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正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

A 回答 (142件中71~80件)

♯66の猪突先生の投稿を読んで。



>ベルトコンベヤー方式で充分です。どんな教師でも基礎をそれなりに教へることができるやうにすることこそが肝要です。

 ベルトコンベヤー発言の主として。うーん。たぶん猪突先生は、ここでいう言葉に反して、実際は個々の学生に向き合っているのだと推測されますよ。例えば私については、癖を見抜いて、お釈迦様のように当てているわけです。超人的ですが、たぶんそれだけ数多くの学生の論文を添削したのでしょう。私もベルトコンベヤーのつもりでやっているけれど、実際は結構丁寧なはずです(手前味噌ですが!)。

 こればかりは、あほなさんが先生に回った時に分かるかもしれません。

 私はあほなさんの理想も分かるつもりです。私は学部時代に塾講師をしていた時に、どうしてもベルトコンベヤーをやめたくて、一人一人に向き合いました。バスケットボールが好きで、国語が苦手な中学生がいるとする。すると私はバスケットボールの記事を教材にして、穴埋めや選択肢や傍線問題を作っていき、丁寧に読む技術を教えました。偏差値40の子供がすぐに70まであがります。私は自分は教育の天才ではないかと自惚れました。でもこれ、趣味の域に達していて、私の労働時間が膨大で、全然採算が合わなかったんです。だから永遠にそれをやるのは無理です、すいません、と言うことになりました。

 サルトルはうまいことを言っておりますーー実存は本質に先立つ。

 理念がどうこうじゃなくて、事実を見ないとならないということです。自分は甘党だから、チョコレートを好きになろうとか、甘いもの全部を好きになろうと努力している人がいたら、変だなあと思うでしょう? 自分がチョコレートを好きなんだという事実から、甘党だという認識を導かないとならない。教育も同じことで、自分ができることと限界を分かった上で、言わないとならない。こういうのが言葉の重みなんでしょう。

 だから、あほなさんがこの点について答えをお見つけになるのは、教師の側に回った時かもしれません。まず自分がとことん、思うようにやって限界が見えるまでやってみる。これが最初でしょう。案外、あほなさんなら、何かのスーパーマンみたいなことができてしまうかもしれない。あるいはスーパーマンにはなれなくても、ベルトコンベヤーを改良するだけの提案はできるかもしれません。

 もちろん偉そうに言っている私ごときの言葉は、教師歴ウン十年の猪突先生に比べれば、とても軽いんですよ。そして軽いからこそ言えることもあるわけです。それが若さ故の特権で、数学とかだと大発見が生まれる理由だって、昔、猪突先生に教えてもらいました。そうでしたよね、先生?
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この回答へのお礼

サイコロさんのお話を聴いて、いやあ、惜しいなと思いました。家庭教師時代の事です。きっとサイコロさんには教える才能があると思います。そのまま頑張っていただければ、灘高の橋本武先生のような傑物になれたんじゃないかと。

私には小さな子供にキャッチボールの仕方を教えたくらいの経験しか有りませんから、有名大学で何十年も教鞭をとってきた先生方や、NBAで活躍してきたマグジーとは、教育やコーチングに関して並列で語れないと言われることは承知しております。が、如何に私が凡才であっても、萎縮して言いたい事を遠慮していては風通しが良くない。そう思って皆さんの胸を借りて、市井における教育の話、なるものを拡げておる次第です。

あほなの言うような理想にも共感をしめしてくださりありがとうございます。他の回答者様方も、私の言う理想が分からないというのでは無いのでしょう。

実存は本質に先立つ、私も、戦争問題などを語るときにはこのスタンスを取る事が多いです。人間とはどうあるかを見て、解決へのロードマップを模索するのが効果が高いと思うからです。そういう場合、大抵は理想主義者の相手がおるので、話にも花が咲きます。今回は、私が理想主義的立場に立って、ものを言う番かなと。

