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劣等感を無くすにはどうすれば良いですか。
長文になります。

進路の話になりました。
私は成績は良い方ではありません。
ですが、今回の模試の結果は
私にとってはまあまあ良い出来栄えでした。
そして、志望校がA判定の学科内1位でした。
私はもちろん嬉しくて、
友達に報告しました。
私、今回の模試でA判定だったよ、と。
それを聞いた友達は
「どんだけ雑魚な大学なんだよ。
私立受けるの?あはは。
それのことについて、
昨日○○(他の頭が良い友達)と話てたの。
お前で1位とかまわりのやつ雑魚すぎる。」
と返してきました。
私は普段へらへらした性格なので、
その場は笑って過ごしましたが
1人になった今涙が止まりません。
友達はいわゆる優等生で凄く成績が良いです。
私も、なんでこの子が一緒に居るんだと
たまに思うくらい釣り合いません。
優等生にとっては雑魚に
思えるかもしれませんが
劣等生の私にとっては
立派な進学を希望する場所なのです。
私には姉がいますが、
姉もまた優等生で良い大学に進学しました。
友達は定期的に私に
「お前の姉さんが欲しい。羨ましい。」
「姉さんに比べてお前はどうしたんだ。」
と、知るはずもない姉と比べてきます。
まあ、姉と比べられるのは
慣れっこなのですが。
話がいったりきたりしてすみません。
劣等感の塊な私ですが、
きちんと社会に役立てるでしょうか。
周囲から見た私の評価は低いです。
ただの雑魚です。ばかです。
劣等感を無くして自信をつけたいのに、
昔から周囲罵られ続けてきたゆえ、
自信がいまいちもてません。
どうすればいいでしょうか。

A 回答 (12件中1~10件)

質問者さんだけではなく、同じようなケースが沢山あると思います。



結局は、不快であり苦しいという心持に落ち着くんでしょう。

これらが長く続くときは、

気がつかない罪を犯していて、罰を受けていると考えると良いですよ。

ではどうして多くの人が罰を受けているのか?

不思議ですよね。

実は、普段は気がつかない大きな問題がありまして、

これを問題にしている人が少ないからです。


悩みの多くを自己解決している人、

俗に言う”出来る人”とか、別格な人はこれらに気がついております。



その問題の部分は、

子供のときに習ったり使ったりした言葉を、大人になっても使うことです。


例えば、

良くも悪くも無い、”普通”と言う言葉があります。

普通と言う言葉は、子供言葉のひとつです。


少し大人に成ると、

”普遍的”、”一般的”、”正常”という言葉を習いますよね。

ぞれぞれの意味を正確に考えてみましょう。

正常であることが望ましく、一般的であることは何の安心にもなりません。

異常であることが普遍的であった場合、

これで安心してしまうのは愚かですよね。

自分だけは正常であって欲しいものです。


また、優れているという概念も同様です。

どれも相対的な話ですよね。

何かの目的を果たすために必要なものが充足されているという話じゃありません。


このため良い、悪い、普通という概念は、何の役にも立たないのです。

少し前に、超えられない壁、雑魚、などと言う言葉がネットの掲示板ではやりました。

私の時代ですと、パンピーとか言う表現ですね。

ドブネズミ(風采の上がらない普通のサラリーマン)などと馬鹿にされることもありました。

生まれも育ちも特に変わらないはずなのに、

一定の年齢を超えると、大きな差が生じて、相手がまぶしく見える。

どうすると同じステージに立てるのかわからない。

こんな壁ができてしまう謎が分からない。

そういう悩みでしょう。


この謎の原因は、先ほど述べた、良い、悪い、普通という言葉を使い続けているからです。

壁を越える人は、この問題の怖さを痛感しています。

必要、無駄という言葉を良く使います。

損をした得をしたと言い換えます。


良い、悪い、普通という言葉を使いますと、

次に何をして良いのか分からなくなるんです。

(この何をしたら良い? という表現も宜しくないんですが)

