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正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

A 回答 (142件中111~120件)

>この度ご回答をいただき、とても繊細な見方をする方だなと思いました。


>しかし自分のベストマッチは自分で見つけなければなりません。師は私では無いからです。

 残念ですが、私の言っていることは微塵にも伝わっていないらしいと感じました。師がいるからと言って、上のことが妨げられることはないと私はお伝えしたつもりなのですけれどもね。理屈ではなく、納得できないということに思いました。よほど悪い師にあたったことがあるか、(失礼ながら)自分で全てができると慢心に陥っていらっしゃるのかな、と感じております。

 たぶん、あほなさんが師弟関係だと思っているものと、私がそう思っているものは違い過ぎるのでしょう。業種の違いもあるのかもしれません。しかし大変厳しいことを言ってくれる先生が「弟子ではない」と一線を画すのは、よほど我慢しているはずです。そしてあほなさんの言い分を聞いたら、がっかりするだろうと私には察せられるのです。

 仏陀の言葉など権威ある言葉を引いていらっしゃるのですが、それは究めた人が言ってこそ意味がある台詞と思います。言葉の重みが違うと申しますか。親方が目下の者に言えば道に迷った者への「励まし」として意味を持つのですが、目下の者がそれを口にすると「開き直り」であって、生産的な意味があるのか、私は懐疑的です。

 分かりやすい例だと思うのですが、例えば武術には様々な流派があります。しかしこれらは免許皆伝になってから、自分の流派を起こすようです。入門者や白帯の者が、剣もまだ振れないのに、将来に新しい流派を自分は立ち上げるつもりだから、どこにも所属しないといえば、うまくいかないでしょう。武蔵のようなケースもありますが、それは1000年に一人の特殊なケースです。

 仏陀もまた数千年に一人のケースです。あほなさんは、ご自身が歴史上稀に見る型にはまらない大器だ、とおっしゃっているのと同じだと思えるのですけれどもね。あほなさんのことをよく知っているわけではありませんが、確率的にそこまでの大器の人が生まれることは稀にしかないから、もう少し謙虚におなりになった方がよいのではないか、とお伝えしてみたわけです。簡単に言えばそういうことです。

 しかし私はこのくらいにしておきましょう。私の責任は文意を明晰にお伝えすることであって、あとはどうお考えになろうと、あほなさんのご自由ですから。
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この回答へのお礼

仰ることがよく伝わったとは言えないかもしれませんが、それなりには汲み取ったつもりです。何に憤られたのか、おそらく最初の回答で自ら仰った、平行線を辿る場合に該当したのかもしれないなと思います。

言葉に権威があろうがなかろうが、よいと思った言葉を私は受け入れます。故に、誰もが一瞬の師足り得ると言いました。
私がどのように傲慢で、謙虚さを欠いているのか、そう感じなさったiactaさんにしかわからない事ですが、私が一介の只の人であったとしても、道を志す事に資格や才能など必要ありません。したいと思うかどうかだと思います。

私のお礼を良いように汲み取るか、反するものとして受け取るかは回答者様次第です。私はこの度のやり取りに、何か咎の立つようなことはなかったと思います。

お礼日時:2016/01/06 22:09

お礼、ありがとうございます。



調べてみたら、再放送を見ることが可能のようです。
チェックしました。
教えてくださってありがとうございました。

相手から引き出す教え方ってのは、日本ではまだまだ
馴染みが薄いようです。
そして、私もそこはまだまだ未熟な所です。

早い時期に自分が出会えなかった、出会っておきたかった。
だからこそ、自分がそうなりたいと考えて動いています。


あほなさんの基本スタンスを読ませていただき
詳細は知らねど、相当なご苦労をされてもなお
進む決意を手に生きてあると思いました。

生きるなら、どうせ苦労は付き物だから笑顔で背負う
覚悟がおありでしょう。
大したことができるかでは無く、前に進む人が居ることで
世の中はゆっくりでも確実に変化をすると思います。

自分を導く力を、お互い養っていきましょう(^ ^)


あ、長い目で見ればクソ教師も教師足りますよね。
クソも経験できれば、自分がクソにならない決意を持たせてくれます。
最初が就学時に担任として出会ってしまったので、後々まで散々でしたが。

過去は過去、それはそれで活かせるからこそ子供の成長を
とても真摯に考えられるし、学校教育や人を育むことに
人との関わり方に、強い信念で逃げないとし向き合えるのだと思います。

クソを経験しているからこそ、クソを乗り越える方法を見出せます。
人類は、まだまだ未熟です。
多くのクソにほとんどの人が、どこかで出会います。

クソを乗り越える手段を講じれるのは、早い時期に出会い
試行錯誤を重ねていく状況に立たされた者です。
クソな人・クソな状況から逃げないで、現状を変える力を持ち得ます。

でしょ?

