プロが教えるわが家の防犯対策術!

正月早々、良いテレビ番組を見つけました。「奇跡のレッスン」というタイトルで、一流のスペシャリストが子供達を一週間教育するというコーチングの番組です。
私が見たのはバスケットボールの回でして、「運命は自分でコントロールするんだ」という様な言葉がコーチの口から出ていました。カッコええなぁ、、俺もこんなコーチ受けたかったなぁ、などと思いながら見ました。自信のなかった子供達の表情が明るく変わって行くのが印象的でした。他の回の紹介では、「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)とか、「出る杭は下から押し上げる」と言うのもありました。
当方、いつもこのサイトで回答者の皆様にお声かけていただき、「レッスン」を受けている身ではありますが、あらためて尋ねたいと思います。

良いコーチ、先生に巡り会えた方もそうで無い方もいると思いますが、自分が諭された言葉や、自分なら子供達にこう語る、という言葉を選んで、ご回答頂けると嬉しいです。

質問者からの補足コメント

  • そんな大した大人に離れていません→そんな大した大人にはなれていません

    誤字修正です。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/03 16:25
  • 先祖の話、早速アマゾンでポチりました^^v
    読んでみますね。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/05 01:01
  • 一応、齟齬があるとよくないと思い、冒頭の1〜4についてお答えします。
    1.そういう場合もあるかも知れない事を考慮するが、私自身はそういう事は思っていない。
    2.これは1.に同じ。
    3.良い教師はやる気を引き出すと思っているので、そう思っています。
    4.始め、大体の事は自分でやれないが、できる様になると信じて精進すれば、大体の事はやれるようになる。多くの人から、或いは自分よりも劣った人からも学びは得られる。この様な考え、スタンスです。進度やスピードはまちまちで、一を覚えて十を知る事もあれば、十を教わりニしかものにできない事もある。

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/07 01:26
  • 皆様へ。
    この質問は、スレッドが更に伸びないかぎり、来週いっぱいで締め切らせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

      補足日時:2016/01/07 22:03
  • 女王先生ですか^^; 
    一話だけではなんとも言えませんが、、、歪な教師だとは思います。生徒を締め付けるタイプのようで、あまりいいとは思えませんでした。このような教師が居て良いのか悪いのか、、現実には変人教師というのは居ますから、それこそサイコロさんの言う距離感でもって対処するのが良いのかなと思います。

    No.64の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/13 01:23
  • ウィトゲンシュタイン関連のご投稿を少しですが咀嚼しました。現代哲学における身体の肯定的な捉え方と、行為へのパースペクティブというものに着目しました。この度の質問は、スポーツのエキスパートが子供達のコーチをするという番組についてでして、身体の捉え方とパースペクティブという観点から繋がりそうかな?と思いましたが如何でしょう。もうちょっとウィトゲンシュタイン関連の方も読み直してみますね。

    No.75の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 14:44
  • サイコロさん、どの職業が偉いとか、そんな話をお礼欄に書いてしまいましたが、流石にそれは無いかと思い直しました。スルーしてください。サイコロさんを侮る様な事を言ってしまいました。

    No.78の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/15 16:00
  • #96の投稿が、残念ながら息をしておりません。
    その全文を保存しておりますが、短い補足のスペースですのでそれを全て掲載することは出来ませんし、運営の方針も尊重したく思いますので、宛先のない短いコメントをして彼が存在したことを記録したいと思います。
    #96に記された内容は、現代教育のあり方と、素敵な歌と、空想の酒席でした。
    褒めることについて生徒が天狗になって後、人ん話をきかなくなり伸びなくなるというVTRの件ですが、私は、出来るから褒めるのではなく、出来ないから褒める、ってのが褒めるタイミングだと思うんです(マグジーもそうしてた)。凹んでいる子のモチベーションや自信を回復してやる効果が得られます。
    カントアイさんと猪突さんの酒席ですか。座を同じくすれば異なる意見もいい肴にきっとなると思います^^あほなも同席させていただければ、そこでもあほなことを言いますよ(笑)。

