プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

A 回答 (142件中31~40件)

ニュートラルさん、お元気そうで何よりです。



>☆明るい色は何でしょう
☆ドラえもんの四次元ポケットはのび太にとって有益か否か
☆蜘蛛の糸(芥川)のカンダタの行為は善なのか悪なのか

 「明るい」「有益」「善悪」が主観的にしか規定できないということですね。だからこういうものは、質問を客観的な次元に変える他ないんですよね。
 ・白と黒のどちらが明るい色でしょう?
 ・四次元ポケットはのび太の自律を助けているか否か?
 ・カンダタの行為は違法(宗教法と世俗の法)か否か?
 まあここら辺ならスパッと答えられます。

 結局、先生の頭が悪いケースもあるのです。むかし私は塾の講師をしたことがありますが、途方もなくできない(?)クラスを任されることになってしまった。で、前任者が作ったテストをめくって仰天。日本語が意味不明なんですね。「1192年に源頼朝は何をやったか?」。こんな風に聞かれたら、飯を食った、風呂に入ったとか、何でも答えていいことになります。あるいは「金閣はどこに存在するか?」。答えは鹿苑寺なんでしょうが、「存在」と言われると、形而上学的な議論かと思ってしまいます。私ならばカントの話かと思って、現世(フェノメノン)に属する存在である、とか答えるかも知れません(笑)。

>とりあえず発言者に訊いてみます。

 それはいいことですね。

>【主観】をどんどん話し合う【ディベート】の時間にしたらどうよ?と思ってます。

 何が明るい色かという話を、色彩論じゃなくて主観の問題として話し合うっていうことですね。議論の枠の取り方で、無意味にもなれば、有益にもなりますね。
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この回答へのお礼

実際には明るい茶色というのは存在しますから、ぶっちゃけその先生は常識を教える事に引っ張られた結果、生徒に不満を残す事になったのですね。大人にとっては些細な事でも子供にとっては大きな事だというのもよくある事なので、先生にももっと楽しく授業をして欲しいと思いました。

そう言えばここ数日の強烈な寒気の到来で、鹿苑寺金閣にも雪が積もった様です。金閣の雪景色は平時とは全く違う表情を見せますね。同じ場所でも違う体験が得られると考えると、楽しいですね。同じ質問でも、人が寄れば色々な意見が出るのは、それぞれに異なる背景があるからかな、それもまた愉しです。

お礼日時:2016/01/20 23:07

こんばんは、あふぉなさん。




>帰結が同じでも至るプロセスが異なると、
>異なる意見の様に見えるという事です。
:はい。(*´▽`*)
少年たちはやはり【勝利】が大好物なんですが、
回り道の種類は人の数だけあります。
しかし練習中は【集団行動】なので、
ひとりひとりがバラバラな回り道をしていると
チームでの練習にならないんですね、
だから「全体を観て適切に進行」しつつ、
ひとりひとりに課題をささやくんですよ、
練習が終わった後これを練習するといいよ、と。


そうすると、練習後、
コーチから解放された子ども同士で団結して、
勝手に練習し始めるんですね、
1年生から6年生まで同じグラウンドにいますから
低学年の子は勝手に高学年の子をつかまえて、
あれやこれやと技や戦略を教えてもらってます。


ときどき鬼ごっこを始めたりしますが、
練習後の、あの団結力って大事だと思います。



>大概の相違は認められるものだなと思えます。
:はい。(*´▽`*)
結果オーライ、なのだけど、
限られた練習時間をいかに効率よく使うか
というのはわりと大切で、
明らかに無駄な回り道や、
ケガ人が続出しそうな回り道は避けてます。
たとえばグラウンドを30週走るとか
これまた練習が終わってからいくらでもできるし、
それにオスグッド病など成長期のケガも多く、
予防できるなら予防したようがよくて、
だからわたしは解剖学だとか予防医学だとかの
講習会にしょっちゅう参加しているのですよ。