逃げないで踏ん張ってるのは、自分だけじゃないと思えるから
踏ん張り続けられる所があるのは事実ですσ(^_^;)
マイペースですけどね。

違う人もOKですが、分かる人も出ます。
世の中も悪くないなぁと、期待できると思えるんですよね。
どちらも居ると。

上手くまとまりませんでした(笑)
とりあえず、見てみます。
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この回答へのお礼

バスケットボールの回はオススメです^_^

私の失敗は、当時、私を指導していた教員がクソだったことを、当時は分からなかったことです。従順だったんですね。

さて、そんな私にも、黒歴史というものがありまして、人を笑いながら傷付けたりした事がありました。要するに私もクソだった事があったのです。その時は友達に指摘されて改心したのですが、その様な事を互いに行いながら、成長してきたのだと思います。懐かしいです。

人は出会いによって変わります。良い方にも悪い方にも。
ですから、捻くれてしまった事を環境の所為にすることを、私は非難しません。しかしながら、苦境から立ち上がって真っ当になったなら、それは彼の目が澄んでいて、小さな答えを見つける事ができたからだと思うのです。彼の耳が聡く、小さな答えを聞く事ができたからだと思うのです。

巡り合わせ悪く、思春期は確かに苦労しましたが、同級生の全員が躓いた訳でもきっとないでしょう。
この先の人生、自分で答えを見つけ、また或いは提示してもらったことの中に答えを見出して、進んでゆくのだろうなと思っています。

お礼日時:2016/01/06 18:47

付記 ♯30と♯28のお話は、猪突先生のご意見を賜ると、批判であったにせよ、私にとって有益なのですが、いかがでしょうか。

つまり、弟子の矜持や主体なんてモノは、いつ頃、どのように持つべきか、師はそれにどう配慮するか、という話なのですが。
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この回答へのお礼

修行者には、決して捨て去ってはならないものがある。修行者は、決して自分自身を捨て去ってはならない。
釈迦の言葉です。
執着を捨て去ることを説いた彼ですが、こう言う言葉も残しておるのですね。
師は弟子にしてみれば宝物庫のようなものです。其処からどのような宝でも、幾つでも持って行ってよい。しかし最後には自分の宝を自分で見つけなければならない。
弟子は師から、どのようなものが宝であるかを教わる事ができます。しかし自分のベストマッチは自分で見つけなければなりません。師は私では無いからです。

この度ご回答をいただき、とても繊細な見方をする方だなと思いました。繊細さは大事です。小さな声を聞く事ができるのは恵まれたことだと思います。

お礼日時:2016/01/06 19:00

丁寧に、そして正直に、ありがとうございます。

あほなさんの教師に対するお考えを教えてもらいました。次のように整理できそうです。括弧内は私がそう理解した理由を引用で示しています。

1. 教師がいると自分の独自性が発揮できない(「成長を妨げる蓋にもならない」)。
2. 教師についていくと独立できない(「いつかは独立することも視野」)。
3. 教師とはモチベーションを上げてくれる存在(「技術だけでなく自信を与えてくれる」)。
4. 大体のことは自分でやれる(「人に何かを教わるのは、一瞬で充分」)。

もし上の考え方でいらっしゃるのならば、どんな先生も弟子にできないかもしれませんね。なぜかと言うと、叱れないからです。最初から完璧な人なら、先生など必要としないわけです。先生も一生怒り続けているわけではなくて、適切な時期が来れば、認めて、独立も考えてあげることでしょう。(あの後少し調べましたが)テレビのコーチが甘いのは当然です。一週間しか面倒見なくていいし、教え子たちはプロのバスケットボール選手にならないらしいのですから。責任がありません。しかる必要がなく、かっこいいことだけ言って夢を見させてあげれば良いでしょう。とても表面的なお付き合いです。