      補足日時:2016/01/17 22:13
  • すみません。今読んだGOOからのメールに、今回は削除理由が明記されていました。理由は、個人情報だということです。おそらく、他の方のブログのURLを転載したことが引っかかったのだと思われます。

    No.99の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/17 23:33
  • えー、ついに2月になりましたね^_^
    月日の経つのは早いです。
    投稿も落ち着いてきたので、そろそろ閉める準備に入ろうかと思います。
    私の感想としましては、多くの方のお話を聞いて、自分自身を振り返るに、友達には恵まれたが、教師には恵まれなかったのかなという事があるも、教師の像というものをこのQAを通じていろんな角度から知ることができ、視野を広げることができました。皆様ありがとうございます。

    BAの選定に数日をかけますので、皆さんから頂いた回答を楽しみながら振り返りつつ、これかなー、というものをBAとしたいと思います。

    ながらくこのQAにお付き合い、盛り上げてくださり、重ねて御礼申し上げます。
    m(._.)m

      補足日時:2016/02/01 17:36

A 回答 (142件中21~30件)

お礼ありがとうございます。



>どうしても清濁が混ざっている世の中では、力を行使するというのは自分や大切なものを守るためには必要です。

力の行使は基本として否定派ですが、やむを得ない場合はあると思います。
それで考えてみました。

たとえば暴力を振るわれて、身をかばうなら
最小限になるのかなと。

守ると言うものも、個が持つ欲求の一つですよね。
安全・安心は、基本的欲求ですから。

自分が持つ欲求を満足させるだけなら
行き過ぎた行為にならないかなと思います。

しかし、「守る」が「相手を憎む」に転じた時、行き過ぎた行為に
なってしまうと思います。
相手を憎むと欲求が欲望に転じてしまうので、やりすぎが懸念されます。

法治国家では、暴力は「まず止めること」で、後は法が裁きます。
(法の不備は置いておくことにして)


教育においても、勉強ができない子に腹をたてるのは
相手に転じているので、教える側の欲望かなと思います。
相手が子供でも大人でも、教える側の欲求を叶えるために
やっている訳じゃ無いのですから。

成長する楽しさや理解できる喜びや、そんなことで
自分から進んでやろうと取り組もうとするのでしょう。

怒っても記憶力が上がる訳でも、理解力が上がる訳でもなく
「勉強 = 嫌なこと」あるいは「スポーツ = 嫌なこと」に
なるのでしょうね。


最初に勉強したのは、4つになったぐらいでした。
ひらがなを読みたかったので。
欲求を叶えるために、頑張りましたね。

自分が持つものが、欲求だと認識できるか
あるいは欲望を持っていると認識できるかで
行きすぎに歯止めができるかできないか。

そこで、相手とのかかわり方が変わると思います。

憎しみという選択肢を取らなくまでが、かなりかかるかもしれませんね。
個人によるのでしょうけど、大概きつい思いはしますから。
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この回答へのお礼

うむ、、そうですね。おっしゃる通りかと思い、中々苦い思いもありますf^_^;)

紳士でいる事に疲れたりする事ってあると思うんですよ。そんな時、もっと怒っても良いのかな?っていう気持ちが、芽生えたりした時に、紳士でいる事の正しさの様なものが揺らぎ始めるというか。
仏教では、怒りは抑えるのではなく根本的に消滅している境地を説きます。それは、小さな子供と大人の間では喧嘩というもの自体起きないという事と似ています。

私は逆に思うこともあります。ちゃんと怒りや憎しみを相手に表現することが、相手と対等な立場に立つ事になるのではないかと。

それで、先日の虐めの問題に、かように答えた訳です。

教育の場合は違っていて、出来ない生徒に怒りをぶつけたりする様な教師は、これは全く良くないと思います。教育の場合、子供の生徒と大人の教師の間に限りますが、そんな立場の差異があるのに、一方的に強者から弱者への力の行使は、暴力とも言える訳です。
子供同士の虐めの問題ならば、暴力や暴言も喧嘩の中でなら、ある程度は表現として認められるのではないか?そんな風に思います。これにも限度と言うものがあるでしょう。その限度を守る、情けの様な心の働きは必要かと思います。