>正解を行ってるのに自信のなさ気な子供
:そうそう、どなたかがおっしゃっていましたが、
堂々と失敗してよいのです。
チャレンジしなければ失敗すらできませんから。
初めから何もしないほうが ずっと恥ずかしい。




___________




あふぉなさん、ちょっと場所をお借りします。


84番のサイコロさん。
わたしを覚えていてくださりこちらこそ光栄です。
また分かりやすく説明してくださりありがとうございます。


>私なら最初に肯定も否定もしないで、
:はい。(*´▽`*)
わたしも最初は肯定も否定もしませんが、
わたしなら、なぜ茶色を明るい色だと思うのか、
とりあえず発言者に訊いてみます。
8年前もそうしたし今もやっぱりそうします。


>じゃあと言って、茶色の見本を大量に示し、
>暗い茶色と明るい茶色を考えてもらいます。
:あはは……こんな手間のかかることをしよう
という発想は、わたしにはできません(笑)。


>自由度を狭め、白と黒を示して
>「どっちが明るい色かな?」と二択問題にする
:これは良い案ですね。
これなら、こっちが正解でこっちが不正解、
ということで全員が納得できるでしょうから。


___________


☆明るい色は何でしょう
☆ドラえもんの四次元ポケットは
 のび太にとって有益か否か
☆蜘蛛の糸(芥川)のカンダタの行為は
 善なのか悪なのか


↑こういうのは【正解も不正解も無い】問題
だから【これが正解でこれが不正解】
と教えるのはどうかと思うんですね。


ちなみに今は小学校1年生から
英語の授業と【道徳】の授業がありますが、
あんなのはやめちまって、代わりに


【主観】をどんどん話し合う【ディベート】
の時間にしたらどうよ?と思ってます。



>これが分かるようになるのって、
>大学院に入ってからだし、
:あ、大学院?行ってません。(ノД`)・゜・。

>分からない人は永遠に分からない
:わたしもそうかもしれません。(/_;)


>芸術の良し悪しの判断などもはや込み入っております。
:はい。わたしがトランペット吹きで
中二の娘がホルン吹きです。
ソロ演奏ならアドリブでテンポや楽譜を
変えちゃってもよいのだけど、
吹奏楽だと50人で調和してナンボ!なので、
勝手なことをしてはいけないんですね。


>にただの「感想文」になってしまうのです。
:そうならないように気を付けます。
上記の通りわたしには判断が難しいところですが。


____ぶれいく_______


わたしは、ピカソの
【赤が無ければ青を使えばよい】
という言葉が好きです。



___________




以下、余談。

5年ちょっと前、こんな質問がありました。
【実力の対義語は何ですか。】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6251828.html


【実】の【力】を育み活かし伸ばすのが
指導員の仕事、ということで、
とりあえず貼っておきました。



___________



実は昨年の暮れ、5年生の息子の質問に
恥ずかしいのだけど上手く答えられず、
猪突さんに質問しました。
http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1151906 …


正解はこうで、それは何故で、また、
この場合は何故シンプルに考えた方が良いのか、
そのシンプルな状況を想定するには
このような例を出すのが適切で……・。


と、わたしにも小学生にも分かるように
説明してくださったのでした。





あ、他人のブログを勝手に貼りつけると
回答が消えるのかどうか、
ちょっと実験してみたくなりました。





あふぉなさん・さいころさん・ちょとつさん、
他みなさま、ありがとう。(^^)/
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この回答へのお礼

オスグッド、あれ痛いんですよね。結局膝が曲がるまで走らされた記憶があります。生徒の事を大事に思っていなかったんじゃないかな、当時、私の出会った部の顧問は。一方的な決め付けはよくないですが(苦笑)
どの縁を捨てて、どの縁を育むのか、それはとても重要な事の様に思えます。

