dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

A 回答 (142件中51~60件)

猪突氏へ



申し訳無いですが、多くの方が好まれる反論が
事態を悪化させるのをご存知でしょうか?

私は数学が好きです。
勉強も好きです。
単純に、未知を知ると言うことが好きでした。

今でも、大好きなのです。
平日5〜6時間、休日は12〜16時間ほど費やします。

つまらない奴に思えるでしょうが、酒は飲みません。
飲むと頭が働かないことが、今挑戦していることに向かないからです。
酒が嫌いではありませんけどね。


できないのはできない理由があり、それを書く気はありません。


子供だからと大人は反論し、一方的に子供が
いつも悪いとされてきました。

私の場合、未熟な者がさらに未熟な者を知識も経験も無く
指導なしで強要して起きた事故です。

詳細を書かないのは、不必要な暴力を受けた人への配慮だと
ご理解ください。

体罰を与えれば、理解できるようになるだろうという
間違った知識が横行していたのですよ。

「分かりました」と言うまで教えるとか、何かをさせるでは無く
「分かりました」言うまで暴力ですから。

想像し難くとも、そう言う学校も日本には有ったのです。
大人が聞く耳を持たず、子供たちに反論で意見を覆すので
そう言う事態は長らく続いたのです。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

学校の閉鎖性はいじめ自殺の方でも問題視されていますね。
過ぎた時間は取り戻せないですが、未来には少しでも寄与したいものです。

お礼日時:2016/01/17 18:48

#91の意見について:



>時代と地域差は有るでしょうが、私が受けた詰め込み教育は
暴力と支配と強要でした。

>骨折でもしない限り問題視されることはありません。
体育とかでなく、算数や国語などにおいてですね。

kanto-iさんの経験は、 kanto-iさんにとっては紛れもない事実であったのでしょう。でも、算数や国語については、貴方のように受け取らなかった生徒もいた可能性はありませんか。

kanto-iさんは、私のグログ、

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1158865 …

で紹介した、数学が大嫌いになってしまった抜きん出て頭の良かった生徒と同じように早熟であり、そのために人類の偉大な成果の一面を享受できなかった人である可能性はありませんか。

未成熟な頃の私の経験では、体育系の嗜好を持ったの生徒としての私にとって、怪我をしない程度の暴力的な指導者は頼もしく、私の思っていた限界より遥かに自分に体力と根性があるのだと思い知らされてくれた存在として、感謝しています。山道を重い荷物を背負いながら、もう歩けませんと言ったときの指導者の張り手がものすごく気持ち良かった。這いつくばりながらテント場まで辿り着いたとき、自分の思っていたときよりも遥かに先に自分がいることで、号泣しました。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

ブログ読ませていただきました。
「理屈を言うな、黙ってやれ」
というのはそういう意味でしたか。

お礼日時:2016/01/17 18:45

待とうかとも思いましたが、閉められる可能性もあるので


書いておきます。
あほなさんとも同じではないかもしれないのを前提としています。

私の個人見解ですが、ベルトコンベアに一度でいいから
乗ってみたかったですね。

できの悪い私からすれば、そのベルトコンベアが勉学における
「奇跡のレッスン」なのですね。


時代と地域差は有るでしょうが、私が受けた詰め込み教育は
暴力と支配と強要でした。

今で言うパワハラ・モラハラ、たまにセクハラで
教師による暴力は必要悪であり、非道がばれなければ何でもありでした。
子供の訴えは、大人には最初から決めつけで却下されます。

骨折でもしない限り問題視されることはありません。
体育とかでなく、算数や国語などにおいてですね。
あまり具体的に書くと、不快になる方がおられると思うので詳細は割愛です。

義務教育における詰め込みは、そう言うものと認識していました。


そこの地域の義務教育が、そう言うものですから
その地域の大人にとっては、教育とはそういうものと言う
認識だったのかもしれません。

今考えるも多くの大人が強要がすごく、叔父に鉄棒のできない技を
強要されたときは、顎を3針縫う結果になりました。

書いていて思い出しました。
別のクラスで、骨折した子がいました。
教室内で授業中ですね。

さすがにそれは担任を下ろされて、年度で移動されました。

そう言う「叩き込む」のが詰め込み教育になっていたので
詰め込みが、一概にいい教育だと思えなっかたのです。

今どきは、そのようなことは無いでしょうが、モンスターペアレンツとは
そう言う教育を受けた人達かもしれないと、振り返って鑑みるに
一方的な思い込みと強要はその昔の教育者にそっくりです。