取り敢えずこんなところでしょうか。

お礼日時:2016/01/23 16:32

あたしゃ、あんた方より先に痴呆がやってくる歳だから、今さら、男と女は同じだなんて、建前だけで物を言う歳じゃない。

雨合羽お姉や巫女弟子お姉の突っ込みは男どもを手玉に取るんで、そんな簡単に男どもが反応してしまうと、彼女たちに微笑まれてしまいかねない。女の恐ろしさも十分に心得ている歳になったつもりだ。理屈の捏ねくり回しは男の専売特許かとの常識を足下からすくいそうなんで、このお姉がたは、恐ろしくも貴重な存在だ。

 悲しからずや道を説く君

なんて、ふんと笑われそうだ。

雨合羽お姉の論調は、果たして客観的なものってあるんですかと言っているように思える。んで、自然科学って客観的なんじゃないのってな、浅はかな男どもの反論が出てきそうだ。でも、自然科学と言えども、そのどの側面に興味を持つのか、そのどこの側面がその事象を理解する上で本質的な部分を成すか、と問い出すと、その人の埋め込まれた文化に決定的にその判断が委ねられているんだよね。そして、そのどの部分を強調するかで、自然科学の発展方向も多大に影響を受ける。となると、自然て人間にとって客観的な存在なんだろうか、それとも主観的な存在なんだろうか、解らなくなって来る。
あたしの言っていることは、運動方程式を含めた数学的な構造の分析を含めた、自然科学を言っているんだ。

そんな、単純な自然界の物質の世界の記述でも、本人の主観やその文化固有の主観が本質的になっているとなると、それより桁違いに複雑な人間の振舞いの理解も、結局、主観による見方が本質的になってしまうんじゃないかね。

物理学って、本当に客観的な世界を記述しようとしているんだろうか。

いわんや教育おや

んで、これって思考の停止を提案しているんじゃないよ。あたしの信奉するモンテーニュ様の

「我、何をか知る」

っていう生産的な言葉、すなわち、「我思う、故に我在り」なんて言う、それこそ思考の停止した非生産的な言葉が足元にも及ばないほどの生産的な言葉の実践で、新しい世界を見てみたいって言っていってるんだよ。

どうだ、雨合羽お姉、今回の私の論調は、禅問答みたいな「真理は便所の戸板」ぐらいの訳の解らないレベルに昇華できたかな。
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この回答へのお礼

うむむ、、。
素人の私には、人々によって見出された物理法則達は個性的なものに映ります。それは、自然科学一般が、各個人の持つ主観や文化の影響から成り立つ見方より免れ得ない定めの元に展開されているから、という猪突さんの言葉の示す所に因があるのかなと思いました。

客観とは、拡張された主観であり、世代や地域を跨いで形成された、まさに文化の一つなのかもしれません。

お礼日時:2016/01/23 16:44

そういえば。

。。なんですけれど、ご質問文に立ち返っていいですか。

>「自分で見つけた答えは一生忘れない」→(子供が自分で答えを見つけるのを待つ)

とするべき時があったのが頓挫した話です。
相手は大人でしたが、思路の組み立てにクセがあったんですね。
その人は、〈あなたの話はこれこれこういうことなのか〉....① と整理し、即続けて〈であるとすれば、ああだこうだああだこうだ〉....② と論じたり批判したり感想を吐いたりしてしまうことを繰り返してしまいます。

①の括弧のほうは、その人の主観であるわけで、他者の意見であるから客観だ、ということにはならないのはもちろんです。
間主観って大事です。この主観が、相手の受け止めとして上等なものでないと、②の括弧の中身が、成立しなくなりますね。
ちなみに、前提にならないものを前提にする、という対話法は、相手の反応を見たり振り回したりするコミュニケーションの歪みに酷似するので、自覚的な老獪な人以外は、正常ならできるだけ避けようとするのがよいと思います。
で、成立しない自覚が無いので、字面に従順に応答してもらおう、という気持ちがあるかぎり、その人は変わらない、変われないでしょうね。
まず上等な主観を持ってほしいとわたしは思います。
客観的、客観的、と言っててはダメで、そんなことはうっちゃって、自分の主観に自分で気付く。こういうことの大事さは、森田さんも有名ですが、イギリスでも盛んな認知療法によく取り入れられていて、自分の行動や言葉をよく確認するということに尽きるんですね。
すると、「出来事はなかったのに自分は出来事のように思ったんだな、でもなんで出来事だと思ったんだろう」とか、「言われたことはなかったのに自分は言われたに等しいと解釈したんだな、でもなんで自分はそういうふうに受け止めたんだろう」という深み、自己洞察の深みまで経験するのです。