>教わるのが上手い下手、というのはあるかもしれませんが、大事なのは、それが出来るようになりたいと思う当人の気持ちが、まことであるかどうかなのでは無いでしょうか。

私の言葉足らずを補わせてください。私は、習い方が上手ければ、技に習熟するのが早いと申しているつもりはないのです。私が教わるのが「上手い」と申し上げたのは、距離の取り方の問題です。先生に悪意がなくても、先生の方が優秀ですから、弟子を飲み込んで主体を潰してしまう危険があります。弟子ができないことを先生はあっという間にやってみせるでしょう。独自だと思っていたことが、実は独自ではないことを暴き立てるでしょう。叱り方が下手な先生なら、弟子はプライドをずたずたにされるはずです。やめてしまうかもしれません。

こういう時に弟子は無防備に潰されていてはなりません。イノシシのごとく突進して来る師からぱっと飛び退いて、体当たりの重心を逸らさないとなりません。下手くそな人は、やたらと反感を持って、先生とガチンコファイトを始めるのです。先生の表現が足りないとか、論理的に小さな矛盾があるとか、そういうことに拘泥して、闘争し、自分を認めろと主張致します。しかしこれこそ時間の無駄です。批判を利用し、自分を成長させるきっかけにできないとなりません。

高専の頃、あほなさんはとても従順だったとのことでした。しかしそれでは先生に主体を圧し潰される一方だったのではないでしょうか。くそ教師の正体がこれだとすれば、やや工夫が必要だったと申した方がよいかも知れません。

徒弟制度がある業界なのだとお察します。徒弟制度がある業界で、一匹狼でやっていけるのならいいのですが、中々難しいのではないでしょうか。尊敬できる先生が「あほなさんはまだ弟子ではない」と一線を引いているのだとすれば、たぶんあほなさんの迷いを理解し、心が整理できるのを待っていてくれているのかもしれませんね。

推測でものを申した上、求められていない助言をしてしまったかもしれません。先にお詫びしておきます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

高専の頃の教師は、おかしな人も居ましたが、主に生徒の進路に無関心だっただけなのでマシといえばマシです。中学の頃の部活の顧問はダメでしたね。生徒の前で平気で下ネタを連発するは、生徒を貶すはで。
まぁ、汚点というか、黒歴史は私にもありますので、つまり自分自身がクソだったって事も省みればありますので、その事実を認める事の方が大切であるとも思います。

この度紹介した番組のことを調べられたという事で、ご意見を頂きましたが、少なくとも私には、コーチが表面的な付き合いでコーチしている様には感じる事は出来ませんでした。確かに相手は子供で、プロ選手ではありません。しかしだからこそ、技術だけでなく精神性というものをしっかりと伝えていたのでは無いかと私には思えました。子供の未来と今をしっかり見据えた素晴らしいコーチングであったと思います。

私をまだ弟子では無いと言った方からは、大概厳しい事も言われています。それに対して反論をあげた事もありますが、その様なやりとりで支障をきたす様な関係でないのも事実です。彼のお弟子さんも皆、結局は自分でその道を究めねばならないという自覚を持たれています。それは、どの様な道でも同じではないかと思います。寧ろ勇気を持って楽しくそれに挑戦すれば良いのだと、思う次第です。独自であって、しかも正当である、そういうものに到達しようとしているのではないでしょうか。

お礼日時:2016/01/06 18:30

>軍事力で他を支配しようとしたのは先大戦の日本も同じでしょうか。



見事にアメリカを含めた戦勝国側の占領政策に洗脳された見方ですね。大東亜戦争前の世界を思い出して下さい。非白人国で植民化されなかった国はこの地球上で足った二つだけでした。タイと日本です。そのタイもイギリスとフランスの仲違いのバランスの中で自国の領有権のの身を削りながら辛うじて独立を保っていました。そう言う意味では、白人と同じ意味で独立を保っていたのは、非白人国では日本だけだったと言っても良いでしょう。その日本人が大東亜戦争で戦った相手は、インドやシンガポールではイギリス人と、インドシナではフランス人と、インドネシアではオランダ人と、フィリピンではアメリカ人と、南洋諸島ではオーストラリア人とでした。アジアに侵略したのはそれら白人たちであり、その侵略者と戦ったのが日本軍でした。そこのどこを見たら日本が侵略したと言えるのか。唯一、日本人が戦った非白人は中国人でしたが、他の全アジア人の中で白人側についたのは中国人だけでした。中国人は白人とアジア人の間に入って、白人の主人のもとにアジア人を支配する支配人でいることに甘んじたからです。

