正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

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A 回答 (142件中1~10件)

とても沢山あったはずなのです。

その時、その環境、その心境に応じた言葉だからこそ、心の琴戦に響いたといった記憶のみがあります。多くは今から思えば、陳腐な名言とか諺とかです。

たとえば、高校の国語のテキストにて、大岡昇平の「野火」の冒頭だったかに、「たとひわれ死の影の谷を歩むとも(ダビデ、詩篇23:4)」が記載されていて、音読時に、いたく感銘を受けたことを覚えています。この言葉が残っているのは、私のプロフィールを含め、書き残しているからに他なりません。

ポジティブな性格とネガティブな性格と、記憶に関連する研究が多くなされているようですが、比較的、ネガティブな言葉が多く記憶に残っていて、ポジティブに影響を受けた言葉の記憶が少ないのは、多くのポジティブな記憶以上に、ネガティブな記憶が衝撃的な事柄だったからかもしれません。
また、「大人」という年齢に達してから随分経ちますが、こちらが意図して子供達にかける言葉の多くは「???」といったレベルでスルーされることが多いのも事実です。逆に、それほど意図していない状況で、思わずかけた言葉が記憶に残っていると言われたこともあります。

・・・と、古い記録を探っていたら、下記のような記述(日記の断片)がでてきました。非常に青臭いところがありますが「ゆとり教育前」の、いわゆる受験戦争時代をかいくぐって生きていた時代の言葉達です。回答とは程遠い言葉達ですが、何がしかの参考になるかもしれないので載せておきます(ネット上、未公開のものでした)。

当時、ネガティブな記憶が大量に蓄積された脳裏に、一言のポジティブな滴下は、どのような言葉であれ、砂漠のオアシスのように感じられたのかもしれません。
それゆえ、すぐに吸収され、跡形もなく、すぐに蒸発してしまったのかもしれません。
いずれにしても記憶の彼方です。直接お役に立てないで申し訳ございません。

===>>> 以下、個人的な日記からの転記
971208
大人になるとは、純粋な心を失うことであると、誰かが言ったように記憶している。
全てを理想的に解決する手だてを失い、妥協に基づく協調がなされるとき、人は解決の糸口として、互いに受け容れ合うことを学ぶ。
あらゆる物事を、順次、俯瞰的に受け容れざるを得ないとき、人は、いわゆる大人になってゆく。
失うべくして失っていく、個人の過去の遺産とともに、心の偽足も引きちぎられ、萎縮していく。
果たして、いわゆる大人になったものが、心の底から他人に同情などするであろうか。
現実の酷さを隠して、偽りを知りつつ大人は、純粋であろうはずの子供に、「人類は自由、平等、博愛」などと、教え続ける。生存競争のなんたるかを教えようともせず、自然に学ぶであろうことを期待しながら。
あらゆる生活共同体単位で、様々な生存競争が繰り広げられる。それは、緩やかな締め付けが始まったときから、急激に沸騰し始める。しわ寄せは弱者に向かうが、表向き救済されることが暗黙裏に認められている集団に対しては、大声を上げるものは少ない。
様々な知能レベルの策略が、マス・メディアを搾取する。きれい事は大衆受けし、真相は忌み嫌われる。大衆による合意が全てであり、それ以外の何ものも正義足り得ない。神は、その神を信ずる大衆による正義を立法化する手段に過ぎず、信仰の拠り所は教義に存在する。いかなる試みがなされようとも、個々の人の心に基づいて、あらゆることが理解され、感じとられる以上、神は人の心すら越えることができずにいる。形而上学的な全ては、思考の断片すら存在しない場合、全く存在しない。人の理解を超えたものを、人が理解できるわけが無く、人の理解の範囲でのみ、そのものをとらえることが出来るだけである。

980512
子供は、自らなし得る限りの力を使って精一杯生きているというのに、大人は当事者足り得ず、彼らが未だ経験することのない、未来の時間に話をすり替えてしまう。
底辺をレベルアップする事で均質化しつつある義務教育は、ゆとりを求めようとしても不可能なカリキュラムを子供たちに押しつけることとなる。
新たな技術、情報があふれ返る時代に、生きるために、過去に得られた知識以上に学習しなければならない彼らにとって、限られた時間のなかでは、もはや一時の休息すら、落ちこぼれの原因と化す。
自己の経験談:「人生について、将来について、悩む時間すら惜しいと考える時期があった」

980814
過去の上に立ち,現在を見据え,時の流れを見極めて,未来を掴まん。(中学生時代)
常識としてもっと大切なことがあるにも関わらず,一つのことが大切だと強調しすぎると,強調され過ぎたもののみ意識してしまい,本来重要なものの理を見失ってしまうことがある。これは,実体験の乏しい学生において強く見られる傾向のものである。
私は,学生時代に,あまりにも過去という対象物にのめり込みすぎた。今は,現在と,少しの未来にのめり込んでいる。老いたときには,さらに深い未来にのめり込むことだろう。

990309
私は,今,旅立とうと決心している。
幼い頃から見続けていた,夢の正体を今,ようやく分かり始めたような気がする。あの,どうしようもない不安感の原因が何であるのか。
自分の行動範囲を元にして作り出した,架空の町の中で逃げまどい,それ以上の空間には決して到達することの無かった夢。
夢の世界での様々な制約は,住み慣れた町への心の束縛がもたらしていた。
一度,壮大な旅をする必要を感じている。

あらゆる人は,不完全なまま,完全を目視し,安定と繁栄を願望しつつ,存続していく。いずれ,全てが破壊され,消失していくことをしりつつ,生きていくために,努力し続ける。