その人に自分を振り返ってもらうことはできませんでした。せめてひとつの自覚のきっかけになって、客観的態度ぶるのをちょっとずつ気を付けて、主観に踏みとどまって、主観を磨いて、相手の主観と照らし合わせて一息待って、というリズムを知ってもらえるといいなと思います。
自分で気付くためには、雛が殻から出ようとするほどのエネルギーが必要ですし、必要なタイミングで外から助ける親鳥がいると少し楽なんですよね。この説話、あほなさんはよくご存じでしょうね。まあ、現状、こんなエールを送りたいどこかがあって。それでは。
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この回答へのお礼

おっしゃること、つい最近、自分も思ったことです。今まで、外の事や他の事ばかり考えてきたけど、自分の事は考えてこなかったのではないかと。そのせいで、自己がイマイチ安定せず、しっかりとした歩みが出来なかったのかなと。

子供達の中には、外の事や他の事、つまり、他人にはどう映るかという事ばかり気にして、自分はどうするのか、自分はどうしたいのかという事を掴めていない子が、結構な数でいる様に思います。
自分の好きにするのではなく、おっしゃる様な主観をもって、人生のいろいろに対峙すれば、自分の道と言うのもまた現れるのではないかと。


また、猪突さんなどからレスポンスがあるかもしれないので、もうしばらくQAは開けておきます。
ご回答、ありがとうございます^_^

お礼日時:2016/01/23 09:34

教えていただきありがとうございました。


なるほどでした。


>つい先日、OKWAVEの方で、虐め問題について回答しましたが、その時は、虐めを解決するためには喧嘩をしたら良いと回答しました。

いろいろあるでしょうが、高校であれば私なら克つを選びますかね。
あの汚さには染まれないので、孤独に克つのが自分らしい。

あの手の集団は増えてきているらしいですが
就職できるのでしょうかね?
日本の不思議です。
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この回答へのお礼

職場でもいじめ問題がある所も少なくないと聞きます。

そうそう、私が喧嘩をして下さいと答えた質問者の方もカントアイさんのような考えでしたので、喧嘩をする以外の回答もしておきました。すると、そっちの方が自分には合っているとのお返事でした。
大人しくしているからつけ上がられるというのはあると思いますが、それで回答は終わりとしまた。

暴力は悪とされますが、最近のスタンスでは、力も使い用という発想がチラホラ、自分の中で出てきています。どうしても清濁が混ざっている世の中では、力を行使するというのは自分や大切なものを守るためには必要です。
聖人の考えとは違いますが、泥臭い生き方も時には必要かなというのが、今の私の考えでしょうか。

お礼日時:2016/01/22 22:30

あほなさん、質問です。



>主観と客観の配合率の様なものが安定して、都度にどちらを前に出すかを決める事が出来る様になったからかな?

特に何かやりました? or やってます?
相手を認めるという行為が増えているのは知っています。
それ以外で特に気にかけてやっていることはありますでしょうか?
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この回答へのお礼

なるほど。少し意外と思われるかもしれませんが、次に述べるような理由があると思います。

常識や普通と言われる事と、真っ当な事との違いをここ数年考えています。
例えば底引き網漁は、普通に行われている事ですが、海底を荒らし、目標でない生き物まで根こそぎにしてしまう事から、漁の方法としては真っ当でないのでは?というふうな事です。

人間の振る舞いには、常識的であったり普通であったりする事がありますが、真っ当な事というのはそれらとは別にあるという事に気付いた結果、常識や普通と言った枠外の見方や選択肢が沢山現れたように思います。その事が、主観の持つ判断力を底上げし、また客観のもつ多様性を広げたと理解しています。