昔、ようこそ先輩という番組がありまして、Le Coupleが主題歌を歌っていたのですが、その歌詞に、「縁は異なもの それもいいもの ちょっと前は他人でも」とあります。教師との出会いも言って仕舞えば縁です。しかし、その縁を良いものにできるかどうかは当事者にかかっていると思います。
当事者の想いが、その実存を、変えて行くのではないでしょうか。

人間なんて、放っておけば怠けたい、遊びたい、イケてる人と恋愛したい、大体は欲望に流されて行きます。勉強しんどい、部活しんどい、やりたくない。先生だって、色々めんどくさい事があるでしょう。
でも、そこに教育の果実を示す事ができたならば、それに向かって動き出すものでもあるのではないでしょうか。あほなが推して道を譲らないのは、そう言う高い欲求と言うものを人間は持っていて、それが叶うかもしれないと思うと、俄然ヤル気をだす生き物でもあると思うからです。自分でも何言ってんだ俺は、、と思いますが(笑)

お礼日時:2016/01/14 19:17

ん〜〜。



>特別というか、ホントはこうしたいという本音の部分を求めています。

ご自分の中に、持ってあるんじゃないでしょうか?

私の特別は私のものであり、マグジーの特別はマグジーのものであるから
あほなさんの特別は、あほなさんのものでしょう。

誰しも自分のものを、自分が叶えるのですから。

私に「ホントはこうしたい」は無いです。
「やりたいからこうしてる」しか持っていません。
だから、雇われてないんですね。
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この回答へのお礼

仰るとおり、自分の中に持っているけれど、それを発露する勇気が要るかなと。

>私に「ホントはこうしたい」は無いです。
「やりたいからこうしてる」しか持っていません。<
 
カントアイさんは本音で生きておられるということで、それはとても立派なことだと思います。
特別を当たり前に出来るということは、これは達人だと思いました。ホントはこうしたいという本音は、生き方が磨かれれば当たり前になるのかもしれません。

お礼日時:2016/01/14 02:11

追加です。



たとえば、「公務員になりたくて、たまたま教員を選んだ。」
なんて人でしたら、もしどこかで何かを諦めて教員なら
教職は、とても苦痛でしょうね。

一部望む形に入っているか、選んだものは責任があります。
責を背負うなら、背負う覚悟は必要ですよね。
セルフイメージを作るのも、覚悟かもしれませんね。

最低限のやっつけ仕事と考えるなら、責務が重くて
教育は向いていないと思います。
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この回答へのお礼

大概職業というものは、取り敢えずやってみて、そこで続けられるかどうかで成否が別れるものだと思っています。
公務員志望でたまたま教員を選んだが、思いのほか楽しく出来ているという場合と、全然教員なんてやりたくないと思う人とが居ると思います。

ところで、私は教職が板についている先生と、何年やっても様にならない先生が並ぶのであれば、後者の方の授業を受けてみたいと思うのです。
板についた教員は、教職然としていて、ベテランであるがゆえの盲点を持っていると思います。生徒とはこういうものだという培われた認識が、かえって現生徒にレッテルを貼ってしまうようなことです。
一方、何年やっても教師らしくない先生は、常に学びの機会の中にいて、危なっかしいかもしれないが、生徒ともに成長してくれる先生なのではないかと。

お礼日時:2016/01/14 00:39

お礼、ありがとうございます。



>教育者はどうあるべきか?ではなく、教育者自身はどうしたいのか?を。

なんだか特別なことを求められてます?
私は、日常で普通に相手に問います。
「で、結局どうしたいのですか? 最後は、どんな形が目的ですか?」

子供にも大人にも、教育者でも経営者でも同じですよ。
本人が望む形にしか、その人は成れない。

お友達と喧嘩しました。
口をききません。
聴いていけば、今のところ最後は「仲直りしたい。もう喧嘩したくない」
だったら、そうすればいいのです。

ヒントは、あげますけどね。

誰でも、自分の答えは自分の中に持っています。
それを出して行けば、いいだけなのです。

教育者
「みんなの成績を上げたい。」
なら、その為の努力は必要でしょう。

「解ける喜びを知ってもらいたい」
なら、その為の努力は必要でしょう。

「困難でも、努力は実を結ぶことを叶えて体験してもらいたい」
なら、その為の努力は必要でしょう。

望む形にしかならないから、自分なりに近づくことを諦めない。
それ以外に、私は持っていません。

成りたいものに近づけ、考えろ、やってみろ。
ごくごくありふれて単純で、当たり前しか持っていません。
悪しからず。
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この回答へのお礼