991105
私は,集団の中で,生活することになれていないのだろう。父が言っていたように。
真理(と思われる)の言葉が,頭をかすめ続けるのに,いざ,言葉として残そうとすると,あっという間に消え去ってしまう。いつものごとくに。
おそらく,書き残す必要がないか,書き残すにはまだ未熟な思考なのだろう。
<<<===
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この回答へのお礼

とてもプライベートな言説を記載していただきありがとうございます。
98年、99年ごろ、私は高校生でした。
高校の頃は、もっぱら詩を書いていました。ロマンにひたって、世界を素晴らしいものだと捉えていた頃です。ただ、その世界には大人の社会は含まれていなかったのですが。
それがネガティブだったかポジティブだったかといえば、閉じているという意味でネガティブであり、世界が好きだったという意味ではポジティブだったと思います。そのポジティブが昂じて、高校の終わる頃にバックパック一つで世界を少し旅行しましたが、その、ネガティブ(逃避)でもありポジティブ(出立)でもあった旅行が、思春期を終わらしたのではないかと自分では思っています。

人の心に何時、内面と外面が生じたのか私はわかりませんが、その狭間で悩み、また遊んだ思春期の頃が、後々の人生に大きく影響したのは、多くの人に同じことが言えると思います。

子どもたちに掛ける言葉で、不意について出た言葉の方が印象に残っているというのは、きっとそのとおりなのだと思います。いい言葉を言おうと画策したりするのは、ちょっと違うかなと。

お礼日時:2016/01/03 15:31

プロフィールの記載がまづかつたのですが、2月末まではここを利用します。



>そう思えばこうしてこのタイミングで話できるのも、小さな縁なのかな。

おつしやるとほりと存じます。

>トラック野郎さんも、また何時か戻って来ると良いですね。

cyototuさんとさいころさんの復帰だけで充分です。ときどき閲覧はいたしますので、みなさまのご活躍を期待してをります。登録不要のブログには顔を出すかもしれません。物理学における「ふるまひ」の意味や、蛇行運転の原因など、長年の疑問がとけました。科学の進歩はすばらしいものです。

>退会は残念ですが、できれば元気でいられることを願っています。

残念ながら、元気でゐると思ひます。Q&Aサイトの通報マニアの人は、はりあひがなくなるかもしれません。これまで私が好き勝手な投稿ができたのも、kanto-iさんたちの正統的な回答があつたおかげだと思つてをります。コピーの件は詳細の説明がいただけないのでコメント不能です。申し訳ございません。文章を拝見したかぎりでは、コピーができないくらゐのことで追及するのはイヂメのやうに感じられます。コピーが大切な仕事だとおつしやるなら、1回説明しただけで終りといふのは理不尽です。繰返しを惜しむ、この発想こそがまさしく「ゆとり教育」にほかなりません。どこの話なのか存じませんが、従業員が気の毒に思へました。

>確かに自立型で仕事できない方もいるのかもしれません。

正社員としては一般に不適格です。「犬などの躾でよくあることです」との御指摘がありますが、相手が人間だと思ふから腹が立つのであつて、犬だ、ミヂンコだ、屑だ、などとわりきつてゐれば、それなりに対応できるものです。こんなことを書くと、求道派のあほなさんに叱られますね。豚がいちばんです。

>ビールを飲んで運転されたら、洒落になりません

先日スキーバスの事故が報道されましたが、そんなことが起きる下地はいくらでもあります。私はぶん殴つたことはありませんが、ひつぱたくぐらゐはします。いちばん汚いのは、「ビールを飲んで運転」する者ではなく、きれいごとを言ふだけで責任をとらない者だとおもひます。

>一つは短期記憶用の場所で、もう一つは長期記憶用の場所です。

御説明をありがたうございます。「短期習得、短期忘却」などと言はれますが、時間と手間をかけたものは、永く覚えてゐられるものです。iacta-alea-estさんは外国語の教育をなさつてゐるやうですが、先日私の質問におもしろい回答をもらひました。(回答番号4)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/9162749.html
「鞭で打って覚えさせるのには理由があります。痛みを伴う時の記憶は脳に深く刻まれるのです。僕も眠気覚ましも兼ねて、手の甲をシャーペンの先で突いたりしています。忍者か何かを記憶するときは、刃物でどの部位かは忘れましたが体の一部を刺していたようです。」
中世の古典語教育では、文法の先生が生徒を鞭で打つてゐたさうです。そこまでして教へる必要はないと思ひますが、どうしても習得させようとすれば、そのくらゐのことはしなければならないのでせう。

>運転手が手積み手降ろしができないのを

これも結構むづかしいのです。私よりも「ビールを飲んで運転」する者のほうが上手です。さまざまな形状の荷物を四角いパレットの上に積むのですが、ほとんど無意識のうちに美しい立方体を作りあげます。まさに芸術作品です。さきほど人間だと思つてはいけない、と書きましたが、本能によつて巣作りをする動物と同じです。私などは考へに考へぬいて積上げ、最後にラップを巻きつけても荷崩れします。
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この回答へのお礼

2月末ですか^_^少しですが延びて良かったです。

私は相手を豚やミジンコの様には思わないですが、自分も豚やミジンコの様に思われたく無い、のです。ですから、まぁ、自然な事といいますか、私の心がけが大したものと言うのではありませんf^_^;)逆に自身に残る動物的な部分を隠すコンプレックスであるかもしれません。

猪突さんのブログをご覧になるのであれば、もしかしたら、そこで鉢合わせるかもしれませんね。どういう形であれ、またお話できる機会があれば楽しいですね^_^

プラポチさんの人柄に、ここを通して僅かなりに触れさせていただき、何というか、まぁ、純粋に楽しかったです、プラポチさんとのお話は。異なる見解なのに、全然嫌じゃありませんでした。