意識がぼやけてしまい、気がつくと時間が経過している。

そういう脳の状態になります。


例えば、

良いと言われれば、満足感が広がります。少しサボっても大丈夫な気がします。

悪いと言われれば、不安感が広がります。悩みが消えるまで何もする気が起きません。

普通と言われれば、今すぐ何かをする必要がないと感じます。

何かもっと良いことがないか?探してみたいと思うはずですし、

自分の悪いところや他人の悪いところを反芻したいと言う衝動に負けます。

当人は気がつきませんが、

他人から見ると、ぼんやりしており、何もしていないように見えるわけです。

必要なことをしている他の人と差がつきます。

この時に、

「私は何が悪いんでしょうか?それとも普通でしょうか?」

と聞いてしまい、

「特に悪くない。普通だよ。」

と答えてもらい、安心してしまい元に戻ります。

これは一回ではなく、何度も繰り返しているはずです。

停滞を脱出するチャンスを失い続けますから、差が大きく広がります。

最後は絶望をするという羽目になるのです。

つまり、他人への問いかけ方が宜しくない。

勿論自分への問いかけ(思考の仕方)が適切じゃないということです。

一生気がつかないで死ぬ人が昔から多くいます。

私たちが子供の頃に見た、風采の上がらないおっさんやおばちゃん。

間違いなく、良い悪い普通をやっているはずです。

これを辞めた人と、それが怖い事であると知らなかった二種類の人しか、

いないということです。

良い悪いに囚われている状態ですと、

良い悪いに囚われている仲間同士で相対的に優位でも、

50歩100歩でして、

必要か不要、損得だけを論じるライバルには全く叶いません。


例えば、

質問者さんの友人の方は、

あなたを傷つける必要が全く無いのに、

余計なことを言っていますよね。

誉めること、助言することが、貴方にとっては必要だったはずです。

無駄なことをして、何もしない状態よりも、環境(人間関係や近しいもの)

を元の状態よりも悪くしたわけです。

このようなミスをする人が優秀であるとは思えません。

必要か不要であるかを常に考えている人ならば、

その人のそばにいるだけで、

段々と環境が良くなっていき、快適になるはずです。

そうでない人は、生きているだけで、周囲を壊していくのです。

良い悪いという概念を超えて、罪深きことですし、いずれは損が貯まって、

自力では取り戻せなくなるでしょう。



物事には良くも悪くも無く、

必要であったり、無駄であったり、得をしたり、損をしているだけなのです。

これが現実であり、他の概念は無駄であり、損に結びつきます。


さて、良いか悪いか考える衝動を止めてみましょう。

できますか?

苦しくありませんか?

やめてしまうと何か寂しく感じませんか?

禁断症状に似た不安感が生じないでしょうか?


これらを絶って、禁断症状がなくなれば、始めて壁を越えます。



では、再度振り返ってみましょう。

あなたは、ご友人からどんな言葉を必要としていたんでしょうか?

曖昧であったり、無駄な表現により、婉曲的に引き出そうとしていませんでしたか?

「少しやる気が出てきたので、

 批判はあると思うけど、そこは大目に見て、

 尊敬する君から誉められると、自信がつくんだ。

 そういう言葉が必要なのでいただけませんか?」

と必要なことをダイレクトに述べたのでしょうか?


冒頭述べました、気がつかない罪を犯し、罰を受けているというのは、

この様な話であります。


欲しいモノがあり、誰かにこれを求めるときに、

直接訴えないのは効率が悪く、行為自体が無駄です。

それを恥ずかしがる必要もありませんし、相手に誤解をさせる危険もあります。

自分の欲求満たされない可能性が高く、そのあと何日も悩む恐れがあります。


空気を呼んでくれないと言って八つ当たりをするようになれば、

その期間は停滞します。


そうした事態に成ることを知っており、気をつけている人と差が開きます。

良いか悪いかで解釈する癖が抜けておらず、

必要であるか、不要であるか、

損をしたのか得をしたのかを考える習慣が全く無いからです。


損得を考え続けていきますと、

「こんな良い気分になるとは、得をしたな。

 やって良かった。」

と言う具合に、心の負担も損得で考えるようになります。

けっして、冷たい人間になったりしません。


つまり、

良い人がいたり、悪い人がいたりするのではなく、

苦しんでいる人と晴れやかな心を持つ人の二種類がおります。

前者は、良い悪いで考える癖をもっております。

後者は、必要不要、損得で考える癖を持っております。

苦しんでいる人は、苦しみから逃れるために、必要でないことを沢山します。

逆に言えば、必要でないことを沢山している人は、

(例えば陰口であったり、苛めであったり)