戦前の国際連盟創立のときに、その創起の文章の中に、民族の独立自決権を認め、どの民族の国家も対等であるという条項を入れることを提案したのは日本でした。国際条約の中で民族によらず国家は対等であると言うことを入れるようにした人類最初に提案された事案でした。ところが、これを国際連盟創設提案者のアメリカのウイルソン大統領によって阻まれて、その条項が入ることが実現しませんでした。

日本の敗戦後、アメリカを中心とした占領軍によって、アメリカから見て都合の悪い事柄や、朝鮮や中国の批判を一切禁止するプレスコードなるものが、日本のマスコミに敷かれ、教育界でも、戦前の日本が悪、アメリカが民主国家としての善という教育を徹底的に行うように強要されたのです。戦争では、何時の磁界でもどの国でも必ず人道に反する悪事を行う者がおります。ですから、その部分を戦勝国側が針小膨大に挙げ辛い、逆に戦勝国側での同じような行為には一切批判を許さない施策を行えば、経験の浅い子供や青年たちを洗脳するのは容易いことです。そんな教育を受けた団塊の世代の人たちは、だから、戦勝国側の宣伝文句である日本は侵略国家だったという言質をすっかり擦り込まれてしまっているようだと言うのが私の印象です。

このような偏った状況から平和裡に脱するには、私は100年位の年月が必要だと前から思っていたのですが、最近になって漸く、戦前の歴史をもっと公平に見る機運の萌芽が出てき始めたようです。何も、日本が一方的に正しかった、白人たちが一方的に間違っていたと言えと言うのではありません。戦勝国側の洗脳による日本が一方的に悪であったというバランスを欠いた見方から脱却して、もっと公平に歴史を見直してみたらどうだと言っているのです。
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この回答へのお礼

その猪突さんのご意見はもっともであるし、私も類似の意見は聞いてきています。
原爆投下や絨毯爆撃を行ったアメリカは悪だとも思っています。しかしながら、日本が中国で行った事と言うのが虐殺であったとも聞いてきています。何れが本当か、史実はなんなのか知らないために戦争関係の話題にはあまり参加してこなかった私ですが、最近は無知でも良いから機会があれば発言しようと言う風に思っています。この度の猪突さんの様に、それに対して意見を述べてくださる方もいるからです。
前述のように言っておきながら、私は戦争という歴史において、善悪を語るよりも何が事実であったかを知りたいと思っています。NHKの映像の世紀とか、そのようなものを見るくらいしかできていないのですが。
一億総玉砕などと言っていた日本は正気では無かったと私は思っています。
フィリピンで民衆を盾に市街ゲリラ戦をした事もダメだったと思います。
しかし人間は善悪観念に縛られやすいため、それを尺度に戦争をみれば作為に翻弄されてしまいます。何が事実で、どの様にして戦争が作られたのか、それを知るべきだとも思うのです。

お礼日時:2016/01/06 17:44

質問の趣旨から少し逸れるのですが、別の意味で、疑問を解決して差し上げられるかもしれないと思って補足します。

やや言葉尻を捉えて揚げ足を取るような書き方もあるかもしれませんが、こういう場でのやり取りは小さな情報を捉える他ないわけで、そこはお許しください。

>私は奇人変人、偏った教師にばかり当たりました。

私はあほなさんの先生が誰だったのか分からないのですが、小学校から高校までで、30人くらいの先生はいらっしゃったと推測するのです。大学に行かれていれば、60人くらいはいただろうと思います。その先生らは全員がダメで、教え子は全員がダメだったのですか? 「奇人変人」とおっしゃるが、それはあほなさんと相性が悪かっただけかもしれない。ある種の大きなお世話なのですが、こういうことを書く理由は、何となく、あほなさんの質問動機が、「もっとまともな先生に出会えば自分は違っていた」とおっしゃっているように思ったから述べるのです。そして私のお答えは、教わる側が変わらなければ、先生が一流だろうと関係ない、というものです。