経験が無いものは想像できないのがので人間であり
また言葉から自分が想像したものは、自分の中の常識であります。

奇跡のレッスンの片鱗も体験が無く、どうやれば虐待にあたらない
理解できる教え方があるのかを、昔は探すのが非常に難しく
ましてや当時は10にも満たない未熟であり、田舎の閉鎖環境です。

そう言うところで、育つ人間もそこそこいたのですよ。
高校ぐらいになると、徐々に判明してきますからね。

お断りとして、戦中戦後の教育ではありません。

そう言う体験を長らく受け続けると、教育について多くの疑問と
どうすればいいのかには、深い思いを持ちます。

環境で体験ができないのを補うのって、当たり前のように
思われてる機会を得るだけで、実は大変なのですね。


見解の相違は、体験が違うので当たり前ですが
帰結は、同じところにたどり着くのかなと思います。
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ひどい話ですね。私なら登校拒否です。
教員のストレス解消と支配欲みたいなものですかね。それは挫折ではなくトラウマを生みます。
教員の歪んだ人格を判定する制度が必要だったと思います。

>私の個人見解ですが、ベルトコンベアに一度でいいから
乗ってみたかったですね。できの悪い私からすれば、そのベルトコンベアが勉学における「奇跡のレッスン」なのですね。<

それができるだけで素晴らしいことだというのは最もだと思います。

>経験が無いものは想像できないのが人間であり
また言葉から自分が想像したものは、自分の中の常識であります。<

共感というのもまた、教育の現場では必要なことですし、子供達にも共感する心を覚えてもらいたいですね。

>見解の相違は、体験が違うので当たり前ですが
帰結は、同じところにたどり着くのかなと思います。<

人が最終的に求めるところには、大きな違いは生まれないのではと思う次第です。

体験を交えたご回答、ありがとうございます。

お礼日時:2016/01/17 18:40

藤原道真じゃなくって、菅原道真公ね。

間違っちゃった。酒が入っているんで(赤ワインのCaberybet Sauviginion飲んでる。あたしの好物のブドウだ)、菅原も藤原も同じになっちまった。

今から10年ほど前のことだった。甲府の駅ビルの酒店で40年以上前に新婚のころに家内と買って飲んだワインの味がとても美味しくて懐かしく、そこの店員の女の子に、一生懸命にその時の味を説明して、その甲府のワインが今でも手に入るかと聞いたてみたのです。その女の子は、

「それって、ワインと言うよりは葡萄酒ですね」

って言われたのがビックリして楽しかった。

   葡萄酒たあ日本語かあと呑んべい言い

葡萄酒ってワインじゃないんですね。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

僕も知りませんでしたよ、ワインと葡萄酒が違うなんて(笑)

了解です^^

お礼日時:2016/01/17 17:57

どの時代でもどの世界でも自分の子供たちが幸せになって欲しいと考えない親はいないでしょう。



んで、親は自分の経験からどうすれば子供が仕合せになるだろうかと一生懸命と考えながら生きている。ほとんどの世界では自分を守るためには説得力のある理屈なり主張を出来る人間にならなくてはならぬ、と考えているようです。だから、そのように子供を教育して来た。でも、日本海の言う荒波に隔たれて、適度に孤立し、適度に他文化に接触できた幸運に恵まれた日本人は、そのような理屈を述べなくてはならない状況に置かれていなかった。逆に、未熟な経験の持ち主が理屈を捏ねる危険を十分に感知できる余裕があった。だから、

「理屈を言うな、黙って見ていろ」

という徒弟制度の極意を十分に発揮できた。要するに思い付きでなく、十分に経験を積んできた人を信用せよということです。(注)

この状況は世界史的に見て稀な状況だと思えます。この幸運を今でも享受できれば幸いなのですが、知的孤立が難しくなった昨今では、その他大勢の不幸を経験して来た外国からの雑音が入ってしまって、教育とは云々なんていう、そんな不幸な世界からの受け売りが横行して、日本の教育の訳が判らなくなってしまった。そして、結局、経験に基づかず、各人の思い付きで教育が語られているのが、今の日本の状況ではないでしょうか。