つい先日、OKWAVEの方で、虐め問題について回答しましたが、その時は、虐めを解決するためには喧嘩をしたら良いと回答しました。先生や親を頼れという回答もある中でしたが、戦う気持ちを忘れないでと言いました。今までの自分であれば決してこの様な回答はしなかったものです。
より人間的な意見が、自由に言えるようになったかなと思っています。

お礼日時:2016/01/22 17:35

#110関連で。



思索したことが無いものに対して意見を述べるのは
一旦資料を集めて分析や解析し、流れを読み解くなどの
検討を経て、自身の見解を組み立てます。

どうやら量が膨大になり過ぎて、私の研究からまったく離れた
情報を処理しなくてはならず、仕事がかなり滞ることが
判明致しました。

よって、長くお待たせするのも期待を裏切られた感が強くなりますので
今はできませんと、お伝えします。


抜き出し情報を5枚分ほどピックアップしてみたら
まったく関係しない情報処理を、このままやっていくと
何のために、かなり閉じた状態に自分の身を置いているのか。

それさえ疑問になってきました。

と言うことで、大変申し訳ないのですが
今回は見送らせて頂きたいと思います。
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この回答へのお礼

了解です^_^

お礼日時:2016/01/21 19:37

返事をくださったあほなさんより先に、退屈だと死んでしまう猪突先生にお話しをば。


あほなさんは、社会モデルの構築が課題ですか、とお書きになりました。わたしの文章をお読みになっての感想ですから、その社会モデルとは、個人モデルと社会モデルで腑分けされる図式の中にあるそれのことです。念のため前置きしますが、この概念は、個人の行動について障壁と結果が予想されるときに、責務はそこの出来ない人にあるのか、いや、そこの環境や状況に責務があるとしたら、という「二つ目の」視座を持ち込むためのものです。ですので、第一に、穴に落ちている人間に対して効力を発揮するという意義のために使います。
50年代にイギリスで人権運動と連動して障害学で始められ使い方ですが、肝心なのは、本質的に人権にかかわる領域すべてにこの視座が付いて回る、ということです。この動きは綿綿と続いて障害者権利条約に繋がり、その条約も2014年からは日本で効力があることになり、さらに今年4月からの「障害者差別解消法」国内施行に向けて、いま法的強制力のある「合理的配慮」があらゆる行政現場で敢行中です。という事態なので、「内閣府」「社会モデル」をインターネット検索してごらんになれば、障害者の人権関連が多くかかります。しかし差別の問題や、過疎地域、生活困窮者、虐待される子供、孤立した子育て、学級崩壊に取り組む先生など、20世紀後半のライフスタイルから浮かび上がったいろいろな望まない圧迫について、イギリスのこの障害学の考え方は先駆けとなっており、類似の手法によって地域社会や行政がそれらの問題に介入していくのです。
要するに、社会モデルというのは、考えの考え方であります。力の弱い人が荷物を運ぶにはコロを使うのがよいと、先史時代にやったことと変わりありません。