ニュートラルコーチのもとで、少年サッカーをやっていたら、と想像すると、流れた年月の長さと共に、得てはいないが、その様な良き時間と言うものがあり得るんだなという感慨を覚えます。子供時代や思春期の色々について尾を引いたまま、大人になって諦観を持ち、他の大人の言う事を聞かねばならないと言う事から解放され、同時に自分で人生を歩んで行く事を知った今思えば、母親は安心させてやろうとか、子供の笑顔が嬉しいとか、そんな当たり前の気持ちが自分の心を占めている。これはこれで成長だなと、実感します。幼い頃は目立ちたがりで、どうやったら人と違う自分になれるのかばかり模索してたのに^_^

いつも爽やかなお話していただきありがとうございます。


他の回答者様との意見交換はご自由にどうぞ^_^

お礼日時:2016/01/20 22:56

#110関連で。



日本の封建制度に関する私の考察、

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1146738 …

も参考にして下さい。
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#109関連で。



私はディベートで代表される勝ち負けや優劣を争う論争にエンターテインメント以上の価値を認めておりません。勝ち負けではなく、議論を通してそれ以前には気がつかなかった新しい世界を一緒に構築するという、生産的な手段としてのみ、議論に意味を置いております。ですから、反論と言っても、それは、同じものを見ても違った側面から見るとこうなりますねとか、思考の空間の中に今まで気付かなかった座標軸があるので、その座標軸を導入したもう1次元高い自由度を持った思考空間から、その問題を眺め直して見ようというのが、私にとって、反論の意味であり、議論であるのです。

kanto-iさんの意見について、そう言う生産的な意味での反論を試みます。

私の印象では、kanto-iさんは旅行でなく、少なくとも数年に渡る生活の場としての海外での生活の経験がないようにお見受けしましたが、当っていますでしょうか。外国で生活してみて驚くことは、日本人にとって余りに当たり前で空気のようになってしまっている振舞いが、その国の人にとって実はとんでもなく驚きの振舞いであることが余りにも一杯あることです。#108でも紹介した、他人への思いやりと、清潔感と、ギスギスしていない生活の安定感と、自然発生的に順番待ちをして横入りをしない、大災害に遇った時でも暴動を起こさず我れ先にと秩序を乱す行為もせず、さらに災難時に唯々諾々とあなた任せにするようなことをせずに、互いに助け合いながら臨機応変に処理していく能力、これって、日本人にとっては余りにも当たり前の性癖として身に付いてしまい、そんなもの教育の結果として手に入ったものであることすら、気がつかなくなってしまっています。教育によって自らも気がつかないうちに手に入れた後天的な第二の天性となっているとこのなんて、教育の大成功例の一つと数えて良いのではないでしょうか。でも、そんな空気のように当たり前なことは、日本内部だけで生活していると、それがどんなに特異なことであるのか気がつかないで一生を終わってしまう可能性があります。

そんな私のヨーロッパとアメリカでの長い生活経験から見ると、

kanto-iさんの意見とは反対に、

>理想や理念を、できる限りまっすぐにやろうとする気質と言いましょうか、従順と言いましょうか無垢と言いましょうか、姑息さや汚さを「当たり前」とすると生きていけない環境は、

世界的に見ても温和で優しい生活環境が生み出したのだと私には思えます。日本海と言う天然の要塞に守られて適度に孤立していて、外国からの侵略から守られ、疑心暗鬼でなく、互いに信頼し合える環境があったからこそ生き残れた性格です。

それとは、反対に、外国からの繰り返しの侵略が普通であった日本以外の世界では、姑息さや汚さを当たり前としなくては生き残れなかったのです。だから、彼らの全く正反対な性癖を持った日本人に遭遇して彼らは驚き、羨望の眼差して賞賛しているのです。

>日本は古来より、いいものを輸入してさらに高めて使うという民族性と言えるような気風があると思います。
機関車も自動車も、その他多くも最初は技術を輸入してそれ以上の一流品を作り上げて行くのが日本人です。