日本と言う孤立していた世界での成り行きに任せた先人たちの教育の指針は、未だに説得力のある効率的な方法だと私には思われます。

(注)経験を十分に積んできた連中は、慣習となってしまった世界観の危険性も十分承知しています。ですから、単に前例に倣えと言う、平安時代の藤原官僚に代表され、未だに営々として続いている現今の高級官僚の硬直した腐敗レベルの連中を信用せよと言っているわけではないので、それも承知して置いて下さい。優れた経験者ほど、高級官僚とは反対に、斬新な指摘を賞賛するものです。余談ですが、藤原家門外不出の天皇家裁断の前例集を秘密裏に学習し、徹底的に前例主義を実行して藤原家を手玉に取った咎で左遷されたのが天神様の藤原道真であったと、山路愛山の確か『源頼朝』に書いてあったと思います。道真は斬新な政治家としてではなく、超保守的な政治家として疎まれていたようです。
    • good
    • 7
この回答へのお礼

さっき思いつきでプラポチさんに返事を書いたあほなです^^;
思いつきで書くことはよくありますね。学んできたことを体系的に整理できてないからかもしれません。

地理的に見る日本の教育ですか。

経験に基づかない各人の思いつきというか、各人の経験からくる欲求を反映した主観的な意見、というのが当たりな気もします。

>日本と言う孤立していた世界での成り行きに任せた先人たちの教育の指針は、未だに説得力のある効率的な方法だと私には思われます。

ふむ。生活様式が急速に変化する現代にも、その日本の伝統的な教育方針は機能するのでしょうか?

良い物を見なければ目が肥えないですが、何が良い物でなにが駄目な物なのかを判じれる素養というものを育てる必要がまずあるのかもしれません。

お礼日時:2016/01/17 17:52

万物は流れる、ベルトコンベヤーのplapotiです。

あほなさんは求道者ですから、理想が高いのは当然ですが、私は職場でこの哲学的万物流転方式の合理性を経験してきました。これさへあれば、ほとんどすべての労働者がそれなりの役割を果すことができます。最低限のこともしない、これが一番困る。

たいていの教育といふのは、一握りの天才を育んだり、奇人変人を作りだすためのものではなく、不特定多数に社会でやつてゆくための一般常識を授けるものではないのでせうか。私は学校教育には無縁で、学生時代にだめな家庭教師をやつてゐた程度です。でも、職場で「log1000=3」といふ文字を目にしただけであらゆる内容に拒絶反応を示す連中は、子供よりも相手にするのがむづかしいのではないかと感じます。そういふ人たちに対して何が何でも理解させなければ、仕事になりません。教育理想論といふのは、さういふ「何が何でも」やりとげる姿勢が欠けてゐるのではありませんか。

運送業で必要な化学知識は中学高校程度のものなのですが、教科書を見ると、我我運転手にはとうてい理解不能の教へ方がなされてゐます。学校で授業についてゆけない生徒が大勢でるのは当然です。私は職場では、小学校の漢字書取り方式、まさに詰込み教育、ベルトコンベヤー方式をとります。一般には、化学物質を分子式や示性式で簡略化した表示をすることがほとんどなのですが、私は常に構造式を使ひます。手間はかかるのですが、きはめて解りやすい。炭素は4本、酸素は2本、水素は1本、その程度の規則で充分です。そして漢字の練習帳と同じく、時間の許すかぎり大量の構造式を書かせます。そのうち自分で「発見」ができるやうになつてきます。たとへば下記画像のやうに、覚醒剤や向精神薬がアドレナリンにそつくりだ、と気づくやうになります。また、アドレナリンのやうに亀の甲に「OH」が2個以上ついたものをポリフェノールと呼ぶのですが、「ポリフェノールに抗酸化作用があるといはれるのは、なんでかな。」とつぶやいておけば、構造式を書きながら自分で答を出して、アホの私に教へてくれるやうになります。自分で発見し他人に説明することによつてさらに身につく、それが可能なのがベルトコンベヤー方式です。
「奇跡のレッスン」の回答画像88
    • good
    • 5
この回答へのお礼