2月末まで、どうぞよろしくお願いしますね。

お礼日時:2016/01/29 23:08

プラポチさんへ



私も数年前に、退会はしなかったが、教えて!gooを退学した経験があります。ブログに移ってしまったので、そっちに専念しようと思っていたからです。でも数年経って、木造100年でえくや、巫女弟子お姉や、雨合羽お姉や、サイコロさんが懐かしくなって、また、ここに戻って来たのです。トラック野郎さんも、また何時か戻って来ると良いですね。

Have a nice life!
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この回答へのお礼

皆さん、色々の遍歴があるのですね^_^
そう思えばこうしてこのタイミングで話できるのも、小さな縁なのかな。

お礼日時:2016/01/29 16:55

プラポチさんへ



いろいろお世話になりました。
退会は残念ですが、できれば元気でいられることを願っています。

気に入らないとは思いますが、私と似ているところも多く感じ
自己卑下されますが勉強家で努力家で、ずっと尊敬していました。

プラポチさんの言うベルトコンベアー方式に気がついたのは最近で
確か7〜8年ほど前だと思います。

ずっと以前から知ってあるなら、まだ私が気がついていないことが
あるだろうと思い、今回が最後の機会かもしれないので
聴かせていただきたくお尋ねしました。

お陰様で、いろいろと勉強になりました。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

プラポチさんが居なくなるのは残念ですが、人が循環していくのはこのQAサイトでも社会でも同じ事ですね。また、このサイトに、暖かな風を運んでくれる方が現れることを願っています。

お礼日時:2016/01/28 20:52

>ゆとり教育では、問題が起きるとすぐに全体会議にするのだそうです。



たまたま,ゆとり世代全盛期の真っただ中に育った若いもんが私の所に来ていたので、全体会議について聞いてみましたら、その最盛期あたが全体会議のはしりで、それからゆとり教育衰退期に向って、それとは反比例するように全体会議が盛り上がって来たそうです。特に、小学校での全体会議が印象に残っているそうです。
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プラポチさんへのお返事で場所をお借りします。



>さいころさんの主張なさるベルトコンベヤー方式が具体的にどのやうなものなのかがわからず私論を述べたのですが、大きく違つてゐたら申し訳ございません。

 いや、プラポチさん、大変深めていただいたと思っております。感謝感激、雨霰。結局、話としては、現場によって違うということを理解致しました。他のKanto-iさんとのやり取りも拝見していて思いましたが、確かに自立型で仕事できない方もいるのかもしれません。指示待ち人間。彼らに聞いて見たことがありますが、メンタリティは次の通りだそうです。
 ・自分は無力な存在だと思っている。
 ・他人から指示されたことを実行する分には、問題が起きた時に自分のせいではないと言える。
 ・萎縮している。混乱して分けがわからない。
 ・不満があるが、敢えて言わない。
 
 自由を与えて信任し、失敗しても良いから自由にやらせておけば、いずれ、健全な自発性を備えた人が育つと思いたいところです。しかしそれは中々、難しいことです。これは二つの理由がありそうです。

 まずゆとり教育でうまくいかないことが明らかになってしまいました。私にしてみると、ゆとり教育の人は、どこかで成熟しているが、どこかで大変未熟です。私は全員にインタヴューできたわけではないのですし、教育学は門外漢で事実としては語れませんが、2タイプの人を育てると理解しています。ゆとり教育では、問題が起きるとすぐに全体会議にするのだそうです。この結果、
 1. 全体会議にされるのが恐ろしくて、萎縮した子供が育つ。とにかく人当たりはいいが、自分の意見をいわない。いえない。
   →これが指示待ち人間になりやすい。ある一定の水準の人は使いやすい。しかし脆い。
 2.全体会議を牛耳れるくらいに発言力の強い子供が育つ。しかしこれはお山の大将で、全くの世間知らず。
   →これは指示を待たず、話も聞かず、無意味に場をかき乱す。問題児。これも脆い。

 1はいつの時代にもおります。しかし2のタイプをうまく導けないのは、「ゆとり教育」の問題点でしょう。犬などの躾でよくあることですが、敢えて不得意なことを何度もやらせることで、慢心を抑制するということがあるそうです。そしてさらに大きな問題は、2が1にマウンティングすることで、さらに萎縮させてしまう可能性があるということです。私の悩みの種です。

 次に理想的な自由を与えるなど、そうそう出来るものではありませんね。大学院である程度人が変わると申したのは、大学院になると教員が「あたり」の場合、ものすごく大きな自由を確保してくれるからです。しかしこれは大学だからで、仕事ではないから可能なんでしょう。ビールを飲んで運転されたら、洒落になりません。当人が学会発表で失敗しても、それはもう一回、やり直すことが出来ます。

 それと退会なさるとのことで、ここで前にあった言語の問いについてお答えさせてください。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9148528.html
No18について。
>>言語を使用する脳の部位は二つあって......不正確です。>先ほど飲んだばかりです。おもしろさうな内容に思へるのですけれど、論旨が把握できませんでした。よろしければ具体的に御説明くだされば助かります。もう一杯飲めばわかるかもしれません。

 私が20年くらい前にテレビのドキュメンタリーで見た範囲の知識ですが、脳には二つの記憶を貯める場所があるのだとか。一つは短期記憶用の場所で、もう一つは長期記憶用の場所です。脳の部位の名称も説明されていたはずですが、うろ覚えで間違うと良くないので、曖昧にさせてください(書籍を探せば分かりそうですが、ちょっと手元にないので)。外国語学習者は最初、短期記憶用の場所を使うそうです。しかしそのうち、長期記憶用のところに記憶が行くのだそうです。こうならば、ペラペラと話せます。ここまでがドキュメンタリーの内容です。しかし私は自分に照らして分かったのですが、ペラペラ話すと、自分で自分の間違いをチェックできなくなります。これは私個人の経験に過ぎませんが、イタリア人たちがペラペラと話す割に間違いが多いことを考えると、割と真実ではないかと思っております。脳の内奥に入ると、自己批判が適切に出来なくなるのかもしれません。あとで冷汗を流しております。