>普通の人が、普通の生徒を教えることくらいかなと。
>友人も、同僚も、上司も、部下も、親族も、一瞬の先生足りえるのだと思います。

もう少し「普通」から汲み上げてもいいと思うんですけれどもね。一瞬しか「先生」になりえないものでしょうか。私が言っているのは、もう少し普遍的な意味です。

私の師は一流の人でした。その業界ではマイケル・ジョーダンみたいな雲の上の人です。私が大変恵まれていたのだと考えれば、あほなさんに何か言う資格もないのかもしれません。自分の先生は一流だったというだけのことです。しかし、しばし考えて気付いたのですが、先生が一流でも弟子が皆、立派になるとは限りません。結局、教わる側にも上手い・下手があると気が付くわけです。
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この回答へのお礼

具体的には7人ほどのクソ教師に出会って来ました。思い出せばその倍はいるでしょう。私は高専に行っていたので大学よりはちと短い期間、生徒でした。生徒の頃は、従順だったので、それらの教師について行っていましたが、大人になると、あいつらはクソだったなと、分かるようになりました。クソをクソと言えるようになっただけで、私は十分に変わったとおもいます。
この質問動機は単純に、良い事聞いたから皆にも意見を聞いてみよう、と言ったところでしょうか。

今、私には尊敬できる方が何人かおるのですが、その筋では超一流の方もおられます。彼の弟子は皆一流です。その方には、あほなさんはまだ弟子では無いんですよと言われていますが(弟子になりたいとは言っていない)、私はそれで良いと思います。自灯明で行く事は正しい姿だからです。喜んで彼の弟子になるよりも、自らの道を自ら見出して自らそれを歩むこと、そんな自分を持っていたいのです。(この意味で、回答者様とは異なる考えの私かも知れません。)そして、あらゆるものや人が学びの対象になると、今は思っています。

一流のコーチと言うのは、技術だけでなく自信を与えてくれるものです。要するに、死ぬまで師匠についていくのではなく、いつかは独立することも視野にある訳です。
番組で見たコーチは、そんな一流のコーチでした。明らかに、そのコーチが来て教わる側は変わって行きました。私も子供、思春期の頃にそんな出会いに恵まれておれば、また異なる人生を歩んでいたと思います。それを否定はしませんし、そういう思いのある事が、悪い事とも思いません。出会いで人は変わるものだからです。

人に何かを教わるのは、一瞬で充分だと私は思います。人生を通してついて行ける師よりも、自分が普段精進していて、ある時ふと飛躍の機会を与えてくれる、そんな師で良いと思うのです。それは重荷にならないし、成長を妨げる蓋にもならない。

教えをスマートに身につけた人よりも苦労して身につけた人の方が基礎が堅い場合もあります。教わるのが上手い下手、というのはあるかもしれませんが、大事なのは、それが出来るようになりたいと思う当人の気持ちが、まことであるかどうかなのでは無いでしょうか。上手い下手は次の次くらいだと思います。

しかし、お気にかけて再回答下さってありがとうございます。共に考えてくださった事感謝いたします。

お礼日時:2016/01/06 02:46

お礼、ありがとうございます。



>内面の充実とは、何か温かいものが胸の内に満たされているような感覚であると私は捉えました。

ナイスです(^ ^)
ハートも頭も内面ですから。


>子供の内に自覚が持て、進路を補正できたら素晴らしいのですが、なかなか私には難しかった。

多くの人が、と言うか大多数がそうだと思います。
根性論には、スキルがありません。
気持ちだけでは、立ち行かなくなります。

感と理、つまり心と頭が必要です。
メンタルスキルが無ければ、行動をも引き上げる内面の修正は
そうそう出来るものではないでしょう。

感と理は相反するものではなく、セットでバランスです。

スキルに思いが乗ったとき、人は惹きつけられ
持ち得る力を有効に使えると思います。
それを目にしたあほなさんに、これ以上は言う必要は無さそうです。


世の中が笑顔で溢れたら、確かにそれは正義かもしれませんね(^ ^)
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この回答へのお礼