自己紹介からおもひろいプラポチさん^^ようこそ。

お仕事の現場での経験からの発想、説得力があります。

>そういふ人たちに対して何が何でも理解させなければ、仕事になりません。教育理想論といふのは、さういふ「何が何でも」やりとげる姿勢が欠けてゐるのではありませんか。<

これは、生徒を見捨てないという姿勢にも繋がるかと思いました。

>自分で発見し他人に説明することによつてさらに身につく、それが可能なのがベルトコンベヤー方式です。<

これは素晴らしいことです。さすがプラポチさん。

ちょいと、ベルトコンベヤー式ならぬ、たこ焼き式で少しお話を。
たこ焼きというのは、たこ焼き器で検索してもらえると分かりますが、均等に穴の空いた鉄板で焼きます。その時に一つコツが有りまして、「たこ焼きの原液は、溢れさせる」というものです。穴一つ一つに丁寧に注ぐのではなく、全体に一気に流し込みます。すると当然、隣り合うたこ焼きはくっつきますから、たこ焼きを返す時にそれを針で切りながら、ひっくり返して焼きます。すると、まんまるのヴォリュームあるたこ焼きが出来て、どの個体も液が不足しているということが無くなるのです。詰め込み教育ならぬ、溢れ出る教育で、ムラっ気はあっても、全員のキャパを超えて、取り敢えず満タンになるような教育もありなんじゃないかと。生地はみんなおんなじで、具は別々でも良いじゃないか。という話です。

あまり巧い例えじゃなかったな^^;たこ焼き式だとプラポチさんの現場は破綻しかねないですね。

お礼日時:2016/01/17 17:31

「運命は自分でコントロールするんだ」これってどうなのかと思いました。


人類が数千年、数万年前から能力が進化しているのでもないのだから
いつの間に運命までコントロールできるようになっているのか?

おバカより可愛そうは英才教育をさせられる生徒です。
情報の偏りが心配なのです。
情報量の過多は共有する知識の割合を減らし「専門バカ」とか
本人が幸せならお節介にもいいませんが、人間関係を希薄にしそうで。
稀な才能に恵まれていても、
努力できるだけの用意された環境があって、機会が訪れなければ「変態」と呼ばれるだけ。

科学的教養は「使える奴、使えない奴」という分別でなされません。
どんな人とも会話し、多義性を探るでしょうね。

「乗り越えられてきた時(解き)の中に身を置かずして、どうやってこれを乗り越えられようか」
優秀な生徒と共に学べたなら自然と他を牽引して
クラス全体を底上げすることが出来ると思います。
優秀な生徒が育つかどうかは結果論ではなく、確率論ってことなんですよね。
確立が上がれば奇跡ともいわれない。
確立を上げるには全ての生徒に最新の英才教育を受けさせる。です。

時間的に先立って、人生の先輩である有能なコーチ(知力がある。答えを知る人)より
有能な同士やライバルの存在とレッスンしたことが、
そして見えてこなくても今の私の存在を支えてくれている人に気づくことで
人間って面白い、要求したこと以上のものを譲られてきたと実感してきた。
私の思いつきや発見も主体的な行動も全てが知性(問い続ける能力)に
触発されてきてるのが多かった。

なのでここで検討し直しているのが「尊敬」の言葉。
尊敬は必要な相手に対してかける言葉なのかわからなくなってきました(マジで)
    • good
    • 10
この回答へのお礼

こんにちは^^

マグジーの言った、運命の話の下りは、そこに至る前段がありますので少しお話します。
マグジーはアメリカの黒人で、160cmの身長であるけれどNBAの選手になって活躍したスポーツマンです。彼が幼少の頃、行ってはいけないと言われていた街の危険区域に、夜、行ってしまったそうです。その結果、チンピラの銃撃戦に巻き込まれて、負傷してしまいます。その時にマグジーは、幼いながらも、「自分の運命は自分でコントロールしなければならない。」というマインドセットを獲得したと言っていました。まさしく人類も、自身の運命は自身でコントロールして、幸福になるべきだと私は思います。争いばかりしていてはだめなのですね。それをコントロールしようと言うのです。
・・・・・・・・・・
ライバルの話。
勿論、立派な仲間やライバルが居ると、そのチーム全体が引き上げられ得ますね。一人抜けた実力を持つ子どもが足を引っ張られるのではなく、チーム全体の底上げに作用するということを見せた回もありました。サッカーの回でした。私も、経験があります。クラス全体が活性化して、各々の成長が促進されること。

