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おもいっきりここで語ってください!
大学一年です。アメリカと日本の宗教について質問です。まず、固定概念でアメリカはキリスト教のイメージが強くキリスト教は死後の世界を中心でもないですけど焦点はそこに向けられてると考えています。根拠は最後の裁判です。
よってアメリカの国民性や文化は、それに基づいて築き上げられたのかと仮設しています。また、日本は仏教が中心的で仏教は終わりは無いというふうに仮設してます。つまり今を生きるという感覚が日本は強いと思っています。みなさんの意見を聞きたいのは、宗教からの視点で文化と国民性をアメリカと日本を比べてください!
そもそも、今の宗教は科学だという意見があってもかまいません

A 回答 (9件)

アメリカで暮らしていたことがあります。

確かにアメリカの宗教観は日本とかなり異なります。

まずアメリカの宗教をキリスト教を中心に語るのは問題ないと思いますが、日本の宗教観を仏教を中心に語るのは間違っていると思います。
そして、このような命題を考えるときに宗教と道徳をどのように区分するかを定義する必要があります。

日本においては宗教と道徳はイコールではありません。日本の道徳は儒教的な概念を土台にして、神道的な概念・仏教的な概念・キリスト教的な概念などが入り混じっています。それに対してアメリカでは宗教=道徳です。宗教が必ずしもキリスト教とは限らないし、キリスト教でも宗派などによって異なりますが、アメリカ人は宗教と道徳を切り離して考えることはできません。そもそも、儒教のようなマナー以上の道徳規範が存在せず「7つの大罪」のように宗教的規範の中に道徳が織り込まれているからです。

これを前提にしたときに、質問者様の提示する「キリスト教の死後の世界への焦点」と「日本人の今を生きるという感覚」の違いがあぶりだされると思います。

キリスト教徒(他の一神教を含む)は自分の規範を神に求めるため、すべての罪と贖罪は「神に対するもの」になります。神が許してくれればOK、許してくれなければNOです。結婚や殺人などは分かりやすく聖書にも書いてありますから、YES・NOは判別しやすいですが「結婚しないで神と共に歩む人生」と「結婚して妻を娶り子供を作る人生」のどちらが神の意思に適うかはまったく分かりません。ですから、死後の裁きの際に天国に行けるように、または最後の審判の時にキリストと共に復活できるように、人生を歩んでいく、ということになります。こうなると「死後の世界(審判)を焦点にして生きる」と言ってもいいでしょう。ですから、寄付などもその線上で善い行いを積み重ねることで、審判を有利にする、という動機になります。

対して日本の場合、いわゆる神の契約というものはありません。閻魔様が審判で天国と地獄を分ける、という考えもありますが、それ以上に「そんなことをしたら罰が当たる」という現世利益的な考えのほうが強く、また宗教が規範を提示しないため、道徳が独立して日本社会の善悪を判断します。これがいわゆる「世間」であり「世間では通用しないよ」というのはそういうことになります。
 したがって、日本では常に社会での立ち振る舞い、周りの人間との関係性、で規範が決まることになり、その瞬間その瞬間の判断が大切になるといえます。また、その瞬間の判断が間違っていたとしても、謝罪先は「世間」であって、神ではありません。芸能界でいえばベッキーの件、政界でいえば舛添氏の件を見れば分かるでしょう。
 かれらが頭をさげているのは「世間に向かって」いるわけです。

このような違いにより、アメリカで起きて日本で起きないこと、逆に日本で起きてアメリカで起きないことがある程度説明ができます。
たとえば日本では故スティーブ・ジョブスのような人はほとんど生まれることはありません。彼のように強烈なリーダーシップ、というか傍から見れば「わがまま」の極致を行くような人物は日本では織田信長ぐらいでしょう。しかし、ジョブスのリーダーシップは確実であり「私が欲しいものがみんなの欲しいものであり、それは作ってあげないと誰も理解できないモノ」という言葉も真実でした。彼は神の啓示を受けてiPhone作りにまい進し、命を全うしたといえます(あくまで比喩です)。ジョブスは晩年仏教に傾倒していたと言われていますが、彼の行動力は「神との契約」を行動原理にする欧米人ならではだといえるでしょう。
 こういう人は日本ではでてくるのが難しいといえます。「わがまま」は世間的に許されない行為だからです。出る杭は打たれる、と織田信長も志半ばで倒されました。