仰る通りかと思います。
感性と理性のバランスがあれば、色々な事を吸収できるでしょう。偏りはあまり良くないと思います。

皆が笑顔になれるならそれは正義、、良い言葉ですね。
新年早々、ありがとうございます^_^

お礼日時:2016/01/06 02:10

回答番号19、素人のplapotiです。



>徐々に自分で勉強する割合が増えてゆく。そんなものですね。

あほなさんらしい、鋭い解釈ですね。アリスも喜びさうです。

>基礎をうまくやる方法は、楽しむということだと思います。

おつしやることは、ひとつの要素として、そのとほりと存じます。あほなさんやkanto-iさんが「楽しく」と書いていらつしやる意味合ひが充分には把握できないのですが、私としては世の中いろいろな人間がゐることを楽しく感じます。ほめて伸びる人、ほめたらつけあがる人、叱つても無駄な人、さまざまです。相手にあはせて対応する方法を考へる、それこそが人生の楽しみです。教育において「楽しく」といふ要点で多種多様な子供を導いてゆけるかどうかは疑問に思へます。

>何のために読み書きを習うのか、それは手紙を出すため、誰に出したいか......

そのやうなことは、あとになつて判ればいいのではないでせうか。基礎に理屈が必要なのでせうか。あとになつてから、好きな人に手紙が書けなくて後悔するのが、教育として最低だと思ひます。

>出る杭の節は、出る杭を下から押し上げて、それに他の杭も続け、みたいなことを言っていました。

さういふ意味でしたら、納得です。私は出る杭は打たれるのではなく、おんぶにだつこで、負担が重くなりすぎてつぶれてしまふのだと思つてゐます。かういふ姿勢は子供のころからなくすやうにしてもらひたいものです。

大人であれ、子供であれ、痛い思ひをしなければ本当には学べないと私は思ひます。30年ほど前のことですが、仕事で速達の書類を郵便局へ自転車で持つて行つてゐたとき、脇見運転の乗用車に追突されました。頭からかなりの出血があり、救急車で運ばれました。搬送中に郵便局が見えたので、
「ここで降ろしてください。」
と頼んだところ、
「気分が悪いのですか。」
と救急隊員がたづねるので、
「いいえ、あそこの郵便局に速達を出しに行きます。」
と答へると、
「観念して、病院に行つてください。」
との返事でした。
救急車の途中下車ができないことは、痛い思ひをして初めて知りました。
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この回答へのお礼

おもしろいですね^^
さすがプラポチさんです。救急車の下りは思わず笑いました。

>ほめて伸びる人、ほめたらつけあがる人、叱つても無駄な人、さまざまです。相手にあはせて対応する方法を考へる、それこそが人生の楽しみです。

これはほんとにそうですね。皆個性があるから、一様に指導するには限界があります。しかし一様に指導せねばならない部分もあるでしょうね。そこら辺はコーチの腕の見せどころでしょうか。楽しくと言うのは、辛い鍛錬にも、努力にも、その先の未来が見えているから楽しめるというのもあります。快楽だけの楽しさというのとはちと違うとご了承くださいませ。

基礎練に理屈は必要か?の話ですが、モチベーションを維持するという意味においても、基礎練の理由はあったほうが良いと思います。基礎練だけが他の学習から孤立している形でなく、連なってゆくものとして捉えられたら、体系に即した指導というものも実現できると思うのです。子どもの、「なんで勉強しないといけないの?」と言う問にも答えてやりたいでしょう?食事でも、これは基礎だから白飯だけを詰め込む時期なんてものはなく、やはりバランス良い食事を心がけましょうと言うことになる。学習や勉強も、基礎練が他の学習と連携が取れてこその意味の深まりが生まれるような気がします。

そして、痛みについてですが、痛い目見ないとわからないというのは、事実としてあると思います。周りの人間が注意をしても、身以ってわからないと、本当にはわからないですね。痛い目見る前にわかるというのは、人の心がわかっているという、理解のある人の事ではないかと思います。痛みを想像できるということです。

お礼日時:2016/01/06 00:10

私の#23の回答のアメリカの植物層の話、説明不足で唐突に思われた方もいるでしょう。

#20の回答のお礼関連での話です。

iacta-alea-est さん(サイコロさん)のお出ましですね。サイコロさんの論理の組み立ては緻密なのでいろいろ参考に成ります。

雨合羽お姉や巫女弟子お姉の意見も聞きたいですね。

サイコロさんの、

>(1)しかし量が満たされると、今度は質が問題になってきます。ゆとり教育とは、そうした質の問題でしょう。

>(2)ベルトコンベヤーに流れて来る商品を加工するように、子供に情報を渡すことは誰でもできるのです。詰め込み教育が優れているのは、、、人格がおかしくても、教材を子供らに配って、採点し、知識を伝達するだけなら、誰でもできます。