 駄文が長くなって申し訳ないですが、お仕事の進展を願っております。
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この回答へのお礼

どうぞお使い下さい^_^

ゆとり、、、ここでも出ましたか。ゆとり世代はゆとりと言われることに劣等感を抱いてる様な節も見聞きしますが、ゆとり教育その内容を把握していない私には、ゆとり世代の知人、友人を見てその功罪を判断するしかありません。その分では、私自身は、大きな違和感は持ち得なかったのですが、これだけ多数の方が言われるのだから、やはり事実として問題があるのでしょう。理想が先走った結果の弊害が。

猪突さんが文化として自然発生的に培われた教育についても言及されていましたが、その様な安定仕様のものに注目するのは結構合理的かなとも思えます。一方で、変化の早い現代、社会モデルの話も出ましたが、やはり変わってく部分も必要かなとも思いますし、難しいですね。

言語と脳のお話、横で聞かせていただきました^_^

お礼日時:2016/01/28 03:21

>転んで顔擦りむいて、起き上がったら笑っている、それくらいになればあほの称号を認めます!



何度も死にかけて、笑ってるのでは足りませんか?(笑)
話しは沢山あるので、いつかお会いした時にでも(^ ^)
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この回答へのお礼

おおw
それは十分過ぎですねf^_^;)恐れ入ります。
お会いできる縁があれば、是非お話お聞かせください^_^楽しみにしています。

お礼日時:2016/01/28 01:34

あほなさん、こちらこそありがとうございます。



どんなに社会的に低いと見られようが、駄目だと思われようが
それぞれがそれぞれに、誰でも頑張って生きていると思うんですよね。

それぞれが、どこか愛すべき人だと思えます。

人は弱い。
そして強い。

人間は、いつか本当の意味で支え合うことができると思うのです。

私は、人が持つ可能性を信じ続けて
縁がある場合、微力でも進み続けますよ(^ ^)
誰に綺麗ごとと罵られようともね。

ただ私が、そういう道を選びたいだけです。
それで十分な人生だと思っています。

人を愛するのは、辞めない。
その決意だけですね。

私も十分にあほですねwww
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この回答へのお礼

いやいや、ニュートラルさんにも申しましたが、あほの称号は簡単には認められないのです^_^
まず天然であること。あほな行為や言動が何故か結果オーライ、ハッピーに結びつくこと、皆から下に見られている様で、実は尊重されていることなどなど、挙げればチェック項目は沢山あるのです。
しかしカントアイさんの、この浮世、一途にきらめくものを模索し生きようとする姿勢はあほにも通じるところがあります。ですので、準あほ、という称号で妥協しませんか?^_^
転んで顔擦りむいて、起き上がったら笑っている、それくらいになればあほの称号を認めます!

いつもご回答ありがとうです。

お礼日時:2016/01/28 00:15

#135関連で



ご返答ありがとうございます。

残念ながら、私の職場ではありません。
そして、私の問題でもありません。
尚且つ、どうでもよくないようです。

以前も書きましたが、運転手が手積み手降ろしができないのを
覚えることができないレベルですね。

指示される側は必然性は、理解されております。

複数の当事者から、長い話しを聴いたことをずっとなぞっていました。
8年ほど前から疑問が出て、近年顕著だからです。

書きながら反芻していたら、だんだん明確になってきました。
ベルトコンベアは、おそらく無いですね。

後は当事者に話しをじっくり聴けば、おそらく分かるでしょう。
ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ありがとう

人に話をする事で整理され、見えてくる事ってありますね^_^
特にこういうところでは、完璧な話方をしなければならないなどという事はありません。難しい事は此処では要求しないので、皆さん思い思いに語っていただければと思っています。そんな風なのに、貴重な意見を沢山聞くことができました。ちょっとした自伝なども聞く事ができ、質問者としては大満足です。QAサイトでこれ程たくさんのご意見を頂けたのは私は初めての事です。それだけこの問いが、多くの人の心に響くものを含んでいたのだと私は思います。始めは中学生くらいの頃を思い出していただき、どんな回答が頂けるのかと待っていましたが、子供の事よりも大人の教育について語る方も多く、予想以上に話が広がりまして、私のキャパもオーバーしましたが、様々な世界を垣間見る事ができました。
質問して良かったと思っています。

お礼日時:2016/01/27 22:57

回答番号19,26,45,48,64,88,97,129,132のplapotiです。

これが10件目の怪答です。

>プラポチさんはちゃんとした人だと思います。

コピー機が使へません。メモは取つてもしよつちゆう失くします。ちなみに携帯電話は最も機能の少ない機種を持つてゐて、電話することと時刻を見ること以外は使用できません。kanto-iさんから見れば、「三歩歩いたら忘れる」「多くの不幸を感じる人達を周りに作り出し」「働く実績が作れない」のが私です。

kanto-iさんの職場の詳細がわかりませんので、憶測で語るしかないのですが、メモとかコピーとかは、どうでもいいことではないのですか。ふだんの投稿を拝見してをりましても、全体を見るのではなく、細かな部分にこだはりすぎのやうな印象を受けます。社長をなさつてゐるのですか。管理する側は、決断をし、責任をとることが仕事だと思ひます。小さなことに過剰反応してゐたら、従業員が萎縮します。

私は決りきつた事務作業はパソコンまかせです。毎日同じ操作をするものはプログラミングして自動処理できるやうにしておきます。職場では、コピー、ファックス、電卓などを廃止しよう、と主張してゐます。手書き、手計算、手作業は不要です。トラック運転手にとつての仕事は荷物を動かすことなので、それ以外のことには基本的に目が向きません。手積み、手卸し。