これも、実はその裏に、世界史的に見て西欧と日本にだけ起こった特殊な事情の賜物だと考えた方が、現象の理解の整理も出来、また、ではどうしたら良いかの方法論も考え付くと言う意味で、より生産的だと考えます。その特殊な事情とは、日本は地理的事情から確かに外国からの侵略の不幸からは免れましたが、それでも、内部で仲間割れして、血で血を洗う武家同士の戦いの経験をして来た。戦国時代も重要です。その結果、西欧を除く他の全ての国で自然発生的に起こった、皇帝とその取り巻きの官僚による中央集権の安定国家としてやって行けず、群雄割拠の不安定性の上に上手にバランスを導入した制度、すなわち封建制度が確立した。人類史で、ここ2000年のこのかた、封建制度が存在したのは西欧と日本だけです。

封建制度とは軍事国家ということです。官僚国家としての中央集権国家は本質的に文系の世界ですが、軍事国家としての
封建制度は本質的に理系の世界です。武士、すなわち軍人は生き残りのために技術の重要性を知り抜いている。だから、官僚国家と比べて軍事国家は技術者や職人芸を大変高く評価する素養がある。また、軍事国家として安定して生き残るためには、出自に依らず能力のあるものを取り立てるという、平等意識が官僚国家より遥かに発達する。潔さ、姑息を嫌う正義感、裏切り行為を排除して信頼に重きを置く性癖、清潔感、本物の強力な技術を欲しがる性癖、これらは全て、軍事国家としての封建制度の賜物として、日本や西欧の国々に根付いたのだと思います。


中央集権制を採択した明治政府が自らの正当性を主張するために、それ以前の日本の封建制度を糞味噌に宣伝したので、皆さん封建制度と言う名前にアレルギー反応を起こすようになってしまいましたが、そのアレルギー反応を除く一手段として、「日本式地方分権制度」とでも呼び直してみたら、皆さんも考え方を改めるかも知れませんね。
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この回答へのお礼

むむー、これもこれで説得力のある面白い意見ですね。示唆があります。
バスケのコーチの話から封建制度まで話が広がるとは、思いもしていませんでした^_^

お礼日時:2016/01/20 17:17

こいつは弱りましたね(^_^;)


反論したい訳じゃないのですが、ま逆の意見に
なるかもしれません。

日本の歴史から見ると、お行儀の良さは藩校にはあるようです。
藩校は、儒教を取り入れて礼節などを含め教えていました。

寺子屋は、かなりざっくばらんであったようです。

日本には元々、神道の教えがありますが
古くから儒教や仏教などを海外から取り入れて
その理念を学び、学んだものを実践して行くということを
強く推奨してやってきた国かなと思います。

つまり、理想を掲げ実践によって成果を成していく
珍しい国と言えるかなと思います。

実践がトップダウンでは無く、個に委ねられて
各々が問われる所が、珍しい理由です。

理想や理念を、できる限りまっすぐにやろうとする
気質と言いましょうか、従順と言いましょうか
無垢と言いましょうか、姑息さや汚さを「当たり前」とすると
生きていけない厳しい環境が生み出したのかもしれません。

昔の日本では、身勝手が集団の命取りになるからですね。

そういう環境で、輸入した理想的であろう教えを
自分にいいように使っていく、つまり場に則した使い方で
やってきた結果が今にあるのではないかと考えました。

日本は古来より、いいものを輸入してさらに高めて使うという
民族性と言えるような気風があると思います。

機関車も自動車も、その他多くも最初は技術を輸入して
それ以上の一流品を作り上げて行くのが日本人です。

「より良いものを」が、日本人が元々持っているものだと思います。
それは酒でも食品でも何にでも使われるポリシーのようなものです。

ですから、今回の奇跡のレッスンなどに示されるものも
日本人の手にかかれば、さらにより良いものとして
高めて行ける可能性があるのではないかと考えています。

良ければ、その物が日本古来にかかわらず手に入れ
それをどうするか・どう使うかなどに、日本人古来のものが
活かされていくところが、日本が世界に台頭していった理由だと
個人的には考えています。


えっと、喧嘩ふっかけていません(^_^;)
私なりに分析したことをざっと述べてみました。

技術(機械的なものなど)でも、スキル(手段的なものなど)でも
手にした情報として活かせていけたら、何でもいいと考える
節操のない私です。

自分のそういう日本人ぽさって、結構好きです(笑)
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この回答へのお礼