尊敬は、素直な心で尊敬できたらいいなと思っています^^

お礼日時:2016/01/17 16:57

お薦めのマグジー氏の回が、今日再放送でしたので見ました。



視点の用い方がいいですね。
絶妙な使い方は、その世界で精通すれば
浮かぶことも可能かなと思いました。

バスケじゃなくても、十分に応用できますね。
今使えそうなところを抜き出して、やってみます。

ずっと技術で生きてきたので、役割分担はあれど
この辺りは、私にとって薄い部分ですね。
厚みが増やせればと思います。


あほなさんが師匠(?)の話しで思い出し、私の師も結構上を行く人を
あるいはすでに上に居る人をも育ててる人です。

あそこまで行けるか全然分からないですが、行こうという決意を
持つことができるぐらい充実させて行くのは、目標でもありますね。
    • good
    • 7
この回答へのお礼

マグジーさん、気さくな良い人柄でしたでしょう?^^
彼の言葉は色々響きました。
 
カントアイさんの高い目標が、少しずつ実現することを応援しております(^^)

お礼日時:2016/01/17 16:47

個人的意見ですが、夢とか願いとか理想って本来は自分で叶えるもの。


大人になるって、そう言うことじゃないかなって思います。

長い時間をかけて育まれる人間と言う動物は
ただ生きて子孫を残す他の動物たちと違い
環境を変えるほどの夢や願いや理想を掲げます。

その力をつけたのが「大人」と言う形かなと。

大人として扱われると言うのは、それなりの力をつけてるであろうから
大人であるということだけで等しく権利と義務が生じます。
恩恵に授かった分を使うチャンスであり、恩返しのチャンスでもあります。

日本では教育は義務であり、教育を受けた人は
また誰かの教育者になるので、育まれる経験だけでなく
育む経験をそれぞれが責任を持って遂行する。

そんな場面が多いと思います。

後輩を育てる・部下を育てる・子供を育てる・子弟を育てる、などなど
学校以外も教育の現場って、数多くあると思います。
誰しも何かをやり続けていれば、教育のチャンスを与えられます。


夢や願いや理想を叶えて行くときに、誰かを教育する必要が出ます。
教育者側にいいように教えると育まれず伸びないかなと。
そのとき人間としての関係性を強く考えていく必要性が出ます。

そこで教える側、教わる側がどちらも向上できると思います。
そんな関係性の連続の中で、社会でも会社でも地域でも国でも
維持や進歩や発展が可能だと思うのです。

教育って、等しく受ける義務であるから学校教育が根幹でも
教育の必要性や可能性って、本来ずっと続くものだと思います。

ですから、教育を考えるのは個々にとって重要でもあり
有意義なことだと考えています。

教育をなす側の立場として置かれる年齢であるので
相手の向上を考えると、自分もまた教育を受ける立場でもあります。
自分を引き上げないと、相手をさらに引き上げるのは不可能になるからです。

それが、自分が望む夢や願いや理想を叶えるために
前に進む・さらなる進歩が望みであるときや
今日よりも充実した人生に向かうとき必要だと感じます。

80過ぎても飛躍し続けるのを願い、教育を受ける姿が
輝いて見えるのや感動を伴うのは、成長すると言うことに
前に進み続けチャレンジすることに、人間として感銘するからだと
私は考えています。


そう言うのが、私の教育観であります。

ゆえに教育もしますし、何らかの教育を受けに行くことをやり続け
ずっと人にかかわり続けて生きて行こうと考えています。
長く関われれば、多く関われるってのも好きですね。

会社退職、すっぱり終わりではもったいないのと味気ない。
何だかそんな風に感じますね。


ちょいと理想を語ってみました(笑)

それぞれに持ってるものは違えど、人の価値観って触れると
また面白い発見が触発されることを願って。
    • good
    • 7
この回答へのお礼

自己実現ですよね。
前回もおっしゃられていましたが、カントアイさんのお話では、セルフイメージというものが一つのキーになっているのかなと思います。

今、ニャンポコさんの宗教についての質問に回答しているのですが、質問者の望む方向性に沿った回答と、別の方向性を示す回答があって、自分は今回、後者の回答をしました。これはQAであって教育ではないのですが、教育も、子どものニーズに沿ったものと、別の方向性を示すものとあるのかなと。
どちらも有益なんだなぁと、思いました。学びの心自体も育てて行けたら、それが理想かなと^^

お礼日時:2016/01/17 16:45

>他人の素敵なところを見つけるのが得意で、そこをもっともっと伸ばしてあげたい!