指示する側の欠陥としてしばしば見られるのは、自分が判つてゐることを、簡単に相手におしつけてしまふことです。書類のコピーにしても、指示者はその手順の必然性が理解できてゐるから当然のことと思へるのですが、指示される側はそのやうな背景がわからずに手順だけを教へられますから、覚えるのは困難です。「2度目のコピーも、同じと言っても途中で止まっている。最初から説明してやらせる。できても、3度目では止まる。」このやうな状況になるのは、むしろ必然に思へます。私なら確実にさうなります。だからこそ多くの「慣れ」が必要です。

>ここでいう学ぶべき人間の型というのは、どんなもんだろうと言うのは、まだ論ずる余地があるように思います。

はい、さうですね。
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この回答へのお礼

10件ですか。いつもユーモアを交えた話で堅苦しくなく、質問者はじめ楽しみにしておられる方もきっと多い事でしょう。沢山のご回答、ありがとうございますm(__)m

それにしても、プログラミングが出来てコピー機が使えないとか、面白い事をおっしゃる^_^

人間の型については、いろんな人生の波にもまれて形成されるものであり、あるべき型はこうだからこうと覚え込ませようとしても、筋書き通りにはいかないだろうなと思います。この場合の型とは、あくまで参考程度にすべきなのか、それとも履修すべきなのか。田畑や林と同じく、人間にも手入れが必要だとどこかで聞きましたが、そう言うものかと納得している自分もいるなかで、個性とは何かとか、そもそも人格ってなによ、と言った問いも再浮上して来ております。しかしそういった言葉にとらわれず、自由に考察できるようになりたいなあ。

お礼日時:2016/01/27 20:50

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Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q過保護に育ち、甘ったれた自分勝手な論理も自由?

国際交流が盛んになって久しい日本ですね。
諸外国の様々な文化が入り混じり、民主化が進みました。
もちろん、いいことでしょうね。

しかし、子育ても自由になった中で、過保護に育った人間の自分勝手な論理も目につきます。
自由を振りかざし、自分勝手な自己弁護の論理も堂々と表現します。

例えば、心身共に虚弱なためにニート生活を余儀なくされてる人は別として、”ニートのどこが悪い”と豪語する若者もいます。

過保護が生み出した自分勝手な若者の論理、それも自由でしょうか?

Aベストアンサー

>過保護が生み出した自分勝手な若者の論理、それも自由でしょうか?

要はお前の考えは間違っていると、そういう若者に対して叱ってよいのかということを問いたいのですよね?
もしもその若者の論理も自由であるならば間違ってるなんて言っちゃいけないと考えてしまいがちですもんね

結論から言うと否定できます
その根拠は自由であることと、それが正しいかどうかということは全く別問題だからです
”ニートのどこが悪い”と豪語するのは自由ですが、自由はその考えを肯定も否定もしません
つまり何を考えても自由ですが、それは自由であることを理由に正しいとは言えないわけです
だから若者に対してお前の考えは間違っていると言うことができます

また我々がこの社会で自由という言葉を発する際の共通の理解があるはずです
それは法に反しない限り、他人の権利を脅かさない限り、人の迷惑にならない限り
など常識的な括弧がつくはずです
なので自由の内容が反社会的であったりするならそれは我々が認める自由の範疇を超えるため
この場合は自由そのものを明確に否定できますし
それらの括弧を守る限りは他人の意見を否定するのも自由であるはずです

>過保護が生み出した自分勝手な若者の論理、それも自由でしょうか?

要はお前の考えは間違っていると、そういう若者に対して叱ってよいのかということを問いたいのですよね?
もしもその若者の論理も自由であるならば間違ってるなんて言っちゃいけないと考えてしまいがちですもんね

結論から言うと否定できます
その根拠は自由であることと、それが正しいかどうかということは全く別問題だからです
”ニートのどこが悪い”と豪語するのは自由ですが、自由はその考えを肯定も否定もしません
つまり何を考えても自由...続きを読む

Q過剰な自画自賛?

少し前から気になっていたのですが、日本文化を称賛する論調が多すぎると思います。
外国人タレントが文句を言ったりしています。
日本人である私も、食傷気味。

これって、どういう現象なのでしょうか?

Aベストアンサー

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-2065-3

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では海外の工場で作ってますし、中国メーカーの製品も物によってはですがかつての安かろう悪かろうを脱してますし、日本の有名家電メーカーなどが中国や台湾の会社に買収されたりしてますからね。

日本に良い所が色々あるのはテレビで何度も繰り返し言われなくても分かってるし、他国の良い所を賞賛したり、見習ったりする姿勢が低下していかないか心配です。

ドイツの脱・原発の選択に日本も続こうというような風潮も少し前は多少あったのになぁ……

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-2065-3

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では...続きを読む

Qおかしい人 変わった人 は悪人ですか?

このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問わず、排斥の対象になりやすいはずです。
あるいは、排斥を目的として、そのような認識が為される。
これって、案外、諸悪の根源の重大な要素のひとつになっていないでしょうか。
煎じ詰めると、質問としては、次のようになります。

【質問】
異質と感じるものに対する自らの排斥感情と、我々はどのように付き合っていくべきか。
また、
他者から異質なものとして排斥感情を向けられた場合、我々はどのようにそれを受け止めるべきか。

こうした2方面からのアプローチをお願いしたいと思います。

このように問えば、おそらくですが NO、あるいは、どちらとも言えない、 という答えがほとんどだろうと思います。
ただ、実際には、明らかに、そのように扱っているはずです。
つまり、
・おかしいから良くない
・変わっているから良くない
という暗黙の了解の下、この社会は(基本的に)動いているでしょう。
思想(国家)対立
宗教対立
いじめ
パワハラ
家族・友人
ご近所づき合い
etc.
様々な局面が想定できると思います。
そして、「おかしい人 変わった人」という認識自体は、程度の大小を問...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろ意見、楽しみながら拝読しています。 hakobuluさんの始めの趣旨からズレていなくないわけではないと思わないわけではなくないと思っていますが、、、


一寸違った側面から、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源を考えてみました。生物の至上命令は生き残りだということは、自然界の観察から経験的に解っています。まっ、生物の生きざまの根底は本質的に偶然が支配していますから、個体の生きざまは必ず平均値のところにピークがあるベル型分布(ガウス分布)をしている。すなわち、その分布を特徴付ける「揺らぎ」と呼ばれる幅があり、その揺らぎゆえ個々の生きざまは多様であるのは当たり前で、例外的にその至上命令に組しない個体がいるのも当たり前なんですが。

んで、その前提で各個体の振舞いを見ていると、身の危険を感知したり、生存に必要な物を手に入れたりするために、外界が「どうあるのか」を探る機能を備えている。例えば、雌雄以外ほとんど構造を持たない原始的な生物でも、たまたまの偶然で雌雄が打つかると合体をして種の再生産をし、その他の異物に衝突しても合体を試みないようにできている。だから、周りが「どうあるのか」を感知する機能がある。さらに、その機能で感知した情報を使って、合体するか無視するかの判断を下しているので、次の行動は「どうあるべきか」を判断していることも明らかです。

このことは、「どうあるのか」と「どうあるべきか」の観察と判断はあらゆる生物がやっていることであり、人間固有の特徴ではないということです。それどころか、人間がそのことに興味を持つのは、人間が最も原始的な生物と何ら変わらないことの証左です。要するに、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源は生物発生の原初にある。

さて、そうなるとこの至上命令を満たすための行為の効率が問題になる。「どうあるのか」の感知なり認識を誤ると次の行動の判断が、その至上命令の達成のために障害となってしまう。んで、人間の歴史を振り返ってみると、その至上命令を達成するのに必要だと思われる情報をそれなりに手に入れる前に、「どうあるべきか」の判断を下して来てしまったことが、多大な不幸をもたらして来たことに気付き始めた。

そこで、ガリレオやマキュアベリが、もう一寸この世界を観察して、我々が判断するために必要な情報を探ってみようよと言い出した。そして驚いた。世界って、今まで我々か考えていたよりずっと広いんだ。それどころか、どうあるのかの一端が解れば解るほど、新たに解らないものが増えて来ている。そんなことも知らずに、こんなに情報不足で良くもまあ「どうあるべきか」なんて烏滸がましいことを言っていたもんだ。これじゃ問題が解決するどころか、新たな不幸だって作り出しかねない、ってな反省が生まれて来ている。これが人類の現在の立ち位置だと私は思っているんだが、どんなもんでしょうか。

そんなこと言ったって、今現在を何とかしなくてはならない。だから、今までに手に入れた情報で判断を下して、精一杯できることをしながら、後は成り行きに任せて収まる所に収まるようにしながら前に進む以外にない。その判断を下すための情報が今までも今後も驚くほど少ない状況で判断しているんだということを認識しながら前に進んでいるんだということを顕在的に意識していくことが、我々生物の至上命令の達成のために効率が良さそうだと科学の発達が教えているんだと私は思います。

いろいろ意見、楽しみながら拝読しています。 hakobuluさんの始めの趣旨からズレていなくないわけではないと思わないわけではなくないと思っていますが、、、


一寸違った側面から、「どうあるか」と「どうあるべきか」の生物的起源を考えてみました。生物の至上命令は生き残りだということは、自然界の観察から経験的に解っています。まっ、生物の生きざまの根底は本質的に偶然が支配していますから、個体の生きざまは必ず平均値のところにピークがあるベル型分布(ガウス分布)をしている。すなわち、その分...続きを読む

Q狂気とは

狂気について考察したいと考えています。

チェレンコフ光というのがありますよね。
これを制御するのは理性の極致だと思います。
なんにせよ強暴なエネルギーの制御は、人間が行う課題だと思います。

私はチェレンコフ光が子供の頃から好きです。吸い込まれるように魅せられ、原子炉に入っていきたい衝動を持っています。
これは狂気でしょうか。

Aベストアンサー

狂気の最たるもの

https://www.youtube.com/watch?v=LDxF80pyVDo&index=16&list=PLjRNMBifTNgxhiuFb3LEsZBH-g6obdoYg

Q「生まれてきたくなかった」にどう答えればいい?

「生まれてきたくなかった」とか「生まれてこなければよかった」など、人生がいやになったときに自分の生を受身に捉えて嘆いている人がいたとします。
皆さんだったらどのように答えますか?ただし、正論で答えたりその人がさらに落ち込むような回答(例えば「みんなそんなもんだよ」とか「いつかは生まれてきてよかったと思えるときが来る」)はやめてください。

Aベストアンサー

そんなことないよということをいいます
それはなぜか

誰でも生まれてきて絶対何か1つでも人々に貢献していることがあるとおもうんです
生まれたとき親は喜ぶでしょう
その喜びを与えたのは紛れも無く生まれてきた自分自身なのです
友達だっているでしょう
一回でも友達を笑わせたり何か物を貸したりしたら
それは十分貢献したことになるでしょう
ちょっとでも役に立てばそれは十分生まれてきた意味があるのです
生き続ければ貢献し続けるでしょう
死んだらマイナスの効果しかないでしょう
少なくとも社会には・・
自分の命は自分だけのものではなく
人1人の命は周りの人々に少しずつ分散されているという文章を読んだことがあります
そのとおりだなあと思いました