特別というか、ホントはこうしたいという本音の部分を求めています。
望みにも、本当に思っていることと、体裁を整えるためのあるべき望みを抱く事とではちがうのではないかと。そういう意味では、ありふれて単純で、アタリマエのこととは違う、特別でユニークなものを、求めています。

先生も生徒も個であります。個と個とが出会ったならば、それは唯一無二の出会いということになると思います。そんな出会いは本来世の中にあふれているはずですが、与えられた仕事という枠組み、或いは一生徒であるという枠組みを超えることが難しく、生徒と先生の関係は、適度に距離を保った痛くも痒くもない関係に終わってしまう事が多い気がします。その関係の方が心地いいという方も居るでしょうが、私は、生徒と教師の間の信頼関係というものが大事だと思っています。
信頼があるから、間違いも補完されるような気がするのです。

お礼日時:2016/01/14 00:26

これはこれは、どうしたものでしょうか。


私から見ると、全員が正解なのですが(^_^;)
教育者の立場からの話しと、受ける側からの立場の違いだけですからね。


>「基本的に各人が最低限の役割を果すことが大切だと」

これは仕事をする上で、どの仕事でも同じですよね。
つまり、仕事と言えるスタートの時点です。
出発点にあたります。

このラインを超えたところから、その教育者が何処へ向かうかです。
置かれた状況を楽しみ、いかに教えていくかを楽しむ。

そうしていくとそのまま進めば、どうやって教えたら相手に
分かりやすいのか?
伝わりやすいのか?などに眼は移るかもです。

それを超えて行くと、教育を受ける側も楽しめたら
もっと伸びるかも?って気がついて
教える側も教わる側も、できれば楽しくやるのがいいんじゃない?

てな段階で、教育者も変化していく可能性を持っています。
実際に、それを楽しんでやっている教育者も日本人で知っています。
個にそれぞれちゃんと眼を向けてやってあります。

それは段階であり、教える側も一足飛びにできる訳もなく
その個である教育者が、今どこを目指しているのかに過ぎないと思うのです。

「学ぶことをやめたら、教えることもやめなければならない」
これが一番響きました。
はっきり言えば、痛いです(^_^;)

痛いからこそ、私には続けることを忘れてはいけないことだと思います。
ここでいいって、これ以上は無い。
これ以上何もしなくていいって、私は持って無いんですよね。

一生成長したいし、それはできるって自分を信じていますから。


誰も間違いなどなく、全員が正解だと私の眼には写っています。

できるのできないないのでは無く、教育者本人に自分がやりたい
教育としてどうしたいのか?
その人に委ねられるものだと考えております。

現にやっている人がいる以上、それを止めるものでも無いでしょう。
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この回答へのお礼

面白いでしょ^_^
猪突、プラポチ、ニュートラルというこのカテの三人の雄に楯突いて、一歩進んだ見解を湧出できたらという試みでもあります。イエスマンあほなは、しばし休暇中です(笑)

出来る出来ないよりも、教育者本人として、どんな教育をしたいか、これは良いことおっしゃる。此度の御三方の言い分はフラットで、誰にでも納得出来るものですが、いつもの個性が少し鳴りを潜めているように私には感じられます。生意気を言う上に無理を言いますが。