わかりますねー、僕も良い結果が出れば良いと言うスタンスで、基本雑食です。

猪突さんとは反対の角度で捉えられており、これはこれで共感できました。

お礼日時:2016/01/20 17:14

再び#101の回答とお礼関連で:



>社会モデルの構築が課題ですか。日々の変化はスピーディで、教育だけ従来式というわけには行かないと思っていました。しかし、昔から伝わるものの良い所は残していくというのがセオリーでもあり、、、

今回は雨合羽お姉にイチャモン付けて、遊んでみましょう。

先ず、複雑な問題を対象とするときの、何時もの私の経験則の繰り返しを述べます。理学である自然科学(カントの言う綜合的真偽の判断)と人文科学である数学(分析的真偽の判断)を飯の種にしてきて得られた経験則です。前者は事実の世界、後者は理念の世界です。文系的に表現すると事実の世界とは「こうある世界」で、理念の世界は「こうあるべき世界」ともいえます。

理念の世界は事実の世界に比べて桁違いに自由度が大きい。数学好きの人のために数学の比喩で言うと、事実の世界は可付番無限(ゼロと1の間の有理数全体の量)、理念の世界は連続無限(ゼロと1の間の実数数全体の量)と例えられるほどの大きさの違いがある。だから、論理的に無矛盾だからと言ってその全てが事実として実現しているわけではない。それどころか、事実の数と比べて圧倒的に多く、多分無限大倍多くの、事実と全く無関係な、しかし整合した論理が存在している。

だから理念を先に出して事実の世界を分析することは効率が悪いばかりでなく、机上の空論へと導き、害をもたらす危険すらある。昔からその害をもたらした例はいくらでもありますが、スターリンや毛沢東に代表された現今の共産主義理念の下での大量殺戮や大量餓死者の悲劇や、宗教を小賢しくも敬遠して、悪しき個人主義を蔓延させ、自己中心的な疑心暗鬼の道徳崩壊の社会を現に目の前の複数の国にもたらした儒教の理念による悲劇など、「こうあるべき」と言う理念を「こうある」と言う事実に優先させてしまった弊害は、今でも我々が具体的に実感できる実害でしょう。

さあ、教育だ。ここでも、事実を理念に優先させなくてはならぬ。欧米は、一般に理念を論じる者を実学の実践者より尊敬する傾向にありますが、その中でも特に理想主義的で原理主義がまかり通っているアメリカでは、理念優先の思い付き主義が花盛りです。大分前ですが、物理学者の奥さんで看護師のベルギー人の方がテキサス大学で看護学の修士を受講していた方から聞いた話です。彼女がアメリカの別な州での幼児教育の私設を訪れたとき、2歳児たちが一緒に遊び始めると、保母さんが毎回それを引き離していたそうです。訝しく思って聞いてみると曰く、

「幼児教育でかの有名な何々教授の最近の斬新な説によると、独立心は大変早い時期から訓練が可能であるそうだ。その説によると、出来るだけ一人で遊ばせて人に頼ることなく問題解決の訓練をさせると、独立心が育まれるのだ」

彼女はこの話を紹介しながら、アメリカ人て馬鹿なんだねと、半分冗談で半分本気で言っていました。

アメリカから始まって世界中に広まり、大量の幼児死亡者を出した「うつ伏せ育児法」も、アメリカの某有名医学者さんの理念に基づいた学説から起こった悲劇でした。最近では、栄養学の論理的考察に基づいて、炭水化物摂取ゼロ、肉と野菜は好きなだけ食べて良いというダイエット法をアメリカで普及させ、大量の死亡者を出した例があります。日本では、理念を事実より優先させた「ゆとり養育」の失敗例があります。