ここに、赤ちゃんがぐずって寝付かない、お母さんが神経疲労で卒倒寸前という問題があるとします。
赤ちゃんはよくぐずるものだ、この子は気難しい性格だ、少しの辛抱だ、よくげっぷさせておきなさい、お腹がすいているのではないか、便秘しているのではないか、もっと散歩に連れ出しなさいなどなど教えてもらってもお母さんの気苦労は増すばかりです。では社会モデルでは? 赤ちゃんが寝ないことが、生理的事情や医学的心理的事情以外にあるのか、あほらしいですね。いえいえそれでも、社会モデルの考え方では、公共が提供する仕組みを利用して人並みに育児を楽しんでください、ということになります。支援サービスの保育士が早速やってきます。給付金の申請書が役所から届きます。地域センター主催のママの茶話会みたいなのに押し込まれます。あまり科学の出番はないでしょうが、粉ミルクはできるかぎり蛋白質を小さくし、アレルギー用ミルクも開発しました。こんな研究費をけちる国は先進国にはありません。
ですから、インドで使っているというぐるぐる巻きの布に閉じ込めてみるとか、あるいはスウェーデン製のバウンサーを買うとか、アメリカ式のうつぶせ寝にするとか、フランス風の個室に放っておくとか、右だ左だと社会習慣を取り込んでも、すべて社会モデルではありません。そしてもちろん、困っていないので社会モデルはお呼びでないお母さんもいるのです。
とはいえ、スポック博士のうつぶせ寝はたしか、日本で御用学者がこぞって推奨し、官僚が母子手帳に記載し、マスコミが煽ったものでしたね。いかにもこうなると、社会習慣だと思ってやってみたお母さんはおらず、あたかもバス路線が敷かれたかのような社会モデルの現象といって過言ではないのかもしれません。困っていた問題がないにもかかわらずです。責めのはしごの掛け替えを、無から煙のように作り出した。情報って、仕組みに等しかったりサービスに等しかったりするのでしょうかね。
昨今、鉄の五角形と猪突さんがお呼びの、いわゆる利権ペンタゴン、官僚・政治家・産業界・御用学者・マスコミがさかんに社会モデルの声を張り上げているのはなぜでしょうか。わたしはまなこを大きく開けて見ておこうと思います。ひとつには、国際競争力の向上を図らないと、20年後には経済が失速するだろうという予見からでしょう。情報通信技術の躍進でこれまでになく世界の変化は速く、使える国民を形成すべくテコ入れしないと日本が滅びる、、、そんなイメージをもってシンポジウムで警鐘を鳴らすのがこの2~3年で増えました。それで教育界には産官連携のドリームスクールです。
国際競争力って、他社会をひな型とするのではなく、現状をよく洞察分析して試行錯誤することが、もっとも能力を発揮する遠回りにして近道であると思います。だから、アメリカや北欧の授業をやりたいというのではないでしょう。日本は、平均値の底上げをやり遂げた国です。奇跡のレッスンがなく、やる気や気付きのコーチングを割愛して、単調な学習訓練ができたのです。その後のちょっとした気付きで、抜きん出る人は抜きんでており、アタマと尻尾の差が広くて平均の水準は低めというような外国と比べて劣るところがあるとは露ほども言えないでしょう。ただ、生き生きと喋ることにかけては、猪突先生を除いてはうまくなさそうです。死んだ魚のような目をして人生を生きてはいけない、ということは大切であると思います。今、ICT機材を配って好例とされる学校の子供は、自分の気付きそのものを貪るように求め、90分の学習に集中します。この子たちの将来には、想像性/創造性が重要な鍵になり、いつ積極的になれるか、どのタイミングがじっとこらえる時か、答えの無いものを読む力が今以上に鍵になってくるのではないかと思います。そんなところへ着地できるのか、鉄の五角形に振り回される現場の先生にも、今は皆目分からないでしょう。
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この回答へのお礼

社会モデル、障害の世界から生まれた概念だったのですね。私も障害関連の仕事を、短い期間ではありますが、した事があります。とても私の手には負えない仕事でしたが、世の中にはどうしようもない事があると知りました。特に奇形の方に接した時はショックを受けました。小鬼のような格好をしたその方とは意志の疎通はもちろんできませんでした。そして、介護スタッフの方々の強靭な精神力と言いますか、懐の深さを思い知ると同時に、いかに自分が揺れやすい心を持っているかが理解されました。

表には出ない、出せない裏の仕事というのは、どの職場にも多少はあるものですが、そんな事実を知るのは大抵、学校を出た後です。日本人は子供を特に甘やかして育てると聞いた事がありますが、成長の段階に応じて、そんな重い事実の存在することを、少しずつ教えていくべきなのかもしれないと思いました。世界に裏表のある事を知らないと、甘ちゃんばかりを世に輩出してしまいかねません。隠された事実は、どのように生きれば良いのかという問題にリアリティを持たせてくれます。子供たちには明るい夢だけを与えてやれば良いというものではないでしょう。