Qキンダベート軟膏について教えてください。

 9ヶ月の息子の顔の湿疹がひどくて、キンダベート軟膏を病院で出してもらいました。その際、ずっと使い続けると皮膚が薄くなるのであまり長期間に渡って使わないほうがいいと説明がありました。
 その後、引っ越しのため別の病院にかかり、ほほの赤みが消えず、痒がることもあるため、またキンダベート軟膏を出してもらいました。そのときはずっと使い続けて問題はないとのことでした。
 もう一つアンダーム軟膏も出してもらったのですが、頬の赤みは消えず、一日二回キンダベートをつけています。
 実際のところ、このキンダベートを使い続けると副作用はあるのでしょうか?教えてください。よろしくお願いします。
 

Aベストアンサー

以下の参考URLは参考になりますでしょうか?
「キンダベート軟膏」
この中で「副作用」の項を参考にしてください。

ご参考まで。

参考URL:http://www.interq.or.jp/ox/dwm/se/se26/se2646722.html

Q35歳子持ち主婦、パートか正社員で働くか悩んでいます。

35歳、2児の母であり、主婦です。主人は製造業の社員です。
この度、主人の仕事が激減し、給料が大幅ダウンしました。
それまで、私がパートに出なくても、贅沢しなければやっていける生活でした。
お小遣いも貰っていましたし、近い将来に対する危機感を持つこともありませんでした。
「申し訳ないけど、働きに出てくれないか。」
と言われ、出産で退職してから、約9年ぶりに就職活動しているこの頃です。

いづれ、下の子が小学生になったら、パートに出ようかと漠然と考えてはいたのですが、
今4歳ですので、保育園に入所させなければなりません。

保育料が4万円位と考えて、9時から16時のパートに出ても、1か月約8万円くらいの収入です。
「収入が少ないので、正社員で働いてくれ、事務なんてどうだ」と主人は言いますが、、
実際、保育園に行くような年齢の子供を持っていると、残業はせいぜい1時間、
急病のときなどに見てくれる祖父母などがいなければ、採用は難しいようです。
(その点は初めに面接していただいた会社の方に言われました。)
「子供が病気のときは、俺に電話しろ。俺のほうが早退出来やすいから。」と、いとも簡単に主人は
言うのですが、突然増産になり、3交代勤務に変わったときが心配です。「面接のとき馬鹿正直に、主人が3交代があるなんか言うんじゃない」って言われましたが、板ばさみになって困るのは私ですし。

年齢制限のこともあり、同じ働くなら、早いうちに正社員で働けるところを探すべきか悩んでいます。
私としては、子供の成長に伴って、出費が増えるので、長い年数働きたい気持ちが強いです。
時間に制限や、急に休んで他人に迷惑をかける可能性が少しでもあるなら、収入が少なくても、パートで仕事をしたほうがいいでしょうか。
再び事務職で正社員に応募して、これから履歴書を郵送するのですが、採用される可能性は少ないですよね??

35歳、2児の母であり、主婦です。主人は製造業の社員です。
この度、主人の仕事が激減し、給料が大幅ダウンしました。
それまで、私がパートに出なくても、贅沢しなければやっていける生活でした。
お小遣いも貰っていましたし、近い将来に対する危機感を持つこともありませんでした。
「申し訳ないけど、働きに出てくれないか。」
と言われ、出産で退職してから、約9年ぶりに就職活動しているこの頃です。

いづれ、下の子が小学生になったら、パートに出ようかと漠然と考えてはいたのですが、
今4歳...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちわ。
 私の家庭もかって、妻が仕事に出る、出ないで夫婦で相談したことがありました。

 結婚して2年目に子供が出来、4年目に二子が誕生し、それから育児を続けました。

 私の所は私の両親と同居です。

 私の方も賃金がカットされ、以前に比べて収入が減り、家のローンもあり、これではやって行けないので、妻にパートに出てもらいました。結婚して11年目、妻が39歳の時です。

 私としては出来れば正社員で働いて欲しかったのですが、子供のこと、主婦業、家事もあり、パートということで現在に到っております。

 子供が、風邪やケガとかしないか心配でしたが幸い、母が(私の)家にいて面倒を見てくれました。

 旦那様は、子供に何かあってなら『俺に言え』とのことですが、本当にそんなに簡単に行くのでしょうか?男が中々、『子供が熱を出している』で早退できるのなら、羨ましいです。

 結局、家庭、子供に何かあれば、母親に頼らざるを得ない状況とも思えます。

 妻もパートですが、そんなに自分の都合で易々と、休めないと言っています。うちは子供が大分、大きくなりましたので、それほど心配はありませんが、まだお子様が幼い間は心配でしょう。

 私の会社でもjajamaruさんと同じ境遇で仕事に来られてる女性が多いですが、よく子供が『風邪で熱があり、保育所から連絡がある』ということで早退される女性が多いです。(主人、妻、子供二人の家庭の方)

 上司は止む得ず、渋々、了解するものの、あまりいい顔はしていませんね。回数が多いと怒りますね。人によりけりです。

 正社員で行ければいいのですが、学校のこと、勉強のこと、健康面、母親なら気が気でないでしょう。
 収入を増やそうと思うのであれば、やはり何かを犠牲にしなければならない部分が出てくると思います。

 今は、どこも企業の人減らしが多く、中々、仕事を見つけるのも容易ではありません。

 私の妻はかって事務の仕事をしていましたが、中々時間通りに帰らせてもらえないと嘆いていました。

 それで今のパート仕事は製造ラインで流れ作業をしています。いつも夕方5時に終わり、帰宅は5時半くらいです。(勤務先が近いので車で10分少々)

 特に言っておりましたが事務の仕事だと月末は特に忙しく、締切りとかの関係もあり、時間が来たからといって『すぐに帰る』のは、はばかられる雰囲気があったとも言っておりました。