他人が知らない本人だけの事情で苦しんでいることは間違いありません。


劣等感で悩む内容を考えて見まして、

それが必要なことであれば、きっと事態は改善するでしょう。

不要なことであれば、何も変わらず、疲れるだけでしょう。

これは間違いないと思いませんか?


悩みすべてが不要ではありません。

大事なのは、

「ああ、これは無駄だなあ。これは、手堅いなあ。

 これは大変だからやりたくないなあ。

 これは少しだけましに成るかな。」

とより分けて考える癖をつけることでしょう。

必要不要のみで考える習慣は必要です。

これがなければ、劣等感や無駄な優越感(傲慢)の間をいったりきたりし、

心が休まらず不幸です。


他人よりも、物事を旨く運ぶことができたとして、

これがうれしかったからと言って、自慢に聞こえるように話すことは必要ありませんよね。

無駄です。

しかし、嬉しかったので誉めて欲しいと伝えることで、早々関係は悪くなりません。

必要なことをダイレクトに求めているからです。



長くなりましたが、ここまで読んで思いませんか?

必要不要で厳密に生きている人が少ないんじゃないか?


これほど必要なことを、誰もしていなければ、その罪が罰に変わるのは仕方ないと思えます。

別の人が優秀であろうと、劣っていようと、

自分の力を高めるためには関係なく、必要ではありません。

また、

自分の力は、自分が求めるものを、必要な分量だけ得るために必要です。

余分に持つということは、

その分を他の必要なものを得る時間に割り当てることができたと証明することになります。

けっして大は小をかねると成りません。

割り当てが下手であったという証明をしているだけです。

ましてや、他人を馬鹿にして、相手を本気にさせる必要が何であるんでしょうか?


そういう人の言動を深く考えることが何より無駄であり、必要ではないでしょう。

何れは消える定めに思えます。

以上、ご参考に成れば。
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国立大学なら雑魚じゃないのでしょうか?


その友達の論理で言えば、難関国立大からすれば他の国立大なんて雑魚だし、
世界の大学ランキングからすれば日本の大学は全て雑魚ということになります。
その友達の言葉に振り回されるのは馬鹿げています。

人にはそれぞれの能力があり、それぞれの役割があります。
それに上下をつけたがり、「自分の方が上だ」という虚栄心に満ちた人は実際何の役にも立ちません。
進路を決めるにあたって、偏差値ばかりに左右されることは愚かです。

自分が何を望み、何が向いていて、何をすれば社会の役に立てるのか。
真に大事で考えるべきなのはそういうこと。
皆持っている能力や役割が違うんですから、
誰かと比べて劣等感を持つなんて、無意味ですからおやめなさい。
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あなたにはあなたの良いところがあると思います。


幾つか私なりの考え方のアドバイスをさせて頂きます。
大変申し訳ありませんが長文になってしまっていますので心に御余裕のあるときにお読みくださると幸いです。

一つは自分のことを認めてくれる人を心の支えにすること。
私自身の場合は母がそれに当たりますね。
自分を心から認めてくれる人が一人でもいるとかなり強い心の支えになります。
自分を認めてくれる人がいるんだから、自分もその人が認めてくれている分は自分を認めてみよう、と前向きになることができます。

もう一つ。あなたのお友達に限りませんが、自分のことを悪く言ったりあなたの自尊心を傷付けるような人の言うことは信じない、もしくは心のなかでスルーしてしまうことが大事だと思います。