時代が進み、ICT機器により、子供でも深い情報にアクセス出来るようになりました。死体であろうがポルノであろうが、自由に閲覧できます。昔の子供たちとはまるで生きる環境が異なっておる現代っ子が、少しでも真っ当に生きようと思ってくれるような契機を、教育によって与えられないかと考えています。強靭な芯のある人格を形成する機会を作ってやれないものでしょうか。私の教育にかける期待が大き過ぎるのかもしれませんが。

お礼日時:2016/01/23 01:11

♯112ニュートラルさんへの追記



>これが分かるようになるのって、大学院に入ってからだし、
:あ、大学院?行ってません。(ノД`)・゜・。

>分からない人は永遠に分からない
:わたしもそうかもしれません。(/_;)

 スルーしてしまいましたが、私の書き方がよろしくなかった。お許しいただきたく思います。主観と客観の区分ですが、ある人が、何がきっかけでそれがそうだとわかるのか、分からないのです。大学院にいっても、分からない人は分からないです。歳をとれば大体の人は分かるらしいのですが、全員が30歳になったら分かるとか、そういうものでもありません。常に例外がおり、その分岐する理由を私は見極めておりません。何をどう言っても、うまくいかないことはあるのです。

 ニュートラルさんはご投稿を拝読した限り、分かっていると「断言」しますよ。これでわかっていないかもしれないとおっしゃられたんじゃあ、本当に分からない人が気の毒と思ってください……。偏差値、知識、頭の回転速度とかじゃないんですね。最終的には、主観と客観が分けられていることそれ自体が、頭の良さに繋がるのではありますが、何なんでしょうね。主観と客観が分けられない人は、大体が突っかかって来て、自分の主張が正しいと強弁しはじめます。並行的に成立するということそれ自体が、分からないんですね。他人に突っかかってこない。その時点で、もう「分かっている」証拠です。

 敢えてただの感想を書きますが、鍵は自分が受け止められているとか、愛されているという感覚ではないかと思っています。そうすると他人のことを尊重しても、自分が大きく損をするわけではないんだな、と頭が働くわけです。しかしこれはご両親が大切なのであって、一朝一夕で、誰かが何かを変えることはできないわけです。まあこの類推で言えば、歳をとるに連れて、自分が受け止められる場や人と出会う確率が上がってくるということなのかもしれません。

 どうぞご自信を持ってくださいますよう。
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この回答へのお礼

主観と客観というのが難しい問題であると昔は捉えていたのですが、最近は毛ほども気にしていませんでした。
主観と客観の配合率の様なものが安定して、都度にどちらを前に出すかを決める事が出来る様になったからかな?客観という括りの中にもいろんな見方があるということも分かり、多角的なものの見方が可能になったことも大きいと思います。

お礼日時:2016/01/21 19:35

#110関連で。



試行錯誤しながら、書いては消してやっています。
時間がかかりそうですが、ご了承ください。

しかもタイミングが悪く、会計監査がかぶってしまっています。
締め切られる前に書けるか分かりませんが
頑張って書いてみようと、試みております。

では!
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この回答へのお礼

〆切は一連の流れと投稿が落ち着いた時に考えますので、しばらく開けておきます^^
ごゆっくりどうぞ。

お礼日時:2016/01/19 22:24

neutralingさんへ



>:はい。わたしがトランペット吹きで
中二の娘がホルン吹きです。

一寸良い提案です。私な大和五条のうどん屋さんの友人を持っています。そこの大学生の娘さんは、高校でトロンボーンを吹いていたそうです。そのうどん屋さんのご主人は山伏の修験者でもあります。昨年の秋その店で、私は生まれて初めてホラ貝を吹かせてもらいました。全く音が出せませんでした。そして、修験者の番。大きな音が出ました。ところが、娘さんの番になって、お父さんの音なんて聞いていられないほど途轍もなく大きな音で、さらに格段と綺麗な音を出しました。

その後大阪堺市の堺祭りを見学していたら、本物の山伏の行列がありましたが、そこのホラ貝の音はどの音も、うどん屋さんの娘さんの出した音の足下にも及んでいませんでした。

neutralingさんと中二の娘さんでホラ貝のドュエットを組んで、全国行脚のデビューをしたらきっと受けますよ。
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この回答へのお礼

餅は餅屋ですね^^

お礼日時:2016/01/19 22:25
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