実際には、どうなのでしょう?教育の現場は、先生方のキャパを上回るニーズで溢れているのでしょうか?私は腹立たしい教員の振る舞いばかりを覚えてて、仕事をちゃんとこなしていた先生方の事を忘れているのでしょうか?それはあり得ることですが、カントアイさんに倣って、今あらためて問いたい。教育者はどうあるべきか?ではなく、教育者自身はどうしたいのか?を。
そのどうしたいかを実現出来る道筋を立てられたなら、教育界の未来も明るいのかな。
奇跡のレッスンは、少なくともそのヒントになる事を言っていたと思います。

問題がある、これは普通の事です。問題を解決した、これは良いことです。問題を如何に解決し、そこからどれだけのものを得られたか?これが大事な事のように思うのは、問題というものが決してマイナスな面倒事であると私が考えず、実りを生む種であると見るからです。それはチャンスなんだと。生徒の成長という花を咲かせるチャンスなのだと。これが教育者の本懐のように思うのは、私の、教育者ではない立場だからかもしれません。

お礼日時:2016/01/13 23:00

67番です。

追記です。


あまり知られていませんが、
サッカーの試合には
イエローカード・レッドカードの他に
グリーンカードというのがあります。

子どもの試合の審判をするときに
ときどき使います。



___________




イエローカードやレッドカードが
しょっちゅう出る試合ってのは、
プレイヤーも観てる側も
お・も・し・ろ・く・な・い!




ただし、グリーンカードも
使うタイミングが大事で、



無駄に褒めすぎるのもどうかと思います。
馬車馬の目の前の人参(?)
として褒めるのはどうか、
という意味です(笑)。

褒められるのはそりゃうれしい、
けどあまりにいつもいつも褒められていると、

褒められて い・な・い・と・
気・が・済・ま・な・い・よ・う・に・な・る


ということもありますから。
あ、これを考えたのはわたしではなく、
たしかアドラーとかいう人です。



どうもお邪魔しました。
「奇跡のレッスン」の回答画像68
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この回答へのお礼

へえ、グリーンカードですか。ナイスプレーの時に使うカードですか?

確かに褒められ慣れるというのは無きにしも非ずですね。叱られ耐性と言うのがあると思うんですが、褒められ耐性というのもあるだろうか。。てな事を少し思いました^_^

お礼日時:2016/01/13 22:14

こんにちは、あほなさん。




まだ他のみなさまのご回答読み切れてなくて。
後でじっくり読ませていただきます。


わたし、諸事情で休業中ですが
エアロビクスのインストラクター
兼サッカーのコーチなんです。


たしか【education】というのは
【引き出す】という意味だった気がするのですが、


わたしの仕事はどちらかというと
個人対個人でかかわるというよりは、
全体を観て適切に進行することなんです。


まあスポーツをすれば心拍数が上昇する
という大変不快な現象が伴いますが、
それでモチベーションが下がらないように
少しだけ気を配りつつ、
その日にするべきことをするだけです。



他に気を付けることと言えば、
必ず毎回全員と目を合わせることとか
名前を呼んで挨拶することとか
助けを求めている人・困っている人
質問のある人に少しだけ答えることとか、
その日の目標を立てることとか、
練習内容の目的や意味を説明することとか、
分かりやすい言葉や動作で伝えることとか
(擬音語とか身振り手振りとかよく使ってます)
良くなった点をフィードバックすることとか、
その程度です。



昔は笑いのエッセンスを入れようとしたりして
必死こいてギャグを考えたりしていましたが(笑)、
余計なサーヴィスなんかしなくても、
やりたい人は勝手にやるから大丈夫なんですね。


特に子どもは
顔にボールが当たって鼻血が出るとか
真夏に38度のグラウンドで練習しててぶっ倒れるとか
日常茶飯事で、そんなときは
ラクになるまで休んでなさい、と伝えますが、

鼻血が止まったら戻ってくるし、
水分補給して日陰で休んで元気になったら
勝手に戻ってきてまた練習し始めるんですよ。





そうそう、

研修や講習会で最も印象に残った言葉は
「学ぶことをやめたら
 教えることもやめなければならない」です。



面白いご質問をありがとうございました。
今後の参考にします。
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この回答へのお礼