>ぶっ飛びすぎかもしれませんが、【分かり合えなさ】を教える側も教わる側も、お互い認め合い、受け入れ合う、というのが、実は信頼関係の土台なのぢゃないかなあ…そしてそれが教える教わるの土台なのぢゃないかなあというのが正直な感想です。

 ニュートラルさん、おひさしぶりです。お元気にされていましたか。かくも注目されていたとは光栄なことですが、それほど大したことは言っていないつもりなので、何か申し訳ないことです。立派なお考えだと思います。私も賛成です。何となくですが、こういうところは共通点がありそうですね。ベルトコンベヤー式の問題点は、弟子にあわせて師の方が変わっていくことが想定されていないということにありましょうか。となると、猪突先生とか私は、弟子のために自分が変わった経験をお伝えすれば良いのかなと思いました。しかし、個人情報もあるので変なことは書けません。私は次の問題を考えてみます。

>図画工作の授業でセンセイが「【明るい色】は何色でしょうか?」という質問を出したのだそうで、娘は張り切って挙手し【茶色!(^^)/】と回答した

 これは主観的な判断と、客観的な判断を区別するいい教材なのかもしれませんね。私なら最初に肯定も否定もしないで、じゃあと言って、茶色の見本を大量に示し、暗い茶色と明るい茶色を考えてもらいます。たぶんお嬢様は、日常生活に明るいイメージを持っているから茶色がお好きなのでしょうね。しかしここでは「好きな色」を答えさせるのではなくて、一般論で「明るい」と認識されている色を教えないとならないのでしょう。白が多ければ多いほど明るく見え、黒が多ければ多いほど暗く見えるということ色の原理を伝えないとならないんでしょう。色の見本を大量に示せば、一口に茶色と言っても、明るい色と暗い色があることが分かるのではないか、と思うのです。逆も然りです。青だって、黒の度合いを上げれば、どす黒くなり、暗くなります。

 しかしこれをやるためには、予め色彩の事典を用意しておかないとなりません。それで生徒が茶色ではなく、青とか、赤だと答える可能性も想定して準備しないとならないでしょう。教科書だと不十分で、デザイナー用の色彩の見本が必要になりそうです。あるいはパソコンの色彩調節機能を使えば、可視化できるでしょうが、それには視聴覚室が必要です。小学校の問い一つで手間はかけられないのかもしれません。だから私なら最初から誤解がないように自由度を狭め、白と黒を示して「どっちが明るい色かな?」と二択問題にするでしょうね。まあこれがベルトコンベヤー式なんでしょう。主観的に答えるような質問を最初からしないということです。

 高等教育でも主観的に答えるべきところと、客観的に答えるべきところは、結構線引きが難しいと思っております。これが分かるようになるのって、大学院に入ってからだし、分からない人は永遠に分からないんじゃないかなあと思っております。色彩くらいはどうにかなりますが、芸術の良し悪しの判断などもはや込み入っております。その時に「そうだね、分かるよ」と言うと、努力の結晶である研究が永遠にただの「感想文」になってしまうのです。だから「あなたの意見はそれはそれでいいから、主観的判断と客観的判断を分けるような書き方にしなさい。構成からやり直し(つまり全部やり直し)」と言うことになるでしょう。

 ニュートラルさん、どうでしょうか?

 あほなさんは気にし過ぎですよー。こいつが明確に書いていないから分からなかったんであって、自分は全然悪くなかった、と思ってちょうどいいのだと思います。でも「言われるまでもなくそう思っていました」って言わないでくださいね(もちろん冗談で言っております。笑)。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

了解です^^お言葉に甘えて、気にしないことにします。
サイコロさんの個性も少しわかってきました。ニュートラルさんへのメッセージ、なるほどこれはサイコロさんらしいと思えました。
私としては、回答者様同士のやり取りについては炎上しないかぎり、横から拝読させていただく感じにさせていただこうかと思います。
よろしくお願いします。

お礼日時:2016/01/17 16:40
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す