 多分、旦那様にはあまり子供の事等で、あまり頼り過ぎられない方がよろしいかと思います。

 男は『子供が風邪を引いた、熱出した』位では中々、帰らせて欲しいと言えないのが実態です。

 ご主人も責任ある立場におられたら、周囲の手前、自分都合で帰るわけには行かないでしょう。

 仕事の面接の時、妻は自分の家庭環境、学校行事その他は休ませて欲しいと言ったと聞いています。 

 無理をすると後が続かない場合もあります。

私としては、当面、パートに行かれ、家庭にどう影響するのか様子を見られてはどうか?思います。

 収入を増やしたいのは分かりますが、それで子供さんが淋しい思いをしたり、不自由したりするのは避けたいです。

 保育料も高いので35歳前後の夫婦共働きの家庭も色々と家庭との調和で苦労があるようです。

こんにちわ。
 私の家庭もかって、妻が仕事に出る、出ないで夫婦で相談したことがありました。

 結婚して2年目に子供が出来、4年目に二子が誕生し、それから育児を続けました。

 私の所は私の両親と同居です。

 私の方も賃金がカットされ、以前に比べて収入が減り、家のローンもあり、これではやって行けないので、妻にパートに出てもらいました。結婚して11年目、妻が39歳の時です。

 私としては出来れば正社員で働いて欲しかったのですが、子供のこと、主婦業、家事もあり、パートということ...続きを読む

Q対岸の火事(は消してはいけない)、、、?

哲学のカテゴリーでご活躍の諸兄にお考えを伺いたく、質問いたします。

「対岸の火事」に対して、人はどのように対処するべきでしょうか。

1.対岸の火事は、傍観するしかないし、傍観するべきである。
2.対岸の火事であっても、傍観はいけないし、彼岸に渡って消火活動をするべきだ。
3.対岸の火事といってもその規模により、彼岸で済むなら傍観、(CO2やPM2.5などで)此方にも害が及ぶと予想されるなら防衛的な消火活動をするべきである。

哲学の問として成立するのかどうかよくわかりませんけど、諸兄のお考えをお聞かせください。

Aベストアンサー

1。

起こってしまったものは仕方がない。

缶ビール2本持参して見物だ。

Q生きるのが面倒です。

 正直、あまりにも人生がついてなくて生きるのが面倒です。
 自分の人生は終わっているように思っており、
 いっそ人生のジョーカーである殺人・自殺のカードを切ってしまおうかと思ってしまうほどの自分の中では絶望レベルです。
 親はそんな自分に「もっと辛い思いをしても頑張っている人もいるんだから」としか昔から言いません。
 そこで思ったんですが、不幸な人の例として例えば不幸な事故・犯罪の被害者となり自分の人生で大切なものを失った人は何の為に生きているんでしょうか?。
 先日、殺人事件で娘を失い時効を迎えた遺族の方がドキュメントで取り上げられていました。その方は「あの時に自分の人生は終わってしまいました」と言っていました。
 彼女は何の為にこれからの人生を送ればいいのでしょうか?。何のために生きているんでしょうか?。ただ延命のためでしょうか?

Aベストアンサー

目的や大義が無くても、人というものは生きてゆくものだ。
それは、動物だから。

動物ではなく、人として、目的のある人生を送りたいのに、その目的というものが絶望的に存在しないし、今後も発生することも考えがたい、という場合もある。

だから、1年間に3万人も自殺者がいるんだよ。この国には。
自殺を否定したところで始まらない。
現実がそれを追認しているのだから。

だから「自殺しろ」といっているわけじゃないよ。

わたしだって、既に目的を失っているけど、生きている。
実は、一回自殺を試みて、失敗してしまったのだ。
芥川龍之介の時代なら、薬だけで簡単に死ねたんだろうけど、今の世の中、極めて死ににくい。

こうなると、ある意味「敗者の生き方」だが、生きていること自体が目的なのかもしれないと逆転の発想をしてみることもある。
つまり、「手段」だと思っていたことが、実は「目的」なのじゃないかとね。
強引なのはわかっているが、そう思うことでしか慰められない。

例えは悪いのだけれど、順調に成長して、何の苦労も無く勇者になって、何の苦労も無くひたすらモンスター倒してゴールドにも恵まれて最強の武器をそろえることも容易で、最後の敵の大魔王まであっけなく倒すことが出来るようなRPGって、面白いのだろうか?
(そんなもん、クソゲーでしかない。)

なれば、現時体験として絶望的な不幸に見舞われてもゲームのリセットボタンを押さずに続行する勇気のあるゲーマーというのは、真のゲーマーではないかとも思えるのだ。

というのは、言い古された理想論だけどね。
現実はそこまで甘くない。

生きていれば、これまで想像も出来なかった何かの喜びを味わうことも出来る。
しかし、生きていれば、地獄の苦しみを継続して受けるだけかもしれない。
その差し引きでマイナスの方が多いと判断したら、人生やめちゃえば楽かもしれない。

ただねぇ・・・それは「かもしれない」という予想範囲に過ぎないのも確か。
どっちにベットするかは、本人次第だ。
リセットボタンは、自分が握っている。
自分が握っているからこそ、敢えて押さないというのも、人生だな。

目的や大義が無くても、人というものは生きてゆくものだ。
それは、動物だから。

動物ではなく、人として、目的のある人生を送りたいのに、その目的というものが絶望的に存在しないし、今後も発生することも考えがたい、という場合もある。

だから、1年間に3万人も自殺者がいるんだよ。この国には。
自殺を否定したところで始まらない。
現実がそれを追認しているのだから。

だから「自殺しろ」といっているわけじゃないよ。

わたしだって、既に目的を失っているけど、生きている。
実は、一回...続きを読む


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