へぇ、サッカーもやってらしたんですね^_^
ご訪問ありがとうございます。下ではお叱りを受けているあほなですが、教育に対する高い期待が抜け切れずにいます。

「学ぶことをやめたら、教えることもやめなければならない」
という言葉、確かに意味ありげですね。教師の立場であれ、何時でも新鮮な気持ちでいて、学ぶ事を忘れるべきではないということでしょうか。

個人対個人ではなく、全体を見て適切に進行する、これが現実にできることなのかな。マグジーのようなコーチはまさに奇跡のコーチで、ゴロゴロいるような存在では無いと理解しつつも、この番組を見た世の中の教える立場にある人に、良い変化をもたらすのでは無いかという期待もあります。
私は教育者ではないので好き勝手言っておりますが、あほながアホなこと言いよる、付き合うたろか、ぐらいの広い心でいていただけると有り難いです^_^
私は教師に対する思い入れが強すぎるのでしょうか、サイコロさんの言が思い出されます。

お礼日時:2016/01/13 20:57

#64関連で。



>私は先生には、最低限の知識を伝えることに教育の主眼を置くのではなく、ひとりひとりの生徒が必要としていることにアプローチできる先生であって欲しいと思います。

「ひとりひとりの生徒が必要としていることにアプローチできる」

なんて私には無理ですね、先生はどうあるべきか、じゃなくって、先生ってどうあるのか、ってのを問うべきじゃないですか。私はトラック野郎さんの仰るように、

「ベルトコンベヤー方式で充分です。どんな教師でも基礎をそれなりに教へることができるやうにすることこそが肝要です」

に賛成です。

「基本的に各人が最低限の役割を果すことが大切だと」

思うからです。そして、それならほとんどの教師にも可能だと思います。その基礎を手に入れた生徒が成長して行く過程で、ひとりひとりが必要としていることにアプローチできるようになると思います。そこまで、教師にやらせるには、教師は精神的のみならず体力的にもスーパーマンでなくては無理だと思う。

>また奇跡のコーチ自身も常に試行錯誤の連続で、新たな方法を追ひもとめてゐるかもしれません。冒頭に記した先生にそんなことをいきなり要求するのは酷な話です。そんな状態の先生に教へられた生徒も気の毒です。自分に甘く他人に厳しい私でも、そこまでのことは言ひません。私には無理だとわかりますから。

誰でも、何かを初めてやるときには必ず失敗します。どんなに丁寧に解り易く書いてあるマニュアルを読みながらでも、必ず失敗します。私はアメリカで新築の家を買ったとき、自分で全ての窓にブラインドを付けました。アメリカではこれはお父さんの仕事として常識で、専門家に頼まないのが普通です。そしてその方がずっと安上がりです。んで、最初のブラインドでは裏表間違えて、やり直しました。次の窓では、窓に平行に取り付けることができず、またやり直しました。3番めの窓では、まだ平行ではありませんでしたが、やり直すほどでもありませんでした。その後、4番めからは完璧で、何の苦もなくひょいひょい付けられるようになりました。失敗しながら漸くコツを掴んだのです。

だから、もし私が裁判員やアメリカの陪審員になったら、はじめの3回目までは、残念だけれども、コツを掴むための失敗で、冤罪の死刑判決等の有罪判決を下してしまってもしょうがないと考えています。私には、4回目からなら正当な判断が出来るようになっていると自信があります。でも、日本で一生の間に4回も裁判員に選ばれる人って何人位いるのかしら。

ブラインドの取り付けも、裁判員も、教師も同じで、どんなに素晴しいマニュアルを読ませても、コツを掴まずに理屈だけをどんなに理解しても、必ず失敗します。そして、その失敗の経験の反省から、やっとコツが掴めるようになるのです。理念は危険、事実に頼れと言うのは、このことでもあるのです。」

