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私有財産権というものがあり、
個人の所有物が法的に守られています。

個人が財を私有できるというのは、国民のひとり一人に主権があること(民主主義)とパラレルのように思います。

というのも、国民の私有財産が守られている時点で、国民に主権がある(民主主義)ように思います。
ロックが提唱したような、国家が国民の財産を侵害した時に抵抗権を発動できるという考えがからです。

逆に、当たり前ですが、専制君主に主権がある状態では、共産主義は可能でしょうが、民主主義は不可能です。

ということは、
私有財産を放棄しているような共産主義と民主主義は本質的に相容れないものでしょうか?

A 回答 (7件)

元々は共産主義者は自分たちを真の民主主義者だと思っていました



でも共産主義が上手く行かないので 貧乏になり 独裁政治に文句も言えずに

「ああ 私達は民主主義ではなかった」と気がついた事でしょう。

じゃあ日本が民主主義かといえばこれも怪しい

結局利益の出る方に行かないと 冷や飯を食わされる羽目になる

既得権益がモノを言うのです。幾ら正論を打っても自民党の思った通りになります。
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NO.5よ、お前は少し頭がいいな。



民主制とは主権在民である。主権在民とは平和で安心である。これを第一義とす。
主権在民は資本主義、すなわち政治家、富裕層、中間層、知識層と相容れないものである。
ポル・ポトはこれを見抜き、これらを殺したのが失敗したのである。
人を殺してはいけないのである。まぁ、言ってもわからないと思う。
以上は、まぁ、言ってもわからないと思う。
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民主制と共産主義は対立軸ではありません。



共産主義の対立軸は資本主義。
民主制の対立軸は、寡頭制です。


もしも、有権者が自ら、「私有財産を放棄する」という人が過半数を超える状態なら、共産主義と民主制は成り立ちます。現実的にはありえないとは思いますが、有権者の過半数以上が本当にそれを望めば成り立ちます。当然ですが、「私有財産を放棄するなど嫌だ」という有権者が過半数以上なら、その制度は採用されません。それが民主制と言うものです。
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誰もが求める生存権これを実現するには、生存共同体の城で、実現すべき実を揃える知識と戦いが昔から有るだけです。

結構シンプルなものです。
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現実に存在した共産主義が民主主義とは言えなかったから、相いれないとの結論になりがちだが、


自由主義で民主主義が存在する程度には共産主義で民主主義は存在できる、と思います。
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個人が財を私有できるというのは、国民のひとり一人に


主権があること(民主主義)とパラレルのように思います。
       ↑
国民の一人一人に主権がある、という言い方は
オカシイですよ。
また、国民主権と民主主義を混同しています。
両者は密接不可分の関係にありますが、異なる
概念です。



国民の私有財産が守られている時点で、
国民に主権がある(民主主義)ように思います。
   ↑
民主制というのは、君主制に対する概念です。
君主制下でも国民の私有財産が守られている
ことはありますよ。
事実、明治憲法下では、天皇主権国家であり
ましたが、国民の財産権は守られていました。
一度、明治憲法を読むことをお勧めします。


当たり前ですが、専制君主に主権がある状態では、
共産主義は可能でしょうが、民主主義は不可能です。
    ↑
専制君主制と民主主義は相容れませんが、
専制君主制と共産主義も相容れません。

資本主義で不平等が著しくなったので社会主義
という思想が出て、平等を訴えました。
共産主義は、その社会主義を更に進めたもの
ですので、共産主義と、特権がある君主制度との
共存はありえません。

共産党が政権を採ると、君主は追放
されたり処刑されたりします。
日本でも、共産党は天皇制を否定していました。



私有財産を放棄しているような共産主義と民主主義は
本質的に相容れないものでしょうか?
   ↑
民主主義というのは君主主義に対する概念です。
つまり、民が主体となって政治をやるのが民主主義で
君主が主体になるのが君主主義です。

共産主義も、民が主体となっていますので
民主主義の一種です。
日米欧と違うのは、表現の自由や選挙権が保障
されておらず、権力分立原理を採用していない
ことです。
これを集中民主制ともいいます。
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もっと根本から考えるべきでしょう。



人事を含めた複雑系で起こる現象は、前もってシナリオを深く思索し、それを如何に論理合理的整合的に分析し理屈付けしても、決してそのようには動きません。現在の非線形数学の進歩やカオス系複雑系の物理学は、何故それが理屈通りに動かないかの根拠を数学的論理的に明らかにしております。ですから、複雑系での論理付けは全てその現象が起こってしまった後での後付けであり、前もった予測は不可能であることを現代数学は明らかにしたのです。

そんな状況で合理的な精神を持つことを望む我々ができることは、過去の経験から学び、それに基づいて次の行動を決めて成り行きに任せ、その成り行きで起こってしまった想定外の現象に基づいて反省をし、その反省から学習し、そしてまた成り行きに任せて前進し、また想定外のことが起こり、また反省し、、、と進んで行く以外ない。

人類の進歩はああなり、こうなり、行く行くはそうなるんだなんて言う、DNAの存在も知らず非線形数学の進歩も知らない、今から百数十年も前の、自然科学的な物の見方がまるで未熟だったマルクスやエンゲルスの言ったようは出来ていないのです。

そして、共産主義を標榜した国々はどれもこれも見事に独裁国家になり自国民の多大な殺戮を行って来たことを人類は事実として経験しました。その事実を経験しながら、相変わらず、論理を経験に先行させながら、共産主義と民主主義は両立可能かなどと論じていること自体、上で述べた合理的な精神の持ち主ではないと表白していることになります。

もちろん、自由主義の国でも不条理が一杯あり、反省すべきことがあり余るほどあります。しかし、自由主義は、前もってこうならねばならないなどと言うシナリオを描きながら前進しているのではなくて、互いの意志に任せて擦った揉んだしながら成り行きに任せながら前進している点で、人類が解き明かして来たこの宇宙の複雑系のあり方に馴染んでおります。

世の中には、経験から学べないで、経験の重みよりも論理の整合性にこだわるという、合理性の不思議に欠如した学者面した学者モドキも幾らでもいます。また、論より大声 嫌がらせ 脊髄反射で口答え ってな連中もおります。

まっ、当面の間は、共産主義を標榜する、自然科学の進化を無視した未開な連中と、世界を合理的に見ようと努力している先進的な連中との葛藤で前進して行くのでしょうか。
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