少し難しい話になってしまって申し訳ありませんが、私は人間の心は、漠然とほわほわした感情だけのものではなく、結構論理的なものだと思うのです。
人間の心とは、
その人の正しいと思うことや好みなどが、その人の価値判断で整頓されて集まった集大成のようなもの
ではないでしょうか。
(猫が好き、この色が好き、人とは基本的にこう接したい、こうするのはいけないこと、これは嫌い……などですね)
そして、それらの項目(醒めた言い方になってしまいますが)を行動や思考、感情の基盤にして「人」は生きているのだと思います。

例えば、あなたには日常で、学校に行ったり、何かをし始めるのが何となくおっくうにかんじたり、家路についてから何だか気分がずっとむかむかしていたり、という経験がありますか?
(逆になぜか気分が弾んでいるようなこともあるかも知れませんね)

恐らく、そのようなちょっとした気持ちの変化には何かしらの理由があるのではないかと思います。

登校におっくうさを感じていたのは、実はその日クラス合同の体育の授業で苦手なバスケットボールをしなければいけないからだったり、これは私自身の経験ですが、駅の改札口で少し人の流れを止めてしまったとき、後ろの男性に舌打ちをされてしまったなど、ちょっとしたことでその後の気分が沈んでしまっていたり。

人の心は、自らに合わないことに対して拒絶反応を起こします。
人には絶対に迷惑をかけたくない、という項目をもつ心の持ち主は、苦手なバスケットボールでチームの足を引っ張ってしまうことに強い嫌悪を感じるでしょう。
その人にとっては、その日バスケをしなければならないことが気分を鬱屈とさせてしまいますし、実際にチームの足を引っ張ってしまった場合はその後の気分に悪影響があるだけでなく、バスケが下手な自分への嫌悪、劣等感にさえつながってしまいます。

それに、(ほとんどの人がそうですが)人との衝突を嫌い、平和を好む心の持ち主は、舌打ちされるのを嫌います。
ただでさえ人への舌打ちとは表現上の攻撃です。自己の存在を脅かされる可能性をうっすらと感じ取った心は強い不安に駆られることになるでしょう。

さて、ここからが厄介なのですが、バスケの失敗。舌打ち。どちらも中々に些細なことです。少なくともずっと気にし続けるほど重要なことには感じないのではないでしょうか。それらの出来事はその人の意識から段々と薄れていきます。すぐに忘れてしまうこともあるでしょう。
しかし、心は違います。人に迷惑を掛けたくないのに、自分の鈍くささのせいで掛けてしまったこと。人に攻撃されて、本来大切にしたい「自分」(行動などの基盤となる心のことですね)の存立に不安を感じたこと。これらはやはり、心の
「人に迷惑を掛けたくない」 「自分という存在を保っていたい」
という項目に矛盾を残します。
この矛盾は、それまで行動の基盤としてしっかり機能してきた心を揺るがすものです。その人の基盤に混乱が生じてしまうのです。
でも、矛盾や混乱を引き起こした事柄自体は忘れられてしまいます。それによって、心の混乱が解決されずに残り、解決すること自体困難になります。

劣等感やコンプレックスはこうして生まれます。これらを解決するには、その時の自分の心と向き合うことです。(心は当時のことを解決できず引きずってますから、実は今の自分の心と向き合うことにつながります)

あなたの場合でしたら、周りの方々に言われた暴言の数々でしょうか。辛いでしょうが、少しずつでいいので、言われたことを思い出して下さい。
言われたことを思い出すと、その時の気持ちが蘇ってくるでしょう。その気持ちに向き合ってあげてください。その気持ちこそが、あなたの心であり、「あなた自身」です。
「そっか、私はこう言われたことが辛くて堪らなかったんだ。辛かったよね。苦しかったよね。忘れちゃってたけど、ずっと苦しんでたんだ。ごめんね」
と、もちろん掛ける言葉はあなた次第ですが、こうやって自分の気持ちに向き合ってあげること。これが矛盾を解消させ、劣等感やコンプレックスの清算になると思います。