ですから、初心者の教師の試行錯誤の過程で気の毒な生徒が出て来ることは、避けることができない、止むを得ないことなのです。我々人間が出来ることは、この気の毒な生徒を出すべきではないなんて言うような議論ではなく、どうしても避けられない気の毒な生徒のダメージをどのように最小限に抑えられるのかの議論なのです。

例えば、新米の先生の補佐として、経験を積みコツを既に掴んでいる先生を用意して置くなどの準備なら、我々にも出来ます。この場合には、失敗することが前提となっているので、失敗させないための教師の訓練よりも遥かに簡単にできるからです。

あほなさん、改めて、理念と事実、「どうあるべきか」と「どうあるか」の関係を自問して欲しいです。
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この回答へのお礼

私は、教育の主役は生徒だと思っています。ですので生徒の立場でものを言いたいと思います。一期で何十人、何百人とみる教師にとっては、個々の生徒は生徒のうちの一人に過ぎないでしょうが、生徒にとっての教師はもっと大きな存在です。教師にとっては名前も忘れてしまうような生徒でも、生徒にとっての教師は違うでしょう、影響力の大きさが。特に思春期の生徒にとって、教師の存在は決して小さくないでしょう。

先人の知恵を生徒に受け渡すよりも大切なことが、教育にはあると考えます。理念よりも事実を、と言うのであれば、淡々と授業をすすめ、余計なことをしない先生が優秀ということになりますが、生徒から見れば、先生は唯の知識の伝達者ではありませ。生徒は教師から、学び方や更には生き方まで学び得るのではないでしょうか。もし知識の伝達が最優先ならば、IBMのワトソンでも教師は勤まります。そうではなく、教育の骨子は人間関係だと思うのです。

故に、教師が自分自身の人生で得た答えこそが、個々の生徒に応対できる根拠になると思います。教師も大いに個性的であって良いのです。◯◯であるべきというのは束縛です。◯◯であるという自身の個性に基づいて、攻める教育があっても良いのではないでしょうか。積極的に生徒のメンタルにアクセスするのです。理念と言うのは、各々の教師が持つもので、他の教師と同じ理念を持つ必要はありません。しかし等しく教師の心と言うものを持って、生徒に向かい合って欲しいと思うのです。それが教育にダイナミズムをもたらして、活き活きとした子供達の笑顔に繋がるんじゃないかと。

どうでしょう、教育の機能を考えた時には、理念よりも事実かも知れませんが、教育と言うものを生きた時間と捉えるならば、其処には生きた教えと言うものが生まれ得ます。生きた教えと言うのは、教師自身が自らの人生で獲得したアンサーです。それでもって、生徒の心にアクセスして欲しいと思うのです。

新米の教師でも、生徒と共に悩み、答えを探してくれるなら、彼は立派に教師を出来ているのだと思います。生徒と共に成長する教師なんて、素晴らしいと思います。

今回は、教師とはこういうものだと言う「有る事実」を変えて行くためにも、あえて無理を通すような理想主義的なお返事を記しました。この度は、このカテの諸賢と対面できる良いチャンスと思っています^_^

お礼日時:2016/01/13 19:12

plapotiさん、あほなさん、ありがとう ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆



寝ようとしても寝付けず、この件を考えていました。

実は、ものすごい落ちこぼれでしたので
何十年もの疑問が、おそらく解決しました。

いつの日か大きな検証ができるチャンスが来たら
実証してみたいと思います。

それまでは、小さなところで掘り進めたいと思います。

本当に本当にありがとうございましたm(_ _)m
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この回答へのお礼

こちらこそです^_^
私も挫折経験では負けないつもりです(
笑。

ちょっと猪突神と上で話してみますので、宜しければそちらもどうぞ(^○^)
やっぱり怒られてしまいましたが、今回は此方の言い分も示してみたいと思います。

お礼日時:2016/01/13 18:32

反面○○のplapotiです。

以前こんな質問がありました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8819316.html
真面目な先生で、応援したくなるやうな立派な人です。楽しい授業ができなくて悩んでゐるのですが、若いうちはたいていそんなものだと思ひます。上手な教へ方なんて、長年の経験を通して身につけてゆくのではないでせうか。何十年たつても下手なままの先生だつてたくさんゐるのかもしれません。