 逆に日本人は震災時の振る舞いやサッカー後のゴミ拾いなどの行いは世界から賞賛されるほど確実に行います。
しかしこれも世間という価値観があるからです。「都心でも電車が止まったが俺だけ文句を言ってもしょうがないから、タクシーにならぶ」とか「みんながゴミ拾いをしているから、俺もなんとなくやってから帰る」という集団行動を基礎とした行動規範を見せるのが日本人の大きな特徴であるといえます。
 これを「今を生きるという感覚」という言葉で表すなら、まさにその通りでしょう。

日本人の多くは「私は無宗教」と答えます。しかし実際には宗教は家族ごとにあって、盆暮れには必ず親戚が集まる、という人もいれば、神棚のお供えは欠かさない、仏様へのご飯はかならず一番最初にあげる、などの行為を行っている人々も少なくありません。彼らはこれが「宗教的行為」であるとはほとんど考えていないため、自分の宗教について無知であるともいえます。

逆にアメリカ人というか多くの一神教徒にすれば道徳=宗教ですから「私は無神論者です」と言われれば「神を信じないでどうやって道徳を守るんだ?」という疑問符がつきます。
atheistという言葉の語感がまさにそれであるといえます。
No religion という言葉も欧米人には混乱を呼びます。特に日本人は「私はatheist/No religion です」と言いながら、葬式を行い、神社で神頼みをしてキリスト教式で結婚式をしたりするので、道徳と宗教を分ける経験のない欧米人はかなり混乱します。

日本人にとって宗教とは「神らしきものとつながる儀式」であり、道徳とは別のものだからです。

ちょっとここで脱線しますが、質問者様は「スターウォーズ」シリーズを見たことがあるでしょうか?私は前からずっと疑問だったのが「アナキン・スカイウォーカーがシス卿に恭順を誓うと暗黒面に落ちてダース・ベーダーになってしまう」ということでした。

日本人ならあのような場合「分かった、誓うよ誓う!」と誓って「やっぱり道徳的にオカシイからやめる」と言ってもほとんど批判されないでしょう。シス卿が悪者である以上「誓うふりしてピンチを切り抜けた」ということでおとがめなしになるはずです。
 しかし、欧米ではそうは行きません。「誓うと悪い勢力に取り込まれてしまう」というプロットはものすごく多くて、言葉というか「自分の信念と言葉」に乖離があってはいけない、という意思を強く感じます。洗礼式などで「神と契約する」という道徳的感覚が強いからなのだろう、と私は考えています。

逆に日本では「強い信念」というのは必ず「過去のトラウマ」からスタートします。進撃の巨人は母親を巨人に食べらえてしまった憎しみと悲しみがエレンの強い意志の基礎ですし、ガンダムやエヴァンゲリオンは逆にそういうトラウマが無い状態で戦場に放り込まれて「強い信念を持つにいたる」というプロットです。
 アメコミで有名なバットマンやアイアンマンは危機に陥った後に「平和を守るヒーローになることを誓う」わけで、トラウマがあるかどうか微妙だし、マッチョイムズのほうがはるかにプロットとして明確に提示されています。

かなり戯言を書いてきましたが
アメリカ 「宗教=道徳」
日本   「宗教と道徳は別で両立する」
という違いのほうが比較の基礎になるのではないか、と思います。
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この回答へのお礼

純粋にこの文章を飲み込むのに1日かけても読みきれないくらいすばらしいお考えです
哲学者とかですか?

お礼日時:2016/06/20 19:39

こんにちは。



日本人の社会は クウキ教とも呼ばれる日本教という宗教が
けっきょく≪一神教≫として 現実を形成していると言ってよ
いほどである。のではないでしょうか?

日本教のもとに 宗派はいくつかに分かれています。

そして それらを全体として見れば 宗教の≪一神教≫の問題
としては それほどアメリカ社会と変わらないという見方も
成り立つのではないでしょうか?