の比較は本質を抉り出していると思います。マキュアベリが「人間はどうあるべきだあるかを語るのではなくて、人間はどうあったかを語った」ことから、政治学などの社会科学が生まれました。このことからも、上の(1)の態度が如何に危険であり、(2)の態度が学問の進歩に基づいた進化した態度であるかが判ると思います。

ゆとり教育を提唱した元東大総長で元文部省大臣が、

「ゆとり教育の理念は優れていたのだが、それを教えこなすことができるほど教員の質が高くなかった」

との趣旨の言い訳をしていました。それを読んだとき、ポーランドで共産主義が瓦解したとき、その共産党の元幹部が、

「共産主義の理念は優れているのだが、現在の段階ではそれを使いこなすほど人類が成長していなかったのが問題だった」

とほざいていたことを思い出しました。こと程左様に、人間はどうあるべきかなどと言い出すと、多大な人々に迷惑がかかってしまうのですね。

それに引きかえ、上の(2)の態度は、正に人間はどうあるのかに基づいた方法なので、誰にでもできる。ゆとり教育の失敗は、自分たちの行為の非を絶対に認めないはずの官僚がその失敗を認めたと言う、前代未聞のことが起きてしまったほどの失敗だったのです。しかし、戦後の日本の詰め込み教育は、高等教育を受けたわけでもない普通の日本人が、他の国々の普通の人たちと比べて抜群に教養は高いと世界中の人々から賞賛されて来たと言う事実を実現させたのでした。

マスコミの言葉狩りにその典型を見るように、一部の被害を針小膨大に捲し立てて、その被害から救うべきだと言う名目で、チンバもビッコもメクラも百姓も労務者も使えない、不自由な日本語にしてしまい、日本の文化を自ら壊している。デブは差別用語だから「胴回りの不自由な方」と言ってくれとある胴回りの不自由な方が主張したと言う笑い話が出来ているそうです。

日本のある市でそこを流れる綺麗な水流地帯に子供用の公園を作る計画があったとき、私の高校の先輩が市から意見を聞かれたので、

「水の流れの一部に落ちたら溺れてしまうような深い淵も作っておくように」

と回答したそうです。確かに、その犠牲になってしまう子供が出る可能性はないではないが、その危険を身に感じさせて子供を教育することも重要なのだからと言う意見でした。しかし、皆さんも予想がつく通り、その意見は通らなかった。人間はこうあるべきだと言う威丈高のマスコミを市が恐れたのでしょう。そして、結局子供たちに危険の学習の機会を奪ってしまって、世の中どうなっているんだ、教育はどうなっているんだ、とまたマスコミが騒ぎ出す。

理念は論理的に整合したあらゆる可能性を見つけ出すことが出来ます。しかし、我々の埋め込まれた世界はその論理的に可能な全てを実現させてはいません。それどころか無限にある論理的に可能な事象の極々一部だけが実現しているのです。だから、理念で人間のあり方を論じるのは大変な無駄をしていることになる。だからこそ、我々は経験を学び歴史を学び事実を学ぶことに意味がある。理念の前に事実を把握することが大前提であり、その事実を分析するときに理念が役に立つのです。その反対に、理念から事実を帰納する(演繹ではありません。それは不可能ですから)のは大変危険な行為だということが、歴史的事実として我々は繰り返し教わって来たのです。

私は、理念を学ぶには数学を学べ、事実を学ぶには歴史を学べと、理系の学生に常々捲し立てています。
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この回答へのお礼

私は子供の頃、随分危ない遊びをしていました。死んでもおかしくなかったと思います。ゲームや漫画もたくさんでしたが、外で遊ぶことも多かったです。しかし外は自然ではなく街でした。その時の遊びが大人になってから役立ったことはあまりありません。子どもに危ないことをしないように教えることくらいでしょうか。でも、無意識において色々と学習したものが沈んでいると思います。それらは私の人格形成に少なからずの影響を与えたでしょう。

人はどうあるべきかではなく、人はどうあるかという事実へのアプローチは、自身を受け入れることにも繋がると思います。中国が歴史を改竄するように、自分たちの存在に連なるものを受け入れられないとするなら、極薄い意識の表層ででしか生きていくことが出来ません。また、人がどうあるかが明らかになるに従い、自ずと行きたい方向も見えてくるように思います。

