すなわち創造的な営みが時間を前進させている。
話しがずれますが、その点、日本語の「トキ」と「トケル」が同じ語源から来たものであり、日本人がトキの流れを、西洋人のするように永遠不変な周期運動の繰り返しの数、すなわち存在するものとして捉えたのではなく、変化するものから捉えたことに、私は日本人の文化、すなわち個性に一際興味があります。
話しを元に戻して、もちろん強大な軍事力によって他の価値観(すなわち文化)を押しつぶし、自分の価値観に統一てしまう運動、すなわち進化でなく退化に導く「文明」という社会運動も人類の発展しにはなかったわけではありません。しかし、創造性の否定である文明と呼ばれているこの退化の動きは発展史の中で例外的事象であり、圧倒的多数の場合その反対に価値観の違うものの遭遇、打つかり合い、せめぎ合いが、新たな世界を生み出し、より多様で豊富な文化を創出して来たのです。
「哲学には対話が不可欠」とは正にこの創出の営み、あるいは創造的営みの部分が最も重要な営みであり、対話によって意見が統一化されてしまうのはある意味退化として好ましくない方向かも知れません。別な言い方をすると、それぞれ違った方向に自身の思想が固まってしまっている人の間の対話の方が、まだ固まっていない人の間の対話より、より不安定性をもたらし、従って、そのせめぎ合いから創造的な営みという新たな世界の発見がなされるのではないか。それが芸術、学問、社会、生物、自然、どの発展史を振り返り分析した結果得られた私の見解です。私の尊敬する友人で物理学で世界的に著名な寄与を数々なされたテキサス大学のG. スーダーシャン教授が私に個人的に仰った次の言葉、
「年を取ると良いアイデアが出て来なくなると言うのは嘘だ。私なんか年を取れば取るほど良いアイデアが出てきている。ただし、若い頃はそのアイデアが出ると夜中でも何でも直ぐに起き上がって、計算で確認したもんだが、年を取るとその計算を明日起きてからやろとしてしまうので、そのアイデアの実現が出来なくなっているんだ」
は本当です。色眼鏡の色が鮮明になればなる程、違った意見との遭遇で新しい発見がされて来る経験を私自身何度もしてきました。
音楽でも物理学でも創造性の契機となる不安定性は必ずしも対話の痛みとは限りませんが、創造的な営みに従事する者が、その不安定性に耐えられず、不安定性でいることの不安から逃げ出そうとするのは、運動選手が練習の疲労に耐えられず練習をしないことに決心したと言うような滑稽と言うか悲哀を感じてしまいます。
アインシュタインに触れられましたが、この方は専門の物理学を論じるときの態度と、専門以外の一般のことを論じるときの態度が極端に乖離している方で、混乱を招きやすい方です。上でも述べましたが、創造的営みの本質は不安定性であり、その不安定性は偶然を契機として一気に増幅されます。その増幅が分岐をもたらし、新たな世界の創出へと導くのです。そして、アインシュタインは物理学者の中での一際創造的な方でした。ところが、そのアインシュタインが目指した物理学の定式化は、徹底的に決定論的な物理学の基本法則の構築であり、上で述べた創造性の源である偶然を徹底的に排除しようとしたのです。量子力学の構築の際のニールス・ボーアとの論争で彼が
「神はサイコロを振るわない」
との言葉が、その象徴として余りにも有名ですが、事実、彼の提示した基本法則は全て決定論的な微分方程式で書かれています。実は、その論争で
「人間の分際で神のやり方に命令するとは、なんと不遜な」
とニールス・ボーアから一本取られていたのですが、それは巷では余り知られていないようです。
でも、このアインシュタインの持つ極端な内部矛楯がアインシュタインの人間的魅力であり、またその矛楯のもたらす葛藤による不安定性が彼の創造性の源になっていたのかもしれませんね。
私は個人的にプラトンの対話編のやうな形が好きですので、御回答に感謝してをります。
>多様性の貴重な役割だと考えております。
私もさう思ひます。世界中の人がひとつの思想で結ばれれば平和になるのだ、といふ主張がなされますが、ウソくさく感じます。多様性がなければ、さまざまな危機的状況に対応しきれなくなります。生存に必要なのは単一化ではなく、多様性です。前向きにとらへれば、おつしやるとほり「創造的な営み」になるのでせう。
>日本語の「トキ」と「トケル」が同じ語源から来たものであり
のちほど考へます。
>色眼鏡の色が鮮明になればなる程、違った意見との遭遇で新しい発見がされて来る経験を私自身何度もしてきました。
「違ひ」は排斥するものではなく、認識するものなのですね。
>不安定性に耐えられず、不安定性でいることの不安から逃げ出そうとする
私の場合は、良薬がありますので万全の状態です。毎晩のんでゐます。
>「人間の分際で神のやり方に命令するとは、なんと不遜な」
ブログのほうで拝見しました。楽しいやりとりです。
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コメントでストラボンの出典をまちがへました。『地理誌』第14巻1章26節です。ついでに訳しておきます。
「注目すべき人物が古来よりここ[エペソス]で生れた、暗い人[スコテイノス]とも呼ばれるヘラクレイトスや、ヘルモドロスである。」
断片72の元ネタですけれど、Tastenkastenさんの訳文のほうがこなれてゐます。引用者マルクス・アウレリウスのコメントを期待したのですが、「ヘラクレイトスのことばを心に銘記しておく」ことの大切さを述べてゐるだけでした。高評価してゐたやうです。
「不断に交わっているもの、つまり万有を支配するかの理性[ロゴス]、と人々は最も仲違いをしている。日々出会うことどもが彼らの目には無縁なものと映る」
(マルクス・アウレリウス『自省録』第4巻46章 鈴木照雄訳 講談社学術文庫 66ページ)