○ 日本教の構成

  日本教・総本山
   神道
   仏教派・各支部
   儒教派
   キリスト教派・各支部
   マルクス教派・各支部
   無神論教
   《お花畑》平和教支部
   実質的≪反日≫教支部(?)
   ・・・
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No.7のphjさんの回答をお読みしました。

明確でわかりやすく、しっかりと分析されていらっしゃると受け取りました。
 私は、学生時代倫理学にて「日本と西洋との違い」を、宗教ではなく「個人主義」「個」を基準にした考えと「和」「和の中の部分」を基準にした考えとして教えていただいたことがございます。それが的確なものであるのかどうかはわかりませんが、なかなかの分析なのではと社会に当てはめて考えてみることがございます。
 日本では村社会(組織)が基準とされ、個よりも組織が尊重され、個人はその部分でしかないという考えでした。険しい山、細くて急な流れの川に接し、平たくなるとすぐに海。激変する気象、狭い農地という環境で、村組織で協力しなければどうにもならなかったからなのかもしれません。力を合わせてもうまく対応することは難しい。
 宗教を基準に考えるよりも、人間が生き抜く環境からの問題が大きいのではないかと思いました。
 これは一つの考え方でしかありませんが、宗教も、時代やその風土やそこでの人の心に合わせて伝えられたり、つくられたり、利用されたりして、運営されて成り立っているのかもしれません。
 お求めの基準から外れた回答になってしまいました。すいません。
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この回答へのお礼

いやぁ、すばらしい先生ですね。
あなたのお話を聞けてなによりですよ!

お礼日時:2016/06/22 18:27

一神教の広まっている地域は、キリスト教にしてもイスラム教


にしても、大陸系のエゴの強い地域であり、その強い自我を
抑え社会性のタガにはめるための、日曜礼拝やラマダン等を
含む強力な教義を有する必要があったのです。
それに対し、日本を含む東南アジアの稲作農耕文化圏や島国
文化圏のように集団主義的な地域においては、そんなタガに
はめなくても自発的に集団行動をとるので、集団帰属意識の
補助としてのマナーやモラルとしての儀式宗教となっている
のです。
(その証拠に日本は多神教(=信条)というより、結婚式は
神道、クリスマスにはキリスト教、葬式は仏教といった具合
に方便で使い分けている)
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この回答へのお礼

素晴らしいお考えですね!

お礼日時:2016/06/20 19:32

NO.3です。


論じる気はありませんが、日本にも異教徒文化がありますから、
やはり、国というよりは環境だと思いました。
どこでどう出会い信者となるか、、そんなところではないでしょうか。

しかも、意見を聞きたいんですよね。発言は自由なはず、、、、。
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この回答へのお礼

確かに自由ですが自由すぎると広がりすぎて焦点がぼやけます

お礼日時:2016/06/22 18:28

聖書の啓示7:14には、「大患難から出てくる者たち」に


ついて述べています。つまり今の体制の終わりを生き残って
死を経験しないグループがいるということです。彼らは、す
べての国民と部族と民と国語の中から来たとあるので、文化
や国民性を超えたグループと言えるかもしれません。新しい
世では国境は存在しません。
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この回答へのお礼

難しいです

お礼日時:2016/06/22 18:28

文化というか常識的に植えつけられたら、それが普通ということだと思います。


育った環境で物の考え方というは様々です。
まずは育ての親が神みたいなものでしょうね。
親が選んだ信仰があれば、子はそれと受け継ぐし。

宗教視点で国民性を問うよりも、
国単位での国民性を分析することで、多様な思想が存在していて、その中に
信仰がある。と考えるべきかとおもいますね。
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この回答へのお礼

それはおかしいですね。
国単位の前に最初に宗教があっての国民性ではないでしょうか?
自分の存在を確かめるために孤独を和らげるために宗教があるとおもうので、そもそもこ根本はわかります。でも国によってギリシャ神話などとちがった感覚があるのにめをつけることで国民性をもとめることができるのでは?

お礼日時:2016/06/19 19:10

オーマイゴットと言う神経が分かりません、神は人々を裏切りつづけているのでしょうか。

信仰はそれぞれの国で異なりますが人間としての終わり方を説いているのではないでしょうか、仏教の場合は早く彼岸へ行きなさいと言って居る様に思えます、キリスト教の場合はアーメンという事で残念と言うように聞こえます。イスラム教に至っては食事制限をしたり訳の分からない規律があるようです。宗教の視点という事ですがお金集めの集団にすぎないと思われます。ご質問の趣旨にそぐわないのであればご容赦願います。
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キリスト教では、創造者=神で人間よりはるかに上の存在ですから、神の目から見て、正しいかどうかという考え方が出来ます。

聖書という基準がありますから、宗派の違いがあっても、基本的な善悪の基準は一致しています。
日本は、多神教で死者=仏や、輪廻転生などの教えもまじってますから、人間の考えが中心。自分に都合のいい神さんを信じればいいということで、悪に対する抑止効果が弱い印象があります。
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