お礼日時:2016/01/05 23:55

奇蹟のレッスンですか。

私は番組を見ていないので、よくわかりませんが、これが「奇蹟」である理由は、子弟が出会えたことが奇蹟なのではないかと思いました。子供が求めていることを言ってやれるかどうか。ベルトコンベヤーに流れて来る商品を加工するように、子供に情報を渡すことは誰でもできるのです。詰め込み教育が優れているのは、こういう現場管理は誰でもでき、労働者を確保しやすいからだろうと私は思っております。人格がおかしくても、教材を子供らに配って、採点し、知識を伝達するだけなら、誰でもできます。

仮に人生について質問が来た場合は、極めて簡単です。「次の教材をやりなさい」「私語は厳禁です」「落第したいのか」「大学に行ってから考えなさい」。人生に関する問いにまともに答えられる人は、よほど人生の修羅場をくぐったか、一流大学で哲学の修士以上の学位を持っていることでしょう。そういう人など、いるわけもありません。労働力が確保できません。総体としてみると、教育は行わないより、行った方が社会の質は向上致します。しかし量が満たされると、今度は質が問題になってきます。ゆとり教育とは、そうした質の問題でしょう。

私は自分の師との関係を仔細に書いてしまえるほど気前がよくないと言うか、度胸がないのですが、一つ直感していることがあります。それは境遇が何かしら似ている人以外、メンタルの部分を導くことはできないということです。先生がいかに善人であれ、能力があれ、関係ないようです。情報の渡し方が気持ちよいか・刺激があるか程度の違いしかないのです。

メンタルな部分を理解するには、ある意味同じ経験をしていないとなりません。私なら、こんなところです――英才教育を受けた結果、主体を発露する機会を奪われ、やや弱い主体をもつことに甘んじているが不満を持っている人。こういうタイプの気持ちはよく分かります。逆に、人間とは自由であり、主体を強く持って他人を押しのければいいのだ、と考える人とは話が平行線を辿ることでしょう。自分と考え方の違う人の意見は参考にはなりますが、自分がそれをできるわけではないのです。子供に限らず人間というものは、どうにもならないことを理解してくれる人が、どうやら必要なようです。

もしあほなさんが、奇蹟のレッスンを求めているということであれば、僭越ながら、まずご自分を見つめ直すと、きっかけが見つかるかもしれません。学校を卒業しても、先生になりうる人は、そこかしこにいると思うのですよ。先生とは「先に生きている人」という意味です。自分の将来と重なり合わさるような人を探せばいいのです。
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この回答へのお礼

人の出来た先生、人格者と出会うことはとても難しいことだと思います。私は奇人変人、偏った教師にばかり当たりました。
番組では一流のコーチ達を招聘しておりましたが、そんな機会、滅多にない。
出来ることは、普通の人が、普通の生徒を教えることくらいかなと。

TVに出ていたマグジーというバスケのコーチは、幼少の頃、チンピラの放った流れ弾にあたり大怪我をしたそうです。その上、父親は蒸発、かなり厳しい環境の中で育ったそうです。しかしそこで、自分をコントロールする意志や、母に対する尊敬を学んだそうです。マグジーは身長が160cmしかなく、誰もが彼がNBAの選手になることなど不可能だと言ったそうですが、マグジーだけは自分を裏切らなかった。そんなマグジーと同じ境遇の生徒など日本にはほとんど居ないが、彼は生徒のメンタルに積極的にアクセスして、気合いを引っ張りだしていました。部の顧問にも、指導についてアドバイスしているさまを見ると、流石だなという印象です。修羅場をくぐってきているからそのようなことが出来るのか、、それとも、バスケを通して人生を学んできたから出来たのか。。
同じ目に合った人とは共感しやすいというのは事実です。しかし先生は、どのような境遇の子どもに対しても、先生でなくてはなりません。そこが先生の醍醐味であり、面白いところであり、難しいことでもあるのだと思います。

>学校を卒業しても、先生になりうる人は、そこかしこにいると思うのですよ。

そのとおりだと思います。友人も、同僚も、上司も、部下も、親族も、一瞬の先生足りえるのだと思います。自分を省みて、コツコツと前向いて歩きたいですね。そんな時に、出会えるのかもしれません。

よろしければ番組、見てみてください^^
ご回答有り難うございます。

お礼日時:2016/01/05 23:42

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