ことほど左様に、人間を対象にした複雑系を扱うには、もっともらしい理屈や理念を学術的に追い求めるのは危険なのです。もちろん、教育も。

では、どうすれば良いか。それには理念や論理的説得力を論じる前に、事実と経験を過去に遡るさかのぼって観察分析すれば良い。

本当に社会モデルの構築という理念に基づいた切り口から教育を語って大丈夫なのでしょうか。皆さんは教室崩壊やいじめの悲劇に気を取られて、日本の伝統的な教育法の傑出した側面を忘れていませんか。明治大正期に日本を訪れた外国人も、現在も、日本人の他人への思いやりと、日本人の清潔感と、ギスギスしていない日本人の安定感と、大災害に遇った時でも暴動を起こさず我れ先にと秩序を乱す行為もせず、さらに災難時に唯々諾々とあなた任せにするようなことをせずに、互いに助け合いながら臨機応変に処理していく日本人の能力は世界的にも傑出した能力で、世界中から絶賛されています。この賞賛は理念に対してではなく、事実に対しての賞賛です。

この能力は明らかに日本の文化に根ざした、経験に基づいた自然発生的な伝統的な教育の結果培われたものです。それに比べて、理念や論理的裏付けのある北欧の教育モデルや社会モデルが、日本の教育結果から得られた日本人の振舞いのように世界的な嘱望の下に絶賛を得られたという話は、寡聞にして聞いたことがありません。理念的に素晴しい儒学や共産主義の場合と同じように、理念からこの問題に入っていって、多大な悲劇をもたらしてしまうことになってしまいかねなせんよ。
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この回答へのお礼

太古の昔なら、教育とは、獣が狩れる様になるとか、野草が摘める様になるとか、家が作れる様になるとか、道具が作れる様になるとか、天気が読める様になるとか、武器の使い方とか、話術とか、生きる現場が即教育に繋がっていて、その上で、如何に人は生きるべきかという、道についての学び、掟が存在していたのだろうと思います。そこから遠く離れて現代は、人類の持つ知識の総量は太古とは比べ物にならないほど膨れ上がっています。しかし、生活や生きる事の現場に根ざすというスタンスを取れば、自ずと優先的に学ぶべき事は導かれてくると思います。そして、ICT機器によって、都度都度必要な情報を世の中から吸い出す能力というのも必要になっているとは思えます。ただ教育が、文明の奴隷を生み出す方法論に縛られていては、人の生きるべき道と言うのは見つからず、なんで勉強するの?と言う学びの根本の動機に説明が与えられず、自信を持って教育が存在する事ができません。人の生きるべき道というのは、現代では、如何に生きる事がしあわせなのかと言うことでもあり、これは理念よりもリアリティを持っている一つの方向性であるでしょう。そこは教育を語る上で視野に入れておかねばならないと考えました。

お礼日時:2016/01/20 17:09

おっと



>カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

待ち合わせは、日本での猪突さんが目印で
そこが待ち合わせ場所と言うことでお願いします。
赤ワインが飲める店か、日本料理で。


のべ2000冊は、4歳の時の絵本から卒業まででおおよそ。
今は、もう沢山と言うことで(笑)
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この回答へのお礼

皆様とはネット上の出会いで、モニターの、文字の向こうの方はと思いを凝らしてみれば、ここにいただいたご意見も、一層味わい深くなります。
お酒を汲んで、顔を合わしてみれば、一層の親しみをもって、その言葉の意味を理解することが出来るのでしょうね^^

勉強家のカントアイさんにはいつも質問者の立場でありながら話を聞いていただいており、感謝感謝でございます。

お礼日時:2016/01/20 00:22

あほなさん、#99の補足コメント了解です。

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この回答へのお礼

ほい^^

お礼日時:2016/01/18 19:56

#104に珍しく誤植の修正をします。

普通は誤植も楽しむべきもですが、この場合深刻な誤植なので。

下から二つ目の段落の

「仮説の下に正しい計算をやるほど簡単なことってありません。」



「正しい仮説の下に正しい計算をやるほど簡単なことってありません。」

と読んで下さい。



序でに、はじめの方の

「私はそれを学生のみに叩き込む方法を知っています。」



「私はそれを学生の身に叩き込む方法を知っています。」

と読んで下さい。
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この回答へのお礼

了解です^^

お礼日時:2016/01/18 19:55

#103関連で:



雨合羽お姉は相変わらずの迫力と説得力のある論を語るね。頼もしい。

>日本人の多くはたぶん、くじかれもし、さまたげられもして、制限付きで生きているのです。

私の経験では、日本の若い連中は失敗を過剰に恐れる傾向があるように見受けました。そんな連中に私は何時も

「失敗が新しい世界を見せてくれ、失敗がその人を大きく成長させてくれるんだよ。失敗したことのないものは、信用なんて出来ない。何故なら、全然成長できていないからだ。失敗を隠すのでなく、失敗をしたことを指導者に報告することをためらっちゃ駄目だよ」

と教えています。でも、これって口で言って頭で考えても、体験を通してでないと結局入っていかないようです。

私はそれを学生のみに叩き込む方法を知っています。私の場合、研究の指導で、色々な仮説を立てて、決め付けで先に進んで行かせます。そして、その仮説が正しかったらどんなに素晴しい発見であり、素晴しい論文が書けるか相手に夢を持たせます。その夢に勇気づけられてどんどん先に進んで行くと、学生は必ず、仮説の誤りに気付きます。ほとんどの場合、学生はそこで落ち込みます。このときが教育のチャンスです。その落ち込んだ学生に向って、次のように言います。

「そもそも、研究って誰も解らないことをやるんだから、前もって正しい仮説を立てられる奴なんているずないじゃないか。もしそんな人がいたら、研究をすることすら意味がないじゃないか。だから、先生だってその仮説が正しいか間違っているか解るはずがないじゃないか。さらに、海とも山とも付かない段階でもっともらしい仮説が立ったとしても、それで正しい答えが出てしまったような問題に重要な問題があるものか。

今貴方は、誰でも考え付きそうなもっともらしい仮説が間違っていることが解るようになったのだ。だから、その段階でもう、その他大勢の人たちには想像が付かなかった新しい世界を見たことになる。だから、その仮説が正しかった場合より、間違っていることを知ったことの方が大きな成果じゃないか。

研究って、そのように、仮説を立てたときに、それが巧く行ったらどんなに素晴しい世界が見えるのか、その反対に、その仮説が間違っていることが解るようになったら、どんなに素晴しい世界が見えるのか、どちらに転んでも素晴しい世界が見えるのだと言うように、その仮説の正否から見えて来る世界を前もって考えておかなくては駄目なんだ。

私なんか、巧く行かなかったときの方が何時も大発見だと興奮して喜んでいるんだ。失敗だ!失敗が貴方を成長させてくれるんだ!」

そして、その仮説の誤りの気付きの下に、新たな仮説を立て直して、また決め付けで先に進ませます。そしてまた、修正された仮説の誤りに気付く。これの繰り返しで、自分でも納得できる想像だにしなかった新しい驚きの世界が見えて来る。

誤った仮説で、数学的に正しい計算をやって行くのだから、何時も話が支離滅裂になる。仮説の下に正しい計算をやるほど簡単なことってありません。ところが、仮説が間違っているから難しいのです。だから、研究って、支離滅裂な混乱の連続です。この混乱を持ち堪えるのは、悲観的な人にはほとんど無理です。無責任で能天気なくらいの楽観的な性格の人でないと、潰れてしまう可能性が大です。

そして、その支離滅裂でこんがらかった糸が段々と解けて来る。そんなある適当な段階で論文にまとめるのです。学生も、仮説の誤りの挫折感を経験させた後では、失敗を恐れなくなって、喜んで失敗の報告をして来るようになります。
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この回答へのお礼

自分の過ちは、知っている人の前にでてみればすべからく暴露されてしまいます。それを恥ずかしいと思う人の気持ちもわかりますが、私はいつも恥ずかしいかもしれないが、知らぬままでは済まされぬという気持ちで一歩前に出るようにしています。それが何か自分のためになるような気がするのです。

失敗が糧となることに気がつけば、より一層、研究の推進力が力強く得られるのですね。

お礼日時:2016/01/20 00:30
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