教師も仕事です。仕事といふのは、基本的に各人が最低限の役割を果すことが大切だと私は思ひます。サイコロさんがおつしやるやうに、ベルトコンベヤー方式で充分です。どんな教師でも基礎をそれなりに教へることができるやうにすることこそが肝要です。最低限のこともできないのに、背伸びしてきれいごとをやつていつたのが、ゆとり教育に見えます。実施する前から多くの識者が反対してゐましたし、失敗すべくして失敗したのだと判断します。

テレビ番組といふのは、都合の良い部分を強調するのが常套手段です。現実にはどうなつてゐるのかわかりません。少なくとも、細かな部分ではさまざまなテクニックがあつて、他の人には実行が困難なこともあるのではないでせうか。また奇跡のコーチ自身も常に試行錯誤の連続で、新たな方法を追ひもとめてゐるかもしれません。冒頭に記した先生にそんなことをいきなり要求するのは酷な話です。そんな状態の先生に教へられた生徒も気の毒です。自分に甘く他人に厳しい私でも、そこまでのことは言ひません。私には無理だとわかりますから。

テレビドラマは現実離れした無批判なハッピーエンドが多くてほとんど見ることがないのですが、私は福田麻由子ちやんのファンなので「女王の教室」は毎週興味深く見てゐました。こんな先生もゐていいのではないでせうか。

(福田麻由子ちやんは13:00のところで登場します。)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんわ^^プラポチさん。
紹介いただいた真面目な先生のQAを読みました。彼はちょっと弱気なのかな?

最低限の仕事というのは、教育においては基礎をそれなりに教えられるようにすること、と。ふむ、、。これはハードルが逆に高いと思います。生徒といっても十人十色で、家庭環境に問題のある生徒、いじめられている生徒、いじめている生徒、反抗的な生徒、無関心な生徒、色々おるわけです。当然彼らにかかっているストレスの質も量も異なっていて、授業における生徒たちのパフォーマンスは、頭の出来不出来も入れるとかなり並びの悪い、ガタガタなものになると思います。そのガタガタな生徒達のパフォーマンスに対し、均一な質の教育を施すのは至難の業です。楽しい授業をする先生が居たとしても、クラス内には、テストで赤点取る生徒もいれば、90点取る生徒も居るはずです。そして、全員が60点以上をキープできるテストを作ろうとすれば、最低限伝えておきたい知識からは隔たった、レベルの低いテストになるでしょう。

私がマグジーの言うことに感銘をうけたのは、「私はNBAの選手を育てるために来たのではない。生徒には人生の成功者になって欲しくてここに来た。」というセリフです。
中学を出てすぐ働く子も、一流大学まで進むような子も、共にしあわせになってほしい、人生を成功させて欲しい、という親心がマグジーにはあったように思うのです。
このスタンスは、生徒たちの不均質なパフォーマンスが前提であっても、機能します。個々人を見るからです。マグジーは生徒たちの特徴を見極めて、一人ひとりに丁寧な指導をしていました。
私は先生には、最低限の知識を伝えることに教育の主眼を置くのではなく、ひとりひとりの生徒が必要としていることにアプローチできる先生であって欲しいと思います。

奇跡のレッスンはTV番組ですから、編集が入るのは当然です。余計なところを映すよりも、伝えたいことに焦点を絞った編集されたものの方が良いと思います。

どうでしょうか、奇跡のレッスンを、冒頭で紹介していただいた教師さんには出来ないと言い切っていいものか。私は出来ると思います。彼が本気になれば出来ると思うのです。奇跡のコーチと言うのは、自分の答に到達した人たちだと思います。その答でもって、生徒と向き合うから、良い指導ができるのではないでしょうか。

お礼日時:2016/01/13 01:17
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