後は、自分を信じてあげて下さい。あなたの心は、あなたしか持ってません。陳腐な言葉ですが、文字通りオンリーワンです。自分のことを信じて、認めてあげる。そして、友達や周囲の自分へのこき下ろしが自分には合わないもの、無視していいものなのだ、と信じることです。

何事も、実は信じることから始まっています。仮に周囲の人のことを全然信じられなければ、疑心暗鬼に陥って心の安息はほとんど望めませんよね。
何かを信じること。これが全ての始まりであり、信じることは本当に強い力を生みます。

ですが、何かを信じることには少し無防備さもあります。最初は信じた対象に裏切られる不安を感じるかも知れません。
私なりのやり方ですが、信じたいものがあっても信じるのが怖い場合、覚悟を決めることです。

例えば、私は過去に自分に自信がなかったとき、自分が大切な人を何かの拍子に傷つけてしまうのではないかと常に不安を感じていたことがあります。夢遊病のように、自分の意思ではどうしようもないものに不安を感じていたんですね。自分は自分の意思に関係なく人を傷つけてしまうこともあり得るのではないかと。ですから、箸一膳持とうものなら気が気じゃありませんでした。
その不安があまりに強く、またただ信じることも怖かったので、私は自分を信じると共に、覚悟を決めました。
「私はそんなことしない。私は自分の行動を自分の意思で管理できるし、無力でもないんだから。大丈夫。そう信じる。でも、仮に万が一そんなことをすることがあったら、いやしそうになったら、私は自分で死のう」という具合に。

こう書くと人に勧めていい方法じゃない気もしてきましたけど(汗
そんな極端な覚悟じゃなくていいんです。何かを信じて、もし裏切られるようなことがあっても、私はその結果を甘んじて受け入れて、歩いていこう。
大概のことはこの覚悟で向き合えます。これでも結構大きな覚悟でしょう。

自分の信じたいものを信じて歩く。これが私の考える一番人間らしい生き方です。
信じるものはあなたが決めるんです。自分の心に合いそうなものを信じることをお勧めします。

逆に、周りの方々の暴言のような、あなたの心に矛盾するようなものは、信じないで無視したほうがいいと思います。
これまであなたは沢山傷付いてきたんでしょう。あなたの仰る友達の言うことを信じることなどは、あなたのためになりません。
(信じないことと疑うことは違います。信じないことは自衛。疑うことは対象の完全な否定と、時に自分自身への攻撃。信じない、ということは別にしてもいいんです)

ざっとこんな感じです。強く生きていきましょう。応援しています。長文失礼しました。ここまで読んで下さってありがとうございます。
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おじさんです。


自分と他人をあまり強く比較しないことが大切です。
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どこの大学に入るかが問題ではありません。


入った大学で何をするか、です。
充実した4年間を過ごしてください。

充実した4年間を過ごしたあと、気が付けばいつの間にか自信を持てていると思います。
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劣等感といっても、ただまわりの人より成績が悪いだけの話で


成績が良くなればその劣等感はなくなるはずですよね

社会に出てからも、あなたよりも仕事に優秀な人がいれば
またおなじこと

他人とくらべていたら、いつまでたっても劣等感はついてまわります

あなたより劣っている人があらわれたら、劣等感はなくなり
あなたより優秀な人があらわれたら、また自分が劣等感に悩まされる

他人がいることで劣等感があらわれたり消えたりすることに
疑問をもちませんか?

劣等感は自分のなかにあるのではなく
他人が持っているということです
極端にいえば、見知らぬ通行人すべての人が
あなたに劣等感を持たせるか持たせないかのなにかを
持っているのです

そして、他人の持ち物であなたがつねに
悩んだりときには悩まなかったりしているのです

今回成績もよかったのですから
ここら辺で一度じっくりと
他人とくらべない生き方ということを
考えてみてはいかがですか
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劣等感をなくすのは無理ですよ。


死ぬまでついて回るのが劣等感です。

だから、なくすのではなく、上手に付き合う
利用するように努めるべきだと考えます。

劣等感があるなら、それをカバーできる
何かを身に着けることです。

そうやって劣等感をエンジンにして
前に進むしかありません。

何もしなければ、未来永劫今のままですよ。
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この世の中の何処へ行った所で、あなたのような雑魚が人口の過半数なのです。

大きな顔してらっしゃい。
社会は多数派に占められる。優秀さは常に希少であるから、社会を構成する主格は、ヒエラルキー下辺の人間なのだよ。それらを生存させる為に社会は発生したのだからね。
あなたが社会の役に立ちたいならば、自分は雑魚なのだと自覚する事であって、分相応な自信を持つ事ではないよ。でないと、生き方を間違いますよ。
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…進学すれば、そのお友達とやらと離れるでしょう。

もうそれ以降その人との関係を断てばいいだけだと思います。

相手はあなたの事を大切な友達だとは思っていないと思いますよ。

私は学生時代の成績というのは飛び抜けて良かった方です。今でも学歴を知った人はそれなりの目で私を見ます。
が、私は自分の成績と他校の友達の成績を比べて、その事について友達をバカにする気持ちというのはありませんでしたし、仮に多少の優越感というものがあったとしても、『友達』にそのような言い方はしません。努力もせずに愚痴ばかり言うような人でなく、少なくとも友達が頑張って、そして結果になり喜んでいるなら、尚更です。
今では(今は気軽な仕事をしているので)変に浮いたり、そういう目で見られたりしないように、周りの人には成績の事や学歴については殆ど語りません。
そんなものでなく、今実際に一緒に仕事をして、その実力で認められたり、一緒に話す事なんかが楽しいと人として好きだと思われる方が、ずっと嬉しいし楽しいからです。

また、ちょっと話はズレますが
私にも姉がいて、その姉は誰もが認める美人で可愛いと評判でした。
姉は母似で、私は父似ですので私は褒められる事なく、7歳も年が離れているのに事あるごとにお姉さんは綺麗ね、有名よとあちらこちらで言われたものです。
冗談で私は?と聞くと
あー、姉妹だからね…
ダイヤの原石?磨けば綺麗になるかもしれないと言われたこともあります
私も姉はとても綺麗で、可愛いと思います。一応同じ一族ですから、全くの別人というわけでもないのですが、より完璧なものの横に立つと、必要以上に劣って見えるのです。比べられるというのは、
時として残酷ですよね。

で、話は戻るのですが、
あなたは、その友達に憧れますか?
外見はわかりませんが、成績が凄くよくて、そして友達にそういう事を言う人に。
自分が特に秀でたものをたまたま持っていたので、それを誰かと比べ、自分より劣った人をバカにし、そしてその周りの人まで見下す人に、あなたはなりたいですか?

もし、そうなりたいなら
今からでも死ぬほど勉強するか
将来人を見下せる位の専門知識を見につければいいのです。
学校の成績=社会人としての立場や収入というわけではありませんから。

でも、そうでないなら
冷静に大人として見ると
きっと10年後にそのお友達と会えば
彼女が素晴らしく今とは違う人格かと思うほど社会に適応した人になっているか
偉い立場であっても皆に心底嫌われているか、どちらかの大人になっているでしょう。

あなたは、今の自分に劣等感を感じている、それは、わかりやすく点数がでる成績が中心になっているので今すぐどうにか出来る事ではないと思いますが、5年後とか10年後とか
その時の自分を考えてください。

あなたには、そのお友達やお姉さんより劣っている部分がある。だけど、あなたにはあなたの優れている部分もあるのです。
ちゃんと、それを自分で知らないだけなのだと思いますよ。

ちなみに、本当の友達というのは
あなたの良いところを、言葉にするかどうかは別として、よく知ってくれているはずです。もし、まだ居なくても、そういう友達と出会えた時は素直に聞く心を忘れないように、あなたは、あなたらしくいきましょう。
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劣等感を無くすのは簡単です。


人と比べないこと。
人と比べて落ち込んでいる時間があったら、自分を好きになれるように過ごすことです。
そして、自分のために必要な勉強をするのです。
そうして頑張ったりにこにこしたりして過ごしてるうちに、きっと誰と比べることもなくすてきな人になってゆくと思います。
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